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32 探り
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翌日、重い足取りで会社へ向かった。
出社時間が早いから、いつもの早朝メンバーしか出社していない。
その中に、片山さんもいた。ほっそりとした体型で大人しい印象がある片山さんだけど、仕事は正確で早いと評判だ。私たちのふたつ上の先輩で、梨花と同じ部署。梨花だけでは終えられない仕事を一年前から代わりに請け負っているけど、これまで愚痴のひとつも聞いたことがなかった。
そういえば、この人が朝早く出社してくる様になったのは、私と同じ一年前からだ。梨花の所為で、業務量が増えているんだろう。それについて不満はないのか、上司に相談したことはないのかを聞いてみたかったけど、梨花に対する思い入れがどの程度なのかを測りかねて、尋ねることは憚られた。
片山さんは清潔感がある人で、長くも短くもない髪にはいつも寝癖ひとつない。色白で綺麗な肌はあまり男臭さを感じさせなくて、ガツガツしていない雰囲気がやや大川さんに似ていた。
梨花は片山さんには好意的で、甘える素振りを隠しもしない。片山さんもそれを一切拒否しないので、彼は梨花の信望者だと周りから見られていた。
ちなみに梨花にねちねちと嫌味を言う男性上司は脂ぎった肌をした人で、梨花の嫌い方は露骨だった。その態度の所為でトラブルに発展することもよくあったから、毎回庇う片山さんも大変だろうと思う。
片山さんの造作は割と整っていて、目元が涼やかで、それが片山さんの寡黙さにぴったりだ。私に対して毒づいた梨花が隣にいようが構わず穏やかに私に挨拶を返してくれるこの人を、私は嫌いじゃなかった。
梨花への仄かな想いは感じさせたけど、他の人みたいに周りを排除したり梨花が不快だと思ってする発言に乗ったりはしないから、梨花の取り巻きの中では一番信用出来る人だ。
「おはようございます」
パントリーで珈琲を淹れている片山さんの背中に声を掛けると、片山さんは穏やかに笑い返す。
「おはよう、月島さん。相変わらず早いね」
「片山さんもいつも早いですよね」
「まあ、業務量多いし。月島さんも、まあ一緒みたいなもんでしょ」
くす、とお互い含み笑いをして、私たちは溜まった仕事を片付けるべく席に戻った。とにかく、梨花が出社してくる前に出来るだけ片付けておかなければならない。それは常に梨花のカバーをしている片山さんも同様なのだ。
目の前のモニターを見ると、いつも『ピート』で物語の中に入り込んでいく瞬間の様に、一気に集中していった。
◇
「ねえ山田さん。マリモってば酷いと思うでしょお?」
「え? 付き合ってる人がいても黙ってるなんて、普通にあるだろ。情報通の俺だって、社員全員の恋愛事情は知らないよ。マリモちゃんは仕事熱心で真面目な子だから、恥ずかしくて職場で言えなかっただけじゃない?」
山田さんは私の直属なだけあって、私の勤務態度については熟知している。梨花の取り巻きの筆頭ではあるけど、梨花が私を親友と言っている所為もあるのか、私に対する態度はそこまでは悪くはなかった。
なので、恥ずかしかったという説を推してくれるのは有り難い。是非、もっとその説を推してほしかった。
私の隣で、梨花が可愛らしく唇を尖らせる。
「山田さん、なんでマリモにそんな優しい訳ー? 私嫉妬しちゃうんだけどお」
「梨花ちゃんが俺に嫉妬? いいよ、どんどんしてよ!」
山田さんは、角張った顎をしゃくってにやついた。この人は、梨花に好意を持っていることを隠しもしない。梨花は「けんちゃん」という彼氏がいることを公言しているけど、それでもしょっちゅう梨花を食事に誘ったりしていた。
梨花も当然の様にそれに応じていたから、社内では梨花はいずれ山田さんと付き合うんじゃないかという見方が強かった。
先日は梨花の取り巻きと一緒に温泉に行ったそうで、会社でお土産が配られたことがあった。その旅行の発案者も山田さんだったみたいだ。参加者は全部で四人。片山さんが運転手として誘われ、あとはちょっと言葉がきつい、中途採用で去年入社した三十手前の辺見さんと四人で行ったらしい。
