【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第一章

湯気と夜風と、灯の下で

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 やがて膳が片づけられ、広間に満ちていた湯気と笑い声も、少しずつその熱を手放すようにして、夜の静けさへと溶け込んでいった。

 湯を使い終えた男たちは、それぞれの髪や肌に残る火照りをなだめるように、風の通う縁側へと足を運んでいた。

 庭へと面した広々とした縁側。
 そこで、湯上がりの浴衣に身を包んだ土方、沖田、伊庭、そして悠臣が、並んで腰を下ろしている。

 外気はすっかり冷え込んできていた。十一月の夜風が、肌の表面をやさしく撫でてゆく。
 けれど湯から上がったばかりの身体には、それがひどく心地よく、しばし無言のまま皆、深く息をついた。

「……ふぅ。やっぱり広い湯屋はいいもんですねぇ」

 浴衣の袖をふわりと揺らしながら、沖田が腕を伸ばし、大きくあくびまじりに息を吐く。
 肩を落ち着け、まるで湯治にでも来たかのような顔で空を仰いだ。

「まるで温泉場の気分だな。あれほどの湯を沸かすには、さぞ手間がかかったろう」

 伊庭が隣に座る悠臣に目をやって声をかけると、悠臣は穏やかな笑みを浮かべたまま、そっと頷いた。

「本当はまだ手狭な造りで……いずれは改装したいと考えています。弟子が増えれば尚更ですから」

「贅沢だな」

 ぽつりとそう呟いたのは、湯呑を手にしていた土方だった。
 しかしその声にはとげがなく、湯のぬくもりに和らいだ響きが、ごく自然に滲んでいた。

 そのとき──

 畳を踏むやわらかな足音が近づいてくる。
 ふと視線を上げると、灯籠の明かりの中から、美織がそっと現れた。

 手には湯気を立てる茶器をのせた盆を携えている。
 白い小袖の袖口が風にそよぎ、湯屋明かりの余韻を宿したような温もりをまとっていた。

「夜風でお冷えになりませんように。温かいお茶をお持ちしました」

 優しく微笑みながら、美織は縁側に膝をつき、丁寧な所作で湯呑を一つずつ並べていく。
 その手つきは慣れていて、それでいて一つひとつに心を込めるような静けさがあった。

