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第一章 ヒーローは島を出る
私は自分が主役だと信じていた。人生において、誰もが必ず幸せになれるのだと信じていた。
そして私が幸せになるとき、隣にいるのはこの男だと信じていた。
「待ったか?」
石階段の中腹、いつもの場所。やってきたのは幼馴染の鹿島拓海だった。どこか野暮ったさの残る顔立ちに坊主頭。体の成長に追いつかなくて袖が少し短いけれど、中学校の学ランを着ていられるのはあと半年もないからってそのままでいる。中学生にしては大きい手が掴むのは、四本入りアイスキャンディの袋だ。日焼けして浅黒い肌に、カラフルなアイスキャンディは目立つ。
「何味?」
拓海がどのアイスキャンディがいいかと聞いてくるけれど、私は返答より先に袋から一本取りだした。掴んだのは紫色のグレープ味だ。
「グレープがいい」
「だと思った」
わざわざ聞かなくても知っているくせに。私だって拓海が最初に食べる味はどれかわかっていた。袋に入ったままの、水色のアイスキャンディをちらりと見る。
「拓海はソーダでしょ?」
「俺はどの味も好きだから、残りものでいい」
「じゃ、ソーダ味食べて」
「おう」
近所のコンビニで売っている、袋に入った安いアイスキャンディ。子どものおこづかいで買える程度の金額で、一袋に四本も入っているから分けやすい。小さな頃から、このアイスキャンディが好きだった。
イチゴ、レモン、グレープにソーダ味。質素な木の棒についた透き通るアイスは、色とりどりの宝石のようで心が弾む。だけど私はソーダ味が苦手だった。だから拓海は『千歳が嫌いな味だから』と言って、最初に食べてくれる。
アイスキャンディを食べる順番も、食べる場所が石階段なのも、昔から変わらない。なのに私達の周囲は変わっていく。小さくなっていく制服、変わっていく島の景色。昔通った近所の商店は、今じゃコンビニエンスストアだ。
あと半年も経たずに、私達は高校生になる。ゆっくりと流れていく時間は、確実に何かを変えていくんだ。
「千歳、話がある」
変化の波に呑まれて、拓海だって変わっていく。私の前に座る男は振り返って、こちらをじっと見つめながら言った。
「俺、島を出る。お前と同じ高校に行けない」
「あっそ、どこに行くの?」
「神奈川の高校から、推薦の話がきた」
そっけなく答えて、何事もないふりをして。でも肌がざわざわと粟立った。拓海が島から出ていけば、私の隣は空っぽになる。拓海がいなくなる。神奈川ってどこ。東京からすぐ行ける場所だよね。ビルがたくさんあって、地下鉄が走ってるような。
予想していたくせに、突きつけられる現実が妙に肌寒い。心の奥から冷えていくのは、アイスが冷たいからだけじゃない。
「その高校だったら、俺の夢も叶う気がするから」
「甲子園に行くってやつ?」
「ちょっと違う。甲子園でホームランを打つ、だ」
頭の中で地図を広げる。私達が住む島の近くに北海道本島があって、そこから離れた本州に神奈川県があって、もっと遠くに甲子園がある兵庫県。神奈川県も兵庫県もテレビで見たことはあるけれど、行ったことはない。私は飛行機にさえ一度も乗ったことがないのに。
拓海は、この島ではちょっと有名な野球少年だった。美岸利島の奇跡と言えば大げさだけど、でもそれに近い。小さな頃から野球ばかりしていて、めきめきと伸びた才能は、そのうちに島じゃ収まりきらなくなった。本島へ呼び出されて北海道代表になり、その名は本州にも轟いて、十五歳以下で構成される日本代表に選出されている。長期休みのたびに島を出て、本州どころか海外遠征の経験もあった。だから、本州の強豪校にスポーツ推薦が決まったと言われても納得だ。彼なら、本当に甲子園で夢を叶えるかもしれない。
「……ま、頑張ってよ。それなりに応援してるから」
ここまで拓海が頑張ってきたこと、甲子園という目標があったこと。間近で見てきたから、引きとめるなんてできない。応援しているけれど淋しさもある。混ざりあわない気持ちに苛立ってアイスキャンディを噛む。グレープ味は口の中で弾けて、寂しく残るのは木の棒だけ。
拓海は私の顔を見つめたあと、ふっと小さく笑って「おう」と答えた。袋から取りだしたイチゴ味のアイスキャンディをこちらに渡してくる。悔しいことに、グレープ味の次に食べるのがイチゴ味だと拓海は知っていた。
「千歳は、俺がいなくなったら淋しいか?」
「別に」
「そう言うと思った」
「高校卒業したら戻ってくるんでしょ?」
「まあな。俺は、美岸利島が好きだから」
拓海が前を向いた。西側を向いているから夕日が眩しいはずなのに、その方向をじっと見ている。私の視界には拓海の背中が映っているから、彼の表情はわからない。ソーダ味のアイスは食べ終えているのに、次に移る気配がない。袋に唯一残ったレモン味のアイスには、まだ手をつけていなかった。しばらく黙っていると拓海が呟いた。
