扉の先のブックカフェ

ミドリ

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38 壊れる前に

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 その日を境に、『ピート』に行けなくなった。

 毎晩、マスターからは電話がある。こっちは大丈夫だから気にするな。そう言われてしまえば、それ以上何も言えることはなかった。

 あれから、大川さんとは連絡を取っていない。そのまま、なんとか週末を迎えた。

 でも、昼間に少しくらいなら。

 会いたくて寂しくて切なくて、大川さんの穏やかな声が私の名前を呼ぶのを聞きたくて、マスターに言われていたのにも関わらず、我慢出来なくて電話を掛けてしまった。

 だけど、「お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われていないか電波の届かない所に――」と音声メッセージが流れて、留守電に切り替わる前に慌てて切る。

 駄目だ。こんな時は何か本を読んで現実から目を背けよう。そう思っても、思考がまとまらなくて読みたいものが思いつかない。

 ベッドに転がると、大川さんとの思い出のクッションを胸に抱いた。ぎゅう、と抱き締めても、焦燥に近い不安が拭えない。

 ベッド脇の小さな引き出しに大切にしまっておいた、大川さんの家のカードキーを手に持った。

 そっとその冷たい表面に額を付ける。目を閉じて大川さんのはにかんだ笑顔を思い浮かべると、涙が溢れた。



 それでも仕事は行かなきゃならない。

 職場近くのコンビニでサンドイッチを買って会社に行った。

 この数日でお腹は全く空かなくなってしまったけど、この状態が拙いことくらいは私にだって分かっている。

 痩せてしまった姿を大川さんに見られたら、自分の所為だと自分を責めるのが目に見えている。マスターに見られたら、保護者代理として私を庇おうと無理をする可能性もある。

 だったら、私が今すべきなのはしっかりと食べることだ。

 そう思うのに、ひと口食べたらその先が進まない。お茶で無理矢理胃に流し込みながら、何とか完食した。

 すると、珍しく社長が早く出勤してくる。片山さんに続き私も挨拶すると、社長は苦虫を噛み潰した様な顔で、私に「社長室へ」と短く言った。

 何事かと思い、思わず片山さんを見る。片山さんは、首を横にふるふると振るだけだ。

 こんな時秋川さんがいてくれたらと思ったけど、今日は子供の保育参観でお休みだ。

 不安に思いつつも急いで社長室に赴くと、朝だというのに疲れた様子で上等そうな椅子にぐったりと座る社長の前に立つ。

「あの……?」

 はあ、という溜息と共に、社長が私を睨み上げた。

「月島、残念だよ。君は真面目で真っ直ぐな人だと信じていたんだけどね」
「は……? あの……」

 社長の口から飛び出してきた言葉は、驚きの言葉だった。

「聞いたよ。優秀な立川と山田の対立を陰から煽ったんだってな。立川が出社して来なくなって愉快か?」
「え……? 何のことですか! 私、そんなこと!」
「うるさい! 口答えするな!」

 社長の大声に、恐怖で身が竦む。

「それにだ! 真山の評判を落とす様な噂を流しているんだってな! この間は真山を泣かせたそうじゃないか! 君は一体会社に何をしにきているんだ!」
「あ、あれは違います! 彼女が私を蹴ったから、それで……」
「黙れ!」

 男性の怒声は、それだけで恐ろしい。理不尽なことを言われているのに、条件反射で黙ってしまった。

 駄目だ、黙っていちゃ駄目なのに。

「そういうことで、君はクビだ」
「ちょ、ちょっと待って下さい、私の話も……っ」
「黙れと言っただろう! 言い訳なんざ聞きたくない!」

 バン! と机を叩かれ、恐怖でビクッと反応する。

「三十日前勧告が義務なんでな。有給はあと何日残っている?」
「さ、三十四日です」

 梨花のお喋りの所為で全く休みを取れていなかったから、余りまくっていた。

 社長がフンと鼻を鳴らす。

「では、明日一日で山田に業務を全て引き継いで、明日を最終出社日にしろ。残りは有休消化しながら給料がもらえるんだ、優しい社長だろう?」
「ま、待って下さい社長、私何もしてな……」

