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その3

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 グレンの姿を全く見ていないことに気付いたのは、地球に到着してから一週間後のことだった。
 俺たちの滞在予定は二週間。行きずりの女を何人か食べてお金を貰って、そこらの安宿を二人で二週間分前払いした。そこまでは一緒だった。
 食事に行く時間なんて気分によって全然違うし、グレンという男は妙に生真面目で、よく食事でもないのに街をウロウロしたり、この星の本だとかパソコンだとかを調べたりしていたから、余計宿に居る時間が少なかった。
 でも、今にして思えば、グレンを見たのなんて精々最初の3日までだったように思う。きっとあの時から、グレンは彼女の元に居たのだろう。

「こんばんは、お嬢さん。今宵は月が綺麗ですね」
 あの日。俺とかいうサキュバスの人生が大きく変わってしまった、運命の日。窓枠からかけた言葉にくるりと振り返った女は、本当に可愛らしかった。
 屋敷の前を通りかかったのは単なる偶然だ。どんな文明だろうと大抵は金持ちの方が健康体だから、ある程度狩場は絞られつつあったし、あの家は偶然窓が開いていた。そこから女の子の美味しそうな匂いがして……今にして思えば、一瞬、グレンの匂いもした気がする。
 ともあれ、俺はあの屋敷の窓枠に降り立った。最高の決め台詞はシェオルを出る前に、俺らのリーダーが決めたものだ。この言葉が本当にカッコイイのかなんて、異星種族の俺たちには知る由もないけれど。
「あ、えっと……あなた、は……」
 窓際に立っていた女が一歩、後ずさる。
 綺麗な女だった。艶やかな黒髪に、真っ白な肌。身体は細く、けれども引き締まった肉は健康体そのものだ。
 こちらを見つめる彼女の頬は、すでに紅潮しつつある。
「私はあなたに会うためだけに、やってきたんだ。今夜だけ……この私の腕に、あなたの身を預けては貰えないだろうか」
 宝石のような黒い瞳が、期待を孕んで瞬いた。
(こういう女は美味い、んだよなあ)
 地球、ないし日本に暮らす知的生命体、人間は、宇宙の果てに残された未開の金山であった。先遣隊としてきた甲斐あって、この10日は本当にいい思いばかりだ。ここいらの女はみんな綺麗で可愛くて性経験が少なくて、母星での暮らしなんて嘘のようである。いっそこの星に永住してしまえれば、なんて、ここに来て何度思ったことだろう。
 ニコラは部屋に入った。髪が少し短くなって、彫りが浅くなった気がするが、自身の容姿は存外変わらない。そっくり別人種になってしまうようなことも多い中で、自分本来の姿からの変化が少ないというのは、やはり誇らしい気持ちになるものだ。
 そっと女を抱き寄せて、キスをする。女は何も言わず、さりとて抵抗もしなかった。
(うま……)
 舌と舌が絡み合ってすぐに、精気の奔流が身体に流れ込んでくる。
 いや、美味いなんてもんじゃない。絶品だ。今まで食ってきた地球の女の中でも飛び抜けて、質も、量も凄まじい。
 まるで酒にでも酔うみたいに頭がクラクラして、心地よかった。腹が満たされていく。すごく幸せな気持ちになる。それで、それで……俺はその場に座り込んだ。
「……あり?」
 すぐに立ち上がろうとしたら膝がグラグラ笑って、またすぐに、ぺたんと尻餅をつく。もはや平衡感覚さえ怪しく、油断したら床に倒れてしまいそうだ。
(なんだこれ……キスしただけ、なのに)
 動揺は更なる混乱をも呼び寄せた。女の足が見えた、と思えば、ギッと首元で革製品が軋む。じゃらり、冷たい金属音が空気を揺らした。