「お前さ、高校生になってもここに座るのか?」
「別にいいでしょ。この場所、お気に入りだから」
「俺がいるときはお前の前に座るからいいけど、お前ひとりで階段に座ってると、なんかこう、よくない気がする」
「ここを通るのって、私の家族とあんたの家族ぐらいじゃん」
「そうじゃねーよ……はあ、もういい。言った俺がばかだった」
背中越しに、拓海が照れているのがわかった。困ったときの癖で坊主頭をかく。
中学生になってから、彼の定位置は私の前段になった。まるで私を隠すように座る。その理由を聞きだすのは骨が折れたけれど、蓋を開けてみれば歩行者の目が気になるという不思議なものだった。中学生になって制服がスカートになったので、それが関係しているのだと思う。以来、制服を着ていなくとも関係なく、私を守るように彼の席はここになった。けれど高校生になれば、拓海は内地の高校に行って、前に座る人はいなくなる。私がこの場所に座り続けても、拓海は甲子園を追いかけて島を出ていく。なんだか、もどかしい。
「千歳」
レモン味のアイス食べないの、と訊きかけたところで拓海が言った。
「小学生のときにした約束って、覚えてるか?」
「いろいろな約束したから覚えてないかもね」
「お前、ひねくれてるな。どうせ覚えてんだろ?」
その通り、覚えている。小学生のとき、この場所で、私達は約束をした。
約束を交わしたときの空気や感情、一言一句すべて頭に焼きついている。それは、子ども達が交わす約束としては定番かもしれない『大人になったら結婚しよう』というもので、けれど私にとっては特別な約束だった。
ずっと、拓海のことが好きだから。人として、幼馴染として、恋愛対象として。あらゆる目線で彼のことが好きだから、幼い頃に交わした結婚の約束を信じて、好きな人とそんな約束ができた幸せを噛みしめている。そんな大切なものを誰が忘れることができるだろう。
そして、拓海も私のことが好きだと思う。言葉で確かめなくとも幼馴染だからわかる、特別な態度。ふたりでいるときの穏やかな空気は、想いが通じあっているから。拓海がこのタイミングで約束のことを口にするのも、きっと、そういうこと。
私の無言を肯定と受けとったのか、拓海が続けた。こちらに背を向けたままで。
「約束、このまま覚えていてもいいか?」
「何その質問。好きにしてよ」
「じゃあ、俺は約束を覚えてる。お前もそうしてくれ」
「私まで巻きこむの? まあ……いいけど。あんたが約束を覚えてるっていうなら、私もそうするかもしれないし」
すると拓海は振り返った。少し頬が赤い。それを誤魔化すように、大きな手のひらが私の頭へと伸びる。頭を撫でるというよりはわしわしと掴んで、犬を愛でるような動き。視界の端で髪の毛がぐちゃぐちゃになっていて、拓海は笑っていた。
「ほんと素直じゃねーな。天邪鬼の千歳」
「うるさい。拓海のばか」
「顔、赤いぞ」
「ばか。知らない。さっさと高校卒業してきて、ばか」
好きとか付きあうとか。そういう言葉は頭に浮かんでも、口にする勇気は出なかった。中学生だからと言い訳をするのは簡単だけど、本当のところは甘えていたのだと思う。拓海と私は、隣同士が当たり前。幼い頃に約束をした。私達は結ばれる運命にある。だから、想いを伝えるのはあと回しでもいい。
複雑な気持ちになり、拓海の体をぽこぽこと叩く。そこまで力を込めていないけれど、野球漬けで鍛えられた体はびくともしなくて、拓海はくすぐったそうにするだけ。
「中学卒業までは島にいるから」
「もうすぐじゃん」
「夢を叶えたら戻ってくるから、ちゃんと待ってろ」
残っていたアイスキャンディは溶けて、袋の隅にレモン色の液体が溜まっていた。気づいたときにはもう食べられない。遅かった。元に戻らない。
私達がそれに気づくのは家に帰る直前で、アイスがもったいないとか飲んだほうが早いなんて笑いあっていた。
中学生の終わり、鹿島拓海は美岸利島から出ていった。
* * *
拓海が島を出てから三度目の夏は、特別だった。
潮風ってのは不思議なもので、風を浴びているだけなのにほどよい疲労を感じる。海に入ってもいないのに肌はべたついて体が重たい。だから、防波堤に寝転んでいるのは仕方のないこと。決して、だらけているわけじゃない。
閑散とした美岸利島の西防波堤、夏の日差しを浴びながら本を読む。飲み物は持ってこなかったけれど喉は渇かなかった。スマートフォンに繋いだイヤフォン、そこから聞こえる音に神経を注いでいたから。
「あ、終わった」
読みかけていた本は、どこまで読んだかわからない。イヤフォンから響くのは、夏の終わりを告げるような甲子園のサイレン。小さい頃は人の泣き叫ぶ声に聞こえて怯えていた。今は怖くない。むしろ清々しく感じる。空の果てまで響きそうな音は、甲子園がひどく遠いところにあるのだと思わせた。
その音がやんでしばらく経つと、仰向けに寝転んだ私の顔を影が覆った。片耳のイヤフォンを外せば犬の荒い呼吸音が聞こえて、それから聞き慣れた声音。
