6 / 33
第一章
湯気の向こうの始まり
しおりを挟む
夕刻──
傾きかけた夕陽が、中庭を柔らかな金色に染め上げていた。
稽古を終えた門弟たちが、白木の稽古刀を脇に抱えながら、三々五々、道場を後にしていく。
心地よい疲労を背に滲ませ、ひとり、またひとりと門をくぐる背中には──
それぞれの胸に芽生えた、小さな“始まり”の灯が揺れていた。
縁側に腰を下ろした悠臣は、その光景を黙って見送っていた。
その隣には、まだ中庭に立ち尽くす御影直熙の姿がある。
ふと悠臣が横顔に目を向け、穏やかに声をかけた。
「……直熙。帰る場所は、あるのか?」
声音には微笑が滲んでいた。問いというより、寄り添うような気遣いだった。
直熙は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐに小さく肩をすくめて笑った。
「さて……どうでしょうね。あの通り、父上は激昂されてましたし。蔵の中で寝かせてもらえたら、上出来ってとこじゃないですか」
冗談めかした口ぶりではあるが、苦笑と自嘲が滲むその声に、ほんの少しだけ寂しさが混じる。
悠臣は喉の奥でふっと笑い、少しだけ上体を起こして言葉を継いだ。
「──御当主から、通達があった」
直熙の眉がわずかに動く。
「通達、ですか?」
怪訝そうに問い返す直熙に、悠臣はさらりと言葉を落とした。
「明日から俺は、“御影家のお尋ね者”になるらしい」
直熙の目がぱちりと開かれる。
「……え、ちょっと待ってください。それって……まさか脅迫状じゃないですよね?」
半ば本気、半ば冗談で問い返すその声音に、悠臣はわずかに口元を吊り上げて返す。
「さあ、どうだろうな」
掴みどころのない笑みに、直熙は思わず息を呑み──それから慌てたように言葉を重ねた。
「……まさか、本気じゃないですよね?」
しかし悠臣は答えず、淡々と続ける。
「とにかく、今日からお前はここに住め。
美織が部屋の支度を進めている。もう少ししたら案内させよう」
その一言に、直熙の目がさらに見開かれた。
「ええっ……!? 今日から!? 香月家に!?」
耳を疑うように問い返しながら、半ば呆然とした顔をする。
「……というか、泊まる準備も何も……」
言いかけたところで、悠臣が少し困ったように肩をすくめた。
「桐原は、もう屋敷の中で湯をもらって、すっかり寛いでいる」
「……ああ……そういうことですか……」
直熙はようやく察したように息を吐き、額に手をやって苦笑した。
「“三度の飯に熱い風呂”。あれ、本気だったんですね……」
ぼやくように呟いた声には、驚きと呆れ、そしてほんの少しの安堵が入り混じっていた。
そのやりとりを静かに見守っていたのは、縁側の柱の影に立つ──天城朔也だった。
朔也の存在に気づいた悠臣が、今度はその青年へ目を向け、やわらかく声をかける。
「……お前も、ここにいていい。
もちろん、居たくなければ、それでも構わない」
その言葉は強制でも、慰めでもない。
ただ“居場所を差し出す”だけの、静かで真っ直ぐな申し出だった。
朔也はわずかに目を見開き、戸惑いの混じった視線で悠臣を見つめる。
そして──ほんの少し、息を吸ってから、静かに頷いた。
「……いいんですか」
かすれるような声に滲んだのは、意外にも柔らかな温もり。
その笑みは、ごく控えめなものだったが、確かに心からのものだった。
悠臣は、それをすべて分かっていたかのように、ふっと笑って返す。
夕陽が斜めに差し込む縁側には、
言葉よりも確かな想いが、そっと灯されていく。
名も立場も越えた、“受け入れ”と“選択”。