「ありがとうございます、美織さん。いやぁ……至れり尽くせりですねぇ。ここに住みたくなってきましたよ」

 沖田が冗談めかしながら声を上げると、美織は「まあ」と小さく微笑み、控えめに会釈する。

 伊庭もまた、そっと手を添えて茶を受け取りながら静かに礼を述べた。

「気遣いが過ぎるほどです。……けれど、ありがたい」

 悠臣は、茶を受け取ると、静かに「すまない」とだけ言った。
 けれどその声には、妹を労うような柔らかな響きが宿っている。

 そして──
 土方が湯呑を受け取ろうとした瞬間、美織と視線が合った。

「……手際がいいな」

 彼の口からぽつりとこぼれた短い言葉に、美織は一拍おいて応える。

「ありがとうございます。兄の世話で、自然と鍛えられてしまいましたので」

 わずかに微笑みながらそう返したが、すぐに目を伏せて、盆を持ち直す。

「それでは、ごゆっくりなさってくださいませ」

 一礼を残し、美織は音もなく身を引いた。
 白い足袋の歩みが庭石を踏みしめ、奥の棟へと戻っていく。

 灯籠の灯りがつくる影のなか、歩くたびに裾がやわらかく揺れる。
 時折、光の切れ間に彼女の横顔がちらりと浮かび、そのたびにまた夜の闇へと静かに溶けていった。

 湯呑を手にしたまま、土方の視線はしばらくその背を追っていた。

 無言のまま──

 その隣で、沖田がちらりと横目でそれに気づきかけたが、何も言わずに空を見上げ、ひとつ、欠伸をする。

 伊庭は湯をひとくち含み、ふ、と微笑んだ。

「……静かで、いい夜ですね」

「……ああ」

 短く、けれどどこか深い響きをもって、土方が応じる。

 それ以上、言葉はなかった。
 けれど、それぞれの胸に灯る想いは、風にゆれる灯籠の火のように、しばし夜の帳のなかに淡く灯っていた。

 やがて、茶の湯もぬるみはじめ、縁側に漂っていた談笑の余韻が、少しずつ静寂へと溶けていく。

 湯呑から立ちのぼる柔らかな湯気が、ひんやりと澄んだ夜気にふわりと吸い込まれていった。

 その穏やかな空気の中で、伊庭八郎が手にしていた湯呑をそっと畳に置き、隣の悠臣に目を向けた。

「……そういえば、美織さんはこれからも、この屋敷で暮らされるのですか?」

 口調はあくまで控えめであったが、その声音にはどこか気遣うような温かさがにじんでいた。

 悠臣はほんのわずかに眉を動かし、湯呑の中を見つめたまま、短い沈黙を挟む。

 そしてやがて、どこか苦笑の滲む声で応じる。

「一応、離れを……美織の部屋にしています。けれど……この先どうなるかは、本人次第ですから」

 その言葉の奥には、兄としての複雑な思いがそっと揺れていた。

 すると、湯呑を唇に運びかけていた土方が、鼻を鳴らすようにふんっと低く笑う。

「……母親に釘を刺されてるんだろ。道場の運営には口も手も出すなってな」

 その声音は素っ気なかったが、どこか事情を察した者だけが持つ重みがあった。

 悠臣は肩をすくめるように笑い、頬を指先でぽりぽりと掻く。

「……ええ、まあ。さすがにお見通しですね」

「それで、“離れ暮らし”というわけですか」

 伊庭が微笑を浮かべ、茶をひとくち啜ると、隣で沖田がふいに顔を上げた。

「……土方さんって、ずいぶんと美織さんのこと、よくご存じなんですね」

 それはふとした一言だったが、そこには先ほどの場面──
 美織が縁側を辞して奥へ戻る、その背中をじっと見送っていた土方の姿が重なっていた。

「さっきも……随分、見つめてましたし。土方さんにしては、珍しいほど“入れ込んでる”ように見えましたよ?」

 からかうような響きはなく、むしろ微笑ましげに語られたその言葉に、土方はぴたりと湯呑を置く。

「……うるせぇ」

 短く吐き捨て、視線をわざと逸らす。

 だが、その横顔にうっすらと浮かんだ気恥ずかしさを、三人は敏感に察していた。

 悠臣が、くすりと笑う。

「……それ、歳さんの“癖”なんですよ」

「癖?」

「癖って……何の?」

 沖田と伊庭が揃って小首をかしげると、悠臣は湯呑を軽く回しながら、どこか懐かしむような眼差しで語りはじめた。

「──うちの母は、まあ……武家の出でも、相当厳しい気質の人でして。美織には、小さな頃から礼儀作法や教養を、それこそ容赦なく叩き込んでいたんです」

「……なるほど」

「泣くことは“弱さ”とされて、どれだけ辛くても涙を見せることすら許されなかった。それが、あの子にとってどれだけ息苦しかったか……」

 ふっと言葉を切った悠臣の声に、過ぎ去った日々へのほのかな痛みが滲む。

「そんな時、気にかけてくださったのが、歳さんでした。美織は……誰にも見られない場所で、歳さんの膝の上でこっそり泣いてたんです」

 そう言って、悠臣は静かに微笑む。

 夜気に揺れる灯籠の明かりの中、縁側には再び、ゆるやかな沈黙が降りた。

 誰もが、まだ幼かった美織の面影を胸に思い描いていた。

 そして──

「……あいつは、そんなこと……もう覚えちゃいねぇと思うがな」

 ぽつりと、土方が呟いた。

 それは自嘲とも、諦念ともつかない、静かな独白だった。

 だがその横顔には、ふと訪れた懐かしさと、言葉にできない温もりが確かに宿っていた。