「千歳ちゃん、何してんの?」
彼は鹿島大海。拓海の弟で、現在高校二年生。私のひとつ年下だ。
私は上半身を起こしながら、手にしていた本を見せる。
「読書。感想文まだ終わってないから」
「まだ終わってないの!? お盆明けから学校始まるよ」
「だいじょーぶ。ささっと読んで、ささっと感想を書くから。ヤバそうなら結末だけ見ちゃえばいいし」
「うわ、千歳ちゃんらしい……」
大海は読みかけの本をまじまじと眺めたあと、「こんなの読むんだ」と驚いていた。
本には帯がついていて、そこには『女子中高生支持率ナンバーワン、何度読み返しても泣ける青春小説』と書いてある。難病の女の子が男の子と出会って生きる希望を得ていく話らしいけど、数ページしか読んでいないので、泣ける場面まで至っていない。大海が驚いていたように、私には向いていない話だから、真剣に読むかと聞かれれば怪しい。明日にはいい加減な感想文を書いてしまいそうだ。
「それで。大海は何してんの?」
「クワタの散歩」
クワタは、鹿島家で飼っている柴犬だ。拓海と大海が交代で散歩をしていたけれど、拓海が神奈川の高校に行ってしまったので、散歩は大海の仕事になっている。走るのが大好きなクワタの散歩は大仕事で、首からタオルを巻くほど汗だくになってしまう。
「よしよし、クワタお疲れ様。暑い中、大海の散歩に付きあってくれてありがとう」
そう言いながらクワタの頭をわしわしと撫でる。大海は口を尖らせていた。
「ちょっとー! 飼い主はオレなんだけど!」
「どっちも似たようなもんでしょ。大海って犬っぽいし」
「うわ。失礼だよね!?」
性格と外見ひっくるめて、大海は犬のようだと思う。兄である拓海と幼馴染の私、その後ろを追いかけてくるのが大海だ。大海は人懐っこくて可愛らしい。あまり表情を変えない拓海と違って、ぴょんぴょん跳ねたり騒いだり全身で感情を表現する。その上、髪もふわふわの癖毛ときたものだ。高校生になって髪を茶色く染めたときは、チョコレートカラーの小型犬を連想した。そういえば大海の『大』の字も犬に似ている。名前まで隙がない。
クワタはというと、大海より拓海に似ている。よく言えば落ち着いていて、悪く言えば鈍い。大好きな散歩は俊敏に走るけれど、それ以外はのんびりした犬だった。柴犬のちょっととぼけた顔も可愛らしい。元は捨て犬で拓海が拾ってきたけれど、野球好きの父親によって、好きな野球選手から拝借した名前が付けられてしまった。『名前じゃなくて名字じゃん』と鹿島兄弟がぼやいていたけれど、何年も経つうちにクワタで定着している。
そう、野球だ。鹿島家の話をするといつも野球が出てくる。そのことに思いいたると同時に、大海が言った。
「千歳ちゃん、家にいるんだと思ってた」
「なんで?」
「だって今日、兄貴の試合じゃん。島のみんなと一緒に応援まではしないだろうけれど、家でテレビを見てるのかなって。バイトも休みとってたからさ」
「見てない。甲子園に興味ないし」
この島から甲子園出場者が出るのは初めてで、今日の美岸利島はお祭り騒ぎだった。島民は公民館に集まり、大きなスクリーンに甲子園中継を映して、みんなで拓海を応援している。同じ中学だった子や、拓海と共に野球をしていた子も公民館に向かったけど、私は行かなかった。そういう集まりがあると知っても、行く気になれない。
大海は私の隣に腰かける。クワタもしっぽをぶんぶんと振って大人しくしていた。
「兄貴、負けたよ」
「……ふうん」
「地方大会じゃ大活躍だったのにな。甲子園じゃヒット一本も打てないでやんの」
大海の話を聞きながら手にした本をぱらぱらとめくるけど、内容は頭に入らない。句点の丸がボールのように見えた。そんな私の顔を大海が覗きこむ。まんまるの瞳がふたつ、眼前に割りこんだあとでにたにたと笑った。
「兄貴が負けたのに、千歳ちゃん嬉しそうじゃん」
「別に、そんなことないけど」
「えー、嘘でしょー。口元ゆるゆるだよ」
「何言ってんの。勉強のしすぎで目が悪くなったんじゃない?」
「隠さなくてもいいって。千歳ちゃん、昔から兄貴大好きだもんね?」
弟のような存在にからかわれるのは居心地が悪くなるもので、突き放すように大きな音を立てて本を閉じた。それでも大海は食い下がる。
「お。千歳ちゃん、顔真っ赤」
顔は赤いのだろうか。鏡がないからわからないし、確認する気もない。
高校三年生で甲子園出場の夢を叶えた拓海をもちろん応援している。甲子園で優勝してほしいと思った。でも今の心を占めているのは、安堵だ。私は嬉しいのか嬉しくないのか、どちらだろう。自分自身に問いかけ、浮かんだ言葉をそのまま声にのせた。
「拓海が普通の人に戻った気がする」
「何それ。兄貴って人間じゃなかったの?」
「そういう意味じゃなくて。これで終わったんだなって思ったの」
初戦で負けてしまったのに、どうしてか私の心は和いでいる。答えを探すように海へ視線を落としていると大海が言った。