香月の屋敷に、またひとつ──
新たな灯が、静かに灯った。
今日という一日が、
剣と心を携えた者たちの、“帰る場所”を刻み込む。
そして、明日から始まる日々が──
まだ誰も知らない風を纏いながら、そっと動き出そうとしていた。
門弟たちが道場を後にしてまもなく、静まり返った香月邸の門の方から、草履の音が軽やかに響いた。
踏みしめられた石畳に、夕陽が長い影を落とす。
その光の中を、四つの人影がゆっくりと歩いてくる。
縁側に腰を下ろしていた香月悠臣がふと顔を上げると、そこには──近藤勇、土方歳三、沖田総司、伊庭八郎の姿があった。
道中着のままの彼らは、旅の埃も気にする様子はなく、それぞれに剣士としての風格をまとっている。
だがその眼差しにはどこか柔らかな余裕があり、互いを信頼し合う旧知ならではの穏やかな空気を漂わせていた。
「悠臣くん!いやぁ、いいものを見せてもらった!」
開口一番、近藤が少年のような笑顔で声を弾ませた。
その無邪気さに、悠臣は肩をすくめながらも、ふっと口元を緩める。
それは、道場主という仮面を脱いだ、素の香月悠臣としての表情だった。
「……お越しいただき、ありがとうございます。途中で帰られるかと思っていたのですが」
「何言ってる!最初はちょっと覗いて帰るつもりだったんだがな……あれだけの面々を見せられたら、目が離せなかったよ!」
近藤は満足げに笑いながら悠臣の肩をぽんと叩き、熱のこもった眼差しを向ける。
その隣で、土方が鼻を鳴らした。
「……おかげで、こっちはしばらく“激しい稽古”になりそうだ。下手な姿は見せられんと、あれを見て思い知った」
悠臣がやや口元をゆがめるように笑い、軽く返す。
「皮肉ですか?」
「いや、感謝だよ」
土方は一歩踏み出し、悠臣の目をまっすぐに見据えて言葉を継ぐ。
「“素質”じゃなく、“志”を選んだお前の目──確かだった」
それだけを告げると、踵を返して門の方へと歩き出す。
その背は、まるで何かを預けていったかのように、静かに去ろうとしていた。
──そのとき。
「土方様っ、お待ちください!」
奥の廊下から、小走りの足音が響く。
着物の裾を押さえながら、美織がふいに姿を現した。
珍しく慌てた様子で駆け寄る彼女に、土方が眉をひそめる。
「そんなに慌ててどうした。……転んでもしたらどうするんだ」
「も、申し訳ございません……っ」
立ち止まった美織は、恥ずかしそうに頬を染め、深く頭を下げる。
一度視線を落とし──意を決したように顔を上げた。
「土方様と近藤様は試衛館の方には戻られず、武州の方へ向かわれるとお聞きしました。明日、出立されるのでしたら、お部屋をご用意しております。
どうか、今夜はこちらにお泊まりくださいませ」
丁寧な申し出に、近藤が少し驚いたように目を丸くし、土方は静かに目を細めた。
「……どこで、それを聞いた?」
その問いに答えるように、場の空気を和ませるような陽気な声が縁側から飛ぶ。
「兄ちゃんたち~!一旦、家戻るか悩んでるんやったら、泊まってったらええやん!」
見ると、湯上がり姿の桐原篤哉が、手ぬぐいを肩に掛けたまま、縁側に立っていた。
全身から風呂上がりの余韻を漂わせ、両手を元気よく振っている。
まるでこの屋敷の主かのような顔で──。
土方は思わず額に手を当て、やや声を荒げた。
「てめぇはどこの道場主だっ!!」
その見事なツッコミに、沖田が吹き出した。
「ぷっ……本気だったんだ、あれ! “三度の飯に、熱い風呂”ってやつ!」
笑いながらお腹を抱える沖田に、伊庭も堪えきれず口元を押さえる。
悠臣は、そんな和やかな光景を静かに見守っていたが──