この辺見さんは一風変わった人で、ひと言で表すならば読めないとぼけた感じの人。発言内容は手厳しくて皮肉が多くて、あまり他の社員には好かれていなかった。でも仕事が出来て見た目もそこそこなので、梨花だけはすり寄っていったという経緯がある。
三十人程度の規模の会社で、愛人の社長に、取り巻きの中心人物の山田さん。更に梨花のはみ出た業務を一切合切引き受ける片山さんに、梨花をいつも少しいやらしい目で見ている辺見さんという四人もの男性を手玉に取る梨花は、正に女王様だった。
私が今日座っているのは、梨花の直属の先輩で、梨花が苦手としている立川さんがよく座る場所の近くだった。なのに、一向に立川さんが出社してこない。今日はまさかの有給休暇だったことに気付いたのは、梨花が私の横に座り、その梨花の横に私の直属の先輩である山田さんが座った後だった。
PCのモニターには覗き防止のシートが付けられているので、隣に座る梨花に見ているものがばれる心配はない。さっと共有カレンダーを調べたところ、立川さんの休暇が判明したのだ。
やってしまった。ならばいつもの窓際の席は空いているかなと見たら、私に好意的で梨花には批判的な秋川さんが陣取っていた。
今日は『ピート』に行けないかもしれない。がっくりと肩を落としそうになる。昨日の大川さんは、かなり塞ぎ込んでいた。それが心配だったから、大川さんの顔を直接見たかったのに。
「ねえマリモ。あんな格好いい人、どうやって捕まえたのよ」
梨花が私の腕に手を乗せたかと思うと、身体を摺り寄せてきた。
「その、私は常連だっただけで。自然にだよ、自然に」
嘘は、真実に混ぜ込むといい。昨日マスターがにやりとしながらそう言っていた。全部嘘だと、良心も痛む。だけど、ちょっとの誇張や湾曲だったら良心もさほど痛まないだろうと言われてしまえば、もう後は一度決めた設定を押し通すしかなかった。
私たちの嘘の目的は、自分を別の生き物に見せる為じゃない。大川さんと私自身、そして私たちの大切な居場所である『ピート』を守る為だから。「遠慮せずにいけ」と、駅前で別れる時にマスターはそう言って私の背中を叩いた。
嘘で塗り固められた梨花に嘘で対抗するのは正直勇気がいったけど、真実だけで対抗出来るほどの材料が今の私たちにはない。
だから、大川さんが梨花が隠している事実を見つけ出し、それを交渉の道具として使える様になるまで、これで乗り切るしか道はなかった。
「それにしても、マリモがけんちゃんと知り合いだったなんてねえ」
ねっとりとした声色には、若干の苛立ちに近いものが含まれていた。
「けんちゃん、いい男でしょ?」
「まあ、そうかもね。――よく知らないけど」
出来れば殆ど知らない相手と思い込ませられたら、そう思ってのひと言。それが余計だったらしい。
「よく知らない? 二人で歩いてたのに?」
「――えっ」
しまった。そう思った時にはもう遅かった。
横をそっと見ると、梨花が目を剥きながら勝ち誇った様に笑っている。
「後で合流したのはあんたの彼氏の方だよねえ。え、私の目、おかしくなった?」
まさか、そんな前から見ていたのか。でも、考えてみればそうだ。大川さんが普段買い物にいくスーパーは、書店があるビルの近く。大川さんが二度、梨花と社長が入っていくのを見かけたラブホテルの場所は――そのスーパーの手前の道だ。
梨花は、ラブホテルから出てきた時、もう既に私たちの後ろにいたんだ。そしてじっと見ていた。私たちの関係が何なのかを。
大川さんのあの時の警戒は、間違っていなかった。人ひとり分の距離を空けて、正解だったんだ。
「ああ、あれは克也さん――私の彼と本屋の前で待ち合わせしていて、ちょっとスーパーに寄り道してたらたまたま大川さんに会っただけだよ」
梨花に対して笑ってみせた。
「……へえ?」
梨花は多分、カマをかけてきている。大川さんから何かを引き出せなかったから、御しやすいと思っている私から探ろうとしているんだろう。
「あんまり男の人と話すの得意じゃないから、緊張しちゃってたんだ。大川さんから出来るだけ離れて歩いてたの、後ろから見てたの? やだなあ恥ずかしい」
「……ふふ、マリモらしいね」