「安心して。高校卒業したら、島に帰ってくるよ。親父の会社を手伝うってさ。わざわざド田舎の美岸利島に戻ってこなくてもいいのになあ。オレなら神奈川に残るのに」
「そのド田舎が好きなんでしょ、拓海は」
「もしかしたら千歳ちゃんのことが好きだから、島に戻ってくるのかもよ?」
大海はにやついて私の反応を窺っている。こういうところはめんどくさい。お行儀よく座っているクワタのほうが可愛く見えるほど。
「拓海が島に戻ってくるのは、叶えてない約束でもあるからじゃない?」
「え? 何それ」
「別に。私、そろそろ帰る――あ」
ヘッドフォンを繋いだままだったスマートフォンのことはすっかり忘れていて、立ち上がった拍子に、体から滑り落ちた。海に落ちるかと思いきや、運よく防波堤の端で止まった。私も大海もほっと息を吐く。
「あぶねー……海に落ちるとこだったよ」
大海がスマートフォンを拾う。表示されたままだった画面が見えてしまったらしく、呆れたように笑った。
「甲子園に興味ないって、嘘じゃん」
表示していた甲子園速報のページによって、私の嘘が見抜かれる。
本当は、読書に身が入らないぐらいに試合が気になっていた。甲子園中継の録画だってした。この時間、テレビの前にいられなかったのは、テレビ越しに拓海の姿を見て、距離の遠さを目の当たりにするのが怖かっただけ。スマートフォンを見なくても大海は気づいていたのかもしれない。拾ってもらったお礼を告げたあとは、恥ずかしくて口を閉ざした。
拓海の試合は終わって、次の試合が始まる。
終わるのは夏だけじゃない。離れていた三年間が、もうすぐ終わるのだ。
彼が島に戻ってきたら、思い描いていた通りの幸せな日々が始まる。私の隣に拓海がいる。きっと。
第二章 青春物語の主役と脇役
高校生の始まりから今日まで、三年しかなかったのに長い時間が経った気がする。振り返ればそれは淋しくて、この日がやってくるのをずっと待ち続けていた。
「今日の千歳ちゃんは気合いが入ってるなぁ」
店長は店にやってくるなり、私をからかう。高校在学中に始めたコンビニのアルバイトは、卒業しても続けていた。特にしたいこともなく、島から出る気もなかったのでちょうどいい。この店がコンビニになる前の個人商店だった頃から通っていて、顔馴染みのおじさんが店長というのも居心地がよかった。
店長の奥さんが従業員控え室から出てきた。エプロンをつけながら、私達に向き直ってにっこりと微笑む。
「髪も染め直したもんねえ?」
「まあ……染めましたけど」
「とっても可愛いわよ。ちょっと明るい色だけど、今時の子ってこんな感じなのかしらね。今日の千歳ちゃんはお姫様みたいよ」
そう言って、奥さんが私の肩を優しく叩いた。言葉はなかったけれど、『頑張れ』というメッセージが伝わってくる。
自分が可愛いとは思っていないけれど、お姫様のようだと言われるのは十八歳になっても嬉しい。特に今日は時間をかけて用意したから、褒められると顔が緩む。
口元がにやけてしまいそうになるのを堪えていると、店長が外を指さした。コンビニのガラス越しに、自転車に乗った大海が見える。
「お。迎えが来てるぞ。そろそろ出発か」
「すみません、途中で抜けることになっちゃって」
「いいのよ。千歳ちゃんのことはよーくわかってるから。私も主人も、千歳ちゃん達のことを応援しているからね」
今日は閉店まで勤務予定だったけれど、わがままを言って途中で抜けることになった。あまり体調がよくないので普段は店に出ない店長の奥さんが、レジ番を代わってくれたのだ。申し訳なさを感じつつその顔を見ると、奥さんがにっこりと微笑んだ。
「頑張ってね。応援してる」
「……はい!」
「おーい、千歳ちゃん。そろそろ行くよー」
自動ドアが開いて、滑りこむようにやってきた大海が言う。大海もこのコンビニでバイトをしているけれど、今日は休みだ。店長が「お前が代わりに働いてもいいぞ」なんて大海をからかっている間に、私は控え室に戻った。
着替え終わって大海と合流する。自転車に乗って、港を目指す。近づけば近づくほど潮風が濃くなって、胸の奥が痛くなる。海鳥の鳴き声に波の音。いつもと変わらない春の景色が、今日はひときわ輝いて見えた。
「あれ。もう着いてるじゃん」
港に着いて、大海が言った。港は普段よりも島民が集まっていて騒がしい。それは、美岸利島初の甲子園出場を果たしたヒーローを出迎えようとしているためだ。
人混みの向こうに連絡船が着いていた。群がる人を押しのけてまで船に近寄る気になれず、私は少し離れたところからそれを見つめる。自転車から降りてハンドルを握りしめると、手に力が入りすぎてべたついていた。
最近の美岸利島は観光客が増え、移住者も多くなった。なのに北海道本島との連絡船は相変わらず一日一本なので、乗船客はそれなりに多い。
下りてくる人の顔を確かめ、拓海が現れるのを待つ。そして、待ち望んでいた姿が現れた。