ふっと表情をやわらげ、柔らかな声で言う。
「歳さんたちさえよければ、今夜はここでゆっくりしていってください」
その声音に、“道場主”ではなく、ひとりの男──香月悠臣としての人間味がにじんでいた。
近藤は腕を組み、嬉しそうにうなずく。
「じゃあ遠慮なく……お言葉に甘えるとしよう!」
破顔一笑しながら答えたその声に、自然と皆が笑みを浮かべる。
香月の屋敷にまたひと夜の縁が結ばれ──
茜色に染まる空が、そのささやかな始まりを、静かに、優しく見守っていた。
◆
夜の帳がそっと降り始めた頃──
香月邸の一角、広間には仄かな灯火がゆらゆらと揺れ、柔らかな橙の光が畳を優しく照らしていた。
時折、障子の外を冷えた風がすっと通り過ぎるたび、室内のぬくもりがよりいっそう愛おしく思える。
漂うのは、湯気とともに立ちのぼる出汁と柚子の香り。
それはどこか懐かしく、冷えた体と心をじんわりと解いてゆく、秋の夜にふさわしい匂いだった。
畳の上に整えられた低い膳の上には、美織が心を尽くして拵えた温かな料理が、静かに湯気を立てている。
炊きたての白米はつやつやと湯気を立て、香ばしく焼かれた鰆の塩焼きが白磁の皿に映える。
湯葉と春菊のお浸しは、ほろ苦さの中にやさしい香りがあり、秋の深まりを思わせる一品。
季節の根菜──里芋、人参、牛蒡──をふんだんに使った炊き合わせは、ほくほくとした食感とともに滋味深さが口に広がる。
中央の土鍋では、湯豆腐がふわりと揺れている。白い湯気が宵の空気にとけ、部屋の中にあたたかな白いもやをつくりだしていた。
鶏と大根の煮物からは、ほんのりと柚子の香り。吸い物には繊細なしんじょと三つ葉が浮かび、やわらかな口当たりを誘う。
添えられた甘露煮や香の物には栗や銀杏も混じり、ひと皿ごとに秋の名残を感じさせる工夫が光っていた。
器を運ぶ美織の手元は忙しい。それでも彼女の顔には、張りつめた緊張とは異なる、静かな充足がにじむ。
小袖の袖口が揺れ、湯気がふわりと立ちのぼる中──
「開門初日。皆さまの、健やかな一歩となりますように」
誰に告げるでもなく、心の中でそっとそう願いながら、彼女はひとつひとつの椀を丁寧に整えていった。
「……これはまた、ずいぶんと贅沢な晩餐だな」
最初にぽつりと呟いたのは、箸を手にした土方だった。
いつもは厳しい目を光らせている彼ですら、思わず眉を上げるほどの品々だった。
「うわ……見てくださいよ、土方さん。この煮物。味が染みてて……美味しいですよっ!」
「総司…てめぇ、ちゃっかり居座ってんじゃねぇ」
「近藤さんと土方さんだけ、こんなに美味しいご飯にありつけるなんてズルいです」
湯気の向こうで沖田が頬を緩ませ、器をのぞきこむようにして歓声を上げる。
「へぇ、美織ちゃん、こっちの炊き合わせも絶品や……。俺、もう婿に入りたなってきたで」
と、篤哉が肩をすくめてとぼけるように言えば、場のあちこちから笑いがこぼれた。
「おい、てめぇは誰に許可とって言ってんだ」
すかさず土方が眉をひそめて突っ込むが、その声音には珍しく柔らかな笑みが滲んでいる。
「ははっ、仲間にするには腹が減ってちゃ話にならん! だがこの飯なら……うちの連中、全員で弟子入りしかねんぞ」
そう笑いながら声を上げたのは、箸を握った近藤だった。
口の中で煮物を転がし、「うん、うん」と頷きながら、噛みしめるように味わっている。
「なあ悠臣くん。剣の道も立派だが……こうして飯を囲める場所があるってのが、いちばんの“力”だよ。
腹が満ちて、心が緩む。そうしてはじめて、人は隣と笑えるもんさ」
