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亡国の残響
空へ還る翼、海より来たる影
飛行艇団の整備庫には油と煤、削られた金属の匂い。その奥に、湿った土と若い枝を思わせる香りが混じっている。
風竜たちの森から譲り受け、長い時間をかけて乾燥させ、削り、ホークの翼骨へ組み込んだ木材、天脈樹。。
金属の補助軸に沿って伸びた木目は、継ぎ当てられた部材には見えなかった。淡い光を帯びながら艇体の奥へ続き、初めからホークを支えていた骨のように、周囲の構造へ馴染んでいる。
セラ・アベンシスは開かれた点検口へ上半身を差し込み、制御核と翼骨を繋ぐ導路を確かめていた。
狭い艇内に、工具の触れ合う音が響く。
やがて彼女は身を起こし、煤のついた指先で接続部の縁をなぞった。目を閉じ、指に伝わる微かな振動へ意識を澄ませる。
「補助導路、異常なし。冷却管も安定してる。翼骨との接続部も……ずれなし」
確認するたび、傍らの整備員が記録板へ数値を書き込んでいく。
誰も余計な言葉を挟まなかった。
修理が始まってから、どれほどの日数が過ぎただろう。裂けた船腹を塞ぎ、冷気に侵された部品をひとつずつ交換し、制御核を開いては閉じた。整備庫に泊まり込んだ者もいる。
その仕事が、ようやく終わろうとしていた。
セラは点検口の覆いを戻し、留め具を締め、短く息を吐いた。
「……起こして」
その一言を待っていたように、整備庫の空気が動いた。
「制御核、始動!」
「左右翼、固定具解除準備!」
声が飛び交い、整備員たちが持ち場へ散る。
艇内の深い場所で、低い音が生まれた。
遠くで鳴る雷のような振動が床を伝い、壁面を揺らす。眠っていた補助灯が端から順に灯り、ホークの輪郭が暗がりの中からゆっくりと浮かび上がっていった。
ノア・ライトエースは、少し離れた場所でその様子を見守っていた。
その向こうでは、ラクティス・ジーニアが腕を組み、制御灯を見上げていた。折れていた腕の固定具はすでに外れている。それでも動かすたびに硬さが残るらしく、ときおり肩を回していた。
「ようやくだな」
声はいつもと変わらず軽い。
けれど、その目はホークから離れなかった。
海へ墜ち、水竜たちに曳かれて港へ戻った旗艦の姿。
ここにいる者は、誰も忘れていない。
「団長」
セラが呼んだ。
「何だ?」
「今日の試験飛行、無茶をしたら降ろすから」
ラクティスが眉を上げた。
「団長を?」
「団長を」
「飛行中にか?」
「必要なら」
整備員たちの間に、堪えきれない笑いが広がった。
ラクティスは肩をすくめる。
「怖ぇ機関士長だな」
「誰のせいだと思ってるの」
「竜と、怪しい飛行艇」
「ひとつ抜けてる」
「何がだ?」
「追いかけた団長」
「追わねぇ団長よりはましだろ」
ラクティスは悪びれずに言った。
セラの視線が、記録板から彼へ移る。
「帰ってこない団長より、帰ってくる団長の方がまし」
その声は平坦だった。
けれど、そこに込められたものを聞き違える者はいなかった。
ラクティスの表情から、からかうような色が少しだけ消えた。
「……分かったよ」
セラは何も返さなかった。
ノアは二人のやり取りを見つめ、胸の奥に残っていた息を静かに吐いた。
壊れたものが、もう一度形を取り戻していく。
それだけで、受けた傷が消えるわけではない。
海へ落ちた恐怖も、負傷した者たちの痛みも、アルピーヌの意思を奪った仮面の赤も、すべて残っている。
それでも、直そうと伸ばされた手の数だけ、先へ続く道は生まれる。
「固定具、全解除!」
整備庫に声が響いた。
正面の大扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。