私は自分が主役だと信じていた。人生において、誰もが必ず幸せになれるのだと信じていた。
そして私が幸せになるとき、隣にいるのはこの男だと信じていた。
「待ったか?」
石階段の中腹、いつもの場所。やってきたのは幼馴染の鹿島拓海だった。どこか野暮ったさの残る顔立ちに坊主頭。体の成長に追いつかなくて袖が少し短いけれど、中学校の学ランを着ていられるのはあと半年もないからってそのままでいる。中学生にしては大きい手が掴むのは、四本入りアイスキャンディの袋だ。日焼けして浅黒い肌に、カラフルなアイスキャンディは目立つ。
「何味?」
拓海がどのアイスキャンディがいいかと聞いてくるけれど、私は返答より先に袋から一本取りだした。掴んだのは紫色のグレープ味だ。
「グレープがいい」
「だと思った」
わざわざ聞かなくても知っているくせに。私だって拓海が最初に食べる味はどれかわかっていた。袋に入ったままの、水色のアイスキャンディをちらりと見る。
「拓海はソーダでしょ?」
「俺はどの味も好きだから、残りものでいい」
「じゃ、ソーダ味食べて」
「おう」
近所のコンビニで売っている、袋に入った安いアイスキャンディ。子どものおこづかいで買える程度の金額で、一袋に四本も入っているから分けやすい。小さな頃から、このアイスキャンディが好きだった。
イチゴ、レモン、グレープにソーダ味。質素な木の棒についた透き通るアイスは、色とりどりの宝石のようで心が弾む。だけど私はソーダ味が苦手だった。だから拓海は『千歳が嫌いな味だから』と言って、最初に食べてくれる。
アイスキャンディを食べる順番も、食べる場所が石階段なのも、昔から変わらない。なのに私達の周囲は変わっていく。小さくなっていく制服、変わっていく島の景色。昔通った近所の商店は、今じゃコンビニエンスストアだ。
あと半年も経たずに、私達は高校生になる。ゆっくりと流れていく時間は、確実に何かを変えていくんだ。
「千歳、話がある」
変化の波に呑まれて、拓海だって変わっていく。私の前に座る男は振り返って、こちらをじっと見つめながら言った。
「俺、島を出る。お前と同じ高校に行けない」
「あっそ、どこに行くの?」
「神奈川の高校から、推薦の話がきた」
そっけなく答えて、何事もないふりをして。でも肌がざわざわと粟立った。拓海が島から出ていけば、私の隣は空っぽになる。拓海がいなくなる。神奈川ってどこ。東京からすぐ行ける場所だよね。ビルがたくさんあって、地下鉄が走ってるような。
予想していたくせに、突きつけられる現実が妙に肌寒い。心の奥から冷えていくのは、アイスが冷たいからだけじゃない。
「その高校だったら、俺の夢も叶う気がするから」
「甲子園に行くってやつ?」
「ちょっと違う。甲子園でホームランを打つ、だ」
頭の中で地図を広げる。私達が住む島の近くに北海道本島があって、そこから離れた本州に神奈川県があって、もっと遠くに甲子園がある兵庫県。神奈川県も兵庫県もテレビで見たことはあるけれど、行ったことはない。私は飛行機にさえ一度も乗ったことがないのに。
拓海は、この島ではちょっと有名な野球少年だった。美岸利島の奇跡と言えば大げさだけど、でもそれに近い。小さな頃から野球ばかりしていて、めきめきと伸びた才能は、そのうちに島じゃ収まりきらなくなった。本島へ呼び出されて北海道代表になり、その名は本州にも轟いて、十五歳以下で構成される日本代表に選出されている。長期休みのたびに島を出て、本州どころか海外遠征の経験もあった。だから、本州の強豪校にスポーツ推薦が決まったと言われても納得だ。彼なら、本当に甲子園で夢を叶えるかもしれない。
「……ま、頑張ってよ。それなりに応援してるから」
ここまで拓海が頑張ってきたこと、甲子園という目標があったこと。間近で見てきたから、引きとめるなんてできない。応援しているけれど淋しさもある。混ざりあわない気持ちに苛立ってアイスキャンディを噛む。グレープ味は口の中で弾けて、寂しく残るのは木の棒だけ。
拓海は私の顔を見つめたあと、ふっと小さく笑って「おう」と答えた。袋から取りだしたイチゴ味のアイスキャンディをこちらに渡してくる。悔しいことに、グレープ味の次に食べるのがイチゴ味だと拓海は知っていた。
「千歳は、俺がいなくなったら淋しいか?」
「別に」
「そう言うと思った」
「高校卒業したら戻ってくるんでしょ?」
「まあな。俺は、美岸利島が好きだから」
拓海が前を向いた。西側を向いているから夕日が眩しいはずなのに、その方向をじっと見ている。私の視界には拓海の背中が映っているから、彼の表情はわからない。ソーダ味のアイスは食べ終えているのに、次に移る気配がない。袋に唯一残ったレモン味のアイスには、まだ手をつけていなかった。しばらく黙っていると拓海が呟いた。
「お前さ、高校生になってもここに座るのか?」
「別にいいでしょ。この場所、お気に入りだから」