 震える身体を必死で抑えつつ訴えようとしたけど、社長は冷たい目で私を見ただけだった。

「話は以上だ。これまでお疲れ様」

 椅子をくるりと回して、社長は背中を向けてしまった。

 ――これが、梨花に歯向かった罰なのか。

 呆然としながら、「……失礼します」と部屋を出た。

 社長室の外には、片山さんが静かに立っていた。

 片山さんが、悲しそうに言う。

「……このまま逃げた方がいい。辞めた君たちの同期の彼女みたいに壊れる前に」
「片山さ……」

 この人は、全部知ってたんだ。見て、分かった上でこんなことを私に言っている。

 そして、大川さんと同じことを言うのか。

「……片山さんは、どうして」

 聞かずにはいられなかった。すると、片山さんは寂しそうに笑う。

「危なっかしくて放っておけないんだ。ただそれだけ」
「片山さん……」
「ごめんね、月島さん。……今日明日、一緒に引き継ぎを手伝うから」

 山田さんと二人は嫌でしょ。そう言われ、私は項垂れた勢いで「お願いします」と頭を下げた。



 社長から人事メールが社員全員に送られ、全員出社する頃には社内は異様な雰囲気に包まれていた。

 そんな中、山田さんと私は互いに事務的に引き継ぎを開始する。

 梨花が変わらず邪魔しようとしてきたけど、片山さんが仕事を振り、引き継がないと自分が拙いことを悟ったらしい山田さんにすら軽くいなされていた。

「私の仲のいい人、皆辞めてっちゃう。悲しいなあ。――あ、いいこと思いついた!」

 それでもお喋りをやめない梨花が、楽しそうに続ける。

「明日、送別会しようよ!」
「は……?」

 この状況で、自分が社長にある事ない事を吹き込んでおいて、どこまで人をおちょくれば気が済むんだろうか。

「私と山田さんで手配するからあ。ね、マリモお、私からの最後のお願い! ていうかやるもん! 絶対出席ね、決まり!」
「ちょっと……っ」
「月島、引き継ぎしよう」

 山田さんは、先程からずっと焦った表情を浮かべたままだ。まさかここまでなるとは思ってなかったんだろう。事実を嘘で塗りたくり、人ひとりを退職に追いやってしまった恐ろしさに震え上がってるのかもしれない。

 梨花は、まだ続ける。

「あ、そうだ! けんちゃんを呼ぼう!」
「は……?」
「おい、梨花ちゃん何言って……」

 今の彼氏は自分だと思っている山田さんが、思わず口を挟んだ。

「けんちゃん、マリモに騙されたからさあ。マリモがちゃんとバイバイ言ってあげなよ、可哀想だから! きゃははっ」
「……やめようよ梨花。もうやめようよ」

 どうしてここまで大川さんを追い詰めないといけない。どうして彼の優しさを踏み躙り続けて平気な顔をしている。

 私がキッと睨み付けると、梨花は実に艶やかな笑顔のまま言った。

「絶対に来るから、マリモも必ず出席するんだよ!」



 大川健斗の元には、送られてきた大量のデータがある。読めば読むほど気が滅入る内容だったが、この中から決定打を見つけ出さねばならないから熟読は必須だった。

 重い溜息を吐きながら画面をスクロールしていると、突然画面に着信を知らせる通知が現れる。

 画面には『真山』と表示されていた。

「……もしもし」
『あ、けんちゃん? 私!』

 相変わらずの、頭にキンキン響く高い声。おっとりとした雰囲気の月島マリとは大違いだ。

「何か用」
『うん、そうなの! 明日、マリモの送別会をやるから来てよ!』
「は……? 送別会?」

 電話の向こうで、梨花が楽しそうに笑う。

『うん! 来て、やっぱり私のことが忘れられないって言ってくれる? お願い、けんちゃん!』
「……ふざけるな、何馬鹿なこと言って」

 健斗が苛ついた声で抗議し始めた直後、梨花は急に低い声を出した。

『言ってくれたら、もうこれ以上あいつには手を出さないでいてやるよ』
「お前……っ」
『うふふ、楽しみ! ぜーんぶあんたの所為だもんね、マリモがあんたを憎む瞬間が見られるなんて幸せ!』

 悪意丸出しの言葉に、健斗が思わず絶句していると。

『時間と場所、後で転送するねー! じゃあね、けんちゃん!』

 こちらの返答も待たず、梨花は電話を切った。

「送別会……どういうことだ……?」

 月島さんに何が起きてるのか。電話を掛けたくて気が狂いそうな健斗だったが、マスターとの約束がある。

「……絶対見つけてやる」

 唇をきつく噛み締めると、再び資料を食い入る様に読み始めた。
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