夜明けの光が細い筋となって床を走り、ホークの船首へ届いた。補修された船腹を撫で、閉じていた翼へ流れていく。
* * *
ホークが発着場へ引き出されると、岸壁に集まっていた人々から声が上がった。
甲板では、ラクティスが船首に立っている。
朝の光を受けた橙色の髪が風に揺れた。
「浮上準備!」
腹の底まで届く声に、艇内から復唱が返る。
「制御核、出力二割!」
「左右翼、展開!」
「高度固定索、解除します!」
ホークの翼が、ゆっくりと開いていく。
地上に伏せていた艇体が、長い眠りから身を起こすように、少しずつ重さを手放していく。
「出力三割!」
艇体が上昇し、歓声が港を渡った。
ノアは息を呑み、空を見上げた。
朝の光の中へ、ホークが戻っていく。
ほどなく、団員たちの間を抜けてきたレクサス・アルファードが、ノアの隣に並んだ。
「きれいだね」
「……はい」
声が掠れた。
ノアは一度、瞬きをする。
「戻ってきましたね」
「うん」
レクサスは空を見上げたまま頷いた。
「みんなで戻したんだ」
ホークは王都の上空を大きく旋回した。
翼の先が朝日を受け、空に細い光を引いた。
やがて艇体は沖へ向かい、試験航路へ入る。
セラの指示どおり、急な上昇はしない。旋回は広く取り、速度を上げては落とし、左右の翼へ順に負荷をかけていく。
船体に乱れはなく、機関の振動も、翼の軋みも、風の中へ溶けていくように小さい。
長い試験を終え、ホークが発着場へ戻ったとき、ラクティスは甲板から大きく手を振った。
「問題なしだ!」
抑えていたものが一斉にほどけたように、岸壁から歓声が上がった。
セラは船縁に片手を置き、記録板の数値を追っている。
最後の最後まで確認するつもりなのだろう。
やがて彼女は記録板を閉じた。
着地した翼へ手を伸ばし、天脈樹の組み込まれた部分をそっと撫でる。
「おかえり、ホーク」
小さな声だった。
風に紛れかけたその言葉を、ノアは確かに聞いた。
そのとき。
港の監視塔から、低い鐘が鳴った。
歓声が止まる。
試験終了を告げる鐘ではなかった。
所属不明の飛行艇が、港へ接近している。
その警戒を知らせる音だった。
ラクティスの表情が変わった。
甲板の団員たちが、喜びの余韻を振り切るように持ち場へ走る。
「北西沖、飛行艇一!」
監視塔から声が落ちてきた。
「帆なし! 全面金属製! 白旗を掲げています!」
ノアの指先から、ゆっくりと温度が引いていった。
ラクティスは返事をしなかった。
沖を見つめている。
水平線の上に、黒い点が浮かんでいた。
やがてそれは細長い船影となり、朝の光を鈍く返しながら近づいてくる。
金属だけで組み上げられた艇体。
腹の奥へ沈むような、低い駆動音。
ラクティスの顔から、残っていた笑みが消えた。
「……あれだ」
低い声だった。
ノアが振り向く。
「団長?」
「ホークを落とされたとき、俺が追った船だ」
ラクティスは船影から目を逸らさない。
「形も音も覚えてる。間違いねぇ」
セラが記録板を閉じた。
「全員、ホークから降りて。機関は止めないで。いつでも上げられるようにして」
「白旗だぞ」
ラクティスが言う。
セラは沖を見たまま答えた。
「一度ホークを落とした船よ。旗の色だけで信用はしない」
短い沈黙のあと、ラクティスが息を吐いた。
「そのとおりだな」
レクサスはすでに港の護衛へ指示を出していた。
「接岸は軍用岸壁に限定してください。上陸を許可するのは使節と随員だけです。武装解除を確認するまで、港内へ入れないように」
声は落ち着いているが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。
金属製の飛行艇は、港の外で停止した。
やがて艇腹から小型艇が下ろされる。
白旗の下には、見慣れない紋章が掲げられていた。
小型艇が水面を滑り、岸壁へ近づいてくる。