「俺がいるときはお前の前に座るからいいけど、お前ひとりで階段に座ってると、なんかこう、よくない気がする」
「ここを通るのって、私の家族とあんたの家族ぐらいじゃん」
「そうじゃねーよ……はあ、もういい。言った俺がばかだった」
背中越しに、拓海が照れているのがわかった。困ったときの癖で坊主頭をかく。
中学生になってから、彼の定位置は私の前段になった。まるで私を隠すように座る。その理由を聞きだすのは骨が折れたけれど、蓋を開けてみれば歩行者の目が気になるという不思議なものだった。中学生になって制服がスカートになったので、それが関係しているのだと思う。以来、制服を着ていなくとも関係なく、私を守るように彼の席はここになった。けれど高校生になれば、拓海は内地の高校に行って、前に座る人はいなくなる。私がこの場所に座り続けても、拓海は甲子園を追いかけて島を出ていく。なんだか、もどかしい。
「千歳」
レモン味のアイス食べないの、と訊きかけたところで拓海が言った。
「小学生のときにした約束って、覚えてるか?」
「いろいろな約束したから覚えてないかもね」
「お前、ひねくれてるな。どうせ覚えてんだろ?」
その通り、覚えている。小学生のとき、この場所で、私達は約束をした。
約束を交わしたときの空気や感情、一言一句すべて頭に焼きついている。それは、子ども達が交わす約束としては定番かもしれない『大人になったら結婚しよう』というもので、けれど私にとっては特別な約束だった。
ずっと、拓海のことが好きだから。人として、幼馴染として、恋愛対象として。あらゆる目線で彼のことが好きだから、幼い頃に交わした結婚の約束を信じて、好きな人とそんな約束ができた幸せを噛みしめている。そんな大切なものを誰が忘れることができるだろう。
そして、拓海も私のことが好きだと思う。言葉で確かめなくとも幼馴染だからわかる、特別な態度。ふたりでいるときの穏やかな空気は、想いが通じあっているから。拓海がこのタイミングで約束のことを口にするのも、きっと、そういうこと。
私の無言を肯定と受けとったのか、拓海が続けた。こちらに背を向けたままで。
「約束、このまま覚えていてもいいか?」
「何その質問。好きにしてよ」
「じゃあ、俺は約束を覚えてる。お前もそうしてくれ」
「私まで巻きこむの? まあ……いいけど。あんたが約束を覚えてるっていうなら、私もそうするかもしれないし」
すると拓海は振り返った。少し頬が赤い。それを誤魔化すように、大きな手のひらが私の頭へと伸びる。頭を撫でるというよりはわしわしと掴んで、犬を愛でるような動き。視界の端で髪の毛がぐちゃぐちゃになっていて、拓海は笑っていた。
「ほんと素直じゃねーな。天邪鬼の千歳」
「うるさい。拓海のばか」
「顔、赤いぞ」
「ばか。知らない。さっさと高校卒業してきて、ばか」
好きとか付きあうとか。そういう言葉は頭に浮かんでも、口にする勇気は出なかった。中学生だからと言い訳をするのは簡単だけど、本当のところは甘えていたのだと思う。拓海と私は、隣同士が当たり前。幼い頃に約束をした。私達は結ばれる運命にある。だから、想いを伝えるのはあと回しでもいい。
複雑な気持ちになり、拓海の体をぽこぽこと叩く。そこまで力を込めていないけれど、野球漬けで鍛えられた体はびくともしなくて、拓海はくすぐったそうにするだけ。
「中学卒業までは島にいるから」
「もうすぐじゃん」
「夢を叶えたら戻ってくるから、ちゃんと待ってろ」
残っていたアイスキャンディは溶けて、袋の隅にレモン色の液体が溜まっていた。気づいたときにはもう食べられない。遅かった。元に戻らない。
私達がそれに気づくのは家に帰る直前で、アイスがもったいないとか飲んだほうが早いなんて笑いあっていた。
中学生の終わり、鹿島拓海は美岸利島から出ていった。
* * *
拓海が島を出てから三度目の夏は、特別だった。
潮風ってのは不思議なもので、風を浴びているだけなのにほどよい疲労を感じる。海に入ってもいないのに肌はべたついて体が重たい。だから、防波堤に寝転んでいるのは仕方のないこと。決して、だらけているわけじゃない。
閑散とした美岸利島の西防波堤、夏の日差しを浴びながら本を読む。飲み物は持ってこなかったけれど喉は渇かなかった。スマートフォンに繋いだイヤフォン、そこから聞こえる音に神経を注いでいたから。
「あ、終わった」
読みかけていた本は、どこまで読んだかわからない。イヤフォンから響くのは、夏の終わりを告げるような甲子園のサイレン。小さい頃は人の泣き叫ぶ声に聞こえて怯えていた。今は怖くない。むしろ清々しく感じる。空の果てまで響きそうな音は、甲子園がひどく遠いところにあるのだと思わせた。
その音がやんでしばらく経つと、仰向けに寝転んだ私の顔を影が覆った。片耳のイヤフォンを外せば犬の荒い呼吸音が聞こえて、それから聞き慣れた声音。
「千歳ちゃん、何してんの?」
彼は鹿島大海。拓海の弟で、現在高校二年生。私のひとつ年下だ。