「……膝の上で泣く美織さん、か。可愛かっただろうなぁ」

 ぽつりと、沖田が湯呑を両手に包み込んだまま、縁側の向こうに目をやりながら呟いた。

 湯上がりの火照りが残る頬に、夜風がひやりと心地よく触れる。
 湯気の名残がまだ縁の下に漂い、しんとした空気の中に、その言葉はひときわ柔らかく響いた。

 隣に腰を下ろしていた伊庭もまた、静かに微笑をこぼす。

「悠臣さんも……あんなに可愛らしい妹さんがいたら、気が気じゃないでしょうね。これからは道場に出入りする男たちも増えるでしょうし」

 湯に癒された心地よさの中に、どこかくすぐったような冗談めいた響きが混じる。

「……まぁ、本音を言えば、心配で仕方ありません」

 と、悠臣は小さく笑い、やれやれと肩をすくめた。
 普段はどこか達観したような口ぶりの彼が、家族の話となると年相応の兄の顔を覗かせる。

 すると、沖田がわざとらしく深く頷きながら口を開いた。

「じゃあ、俺も泣きたくなったら土方さんの膝の上で泣きますよ。……子どもの頃みたいに」

「やめろ。重い」

 即座に返した土方の声は低くぶっきらぼうだったが、長年の付き合いを物語るような柔らかな棘があるだけだった。

「では、その座を賭けて──じゃんけん、でしょうか」

 と、伊庭が真面目な顔のままで続け、沖田がぷっと吹き出す。

 悠臣も堪えきれずに喉を震わせて笑い、湯呑を少し傾けた。

「順番待ちか……。じゃあ、先に泣きたい奴、名乗り出ろ」

 土方が半ば本気、半ば呆れ混じりにぼやくと、三人は示し合わせたように同時に手を上げる素振りをし、縁側にあたたかな笑い声が広がった。

 ──冷たく冴えた夜気を、どこか懐かしいような笑いが、そっと包み込んでいく。

そして、沖田がふいに湯呑を口元へと運び、一口だけ茶を含んだ。

 湯気の立つ器を、くるりと指先で転がすように弄びながら、またもとぼけた調子でぽつりと口を開く。

「……その様子だと、美織ちゃんが嫁に行くときは、大変でしょうねぇ」

「……なにがだ」

 すかさず土方が低く返す。
 だが沖田はその問いを受け流すように、にこにこと笑みを浮かべたまま話を続けた。

「だって、あれだけ手のかかる妹さんですよ? 悠臣さんも、そりゃ気が気じゃないでしょうし。
 それに、“土方さんの膝の上で泣いてた美織ちゃん”ですからねぇ……
 お相手の男、婿殿はご挨拶に来るんでしょうかね。……“拷問覚悟”で」

 冗談めかしたその言葉に、伊庭が小さく吹き出した。
 笑いをかみ殺しながら、湯呑を少し持ち上げ、楽しげに言う。

「それは……なかなかの関門になりそうですね。」

「“どれだけ志が立派でも、無事に帰れる保証はない”……そんな噂が立ちそうです」

「やめてくださいよ……」

 悠臣が苦笑しながら肩をすくめた。

「冗談でも、妙に現実味があるから困るんです。……実のところ、美織への縁談、すでに三件ほど来てますから」

 その一言に、茶を啜る三人の手がぴたりと止まる。

「……え、もう?」

「三件も?」

「思ったより多いな……」

 それぞれが驚きと共に口々に漏らすなか、悠臣はゆるく首を振った。

「すべて、香月家に名を通してきた筋の良い家ばかりです。でも、美織自身が『まだ心の準備が……』って言っていて。断りはしませんでしたが、いったん保留にしてもらっています」

 どこか遠くを見るような眼差しで、兄はそう静かに語る。

「本当は……俺も、まだそのときじゃないと思っているんです。
 少なくとも、今のあの子が“誰かの隣に立つ覚悟”を持てるようになるまで……もう少しだけ、傍で見守っていたい」

 伊庭がそっと視線を落とし、湯呑を手元で回す。
 沖田もまた、表情を崩さずに黙って茶を啜る。
 そして土方は、腕を組んだまま、静かに呟いた。

「……あいつは、優しすぎるんだ」

「え?」

 沖田が問い返すより先に、土方はさらに言葉を継ぐ。

「自分より他人のことを先に考える。気づけば、誰かの悲しみに寄り添って、涙を背負って──
 それでも笑っていられる子だ。……そんな女を、半端な覚悟で娶ろうって男がいたら」

 ごとり、と湯呑が置かれる音がした。

「……俺がぶん殴る」

 無表情のまま言い切ったその一言に、一拍の間があって──

「うん。間違いないですね」

「拷問決定ですね」

「婿殿、合掌……」

 三人の声が重なり、縁側に再び笑いが広がった。

 ──夜のしじまのなか、遠くから虫の音が小さく聞こえていた。
 灯籠の灯が、揺れながら縁側の影をさらに長く伸ばしてゆく。

 庭の灯籠が風に揺れ、縁側に伸びる四人の影がわずかに動いた。
 ほんのひととき、静かな余韻が残る。

 湯呑の湯気がやさしく立ちのぼり、秋の夜気に溶けてゆく中──

 その静けさを、何かが破った。

 それまで穏やかだった静寂を破るように、屋敷の奥から突然、ドタドタッ!と床を揺らす慌ただしい足音が響きわたる。

「わああああああっ!! 誰かッ、誰か止めてぇええっ!!」

 甲高い叫び声とともに現れたのは、なぜかしっかりと座布団を抱えた御影直熙。
 その後ろを、顔面蒼白の天城朔也と桐原篤哉が、ほとんど転がるように必死で追いすがってくる。