照れくさそうに、それでも真っ直ぐな近藤の言葉に、広間の空気がふわりと和らいでいく。
縁側に近い席では、悠臣が膳を前に、静かにその光景を見守っていた。
昼間の張りつめた空気とはまるで違う、柔らかで、あたたかな時間。
「……良い“始まり”だったな」
と、隣で湯呑を手にした伊庭八郎が、低く、噛みしめるように呟いた。
悠臣はその言葉に小さく頷き、茶を一口含んでから、ゆるやかに言葉を継ぐ。
「“素質”ではなく、“志”を選んだ者たちが集まった──
それだけで、この道場を開いた意味は、あったと感じている」
その静かな声に、隣席の朔也も自然と耳を傾けていた。
そこへ美織が、彼の膳にそっと湯豆腐をよそい、新しい椀を静かに差し出す。
朔也は一瞬、何かを言いかけ──けれど口を閉じ、代わりに微笑んで、小さく礼を述べた。
膳を囲む輪は、徐々に賑やかさを増していく。
湯気と笑い声が広間に満ちて、誰もが自然と肩の力を抜いていた。
華美ではない。だが、心に残る、あたたかな夕餉の席。
そこには、香月家らしい慎ましさと、誰かを想うやさしさが、確かに息づいていた。
それは──香月流という“新しい始まり”を、言葉なくして皆に教えてくれる光景だった。
膳を囲み、料理に舌鼓を打ちながら、あちこちで談笑が弾む。
そのなかで、ふと篤哉が湯呑みを置き、向かいの朔也に声をかけた。
「なぁ朔也。さっきから黙って湯豆腐ばっかつついとるけど──」
「……なんだよ、急に」
箸を止めた朔也が、わずかに眉をひそめる。
「もしかして、美織ちゃんに見とれて食うペース落ちとるんちゃうか? なぁ直熙、見てみ。顔ちょい赤いぞ」
「はっ!? 見とれてなんか──!」
「見とれてたんやな?」
「だから違うって言ってんだろ!!」
湯気の向こうで、朔也が箸を握ったままジタバタと否定する。
その顔は、耳までほんのり赤い。あまりに分かりやすくて、隣の御影直熙は苦笑まじりに肩をすくめた。
「……頼むからわたしに振らないでくれ。なんでこっちに飛び火するんだよ」
「ええやんええやん、直熙も一緒に照れてええんやで? 兄ちゃん、抱きしめたるわ」
「勝手に兄にならないでもらいたいですね」
「よっしゃ、“香月家の婿養子第一候補”争奪戦、今ここで開幕や!」
「誰も参加してませんよ、それ……!」
直熙のツッコミもどこ吹く風。桐原は調子を上げて、にやにや笑い続ける。
朔也は顔を真っ赤にしながら、身を乗り出して怒鳴った。
「お前なぁ! そもそも風呂入った瞬間から婿ヅラしてんだよ!! 飯、もう四杯目だろ!」
「俺の座右の銘はな、“三度の飯と熱い風呂と、心ある縁”や」
「今作っただろ、それ!!」
あまりのやり取りに、沖田が吹き出し、土方は渋茶を啜りながら、呆れたようにぼそりと呟いた。
「……これが、志で選ばれた奴らか」
「歳さん、目が笑ってますよ」
と、伊庭八郎が肩を揺らしてくすくすと笑う。
一方その頃、美織は台所の片隅からその様子を見ていた。
湯気越しににぎやかに笑い合う男たちを見つめながら、ふっと口元を緩め、小さく呟く。
「……賑やかすぎて、お膳の湯気が負けそうです」
けれどその声には、不思議なほどあたたかな色がにじんでいた。
剣を握るだけが、絆ではない。
笑いと想いが交わる場所に、きっと本当の“始まり”がある。
美織は湯気の向こうで語らう人々を見つめながら、そっと胸の内で祈る。
──明日も、皆さまが無事に、剣を振るえる朝でありますように。
やがて夜は深まり、香月邸の一日目の夜は、静けさとあたたかさに包まれて、深く、ゆっくりと更けていった。
傾きかけた夕陽が、中庭を柔らかな金色に染め上げていた。