「え、え?」
 首輪をかけられたのだと、理解するのに時間は掛からなかった。
 白魚のような女の手が離れていく。顔を上げれば、月を背にした女は楽しそうに笑いながら、こちらを見下ろしていた。
(あー……これは、やらかした)
 足が本能的に地面を蹴った。逃げなければ、脳内でかき鳴らされる警鐘に、腹の奥がぐっと縮こまる。
 しかし、逃走は首の鎖によってあっさりと阻まれた。ギンッと鎖が突っ張って、首輪が思い切り喉に食い込んだ。
「ぅげ……っ!」
 自分はまるで宙で感電した羽虫のように、無様にその場へ落っこちた。背後からクスクスと、女の笑い声が聞こえる。
「あーあー、危ないよ、大人しくして」
「くっそ……!」
 首輪に腕をかけるが、少なくとも引っ張ったくらいじゃビクともしない。身体には未だ力が入らず、指は震えていた。首輪になにか金具があるのは分かったが、形は複雑で、焦りも相まって全く外れる気配がない。
 ギシ、背後で足音がした。女がこちらに近付いてくる。
「来るなっ!!」
 振り返りながら咄嗟に叫んだら、女の歩みがピタリと止まった。真っ黒な瞳が静かに、こちらを見つめる。
 思考はただ、疑問符で埋め尽くされるばかりだった。一体この女は何者なんだ? 何が目的だ? どうしてこうなった、何を考えている、なぜ動かない、自分はどうなってしまうんだ?
 時間にすれば数秒、しかし時が止まったかのような緊張感をもって、ニコラは女と睨み合った。
 口を開いたのは、女の方だった。
「……どうして言語が日本語なのかなって、不思議だったんだけど。やっぱりキミたちは“悪魔”ってやつなのかな。自動翻訳みたいな」
「……?」
 なんだ、なんの話をしている。まるで俺たちの存在を知っている、みたいな……。
「これ、キミのお友達?」
 女は部屋着のポケットから電子端末を取り出した。スマホ、とか言うやつだ。この星の女はみんな持っている。女が画面をいじるとすぐ、それから音が漏れ出した。
『ああっ、はあ、やだ、やだあ、あっあっ』
「……え?」
 甘く、蕩けた男の声。
 ああ、信じられない。だが自分は確かに、その声を知っていた。こんな風に掠れて上擦った喘ぎ声なんて聞いたことがないけれど……間違いない。それは確かに、一週間前から姿の見えないサキュバスの同胞、グレンの声だった。
 画面がこちらに向けられる。薄暗い部屋のベッドの上で、淫らに尻を突き出す男の姿が、そこには映っていた。
『はな、さん、はなさ……』
『うんうん、撮ってるよ。さ、カメラに向かってオネダリしな?』
『挿れて……挿れてくださいぃ……お願い、しま……』
 ゆっくりと彼に近付いていったカメラは、今や白濁にまみれた臀部を大写しにしている。うつ伏せで尻を高く上げた男は自分の孔を自分の指で広げていて、不規則に痙攣するピンクの腸壁を、カメラはハッキリと捉えられていた。
『こうかな?』
 細く長い女の指が、二本、孔の中へ入っていく。
『あっ、あっあ、そ、だけど……っゆび、じゃなくてぇ……』
 女の指がグリグリと腹側を押すと、男は肩を竦めてか弱く身体を震わせた。
『なくて? なにがほしいのか、教えて?』
『はなさんの、おちんちん、挿れて、挿れて、ほしいぃ、の、奥までぇ……』
『はーい、いい子だね』
 楽しそうな女の声が響く。
 カメラは再び移動して天井を映した。置いたのだ、両手を使うために。これから何が起こるかなんて、想像するまでもない。
『ひぁ、あっ、あああんっ!』
 歓喜の悲鳴が響いた。そして、女の笑い声が聞こえる。
『まだ半分だよ、奥まで欲しいんでしょ? そーれっ』
『あぁっ、だめっ、まっ、ああ゛あ゛あっ、ああっ』