「直熙っ! そっち行ったら庭に出るぞっ!!」

「もう知りませんっ! 私は……私は生き延びたいだけなんですぅぅぅっ!!」

「ひィィィっ!? また飛んできたァァッ!!」

 直後、空を裂いて一枚の巨大な座布団が、弧を描きながら**シュンッ!**と音を立てて飛来する。

 なんとか直撃を避けながら、三人は縁側を転げるように駆け抜ける。
 その後方から現れたのは、怒涛の勢いで座布団を複数抱えた──“暴れ牛”近藤勇。

「待たんかッ!! 何事も真剣勝負!! 座布団とて例外にあらずッ!!
 逃げ出すとは武士の風上にも置けんぞッ!!」

 目を見開き、満面の笑み。だがその迫力は、もはや洒落にならない。
 “遊び”の域を遥かに超えた気迫と投擲の精度で、近藤は次々と座布団を投げ放つ。

「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ! これはただの、ほんとにただの座布団合戦なんですってばぁっ!!」

「うわぁあっ!? いってぇぇ!? ちょ……これ、剣のスナップ効いてますって!!
 桐原っ!お前が始めた事だろっ!責任を持って収めろっ!」

「この人、何言うても聞いてへんっ! あかん、完全に“覚醒”しとるっ!!」

 桐原が絶叫し、天城が泣きそうな声を上げ、御影は襖の隙間に滑り込もうとする──
 だが、再び飛来した座布団が寸前で炸裂し、三人とも再び一斉に跳ね飛ばされていく。

 その騒動を、縁側からじっと見守っていた土方たち四人は、まるで時が止まったかのように唖然としていた。

「…………」

 長い沈黙ののち──

 土方が額に手を当て、どこか遠い目をしながら、ぽつりと呟く。

「……おい、沖田。あれ……うちの道場主か?」

「いえ、少なくとも“香月道場の主”ではないことは確かですね」

 沖田が吹き出す寸前の顔で、静かに湯呑を口に運ぶ。

「それにしても……」

 伊庭が小さく呟いた。

「さっきまで姿が見えなかったので、もうお休みになったのかと……思ってました」

「……俺もだ」

 悠臣が肩を落とし、深いため息をつく。

「まさか……寝室に入ったのではなく、“座布団”を手に取っていたとは……」

 庭の向こうでは、御影が襖の隙間に滑り込み、朔也が縁側から身を投げるように逃げ、桐原が庭石の陰に隠れるも──
 次の瞬間、近藤の鮮やかな投擲によって三人はまたしても走り出す羽目に。

 ──秋の夜長。香月邸に轟く爆笑と悲鳴と座布団の衝突音。

 つい先ほどまでの静けさはどこへやら、一転して“戦場”と化す屋敷の中。

 ……だが、不思議なことに。
 そのどたばたな騒動ですら、縁側に集う者たちの心をどこか、ほっとあたためていた。

 笑い声。足音。叫び声。
 それらすべてが──この場に確かに「生きている」という、かけがえのない証のように。

 ──ひときわ鋭い悲鳴と、何かが勢いよくぶつかる鈍い音が、屋敷中にこだました。その直後──

「……いったい何事ですの……?」

 縁側の障子がそっと開かれ、灯りに浮かび上がったのは、美織の姿だった。

 薄桃色の寝間着に淡い羽織を重ね、ほどけかけた髪を手櫛で慌ただしく整えながら、きょろきょろとあたりを見回す。
 足元はまだ素足のままで、部屋履きすら履く暇もなかったことが、その慌てぶりを物語っていた。