私は上半身を起こしながら、手にしていた本を見せる。
「読書。感想文まだ終わってないから」
「まだ終わってないの!? お盆明けから学校始まるよ」
「だいじょーぶ。ささっと読んで、ささっと感想を書くから。ヤバそうなら結末だけ見ちゃえばいいし」
「うわ、千歳ちゃんらしい……」
大海は読みかけの本をまじまじと眺めたあと、「こんなの読むんだ」と驚いていた。
本には帯がついていて、そこには『女子中高生支持率ナンバーワン、何度読み返しても泣ける青春小説』と書いてある。難病の女の子が男の子と出会って生きる希望を得ていく話らしいけど、数ページしか読んでいないので、泣ける場面まで至っていない。大海が驚いていたように、私には向いていない話だから、真剣に読むかと聞かれれば怪しい。明日にはいい加減な感想文を書いてしまいそうだ。
「それで。大海は何してんの?」
「クワタの散歩」
クワタは、鹿島家で飼っている柴犬だ。拓海と大海が交代で散歩をしていたけれど、拓海が神奈川の高校に行ってしまったので、散歩は大海の仕事になっている。走るのが大好きなクワタの散歩は大仕事で、首からタオルを巻くほど汗だくになってしまう。
「よしよし、クワタお疲れ様。暑い中、大海の散歩に付きあってくれてありがとう」
そう言いながらクワタの頭をわしわしと撫でる。大海は口を尖らせていた。
「ちょっとー! 飼い主はオレなんだけど!」
「どっちも似たようなもんでしょ。大海って犬っぽいし」
「うわ。失礼だよね!?」
性格と外見ひっくるめて、大海は犬のようだと思う。兄である拓海と幼馴染の私、その後ろを追いかけてくるのが大海だ。大海は人懐っこくて可愛らしい。あまり表情を変えない拓海と違って、ぴょんぴょん跳ねたり騒いだり全身で感情を表現する。その上、髪もふわふわの癖毛ときたものだ。高校生になって髪を茶色く染めたときは、チョコレートカラーの小型犬を連想した。そういえば大海の『大』の字も犬に似ている。名前まで隙がない。
クワタはというと、大海より拓海に似ている。よく言えば落ち着いていて、悪く言えば鈍い。大好きな散歩は俊敏に走るけれど、それ以外はのんびりした犬だった。柴犬のちょっととぼけた顔も可愛らしい。元は捨て犬で拓海が拾ってきたけれど、野球好きの父親によって、好きな野球選手から拝借した名前が付けられてしまった。『名前じゃなくて名字じゃん』と鹿島兄弟がぼやいていたけれど、何年も経つうちにクワタで定着している。
そう、野球だ。鹿島家の話をするといつも野球が出てくる。そのことに思いいたると同時に、大海が言った。
「千歳ちゃん、家にいるんだと思ってた」
「なんで?」
「だって今日、兄貴の試合じゃん。島のみんなと一緒に応援まではしないだろうけれど、家でテレビを見てるのかなって。バイトも休みとってたからさ」
「見てない。甲子園に興味ないし」
この島から甲子園出場者が出るのは初めてで、今日の美岸利島はお祭り騒ぎだった。島民は公民館に集まり、大きなスクリーンに甲子園中継を映して、みんなで拓海を応援している。同じ中学だった子や、拓海と共に野球をしていた子も公民館に向かったけど、私は行かなかった。そういう集まりがあると知っても、行く気になれない。
大海は私の隣に腰かける。クワタもしっぽをぶんぶんと振って大人しくしていた。
「兄貴、負けたよ」
「……ふうん」
「地方大会じゃ大活躍だったのにな。甲子園じゃヒット一本も打てないでやんの」
大海の話を聞きながら手にした本をぱらぱらとめくるけど、内容は頭に入らない。句点の丸がボールのように見えた。そんな私の顔を大海が覗きこむ。まんまるの瞳がふたつ、眼前に割りこんだあとでにたにたと笑った。
「兄貴が負けたのに、千歳ちゃん嬉しそうじゃん」
「別に、そんなことないけど」
「えー、嘘でしょー。口元ゆるゆるだよ」
「何言ってんの。勉強のしすぎで目が悪くなったんじゃない?」
「隠さなくてもいいって。千歳ちゃん、昔から兄貴大好きだもんね?」
弟のような存在にからかわれるのは居心地が悪くなるもので、突き放すように大きな音を立てて本を閉じた。それでも大海は食い下がる。
「お。千歳ちゃん、顔真っ赤」
顔は赤いのだろうか。鏡がないからわからないし、確認する気もない。
高校三年生で甲子園出場の夢を叶えた拓海をもちろん応援している。甲子園で優勝してほしいと思った。でも今の心を占めているのは、安堵だ。私は嬉しいのか嬉しくないのか、どちらだろう。自分自身に問いかけ、浮かんだ言葉をそのまま声にのせた。
「拓海が普通の人に戻った気がする」
「何それ。兄貴って人間じゃなかったの?」
「そういう意味じゃなくて。これで終わったんだなって思ったの」
初戦で負けてしまったのに、どうしてか私の心は和いでいる。答えを探すように海へ視線を落としていると大海が言った。