誰も言葉を発しなかった。
修理を終えたばかりのホークの翼だけが、朝の風を受けて静かに震えていた。
風竜たちの森から譲り受け、長い時間をかけて乾燥させ、削り、ホークの翼骨へ組み込んだ木材、天脈樹。。
金属の補助軸に沿って伸びた木目は、継ぎ当てられた部材には見えなかった。淡い光を帯びながら艇体の奥へ続き、初めからホークを支えていた骨のように、周囲の構造へ馴染んでいる。
セラ・アベンシスは開かれた点検口へ上半身を差し込み、制御核と翼骨を繋ぐ導路を確かめていた。
狭い艇内に、工具の触れ合う音が響く。
やがて彼女は身を起こし、煤のついた指先で接続部の縁をなぞった。目を閉じ、指に伝わる微かな振動へ意識を澄ませる。
「補助導路、異常なし。冷却管も安定してる。翼骨との接続部も……ずれなし」
確認するたび、傍らの整備員が記録板へ数値を書き込んでいく。
誰も余計な言葉を挟まなかった。
修理が始まってから、どれほどの日数が過ぎただろう。裂けた船腹を塞ぎ、冷気に侵された部品をひとつずつ交換し、制御核を開いては閉じた。整備庫に泊まり込んだ者もいる。
その仕事が、ようやく終わろうとしていた。
セラは点検口の覆いを戻し、留め具を締め、短く息を吐いた。
「……起こして」
その一言を待っていたように、整備庫の空気が動いた。
「制御核、始動!」
「左右翼、固定具解除準備!」
声が飛び交い、整備員たちが持ち場へ散る。
艇内の深い場所で、低い音が生まれた。
遠くで鳴る雷のような振動が床を伝い、壁面を揺らす。眠っていた補助灯が端から順に灯り、ホークの輪郭が暗がりの中からゆっくりと浮かび上がっていった。
ノア・ライトエースは、少し離れた場所でその様子を見守っていた。
その向こうでは、ラクティス・ジーニアが腕を組み、制御灯を見上げていた。折れていた腕の固定具はすでに外れている。それでも動かすたびに硬さが残るらしく、ときおり肩を回していた。
「ようやくだな」
声はいつもと変わらず軽い。
けれど、その目はホークから離れなかった。
海へ墜ち、水竜たちに曳かれて港へ戻った旗艦の姿。
ここにいる者は、誰も忘れていない。
「団長」
セラが呼んだ。
「何だ?」
「今日の試験飛行、無茶をしたら降ろすから」
ラクティスが眉を上げた。
「団長を?」
「団長を」
「飛行中にか?」
「必要なら」
整備員たちの間に、堪えきれない笑いが広がった。
ラクティスは肩をすくめる。
「怖ぇ機関士長だな」
「誰のせいだと思ってるの」
「竜と、怪しい飛行艇」
「ひとつ抜けてる」
「何がだ?」
「追いかけた団長」
「追わねぇ団長よりはましだろ」
ラクティスは悪びれずに言った。
セラの視線が、記録板から彼へ移る。
「帰ってこない団長より、帰ってくる団長の方がまし」
その声は平坦だった。
けれど、そこに込められたものを聞き違える者はいなかった。
ラクティスの表情から、からかうような色が少しだけ消えた。
「……分かったよ」
セラは何も返さなかった。
ノアは二人のやり取りを見つめ、胸の奥に残っていた息を静かに吐いた。
壊れたものが、もう一度形を取り戻していく。
それだけで、受けた傷が消えるわけではない。
海へ落ちた恐怖も、負傷した者たちの痛みも、アルピーヌの意思を奪った仮面の赤も、すべて残っている。
それでも、直そうと伸ばされた手の数だけ、先へ続く道は生まれる。
「固定具、全解除!」
整備庫に声が響いた。
正面の大扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。
夜明けの光が細い筋となって床を走り、ホークの船首へ届いた。補修された船腹を撫で、閉じていた翼へ流れていく。
* * *
ホークが発着場へ引き出されると、岸壁に集まっていた人々から声が上がった。