稽古を終えた門弟たちが、白木の稽古刀を脇に抱えながら、三々五々、道場を後にしていく。
心地よい疲労を背に滲ませ、ひとり、またひとりと門をくぐる背中には──
それぞれの胸に芽生えた、小さな“始まり”の灯が揺れていた。
縁側に腰を下ろした悠臣は、その光景を黙って見送っていた。
その隣には、まだ中庭に立ち尽くす御影直熙の姿がある。
ふと悠臣が横顔に目を向け、穏やかに声をかけた。
「……直熙。帰る場所は、あるのか?」
声音には微笑が滲んでいた。問いというより、寄り添うような気遣いだった。
直熙は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐに小さく肩をすくめて笑った。
「さて……どうでしょうね。あの通り、父上は激昂されてましたし。蔵の中で寝かせてもらえたら、上出来ってとこじゃないですか」
冗談めかした口ぶりではあるが、苦笑と自嘲が滲むその声に、ほんの少しだけ寂しさが混じる。
悠臣は喉の奥でふっと笑い、少しだけ上体を起こして言葉を継いだ。
「──御当主から、通達があった」
直熙の眉がわずかに動く。
「通達、ですか?」
怪訝そうに問い返す直熙に、悠臣はさらりと言葉を落とした。
「明日から俺は、“御影家のお尋ね者”になるらしい」
直熙の目がぱちりと開かれる。
「……え、ちょっと待ってください。それって……まさか脅迫状じゃないですよね?」
半ば本気、半ば冗談で問い返すその声音に、悠臣はわずかに口元を吊り上げて返す。
「さあ、どうだろうな」
掴みどころのない笑みに、直熙は思わず息を呑み──それから慌てたように言葉を重ねた。
「……まさか、本気じゃないですよね?」
しかし悠臣は答えず、淡々と続ける。
「とにかく、今日からお前はここに住め。
美織が部屋の支度を進めている。もう少ししたら案内させよう」
その一言に、直熙の目がさらに見開かれた。
「ええっ……!? 今日から!? 香月家に!?」
耳を疑うように問い返しながら、半ば呆然とした顔をする。
「……というか、泊まる準備も何も……」
言いかけたところで、悠臣が少し困ったように肩をすくめた。
「桐原は、もう屋敷の中で湯をもらって、すっかり寛いでいる」
「……ああ……そういうことですか……」
直熙はようやく察したように息を吐き、額に手をやって苦笑した。
「“三度の飯に熱い風呂”。あれ、本気だったんですね……」
ぼやくように呟いた声には、驚きと呆れ、そしてほんの少しの安堵が入り混じっていた。
そのやりとりを静かに見守っていたのは、縁側の柱の影に立つ──天城朔也だった。
朔也の存在に気づいた悠臣が、今度はその青年へ目を向け、やわらかく声をかける。
「……お前も、ここにいていい。
もちろん、居たくなければ、それでも構わない」
その言葉は強制でも、慰めでもない。
ただ“居場所を差し出す”だけの、静かで真っ直ぐな申し出だった。
朔也はわずかに目を見開き、戸惑いの混じった視線で悠臣を見つめる。
そして──ほんの少し、息を吸ってから、静かに頷いた。
「……いいんですか」
かすれるような声に滲んだのは、意外にも柔らかな温もり。
その笑みは、ごく控えめなものだったが、確かに心からのものだった。
悠臣は、それをすべて分かっていたかのように、ふっと笑って返す。
夕陽が斜めに差し込む縁側には、
言葉よりも確かな想いが、そっと灯されていく。
名も立場も越えた、“受け入れ”と“選択”。
香月の屋敷に、またひとつ──
新たな灯が、静かに灯った。
今日という一日が、