梨花を包んでいた不穏な雰囲気が和らいだ。何とか凌いだ瞬間だった。
出社時間が早いから、いつもの早朝メンバーしか出社していない。
その中に、片山さんもいた。ほっそりとした体型で大人しい印象がある片山さんだけど、仕事は正確で早いと評判だ。私たちのふたつ上の先輩で、梨花と同じ部署。梨花だけでは終えられない仕事を一年前から代わりに請け負っているけど、これまで愚痴のひとつも聞いたことがなかった。
そういえば、この人が朝早く出社してくる様になったのは、私と同じ一年前からだ。梨花の所為で、業務量が増えているんだろう。それについて不満はないのか、上司に相談したことはないのかを聞いてみたかったけど、梨花に対する思い入れがどの程度なのかを測りかねて、尋ねることは憚られた。
片山さんは清潔感がある人で、長くも短くもない髪にはいつも寝癖ひとつない。色白で綺麗な肌はあまり男臭さを感じさせなくて、ガツガツしていない雰囲気がやや大川さんに似ていた。
梨花は片山さんには好意的で、甘える素振りを隠しもしない。片山さんもそれを一切拒否しないので、彼は梨花の信望者だと周りから見られていた。
ちなみに梨花にねちねちと嫌味を言う男性上司は脂ぎった肌をした人で、梨花の嫌い方は露骨だった。その態度の所為でトラブルに発展することもよくあったから、毎回庇う片山さんも大変だろうと思う。
片山さんの造作は割と整っていて、目元が涼やかで、それが片山さんの寡黙さにぴったりだ。私に対して毒づいた梨花が隣にいようが構わず穏やかに私に挨拶を返してくれるこの人を、私は嫌いじゃなかった。
梨花への仄かな想いは感じさせたけど、他の人みたいに周りを排除したり梨花が不快だと思ってする発言に乗ったりはしないから、梨花の取り巻きの中では一番信用出来る人だ。
「おはようございます」
パントリーで珈琲を淹れている片山さんの背中に声を掛けると、片山さんは穏やかに笑い返す。
「おはよう、月島さん。相変わらず早いね」
「片山さんもいつも早いですよね」
「まあ、業務量多いし。月島さんも、まあ一緒みたいなもんでしょ」
くす、とお互い含み笑いをして、私たちは溜まった仕事を片付けるべく席に戻った。とにかく、梨花が出社してくる前に出来るだけ片付けておかなければならない。それは常に梨花のカバーをしている片山さんも同様なのだ。
目の前のモニターを見ると、いつも『ピート』で物語の中に入り込んでいく瞬間の様に、一気に集中していった。
◇
「ねえ山田さん。マリモってば酷いと思うでしょお?」
「え? 付き合ってる人がいても黙ってるなんて、普通にあるだろ。情報通の俺だって、社員全員の恋愛事情は知らないよ。マリモちゃんは仕事熱心で真面目な子だから、恥ずかしくて職場で言えなかっただけじゃない?」
山田さんは私の直属なだけあって、私の勤務態度については熟知している。梨花の取り巻きの筆頭ではあるけど、梨花が私を親友と言っている所為もあるのか、私に対する態度はそこまでは悪くはなかった。
なので、恥ずかしかったという説を推してくれるのは有り難い。是非、もっとその説を推してほしかった。
私の隣で、梨花が可愛らしく唇を尖らせる。
「山田さん、なんでマリモにそんな優しい訳ー? 私嫉妬しちゃうんだけどお」
「梨花ちゃんが俺に嫉妬? いいよ、どんどんしてよ!」
山田さんは、角張った顎をしゃくってにやついた。この人は、梨花に好意を持っていることを隠しもしない。梨花は「けんちゃん」という彼氏がいることを公言しているけど、それでもしょっちゅう梨花を食事に誘ったりしていた。
梨花も当然の様にそれに応じていたから、社内では梨花はいずれ山田さんと付き合うんじゃないかという見方が強かった。
先日は梨花の取り巻きと一緒に温泉に行ったそうで、会社でお土産が配られたことがあった。その旅行の発案者も山田さんだったみたいだ。参加者は全部で四人。片山さんが運転手として誘われ、あとはちょっと言葉がきつい、中途採用で去年入社した三十手前の辺見さんと四人で行ったらしい。
この辺見さんは一風変わった人で、ひと言で表すならば読めないとぼけた感じの人。発言内容は手厳しくて皮肉が多くて、あまり他の社員には好かれていなかった。でも仕事が出来て見た目もそこそこなので、梨花だけはすり寄っていったという経緯がある。