甲板では、ラクティスが船首に立っている。
朝の光を受けた橙色の髪が風に揺れた。
「浮上準備!」
腹の底まで届く声に、艇内から復唱が返る。
「制御核、出力二割!」
「左右翼、展開!」
「高度固定索、解除します!」
ホークの翼が、ゆっくりと開いていく。
地上に伏せていた艇体が、長い眠りから身を起こすように、少しずつ重さを手放していく。
「出力三割!」
艇体が上昇し、歓声が港を渡った。
ノアは息を呑み、空を見上げた。
朝の光の中へ、ホークが戻っていく。
ほどなく、団員たちの間を抜けてきたレクサス・アルファードが、ノアの隣に並んだ。
「きれいだね」
「……はい」
声が掠れた。
ノアは一度、瞬きをする。
「戻ってきましたね」
「うん」
レクサスは空を見上げたまま頷いた。
「みんなで戻したんだ」
ホークは王都の上空を大きく旋回した。
翼の先が朝日を受け、空に細い光を引いた。
やがて艇体は沖へ向かい、試験航路へ入る。
セラの指示どおり、急な上昇はしない。旋回は広く取り、速度を上げては落とし、左右の翼へ順に負荷をかけていく。
船体に乱れはなく、機関の振動も、翼の軋みも、風の中へ溶けていくように小さい。
長い試験を終え、ホークが発着場へ戻ったとき、ラクティスは甲板から大きく手を振った。
「問題なしだ!」
抑えていたものが一斉にほどけたように、岸壁から歓声が上がった。
セラは船縁に片手を置き、記録板の数値を追っている。
最後の最後まで確認するつもりなのだろう。
やがて彼女は記録板を閉じた。
着地した翼へ手を伸ばし、天脈樹の組み込まれた部分をそっと撫でる。
「おかえり、ホーク」
小さな声だった。
風に紛れかけたその言葉を、ノアは確かに聞いた。
そのとき。
港の監視塔から、低い鐘が鳴った。
歓声が止まる。
試験終了を告げる鐘ではなかった。
所属不明の飛行艇が、港へ接近している。
その警戒を知らせる音だった。
ラクティスの表情が変わった。
甲板の団員たちが、喜びの余韻を振り切るように持ち場へ走る。
「北西沖、飛行艇一!」
監視塔から声が落ちてきた。
「帆なし! 全面金属製! 白旗を掲げています!」
ノアの指先から、ゆっくりと温度が引いていった。
ラクティスは返事をしなかった。
沖を見つめている。
水平線の上に、黒い点が浮かんでいた。
やがてそれは細長い船影となり、朝の光を鈍く返しながら近づいてくる。
金属だけで組み上げられた艇体。
腹の奥へ沈むような、低い駆動音。
ラクティスの顔から、残っていた笑みが消えた。
「……あれだ」
低い声だった。
ノアが振り向く。
「団長?」
「ホークを落とされたとき、俺が追った船だ」
ラクティスは船影から目を逸らさない。
「形も音も覚えてる。間違いねぇ」
セラが記録板を閉じた。
「全員、ホークから降りて。機関は止めないで。いつでも上げられるようにして」
「白旗だぞ」
ラクティスが言う。
セラは沖を見たまま答えた。
「一度ホークを落とした船よ。旗の色だけで信用はしない」
短い沈黙のあと、ラクティスが息を吐いた。
「そのとおりだな」
レクサスはすでに港の護衛へ指示を出していた。
「接岸は軍用岸壁に限定してください。上陸を許可するのは使節と随員だけです。武装解除を確認するまで、港内へ入れないように」
声は落ち着いているが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。
金属製の飛行艇は、港の外で停止した。
やがて艇腹から小型艇が下ろされる。
白旗の下には、見慣れない紋章が掲げられていた。
小型艇が水面を滑り、岸壁へ近づいてくる。
誰も言葉を発しなかった。
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