「安心して。高校卒業したら、島に帰ってくるよ。親父の会社を手伝うってさ。わざわざド田舎の美岸利島に戻ってこなくてもいいのになあ。オレなら神奈川に残るのに」
「そのド田舎が好きなんでしょ、拓海は」
「もしかしたら千歳ちゃんのことが好きだから、島に戻ってくるのかもよ?」
大海はにやついて私の反応を窺っている。こういうところはめんどくさい。お行儀よく座っているクワタのほうが可愛く見えるほど。
「拓海が島に戻ってくるのは、叶えてない約束でもあるからじゃない?」
「え? 何それ」
「別に。私、そろそろ帰る――あ」
ヘッドフォンを繋いだままだったスマートフォンのことはすっかり忘れていて、立ち上がった拍子に、体から滑り落ちた。海に落ちるかと思いきや、運よく防波堤の端で止まった。私も大海もほっと息を吐く。
「あぶねー……海に落ちるとこだったよ」
大海がスマートフォンを拾う。表示されたままだった画面が見えてしまったらしく、呆れたように笑った。
「甲子園に興味ないって、嘘じゃん」
表示していた甲子園速報のページによって、私の嘘が見抜かれる。
本当は、読書に身が入らないぐらいに試合が気になっていた。甲子園中継の録画だってした。この時間、テレビの前にいられなかったのは、テレビ越しに拓海の姿を見て、距離の遠さを目の当たりにするのが怖かっただけ。スマートフォンを見なくても大海は気づいていたのかもしれない。拾ってもらったお礼を告げたあとは、恥ずかしくて口を閉ざした。
拓海の試合は終わって、次の試合が始まる。
終わるのは夏だけじゃない。離れていた三年間が、もうすぐ終わるのだ。
彼が島に戻ってきたら、思い描いていた通りの幸せな日々が始まる。私の隣に拓海がいる。きっと。
第二章 青春物語の主役と脇役
高校生の始まりから今日まで、三年しかなかったのに長い時間が経った気がする。振り返ればそれは淋しくて、この日がやってくるのをずっと待ち続けていた。
「今日の千歳ちゃんは気合いが入ってるなぁ」
店長は店にやってくるなり、私をからかう。高校在学中に始めたコンビニのアルバイトは、卒業しても続けていた。特にしたいこともなく、島から出る気もなかったのでちょうどいい。この店がコンビニになる前の個人商店だった頃から通っていて、顔馴染みのおじさんが店長というのも居心地がよかった。
店長の奥さんが従業員控え室から出てきた。エプロンをつけながら、私達に向き直ってにっこりと微笑む。
「髪も染め直したもんねえ?」
「まあ……染めましたけど」
「とっても可愛いわよ。ちょっと明るい色だけど、今時の子ってこんな感じなのかしらね。今日の千歳ちゃんはお姫様みたいよ」
そう言って、奥さんが私の肩を優しく叩いた。言葉はなかったけれど、『頑張れ』というメッセージが伝わってくる。
自分が可愛いとは思っていないけれど、お姫様のようだと言われるのは十八歳になっても嬉しい。特に今日は時間をかけて用意したから、褒められると顔が緩む。
口元がにやけてしまいそうになるのを堪えていると、店長が外を指さした。コンビニのガラス越しに、自転車に乗った大海が見える。
「お。迎えが来てるぞ。そろそろ出発か」
「すみません、途中で抜けることになっちゃって」
「いいのよ。千歳ちゃんのことはよーくわかってるから。私も主人も、千歳ちゃん達のことを応援しているからね」
今日は閉店まで勤務予定だったけれど、わがままを言って途中で抜けることになった。あまり体調がよくないので普段は店に出ない店長の奥さんが、レジ番を代わってくれたのだ。申し訳なさを感じつつその顔を見ると、奥さんがにっこりと微笑んだ。
「頑張ってね。応援してる」
「……はい!」
「おーい、千歳ちゃん。そろそろ行くよー」
自動ドアが開いて、滑りこむようにやってきた大海が言う。大海もこのコンビニでバイトをしているけれど、今日は休みだ。店長が「お前が代わりに働いてもいいぞ」なんて大海をからかっている間に、私は控え室に戻った。
着替え終わって大海と合流する。自転車に乗って、港を目指す。近づけば近づくほど潮風が濃くなって、胸の奥が痛くなる。海鳥の鳴き声に波の音。いつもと変わらない春の景色が、今日はひときわ輝いて見えた。
「あれ。もう着いてるじゃん」
港に着いて、大海が言った。港は普段よりも島民が集まっていて騒がしい。それは、美岸利島初の甲子園出場を果たしたヒーローを出迎えようとしているためだ。
人混みの向こうに連絡船が着いていた。群がる人を押しのけてまで船に近寄る気になれず、私は少し離れたところからそれを見つめる。自転車から降りてハンドルを握りしめると、手に力が入りすぎてべたついていた。
最近の美岸利島は観光客が増え、移住者も多くなった。なのに北海道本島との連絡船は相変わらず一日一本なので、乗船客はそれなりに多い。
下りてくる人の顔を確かめ、拓海が現れるのを待つ。そして、待ち望んでいた姿が現れた。
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