剣と心を携えた者たちの、“帰る場所”を刻み込む。
そして、明日から始まる日々が──
まだ誰も知らない風を纏いながら、そっと動き出そうとしていた。
門弟たちが道場を後にしてまもなく、静まり返った香月邸の門の方から、草履の音が軽やかに響いた。
踏みしめられた石畳に、夕陽が長い影を落とす。
その光の中を、四つの人影がゆっくりと歩いてくる。
縁側に腰を下ろしていた香月悠臣がふと顔を上げると、そこには──近藤勇、土方歳三、沖田総司、伊庭八郎の姿があった。
道中着のままの彼らは、旅の埃も気にする様子はなく、それぞれに剣士としての風格をまとっている。
だがその眼差しにはどこか柔らかな余裕があり、互いを信頼し合う旧知ならではの穏やかな空気を漂わせていた。
「悠臣くん!いやぁ、いいものを見せてもらった!」
開口一番、近藤が少年のような笑顔で声を弾ませた。
その無邪気さに、悠臣は肩をすくめながらも、ふっと口元を緩める。
それは、道場主という仮面を脱いだ、素の香月悠臣としての表情だった。
「……お越しいただき、ありがとうございます。途中で帰られるかと思っていたのですが」
「何言ってる!最初はちょっと覗いて帰るつもりだったんだがな……あれだけの面々を見せられたら、目が離せなかったよ!」
近藤は満足げに笑いながら悠臣の肩をぽんと叩き、熱のこもった眼差しを向ける。
その隣で、土方が鼻を鳴らした。
「……おかげで、こっちはしばらく“激しい稽古”になりそうだ。下手な姿は見せられんと、あれを見て思い知った」
悠臣がやや口元をゆがめるように笑い、軽く返す。
「皮肉ですか?」
「いや、感謝だよ」
土方は一歩踏み出し、悠臣の目をまっすぐに見据えて言葉を継ぐ。
「“素質”じゃなく、“志”を選んだお前の目──確かだった」
それだけを告げると、踵を返して門の方へと歩き出す。
その背は、まるで何かを預けていったかのように、静かに去ろうとしていた。
──そのとき。
「土方様っ、お待ちください!」
奥の廊下から、小走りの足音が響く。
着物の裾を押さえながら、美織がふいに姿を現した。
珍しく慌てた様子で駆け寄る彼女に、土方が眉をひそめる。
「そんなに慌ててどうした。……転んでもしたらどうするんだ」
「も、申し訳ございません……っ」
立ち止まった美織は、恥ずかしそうに頬を染め、深く頭を下げる。
一度視線を落とし──意を決したように顔を上げた。
「土方様と近藤様は試衛館の方には戻られず、武州の方へ向かわれるとお聞きしました。明日、出立されるのでしたら、お部屋をご用意しております。
どうか、今夜はこちらにお泊まりくださいませ」
丁寧な申し出に、近藤が少し驚いたように目を丸くし、土方は静かに目を細めた。
「……どこで、それを聞いた?」
その問いに答えるように、場の空気を和ませるような陽気な声が縁側から飛ぶ。
「兄ちゃんたち~!一旦、家戻るか悩んでるんやったら、泊まってったらええやん!」
見ると、湯上がり姿の桐原篤哉が、手ぬぐいを肩に掛けたまま、縁側に立っていた。
全身から風呂上がりの余韻を漂わせ、両手を元気よく振っている。
まるでこの屋敷の主かのような顔で──。
土方は思わず額に手を当て、やや声を荒げた。
「てめぇはどこの道場主だっ!!」
その見事なツッコミに、沖田が吹き出した。
「ぷっ……本気だったんだ、あれ! “三度の飯に、熱い風呂”ってやつ!」
笑いながらお腹を抱える沖田に、伊庭も堪えきれず口元を押さえる。
悠臣は、そんな和やかな光景を静かに見守っていたが──
ふっと表情をやわらげ、柔らかな声で言う。
「歳さんたちさえよければ、今夜はここでゆっくりしていってください」