三十人程度の規模の会社で、愛人の社長に、取り巻きの中心人物の山田さん。更に梨花のはみ出た業務を一切合切引き受ける片山さんに、梨花をいつも少しいやらしい目で見ている辺見さんという四人もの男性を手玉に取る梨花は、正に女王様だった。
私が今日座っているのは、梨花の直属の先輩で、梨花が苦手としている立川さんがよく座る場所の近くだった。なのに、一向に立川さんが出社してこない。今日はまさかの有給休暇だったことに気付いたのは、梨花が私の横に座り、その梨花の横に私の直属の先輩である山田さんが座った後だった。
PCのモニターには覗き防止のシートが付けられているので、隣に座る梨花に見ているものがばれる心配はない。さっと共有カレンダーを調べたところ、立川さんの休暇が判明したのだ。
やってしまった。ならばいつもの窓際の席は空いているかなと見たら、私に好意的で梨花には批判的な秋川さんが陣取っていた。
今日は『ピート』に行けないかもしれない。がっくりと肩を落としそうになる。昨日の大川さんは、かなり塞ぎ込んでいた。それが心配だったから、大川さんの顔を直接見たかったのに。
「ねえマリモ。あんな格好いい人、どうやって捕まえたのよ」
梨花が私の腕に手を乗せたかと思うと、身体を摺り寄せてきた。
「その、私は常連だっただけで。自然にだよ、自然に」
嘘は、真実に混ぜ込むといい。昨日マスターがにやりとしながらそう言っていた。全部嘘だと、良心も痛む。だけど、ちょっとの誇張や湾曲だったら良心もさほど痛まないだろうと言われてしまえば、もう後は一度決めた設定を押し通すしかなかった。
私たちの嘘の目的は、自分を別の生き物に見せる為じゃない。大川さんと私自身、そして私たちの大切な居場所である『ピート』を守る為だから。「遠慮せずにいけ」と、駅前で別れる時にマスターはそう言って私の背中を叩いた。
嘘で塗り固められた梨花に嘘で対抗するのは正直勇気がいったけど、真実だけで対抗出来るほどの材料が今の私たちにはない。
だから、大川さんが梨花が隠している事実を見つけ出し、それを交渉の道具として使える様になるまで、これで乗り切るしか道はなかった。
「それにしても、マリモがけんちゃんと知り合いだったなんてねえ」
ねっとりとした声色には、若干の苛立ちに近いものが含まれていた。
「けんちゃん、いい男でしょ?」
「まあ、そうかもね。――よく知らないけど」
出来れば殆ど知らない相手と思い込ませられたら、そう思ってのひと言。それが余計だったらしい。
「よく知らない? 二人で歩いてたのに?」
「――えっ」
しまった。そう思った時にはもう遅かった。
横をそっと見ると、梨花が目を剥きながら勝ち誇った様に笑っている。
「後で合流したのはあんたの彼氏の方だよねえ。え、私の目、おかしくなった?」
まさか、そんな前から見ていたのか。でも、考えてみればそうだ。大川さんが普段買い物にいくスーパーは、書店があるビルの近く。大川さんが二度、梨花と社長が入っていくのを見かけたラブホテルの場所は――そのスーパーの手前の道だ。
梨花は、ラブホテルから出てきた時、もう既に私たちの後ろにいたんだ。そしてじっと見ていた。私たちの関係が何なのかを。
大川さんのあの時の警戒は、間違っていなかった。人ひとり分の距離を空けて、正解だったんだ。
「ああ、あれは克也さん――私の彼と本屋の前で待ち合わせしていて、ちょっとスーパーに寄り道してたらたまたま大川さんに会っただけだよ」
梨花に対して笑ってみせた。
「……へえ?」
梨花は多分、カマをかけてきている。大川さんから何かを引き出せなかったから、御しやすいと思っている私から探ろうとしているんだろう。
「あんまり男の人と話すの得意じゃないから、緊張しちゃってたんだ。大川さんから出来るだけ離れて歩いてたの、後ろから見てたの? やだなあ恥ずかしい」
「……ふふ、マリモらしいね」
梨花を包んでいた不穏な雰囲気が和らいだ。何とか凌いだ瞬間だった。
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