「美織……すまん、起こしたか」

 縁側に腰を下ろしていた悠臣が顔を上げ、苦笑まじりに声をかける。
 美織は兄の顔を見て、小さく首を振った。

「いいえ……でも、あまりに物音が激しくて。火事か、それとも賊かと……」

 言葉の途中、美織の視線が自然と庭へと向けられる。

 ──そして目に飛び込んできたのは。

 両手に座布団を構えて突進する、異様な気迫を纏った近藤勇の姿。
 その後ろで襖から半身だけ覗かせている御影直熙。庭石の陰で身体を縮こませる桐原篤哉。塀の前で蹲る天城朔也──。

「………………」

 美織はその異様すぎる光景を前に、しばし言葉を失った。

 やがて、そっと口元に手を添え、戸惑い混じりに小さく呟く。

「……あれは、何の……御修行なのでしょうか……?」

 あまりにも真剣な表情で放たれた一言に、縁側にいた四人は噴き出すのをこらえるのに必死だった。

 沖田は肩を震わせながら、懸命に茶を啜り、
 伊庭は咳払いを装って笑いを紛らわせる。
 悠臣は顔を覆ったまま、「違う、あれは修行じゃない」とかすれ声で応じた。

 そして土方だけが、ふっとため息をつくと、低くぼやいた。

「……あれは、“魂の座布団合戦”だ」

「は……?」

 美織がきょとんとした顔で土方に視線を向ける。

「あの男の中では、何かが……きっと戦っているんだろうよ。夜食を断った怒りとか、座布団の硬さへの執念とか……」

「いや、歳さん、それ適当すぎますって!」

 悠臣の突っ込みが入るや否や、ついに沖田が笑い声を漏らした。

 ──だが、笑いの余韻も束の間。

「悪いけど、もらってくで!」

 庭石の陰から飛び出してきた桐原が、まるで忍びのごとく静かに、美織へと一気に距離を詰める。
 そのまま驚く間もなく、彼女の体を軽々と抱き上げた。

「きゃっ……!?」

 美織は突然のことに短く悲鳴を上げ、反射的に桐原の首に両腕を回す。
 ぎゅっと目を瞑ったまま、その顔を彼の胸元に埋めた。

「ど、どうっ!? これでさすがに座布団は飛んで来んやろっ!!」

 まるで勝利の鍵を手に入れた英雄のように、美織を“人質”に抱いた桐原が、縁側へ向けてどや顔を投げかける。

 ──しかし、次の瞬間。

「………………」

 空気が凍りついたかのように、静寂が満ちる。

 近藤が動きを止め、構えていた座布団をゆっくりと下ろす。

「………………ふむ」

 低く唸るような声が落ちたと同時に、土方がすっくと立ち上がり、額に手をやって嘆息した。

「おい……桐原。お前、どの面下げて香月家の娘を“盾”にしてる?」

「……それ、洒落になりませんよ、冗談でも」

 伊庭が淡々と茶を啜りながら告げる。

 悠臣に至っては、一言も発せず、ただ静かに眉をひくりと動かした──その視線だけで、桐原の背筋を凍らせるには十分だった。

「ま、待って待って!? ちがっ……俺、ただ咄嗟に……!!美織ちゃんも楽しめたらなぁ…って……!!」

 じわじわと顔が引きつっていく桐原の腕の中で、美織がそっと顔を上げる。

「……あの、桐原さん?」

「ひっ……は、はいっ……!」

「ご無事を、お祈りしておりますわ」

 にこり、と穏やかな微笑みを浮かべたその瞳は──不思議と、どこかすぅっと底冷えするような静けさを湛えていた。

「うわぁぁああああああっ!!! 誰かっ!! もうほんまにごめんなさいぃぃぃぃっ!!」

 座布団どころではない圧に耐え切れず、桐原は美織をそっと下ろすと、まるで鬼から逃げるような勢いで、元いた庭石の陰へと猛ダッシュで戻っていった。

 その背中を見送って、近藤が鼻を鳴らす。

「……うむ。やはり、座布団の方が潔い」

 もはや沖田は肩を抱えて笑い転げ、
 伊庭も肩を揺らして吹き出し、
 悠臣は額に手を当てながら、呆れたように空を見上げる。
 そして、土方が再び湯呑を持ち直し、ぼそりとひとこと。

「……だから言ったろ。“魂の座布団合戦”だってな」

 ──こうして、香月邸の秋の夜は、静寂をはるか彼方に追いやったまま。
 なおも騒がしく、しかしどこか温かなぬくもりを宿したまま、夜更けへと続いていった。
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