その声音に、“道場主”ではなく、ひとりの男──香月悠臣としての人間味がにじんでいた。
近藤は腕を組み、嬉しそうにうなずく。
「じゃあ遠慮なく……お言葉に甘えるとしよう!」
破顔一笑しながら答えたその声に、自然と皆が笑みを浮かべる。
香月の屋敷にまたひと夜の縁が結ばれ──
茜色に染まる空が、そのささやかな始まりを、静かに、優しく見守っていた。
◆
夜の帳がそっと降り始めた頃──
香月邸の一角、広間には仄かな灯火がゆらゆらと揺れ、柔らかな橙の光が畳を優しく照らしていた。
時折、障子の外を冷えた風がすっと通り過ぎるたび、室内のぬくもりがよりいっそう愛おしく思える。
漂うのは、湯気とともに立ちのぼる出汁と柚子の香り。
それはどこか懐かしく、冷えた体と心をじんわりと解いてゆく、秋の夜にふさわしい匂いだった。
畳の上に整えられた低い膳の上には、美織が心を尽くして拵えた温かな料理が、静かに湯気を立てている。
炊きたての白米はつやつやと湯気を立て、香ばしく焼かれた鰆の塩焼きが白磁の皿に映える。
湯葉と春菊のお浸しは、ほろ苦さの中にやさしい香りがあり、秋の深まりを思わせる一品。
季節の根菜──里芋、人参、牛蒡──をふんだんに使った炊き合わせは、ほくほくとした食感とともに滋味深さが口に広がる。
中央の土鍋では、湯豆腐がふわりと揺れている。白い湯気が宵の空気にとけ、部屋の中にあたたかな白いもやをつくりだしていた。
鶏と大根の煮物からは、ほんのりと柚子の香り。吸い物には繊細なしんじょと三つ葉が浮かび、やわらかな口当たりを誘う。
添えられた甘露煮や香の物には栗や銀杏も混じり、ひと皿ごとに秋の名残を感じさせる工夫が光っていた。
器を運ぶ美織の手元は忙しい。それでも彼女の顔には、張りつめた緊張とは異なる、静かな充足がにじむ。
小袖の袖口が揺れ、湯気がふわりと立ちのぼる中──
「開門初日。皆さまの、健やかな一歩となりますように」
誰に告げるでもなく、心の中でそっとそう願いながら、彼女はひとつひとつの椀を丁寧に整えていった。
「……これはまた、ずいぶんと贅沢な晩餐だな」
最初にぽつりと呟いたのは、箸を手にした土方だった。
いつもは厳しい目を光らせている彼ですら、思わず眉を上げるほどの品々だった。
「うわ……見てくださいよ、土方さん。この煮物。味が染みてて……美味しいですよっ!」
「総司…てめぇ、ちゃっかり居座ってんじゃねぇ」
「近藤さんと土方さんだけ、こんなに美味しいご飯にありつけるなんてズルいです」
湯気の向こうで沖田が頬を緩ませ、器をのぞきこむようにして歓声を上げる。
「へぇ、美織ちゃん、こっちの炊き合わせも絶品や……。俺、もう婿に入りたなってきたで」
と、篤哉が肩をすくめてとぼけるように言えば、場のあちこちから笑いがこぼれた。
「おい、てめぇは誰に許可とって言ってんだ」
すかさず土方が眉をひそめて突っ込むが、その声音には珍しく柔らかな笑みが滲んでいる。
「ははっ、仲間にするには腹が減ってちゃ話にならん! だがこの飯なら……うちの連中、全員で弟子入りしかねんぞ」
そう笑いながら声を上げたのは、箸を握った近藤だった。
口の中で煮物を転がし、「うん、うん」と頷きながら、噛みしめるように味わっている。
「なあ悠臣くん。剣の道も立派だが……こうして飯を囲める場所があるってのが、いちばんの“力”だよ。
腹が満ちて、心が緩む。そうしてはじめて、人は隣と笑えるもんさ」
照れくさそうに、それでも真っ直ぐな近藤の言葉に、広間の空気がふわりと和らいでいく。
