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監禁前夜

二話・忘れられないモノ①

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 さぁさぁ、雨のような温かな雫が降り注ぐ。
 頭頂部から頬を通り、顎の先へと落ちていく。
 心ここにあらずで水の流れを眺めながら、
 アイネは尚も現実を拒み、過去に思いを馳せた。

 されども、無常かな。
 するりと思考は今日へと辿り着く。

 今に至るまでに何があったのか。
 どうして彼と再会して、どうして彼に犯されたのか。
 考えたくない。思いだしたくない。
 けれど、何気ない会話まではっきりと記憶している。

 すべては蒼天鮮やかな昼下がり。
 性の臭いも気配も似合わない、
 花の匂い漂うカフェテラスがすべての始まりだった――。


 ◆◆◆


 平日ど真ん中の水曜日。
 アイネにとってこの日は朝から講義がある憂鬱な日でもあった。昨夜の行為を引きずる重たい身体をのろのろ動かし、眠たい頭をどうにか働かせて大学へ行く。
 進学することを選んだのは己自身で、学ぶことも大学自体も嫌いでは無い。けれど、『シゴト』柄夜更かしが盛んになってしまうこともあり、朝から活動を余儀なくされる水曜日だけはどうにもやる気が出なかった。

(オレの場合、大学に行けてるだけでも凄いことなんだけど……眠いもんは眠いんだよなぁ…)

 午前をどうにか終わらせ、昼食を取りに向かったその道中。
 込み上げてくる欠伸に逆らえず、くぁ…と小さく口を開いた。
 涙に滲んだ視界の端に二つの人影が映る。

「ねぇ見て。アイネくん、欠伸してる! かわい~」
「綺麗な顔してると欠伸もかっこよく見えるのズルいよねぇ」
「いいなぁ」

 アイネと同じ年頃らしい派手な女子が二人、こちらを見ていた。こそこそ話をしているつもりなのだろうが、残念ながら会話ははっきりと耳に届いている。その内容から察するに、彼女らはアイネを実に好意的に捉えているらしい。はて、そんな好意的に見られるようなことをしただろうか? 少しばかり記憶を辿ってみたけれど、アイネとしてはまったく身に覚えがなかった。
 けれど、こういった経験自体は少なくない。勝手で、一方的で、浅はかな幻影。偶像アイドルとも言えるかもしれない。生まれもった素材が良いというだけで人はいとも簡単に好意を寄せる。

  だが、印象が良いというだけなら愛想は振り撒いておいても損はしないだろう。アイネは僅かに表情を緩め、彼女らに向かって手を振ってあげた。想像通りのかしましい黄色い声が響いた。

 何も知らない人は良い。人好きする笑みと好まれる所作、整えられた身嗜み、これらに気を配っておけば何もしなくとも勝手に好印象を持ってくれる。憎まれない、蔑まれない、拒まれない。……認めて、くれる。たとえ、それが彼ら彼女らが身勝手に生んだ虚像でも。
 だから、アイネは愛想という仮面だけは顔から剥がさないように生きてきた。サバサバしている人を好む人にはさっぱりとした返答を、世話を焼きたがる人にはどこか抜けた一面をわざと見せて。すると、何か大きなことを為さずとも人はアイネにころりと懐を見せた。

(……でも、どうせオレを『女』だって思えば手のひらは覆る)

 女性器があるというだけで、それまで様々だった人々の反応はいつも綺麗に二分する。気味が悪いと嫌悪されるか、抱かせてくれと襲われる。それだけだ。顛末は、ずっと同じだった。

 「大丈夫だよ」と嘯いた先輩は空き教室でアイネを押し倒した。
 「どんな貴方も好きよ」と囁いた彼女は真実を知って忌避した。

 所詮、他人などそんなものなのだ。
 だったら、傷付かない程度に愛想を振りまいて付かず離れずくらいがちょうど良い。そうすれば、彼女らもアイネも夢を見れる。彼女たちは『男らしいアイネ』を、アイネは『何も知られていないということ』を。
 何も知らなければ何も無いのと同じなのだ。



 けれど、



 やはり、所詮は――



「……でも、アイネくん。同性愛者らしいよ」
「え?」
「そうなの?」
「あたしの先輩、彼氏寝取られたーって騒いでたもん…」

 新しくやってきた長髪の女子があの二人へそんな話をする。チラチラこちらを窺う瞳は噂については懐疑的ではあるものの、話が完全に嘘だとも思っていない……そんな目だ。
 アイネの脳裡に先日夜を共にした男の姿が思い浮かぶ。そういえばあの男、明日は彼女の誕生日だとか何とか言っていた気がする。自分を抱いた後にお前は幸せに浸る気なのか、と不愉快に思ってそのまま二度目を誘った覚えがあった。
 となると、この女子の言っている先輩とやらが誕生日を壊された張本人なのだろう。哀れなものだ。きっと、その先輩に非は無い。あったとしても、あの浮気内容に勝るものでは無さそうだ。

 彼女らの雑談から意識を逸らし、止めていた歩みを再開させる。
 背中に感じる視線がまたいつもの色を纏っている気がして、どうにも胃がむかついた。
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