 画面に女の指が映って、カメラが動く。画面に映された身体はガクガクと痙攣し、揺れる男性器からは止めどなく白濁が溢れ出した。
『はあ゛っ、あっ、あー、あっ、んああぁ』
 声に合わせて、精液が出る、出る、出る……。
 ゴクリと生唾を飲み込んだ。グレンの中は精気でいっぱいなのだ。こんなに出してもまだ快感が収まらないほど。無限の快楽に溺れて正気を失ってしまうほど。一体どれだけの精気を注ぎ込まれたら、こんなことになるのだろう。
 やがてグレンの声は掠れて聞こえなくなっていった。そうして射精の勢いも止まりかかる頃、グレンの身体が崩れ落ちる。カメラには彼の後頭部を撫でる女の腕が映っていた。それから、彼の首にはまった赤い首輪と、無骨な鎖も。
『また気絶しちゃったの? キミはすぐトんじゃうねえ、ふふ』
 そこで、動画は終わった。
 女は端末を手元に引き戻してポケットに入れると、中腰になってこちらに顔を近付ける。
「この時は妖怪の類かな?って思ってたから好き放題してたんだけど、どーも精液のせいだって気付いてね、3日くらいかかっちゃった。この子はその間の記憶がほとんどないみたいだけど……。安心してね、もう分かってきたからさ。キミはここまで酷くしないよ」
 そう言って、女はまるで最高の玩具を見つけた子供みたいに、無邪気に笑って見せた。
「……お、お前……お前、なんだよ……なんで、こんな」
 後ずさろうとするも、首の鎖はもう完全に突っ張ってしまっている。もう自分にこれ以上の逃げ場はない。
 ニコラは必死に肩を竦めた。どうにか逃げられないかと床を地面で引っ掻いた。しかしそれらと同時に、自身の心臓がドクドクと脈打っているのにも、気が付いていた。
「試してみたいことがあるの」
 女が言う。
「射精して精気ってやつを外に出してるんだよね? じゃあ出せないとどうなるんだろうって思って」
「……え? なにを……」
「さっきの子で試したら一発で吐いちゃってさ~。キミは、どうなるのかな」
 女はそういうと、サイドテーブルの引き出しを開けて何かを取り出した。一つは、手錠。革製の、いかにもな風貌の重厚な手錠だ。
 そしてもう一つは、リングである。それもひとつではなくて、三つの輪が繋がったような、不思議な形のリング。指輪にしては大きく、ブレスレットにしては小さい。こんな話の流れで、目の前の女がそれをどこに嵌める気か分からないほど、自分は馬鹿じゃなかった。
「やっ、やめろ……くるなっ!」
 女は歩みを止めない。振り回した腕はいとも簡単に掴み取られてしまった。掴まれた場所が、ギリ、と音を立てる。
「は、っなせ!」
 暴れると、女は腕を掴んだまま一度身体を起こした。
 俺の首から伸び、巨大なベッドの足に繋がる鎖。今や宙で真っ直ぐに伸びきる鎖。女はそれを、足で思い切り踏み込んだ。
「がっ……!」
 首にガツンと強い衝撃があって、床に倒れ込む。精気でグラグラの頭はたったそれだけの衝撃ですっかり平衡感覚をなくし、どちらが上かもわからなくなる。
「ごめんねえ、暴れると危ないから」
 どこかから女の声が聞こえる。
 掴まれた腕は上に持ち上げられて、分厚い手錠をかけられてしまった。手錠は何かに引っかかっている。腕が下ろせない。
 女は俺の身体を仰向けに転がして、ズボンを下げた。剥き出しになった股間に向かって、先ほど見た不思議な形のリングが迫っていた。
「っい、いや、いやだ、やめて」
「大丈夫、大丈夫。痛くないからね~」
 自分はこんなにも怯え、狼狽しているというのに、女の表情はまるで変わらない。ただにこやかに、なんの迷いもなく、さも当然といった顔でそれを実行しようとしている。
 もう逃げられない。絶望にも近い感覚が、腹の奥から湧き上がって身体を支配していた。
 女の手がペニスを引っ張って、シリコン製のリングをその根本に食い込ませる。輪のうちの一つは睾丸の根元に通り、女は何かを引っ張って、その輪をぎゅっと締め付けた。
「ぎゃっ」
「大げさ~。痛くないでしょ?」
 反射的に身体が丸まって、一瞬呼吸ができなくなる。
 女はコロコロと笑うと、俺の口を自分の口で塞いだ。抵抗しようと思うのに、腕は下ろせず、すぐに女から流れ込む精気で頭が真っ白になっていく。
「んうぅ、う……っあ、は……っ」
「んー、こんなもん? そろそろ出るよね、こっちも元気だし」
 ああ、視界がぼやけてよく見えない。いくら息を吸っても胸が苦しい。それでも、全身がひどく熱くて、体の奥が疼く感覚だけは分かる。
 女が下着を脱ぎ捨てる。女が楽しそうに唇をなめる。女が頬にキスをする。女が……。
「ふふ、じゃあ、いただきまーす」
 それが、始まりの合図だった。
 ぬるり、尻に嫌な感触がした。それは肉を押し除け、内臓の間に割り行って、どこか入ってはいけない身体の奥に無理矢理押し入ってくる。
「あっ、ああっ、やっ、あっ……!?」
 別に、そこへ男性器を受け入れるのは初めてのことじゃあなかった。でも、背筋を駆け上がった電流とか、勝手に仰け反る身体、それらに耐えかねて腰が浮く感覚なんて、この時の自分は知らなかったのだ。
「うんうん、いい感じ」
 女の手が勃ち上がる陰茎をしごく。その甘い感覚は不気味に腹の奥へ伝播して、体内に収まる彼女の“それ”の存在を、これでもかと強調していた。それから、強く根本に食い込むリングの存在も。
「それじゃあいくよー」
「あっ、あっあっ、やだっ、やめて、やめてっ!」
 これから起こることを想像して身が竦む。だがそんな懇願も虚しく、女は容赦なく腰を振り始めた。
「あうっ、あっ、はあぁっ、く、っああ、あ」
 水っぽくていやらしいピストンの音が部屋に響く。ひと突きごとに全身へ快楽が押し広げられていって、指先がビリビリと痺れた。
 畜生、こんな感覚知らない。捕食者であるはずの自分が、周到に獲物をたらし込んできたはずの自分が、性の頂点に君臨するはずの自分が、たった1匹の他種族からの精気を受け止めきれずに震えているなんて。こんなもの知らない。こんなこと、ありえない!
「むりっ、むりいぃいっちゃうぅぅ」
「私も、そろそろ、でそ、かなっ、と」
 女はそう言って、その長い男根を奥へ深々と突き刺した。それだけでも気が飛びそうなほどなのに、そこから、熱くて濃い、まるでマグマのような精気が溢れ出してくる。
「っん、ぃいいい! あっ、ああっ、あ、っが、はああぁ、あっ、あっ!」
「うふふ、腰振ってもなんにも出ないよ~」
 身体がガクガクと痙攣して腰が揺れる。
 快感は確かに脳天へ突き上がったが、何かが腹の中で堰き止められて、暴れ狂っているのが分かった。本当は外に出て行くはずだった、出したくて出したくて仕方がない何か。未知の生物が体内を蹂躙するような、泣き出したくなる感覚。
「ゔぁ、あっ、はあっ、あ、う」
「まだ始まったばっかりだよ? 頑張れ~」
「やだっ、やだあ、もうとって、とってえ」
「うーん、そうだなあ」
 女のピストンが再開される。それももう、先ほどとは訳が違った。体内に吐き出された劇薬のような精気の塊が、腹の中で撹拌されて、腸壁にすり込まれて、ぐじゅぐじゅと最悪な音を立てるのだ。
「あーっ! あっ、ひっ、ああぁいくいぐいぐ」
「いいよいいよ、たくさんいきな」
「もうやだ、もうやだあ死んじゃうぅ」
 ぶんぶん首を横に振ってもがいたら、女は再び、こちらのペニスを握り込んだ。そしてそれを上下にしごき始める。
「あっ!? あ、あぁあ、あっ、だめっ、それだめえ! やだああっ! ああっ!」
 全身がガタガタ震えて絶頂する。いや、もうどこからどこまでが絶頂なのかもわからない。
 重くて鈍い快楽は全身を満たし、しかしそれを発散できない苦しみは鋭く意識に鞭打って、気絶することさえ許されなかった。
「ああっ、あー、ご、ごめんなさ、ごめん、なさい……はあぁ、も、むり、おねがい許してえぇ」
 気付けば、自分は必死に謝罪の言葉を口にしていた。死ぬほど気持ちが良くて、でも死ぬほど苦しくて。一刻も早く解放されたい、許されたい。それだけで頭がいっぱいになる。
 涙ながらの懇願を一体どれだけ続けただろう。ふと、女が頬にキスをした。その感覚さえ、まるで波紋が広がるように全身に甘い快楽をもたらしていく。気付けば女の動きは止まっていた。自分の荒い呼吸音ばかりが、いやに大きく部屋に響いていた。
 女はその手で俺の頭を撫でながら、言った。
「ねーえ、可愛いサキュバスくん。私ね、キミのこと飼いたいなあ。どうだろう」
 ああ、髪の間を指が通り抜ける感覚が、心地いい。
「はあ、あ、んぇ? え? なに……わかん、ない……」
 もっと、もっとたくさん、撫でてほしい。
「君のこと好きだなあって思ってね」
 そう言って、女は今までで一番優しい顔で笑った。そして俺の身体に深く突き刺さる性器をゆっくりと抜き……再び深々と腸の奥へ押し込んだ。
「んぁあああんっ、んっ、ああっ、あ、は、はあ ぁ」
 一度止まっていたことで、さっきまでとはまた異質な快感の波が全身を襲う。まるで身体が溶けていくような、思考も、脳みそさえも溶けてなくなるみたいな、あったかくてなにも考えられなくなる感覚。
 女はゆっくりと抜いていっては、また一番深くまで差し込むことを繰り返した。その一回一回で頭が真っ白になって、まるで身体が宙に浮かんでいくような感覚がする。
「あああぁ、んあぁぅ、ひあ、あー、あ、はは」
「あれ、笑っちゃって。かーわい」
「ふは、あはは、は」
 女の指が頬をつねった。なんだかそれが更におかしくて、笑えてくる。腹が揺れる感覚さえ気持ちがいい。
「はー、もう限界だね、キミ。明らかにおかしくなってるのに、中の吸い上げが、すっごい……これ以上私が出したら、死んじゃうんじゃない?」
「はー、はああ、っん、ああ、はあ、あ」
「もう呼吸するだけで気持ちいいって感じだね。ふふ、じゃあ……今日はこの辺で」
 そう言って女は一際深く、自身の性器を俺の腹の奥へと押し込んだ。それと同時に、ずっとこの熱を堰き止め続けていた輪がペニスの根本からむしり取られる。
「あ゛っ、ひあっ、ああぁあっ」
 この行為が始まってからずっと繰り返しているように、全身が一本の縄みたいに波打って痙攣した。でも今や、身体の奥で煮えたぎる熱を堰き止めるものは何もない。
 女は容赦なく性器をぐりぐりと押し込み、俺は自分でも聞いたことのない甲高い悲鳴を上げて、白濁は弧を描いて自分の頬にまで飛んできた。女はやはり、楽しそうに笑っていた。
「すごーい。たーまやー」
「はあぁっ、うあ、はっ、あぁ、あ……」
 尿道を、尿とは違う粘性の液体が駆け抜けていく。それと一緒に意識さえ外へ引き摺り出されていくようで、自分はゆっくりと気を失っていった。かろうじて覚えているのはとにかく涙が出るほど気持ちがよくて、もう全部がどうでもいいやって、思ったことだけだ。
 そうして、俺はこの女に捕まった。あれからもう、三週間になる。



   ×       ×



 現在 夕方 神崎家の屋敷内

 じゃらり、じゃらり、鎖の音が廊下に響く。
 ニコラは1人、屋敷の廊下を歩いていた。庭いじりは思った以上に大変でほとんど進まなかったけれど、気分は悪くない。
 汗をかいたからシャワーを浴びた。浴室で裸になったその瞬間だけは、首輪も外した。
 ちょっと金具を引っ張れば、この首輪は外れる。首輪なんてものは正直邪魔であるし、ぶら下がる鎖は身体を動かすたびにジャラジャラと音を立てて耳障りだ。それでも、自分はこの屋敷でこの首輪を外さない。外す気もない。
 ニコラは扉の前で立ち止まり、鍵を開けた。ノブに手をかけ扉を開ければ、そこでは昨日花に捕まったばかりの新入りサキュバスが、恨めし気にこちらを睨んでいた。
「ちーす」
「……」
 返事はない。どうやらすっかり嫌われてしまったらしい。
 彼は今朝見た時のまま、首輪と手錠に拘束されて、ただ静かにベッドの真ん中で座り込んでいた。
 だが、ずっとそうしていたわけでもなさそうだ。ここからでも彼の首元が痛々しく赤らんでいるのは容易に見て取れる。これだけの時間放置されて、暴れずにはいられなかったのだろう。
「だーいじょうぶだって、何もしないから。少なくとも今はね。俺一人だし」
「……何をしにきた」
「忠告しにきたの」
 扉を背に寄りかかる。彼の猜疑心に満ちた目と来たら、眼力だけで人を殺せそうだ。
「あのね、逆らうだけ時間の無駄だって。あんただって知ってるでしょ? 化け物だよあの女。俺らじゃ逆らえない、分かるだろ」
 彼は、ハン、とこちらの言葉を鼻でせせら笑った。
「あの女に言われてきたのか?」
「……違うけど」
「ご苦労なことだな。奴隷の身というものは」
 そう言ってクツクツと、意地悪く喉を鳴らす。最早こちらとは目も合わせない。
 ニコラは扉から背を離した。
「あんたさあ……あの星で幸せだったクチ?」
「……なに?」
 彼の視線がこちらを向く。紫の目に一歩、また一歩、近付きながらニコラは言った。
「あの星で産まれて、生きてきた時間がそんなに良かったかって訊いてんの」
「……そん、なの」
「違えよなあ」
 彼の返答を低い声で遮る。
 ふわり、足が宙に浮いた。自分の影が彼に落ちる。訝しげに眉を潜める彼を見下ろしながら、口を開いた。
「俺たちの肩身なんてサイアクに狭くてよ、不器用な奴から死んでったじゃん。なんでよりにもよってこんなサイアクな種族に生まれちまったんだって、でもそのサイアクな息子を殺さないでくれた母ちゃんに死ぬほど感謝して、でも死ぬほど情けなくて、女に生まれてればー、とかさあ……。そう言う人生だったんじゃねえのか? 俺らはよ」
「っ違う、違うだろ、僕は」
 鎖が揺れて金属音がする。俺のじゃない。目の前で動揺する、彼の鎖だ。
「あはは、頑張れば報われるって? いつか認められる、幸せになれる。本当にそんなこと信じてんのかアンタ? それが叶うとして何百年後だ。そのあるかも分かんねえ男サキュバスのホコリとソンゲンとやらのために、石投げられながら飛び回って死ぬのが俺たちの幸せかよ!」
「うるさい黙れ!」
 今度こそ、彼の鎖がビン、と突っ張った。怒鳴り声と共に弾かれるように距離を離し、扉のところで着地する。
「俺は違う。あんな肥溜みてぇな腐った星のために死ぬのはごめんだ。……あんただって、すぐにわかる」
 そこまで言って、自分は部屋を出た。扉を出て外付けの鍵を強く閉める。
 扉が閉まるその瞬間まで、否、今なお扉越しに、怒りに満ちた彼の視線がビリビリと肌に伝わるようだった。
 もうニコラはなにも言わなかった。どすどすと屋敷の廊下を踏みしめながら、一人その部屋を後にした。
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