縁側に近い席では、悠臣が膳を前に、静かにその光景を見守っていた。
昼間の張りつめた空気とはまるで違う、柔らかで、あたたかな時間。
「……良い“始まり”だったな」
と、隣で湯呑を手にした伊庭八郎が、低く、噛みしめるように呟いた。
悠臣はその言葉に小さく頷き、茶を一口含んでから、ゆるやかに言葉を継ぐ。
「“素質”ではなく、“志”を選んだ者たちが集まった──
それだけで、この道場を開いた意味は、あったと感じている」
その静かな声に、隣席の朔也も自然と耳を傾けていた。
そこへ美織が、彼の膳にそっと湯豆腐をよそい、新しい椀を静かに差し出す。
朔也は一瞬、何かを言いかけ──けれど口を閉じ、代わりに微笑んで、小さく礼を述べた。
膳を囲む輪は、徐々に賑やかさを増していく。
湯気と笑い声が広間に満ちて、誰もが自然と肩の力を抜いていた。
華美ではない。だが、心に残る、あたたかな夕餉の席。
そこには、香月家らしい慎ましさと、誰かを想うやさしさが、確かに息づいていた。
それは──香月流という“新しい始まり”を、言葉なくして皆に教えてくれる光景だった。
膳を囲み、料理に舌鼓を打ちながら、あちこちで談笑が弾む。
そのなかで、ふと篤哉が湯呑みを置き、向かいの朔也に声をかけた。
「なぁ朔也。さっきから黙って湯豆腐ばっかつついとるけど──」
「……なんだよ、急に」
箸を止めた朔也が、わずかに眉をひそめる。
「もしかして、美織ちゃんに見とれて食うペース落ちとるんちゃうか? なぁ直熙、見てみ。顔ちょい赤いぞ」
「はっ!? 見とれてなんか──!」
「見とれてたんやな?」
「だから違うって言ってんだろ!!」
湯気の向こうで、朔也が箸を握ったままジタバタと否定する。
その顔は、耳までほんのり赤い。あまりに分かりやすくて、隣の御影直熙は苦笑まじりに肩をすくめた。
「……頼むからわたしに振らないでくれ。なんでこっちに飛び火するんだよ」
「ええやんええやん、直熙も一緒に照れてええんやで? 兄ちゃん、抱きしめたるわ」
「勝手に兄にならないでもらいたいですね」
「よっしゃ、“香月家の婿養子第一候補”争奪戦、今ここで開幕や!」
「誰も参加してませんよ、それ……!」
直熙のツッコミもどこ吹く風。桐原は調子を上げて、にやにや笑い続ける。
朔也は顔を真っ赤にしながら、身を乗り出して怒鳴った。
「お前なぁ! そもそも風呂入った瞬間から婿ヅラしてんだよ!! 飯、もう四杯目だろ!」
「俺の座右の銘はな、“三度の飯と熱い風呂と、心ある縁”や」
「今作っただろ、それ!!」
あまりのやり取りに、沖田が吹き出し、土方は渋茶を啜りながら、呆れたようにぼそりと呟いた。
「……これが、志で選ばれた奴らか」
「歳さん、目が笑ってますよ」
と、伊庭八郎が肩を揺らしてくすくすと笑う。
一方その頃、美織は台所の片隅からその様子を見ていた。
湯気越しににぎやかに笑い合う男たちを見つめながら、ふっと口元を緩め、小さく呟く。
「……賑やかすぎて、お膳の湯気が負けそうです」
けれどその声には、不思議なほどあたたかな色がにじんでいた。
剣を握るだけが、絆ではない。
笑いと想いが交わる場所に、きっと本当の“始まり”がある。
美織は湯気の向こうで語らう人々を見つめながら、そっと胸の内で祈る。
──明日も、皆さまが無事に、剣を振るえる朝でありますように。
やがて夜は深まり、香月邸の一日目の夜は、静けさとあたたかさに包まれて、深く、ゆっくりと更けていった。
4
あなたにおすすめの小説
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる