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第一章
湯気と夜風と、灯の下で
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やがて膳が片づけられ、広間に満ちていた湯気と笑い声も、少しずつその熱を手放すようにして、夜の静けさへと溶け込んでいった。
湯を使い終えた男たちは、それぞれの髪や肌に残る火照りをなだめるように、風の通う縁側へと足を運んでいた。
庭へと面した広々とした縁側。
そこで、湯上がりの浴衣に身を包んだ土方、沖田、伊庭、そして悠臣が、並んで腰を下ろしている。
外気はすっかり冷え込んできていた。十一月の夜風が、肌の表面をやさしく撫でてゆく。
けれど湯から上がったばかりの身体には、それがひどく心地よく、しばし無言のまま皆、深く息をついた。
「……ふぅ。やっぱり広い湯屋はいいもんですねぇ」
浴衣の袖をふわりと揺らしながら、沖田が腕を伸ばし、大きくあくびまじりに息を吐く。
肩を落ち着け、まるで湯治にでも来たかのような顔で空を仰いだ。
「まるで温泉場の気分だな。あれほどの湯を沸かすには、さぞ手間がかかったろう」
伊庭が隣に座る悠臣に目をやって声をかけると、悠臣は穏やかな笑みを浮かべたまま、そっと頷いた。
「本当はまだ手狭な造りで……いずれは改装したいと考えています。弟子が増えれば尚更ですから」
「贅沢だな」
ぽつりとそう呟いたのは、湯呑を手にしていた土方だった。
しかしその声にはとげがなく、湯のぬくもりに和らいだ響きが、ごく自然に滲んでいた。
そのとき──
畳を踏むやわらかな足音が近づいてくる。
ふと視線を上げると、灯籠の明かりの中から、美織がそっと現れた。
手には湯気を立てる茶器をのせた盆を携えている。
白い小袖の袖口が風にそよぎ、湯屋明かりの余韻を宿したような温もりをまとっていた。
「夜風でお冷えになりませんように。温かいお茶をお持ちしました」
優しく微笑みながら、美織は縁側に膝をつき、丁寧な所作で湯呑を一つずつ並べていく。
その手つきは慣れていて、それでいて一つひとつに心を込めるような静けさがあった。
「ありがとうございます、美織さん。いやぁ……至れり尽くせりですねぇ。ここに住みたくなってきましたよ」
沖田が冗談めかしながら声を上げると、美織は「まあ」と小さく微笑み、控えめに会釈する。
伊庭もまた、そっと手を添えて茶を受け取りながら静かに礼を述べた。
「気遣いが過ぎるほどです。……けれど、ありがたい」
悠臣は、茶を受け取ると、静かに「すまない」とだけ言った。
けれどその声には、妹を労うような柔らかな響きが宿っている。
そして──
土方が湯呑を受け取ろうとした瞬間、美織と視線が合った。
「……手際がいいな」
彼の口からぽつりとこぼれた短い言葉に、美織は一拍おいて応える。
「ありがとうございます。兄の世話で、自然と鍛えられてしまいましたので」
わずかに微笑みながらそう返したが、すぐに目を伏せて、盆を持ち直す。
「それでは、ごゆっくりなさってくださいませ」
一礼を残し、美織は音もなく身を引いた。
白い足袋の歩みが庭石を踏みしめ、奥の棟へと戻っていく。
灯籠の灯りがつくる影のなか、歩くたびに裾がやわらかく揺れる。
時折、光の切れ間に彼女の横顔がちらりと浮かび、そのたびにまた夜の闇へと静かに溶けていった。
湯呑を手にしたまま、土方の視線はしばらくその背を追っていた。
無言のまま──
その隣で、沖田がちらりと横目でそれに気づきかけたが、何も言わずに空を見上げ、ひとつ、欠伸をする。
伊庭は湯をひとくち含み、ふ、と微笑んだ。
「……静かで、いい夜ですね」
「……ああ」
短く、けれどどこか深い響きをもって、土方が応じる。
それ以上、言葉はなかった。
けれど、それぞれの胸に灯る想いは、風にゆれる灯籠の火のように、しばし夜の帳のなかに淡く灯っていた。
やがて、茶の湯もぬるみはじめ、縁側に漂っていた談笑の余韻が、少しずつ静寂へと溶けていく。
湯呑から立ちのぼる柔らかな湯気が、ひんやりと澄んだ夜気にふわりと吸い込まれていった。
その穏やかな空気の中で、伊庭八郎が手にしていた湯呑をそっと畳に置き、隣の悠臣に目を向けた。
「……そういえば、美織さんはこれからも、この屋敷で暮らされるのですか?」
口調はあくまで控えめであったが、その声音にはどこか気遣うような温かさがにじんでいた。
悠臣はほんのわずかに眉を動かし、湯呑の中を見つめたまま、短い沈黙を挟む。
そしてやがて、どこか苦笑の滲む声で応じる。
「一応、離れを……美織の部屋にしています。けれど……この先どうなるかは、本人次第ですから」
その言葉の奥には、兄としての複雑な思いがそっと揺れていた。
すると、湯呑を唇に運びかけていた土方が、鼻を鳴らすようにふんっと低く笑う。
「……母親に釘を刺されてるんだろ。道場の運営には口も手も出すなってな」
その声音は素っ気なかったが、どこか事情を察した者だけが持つ重みがあった。
悠臣は肩をすくめるように笑い、頬を指先でぽりぽりと掻く。
「……ええ、まあ。さすがにお見通しですね」
「それで、“離れ暮らし”というわけですか」
伊庭が微笑を浮かべ、茶をひとくち啜ると、隣で沖田がふいに顔を上げた。
「……土方さんって、ずいぶんと美織さんのこと、よくご存じなんですね」
それはふとした一言だったが、そこには先ほどの場面──
美織が縁側を辞して奥へ戻る、その背中をじっと見送っていた土方の姿が重なっていた。
「さっきも……随分、見つめてましたし。土方さんにしては、珍しいほど“入れ込んでる”ように見えましたよ?」
からかうような響きはなく、むしろ微笑ましげに語られたその言葉に、土方はぴたりと湯呑を置く。
「……うるせぇ」
短く吐き捨て、視線をわざと逸らす。
だが、その横顔にうっすらと浮かんだ気恥ずかしさを、三人は敏感に察していた。
悠臣が、くすりと笑う。
「……それ、歳さんの“癖”なんですよ」
「癖?」
「癖って……何の?」
沖田と伊庭が揃って小首をかしげると、悠臣は湯呑を軽く回しながら、どこか懐かしむような眼差しで語りはじめた。
「──うちの母は、まあ……武家の出でも、相当厳しい気質の人でして。美織には、小さな頃から礼儀作法や教養を、それこそ容赦なく叩き込んでいたんです」
「……なるほど」
「泣くことは“弱さ”とされて、どれだけ辛くても涙を見せることすら許されなかった。それが、あの子にとってどれだけ息苦しかったか……」
ふっと言葉を切った悠臣の声に、過ぎ去った日々へのほのかな痛みが滲む。
「そんな時、気にかけてくださったのが、歳さんでした。美織は……誰にも見られない場所で、歳さんの膝の上でこっそり泣いてたんです」
そう言って、悠臣は静かに微笑む。
夜気に揺れる灯籠の明かりの中、縁側には再び、ゆるやかな沈黙が降りた。
誰もが、まだ幼かった美織の面影を胸に思い描いていた。
そして──
「……あいつは、そんなこと……もう覚えちゃいねぇと思うがな」
ぽつりと、土方が呟いた。
それは自嘲とも、諦念ともつかない、静かな独白だった。
だがその横顔には、ふと訪れた懐かしさと、言葉にできない温もりが確かに宿っていた。
「……膝の上で泣く美織さん、か。可愛かっただろうなぁ」
ぽつりと、沖田が湯呑を両手に包み込んだまま、縁側の向こうに目をやりながら呟いた。
湯上がりの火照りが残る頬に、夜風がひやりと心地よく触れる。
湯気の名残がまだ縁の下に漂い、しんとした空気の中に、その言葉はひときわ柔らかく響いた。
隣に腰を下ろしていた伊庭もまた、静かに微笑をこぼす。
「悠臣さんも……あんなに可愛らしい妹さんがいたら、気が気じゃないでしょうね。これからは道場に出入りする男たちも増えるでしょうし」
湯に癒された心地よさの中に、どこかくすぐったような冗談めいた響きが混じる。
「……まぁ、本音を言えば、心配で仕方ありません」
と、悠臣は小さく笑い、やれやれと肩をすくめた。
普段はどこか達観したような口ぶりの彼が、家族の話となると年相応の兄の顔を覗かせる。
すると、沖田がわざとらしく深く頷きながら口を開いた。
「じゃあ、俺も泣きたくなったら土方さんの膝の上で泣きますよ。……子どもの頃みたいに」
「やめろ。重い」
即座に返した土方の声は低くぶっきらぼうだったが、長年の付き合いを物語るような柔らかな棘があるだけだった。
「では、その座を賭けて──じゃんけん、でしょうか」
と、伊庭が真面目な顔のままで続け、沖田がぷっと吹き出す。
悠臣も堪えきれずに喉を震わせて笑い、湯呑を少し傾けた。
「順番待ちか……。じゃあ、先に泣きたい奴、名乗り出ろ」
土方が半ば本気、半ば呆れ混じりにぼやくと、三人は示し合わせたように同時に手を上げる素振りをし、縁側にあたたかな笑い声が広がった。
──冷たく冴えた夜気を、どこか懐かしいような笑いが、そっと包み込んでいく。
そして、沖田がふいに湯呑を口元へと運び、一口だけ茶を含んだ。
湯気の立つ器を、くるりと指先で転がすように弄びながら、またもとぼけた調子でぽつりと口を開く。
「……その様子だと、美織ちゃんが嫁に行くときは、大変でしょうねぇ」
「……なにがだ」
すかさず土方が低く返す。
だが沖田はその問いを受け流すように、にこにこと笑みを浮かべたまま話を続けた。
「だって、あれだけ手のかかる妹さんですよ? 悠臣さんも、そりゃ気が気じゃないでしょうし。
それに、“土方さんの膝の上で泣いてた美織ちゃん”ですからねぇ……
お相手の男、婿殿はご挨拶に来るんでしょうかね。……“拷問覚悟”で」
冗談めかしたその言葉に、伊庭が小さく吹き出した。
笑いをかみ殺しながら、湯呑を少し持ち上げ、楽しげに言う。
「それは……なかなかの関門になりそうですね。」
「“どれだけ志が立派でも、無事に帰れる保証はない”……そんな噂が立ちそうです」
「やめてくださいよ……」
悠臣が苦笑しながら肩をすくめた。
「冗談でも、妙に現実味があるから困るんです。……実のところ、美織への縁談、すでに三件ほど来てますから」
その一言に、茶を啜る三人の手がぴたりと止まる。
「……え、もう?」
「三件も?」
「思ったより多いな……」
それぞれが驚きと共に口々に漏らすなか、悠臣はゆるく首を振った。
「すべて、香月家に名を通してきた筋の良い家ばかりです。でも、美織自身が『まだ心の準備が……』って言っていて。断りはしませんでしたが、いったん保留にしてもらっています」
どこか遠くを見るような眼差しで、兄はそう静かに語る。
「本当は……俺も、まだそのときじゃないと思っているんです。
少なくとも、今のあの子が“誰かの隣に立つ覚悟”を持てるようになるまで……もう少しだけ、傍で見守っていたい」
伊庭がそっと視線を落とし、湯呑を手元で回す。
沖田もまた、表情を崩さずに黙って茶を啜る。
そして土方は、腕を組んだまま、静かに呟いた。
「……あいつは、優しすぎるんだ」
「え?」
沖田が問い返すより先に、土方はさらに言葉を継ぐ。
「自分より他人のことを先に考える。気づけば、誰かの悲しみに寄り添って、涙を背負って──
それでも笑っていられる子だ。……そんな女を、半端な覚悟で娶ろうって男がいたら」
ごとり、と湯呑が置かれる音がした。
「……俺がぶん殴る」
無表情のまま言い切ったその一言に、一拍の間があって──
「うん。間違いないですね」
「拷問決定ですね」
「婿殿、合掌……」
三人の声が重なり、縁側に再び笑いが広がった。
──夜のしじまのなか、遠くから虫の音が小さく聞こえていた。
灯籠の灯が、揺れながら縁側の影をさらに長く伸ばしてゆく。
庭の灯籠が風に揺れ、縁側に伸びる四人の影がわずかに動いた。
ほんのひととき、静かな余韻が残る。
湯呑の湯気がやさしく立ちのぼり、秋の夜気に溶けてゆく中──
その静けさを、何かが破った。
それまで穏やかだった静寂を破るように、屋敷の奥から突然、ドタドタッ!と床を揺らす慌ただしい足音が響きわたる。
「わああああああっ!! 誰かッ、誰か止めてぇええっ!!」
甲高い叫び声とともに現れたのは、なぜかしっかりと座布団を抱えた御影直熙。
その後ろを、顔面蒼白の天城朔也と桐原篤哉が、ほとんど転がるように必死で追いすがってくる。
「直熙っ! そっち行ったら庭に出るぞっ!!」
「もう知りませんっ! 私は……私は生き延びたいだけなんですぅぅぅっ!!」
「ひィィィっ!? また飛んできたァァッ!!」
直後、空を裂いて一枚の巨大な座布団が、弧を描きながら**シュンッ!**と音を立てて飛来する。
なんとか直撃を避けながら、三人は縁側を転げるように駆け抜ける。
その後方から現れたのは、怒涛の勢いで座布団を複数抱えた──“暴れ牛”近藤勇。
「待たんかッ!! 何事も真剣勝負!! 座布団とて例外にあらずッ!!
逃げ出すとは武士の風上にも置けんぞッ!!」
目を見開き、満面の笑み。だがその迫力は、もはや洒落にならない。
“遊び”の域を遥かに超えた気迫と投擲の精度で、近藤は次々と座布団を投げ放つ。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ! これはただの、ほんとにただの座布団合戦なんですってばぁっ!!」
「うわぁあっ!? いってぇぇ!? ちょ……これ、剣のスナップ効いてますって!!
桐原っ!お前が始めた事だろっ!責任を持って収めろっ!」
「この人、何言うても聞いてへんっ! あかん、完全に“覚醒”しとるっ!!」
桐原が絶叫し、天城が泣きそうな声を上げ、御影は襖の隙間に滑り込もうとする──
だが、再び飛来した座布団が寸前で炸裂し、三人とも再び一斉に跳ね飛ばされていく。
その騒動を、縁側からじっと見守っていた土方たち四人は、まるで時が止まったかのように唖然としていた。
「…………」
長い沈黙ののち──
土方が額に手を当て、どこか遠い目をしながら、ぽつりと呟く。
「……おい、沖田。あれ……うちの道場主か?」
「いえ、少なくとも“香月道場の主”ではないことは確かですね」
沖田が吹き出す寸前の顔で、静かに湯呑を口に運ぶ。
「それにしても……」
伊庭が小さく呟いた。
「さっきまで姿が見えなかったので、もうお休みになったのかと……思ってました」
「……俺もだ」
悠臣が肩を落とし、深いため息をつく。
「まさか……寝室に入ったのではなく、“座布団”を手に取っていたとは……」
庭の向こうでは、御影が襖の隙間に滑り込み、朔也が縁側から身を投げるように逃げ、桐原が庭石の陰に隠れるも──
次の瞬間、近藤の鮮やかな投擲によって三人はまたしても走り出す羽目に。
──秋の夜長。香月邸に轟く爆笑と悲鳴と座布団の衝突音。
つい先ほどまでの静けさはどこへやら、一転して“戦場”と化す屋敷の中。
……だが、不思議なことに。
そのどたばたな騒動ですら、縁側に集う者たちの心をどこか、ほっとあたためていた。
笑い声。足音。叫び声。
それらすべてが──この場に確かに「生きている」という、かけがえのない証のように。
──ひときわ鋭い悲鳴と、何かが勢いよくぶつかる鈍い音が、屋敷中にこだました。その直後──
「……いったい何事ですの……?」
縁側の障子がそっと開かれ、灯りに浮かび上がったのは、美織の姿だった。
薄桃色の寝間着に淡い羽織を重ね、ほどけかけた髪を手櫛で慌ただしく整えながら、きょろきょろとあたりを見回す。
足元はまだ素足のままで、部屋履きすら履く暇もなかったことが、その慌てぶりを物語っていた。
「美織……すまん、起こしたか」
縁側に腰を下ろしていた悠臣が顔を上げ、苦笑まじりに声をかける。
美織は兄の顔を見て、小さく首を振った。
「いいえ……でも、あまりに物音が激しくて。火事か、それとも賊かと……」
言葉の途中、美織の視線が自然と庭へと向けられる。
──そして目に飛び込んできたのは。
両手に座布団を構えて突進する、異様な気迫を纏った近藤勇の姿。
その後ろで襖から半身だけ覗かせている御影直熙。庭石の陰で身体を縮こませる桐原篤哉。塀の前で蹲る天城朔也──。
「………………」
美織はその異様すぎる光景を前に、しばし言葉を失った。
やがて、そっと口元に手を添え、戸惑い混じりに小さく呟く。
「……あれは、何の……御修行なのでしょうか……?」
あまりにも真剣な表情で放たれた一言に、縁側にいた四人は噴き出すのをこらえるのに必死だった。
沖田は肩を震わせながら、懸命に茶を啜り、
伊庭は咳払いを装って笑いを紛らわせる。
悠臣は顔を覆ったまま、「違う、あれは修行じゃない」とかすれ声で応じた。
そして土方だけが、ふっとため息をつくと、低くぼやいた。
「……あれは、“魂の座布団合戦”だ」
「は……?」
美織がきょとんとした顔で土方に視線を向ける。
「あの男の中では、何かが……きっと戦っているんだろうよ。夜食を断った怒りとか、座布団の硬さへの執念とか……」
「いや、歳さん、それ適当すぎますって!」
悠臣の突っ込みが入るや否や、ついに沖田が笑い声を漏らした。
──だが、笑いの余韻も束の間。
「悪いけど、もらってくで!」
庭石の陰から飛び出してきた桐原が、まるで忍びのごとく静かに、美織へと一気に距離を詰める。
そのまま驚く間もなく、彼女の体を軽々と抱き上げた。
「きゃっ……!?」
美織は突然のことに短く悲鳴を上げ、反射的に桐原の首に両腕を回す。
ぎゅっと目を瞑ったまま、その顔を彼の胸元に埋めた。
「ど、どうっ!? これでさすがに座布団は飛んで来んやろっ!!」
まるで勝利の鍵を手に入れた英雄のように、美織を“人質”に抱いた桐原が、縁側へ向けてどや顔を投げかける。
──しかし、次の瞬間。
「………………」
空気が凍りついたかのように、静寂が満ちる。
近藤が動きを止め、構えていた座布団をゆっくりと下ろす。
「………………ふむ」
低く唸るような声が落ちたと同時に、土方がすっくと立ち上がり、額に手をやって嘆息した。
「おい……桐原。お前、どの面下げて香月家の娘を“盾”にしてる?」
「……それ、洒落になりませんよ、冗談でも」
伊庭が淡々と茶を啜りながら告げる。
悠臣に至っては、一言も発せず、ただ静かに眉をひくりと動かした──その視線だけで、桐原の背筋を凍らせるには十分だった。
「ま、待って待って!? ちがっ……俺、ただ咄嗟に……!!美織ちゃんも楽しめたらなぁ…って……!!」
じわじわと顔が引きつっていく桐原の腕の中で、美織がそっと顔を上げる。
「……あの、桐原さん?」
「ひっ……は、はいっ……!」
「ご無事を、お祈りしておりますわ」
にこり、と穏やかな微笑みを浮かべたその瞳は──不思議と、どこかすぅっと底冷えするような静けさを湛えていた。
「うわぁぁああああああっ!!! 誰かっ!! もうほんまにごめんなさいぃぃぃぃっ!!」
座布団どころではない圧に耐え切れず、桐原は美織をそっと下ろすと、まるで鬼から逃げるような勢いで、元いた庭石の陰へと猛ダッシュで戻っていった。
その背中を見送って、近藤が鼻を鳴らす。
「……うむ。やはり、座布団の方が潔い」
もはや沖田は肩を抱えて笑い転げ、
伊庭も肩を揺らして吹き出し、
悠臣は額に手を当てながら、呆れたように空を見上げる。
そして、土方が再び湯呑を持ち直し、ぼそりとひとこと。
「……だから言ったろ。“魂の座布団合戦”だってな」
──こうして、香月邸の秋の夜は、静寂をはるか彼方に追いやったまま。
なおも騒がしく、しかしどこか温かなぬくもりを宿したまま、夜更けへと続いていった。
湯を使い終えた男たちは、それぞれの髪や肌に残る火照りをなだめるように、風の通う縁側へと足を運んでいた。
庭へと面した広々とした縁側。
そこで、湯上がりの浴衣に身を包んだ土方、沖田、伊庭、そして悠臣が、並んで腰を下ろしている。
外気はすっかり冷え込んできていた。十一月の夜風が、肌の表面をやさしく撫でてゆく。
けれど湯から上がったばかりの身体には、それがひどく心地よく、しばし無言のまま皆、深く息をついた。
「……ふぅ。やっぱり広い湯屋はいいもんですねぇ」
浴衣の袖をふわりと揺らしながら、沖田が腕を伸ばし、大きくあくびまじりに息を吐く。
肩を落ち着け、まるで湯治にでも来たかのような顔で空を仰いだ。
「まるで温泉場の気分だな。あれほどの湯を沸かすには、さぞ手間がかかったろう」
伊庭が隣に座る悠臣に目をやって声をかけると、悠臣は穏やかな笑みを浮かべたまま、そっと頷いた。
「本当はまだ手狭な造りで……いずれは改装したいと考えています。弟子が増えれば尚更ですから」
「贅沢だな」
ぽつりとそう呟いたのは、湯呑を手にしていた土方だった。
しかしその声にはとげがなく、湯のぬくもりに和らいだ響きが、ごく自然に滲んでいた。
そのとき──
畳を踏むやわらかな足音が近づいてくる。
ふと視線を上げると、灯籠の明かりの中から、美織がそっと現れた。
手には湯気を立てる茶器をのせた盆を携えている。
白い小袖の袖口が風にそよぎ、湯屋明かりの余韻を宿したような温もりをまとっていた。
「夜風でお冷えになりませんように。温かいお茶をお持ちしました」
優しく微笑みながら、美織は縁側に膝をつき、丁寧な所作で湯呑を一つずつ並べていく。
その手つきは慣れていて、それでいて一つひとつに心を込めるような静けさがあった。
「ありがとうございます、美織さん。いやぁ……至れり尽くせりですねぇ。ここに住みたくなってきましたよ」
沖田が冗談めかしながら声を上げると、美織は「まあ」と小さく微笑み、控えめに会釈する。
伊庭もまた、そっと手を添えて茶を受け取りながら静かに礼を述べた。
「気遣いが過ぎるほどです。……けれど、ありがたい」
悠臣は、茶を受け取ると、静かに「すまない」とだけ言った。
けれどその声には、妹を労うような柔らかな響きが宿っている。
そして──
土方が湯呑を受け取ろうとした瞬間、美織と視線が合った。
「……手際がいいな」
彼の口からぽつりとこぼれた短い言葉に、美織は一拍おいて応える。
「ありがとうございます。兄の世話で、自然と鍛えられてしまいましたので」
わずかに微笑みながらそう返したが、すぐに目を伏せて、盆を持ち直す。
「それでは、ごゆっくりなさってくださいませ」
一礼を残し、美織は音もなく身を引いた。
白い足袋の歩みが庭石を踏みしめ、奥の棟へと戻っていく。
灯籠の灯りがつくる影のなか、歩くたびに裾がやわらかく揺れる。
時折、光の切れ間に彼女の横顔がちらりと浮かび、そのたびにまた夜の闇へと静かに溶けていった。
湯呑を手にしたまま、土方の視線はしばらくその背を追っていた。
無言のまま──
その隣で、沖田がちらりと横目でそれに気づきかけたが、何も言わずに空を見上げ、ひとつ、欠伸をする。
伊庭は湯をひとくち含み、ふ、と微笑んだ。
「……静かで、いい夜ですね」
「……ああ」
短く、けれどどこか深い響きをもって、土方が応じる。
それ以上、言葉はなかった。
けれど、それぞれの胸に灯る想いは、風にゆれる灯籠の火のように、しばし夜の帳のなかに淡く灯っていた。
やがて、茶の湯もぬるみはじめ、縁側に漂っていた談笑の余韻が、少しずつ静寂へと溶けていく。
湯呑から立ちのぼる柔らかな湯気が、ひんやりと澄んだ夜気にふわりと吸い込まれていった。
その穏やかな空気の中で、伊庭八郎が手にしていた湯呑をそっと畳に置き、隣の悠臣に目を向けた。
「……そういえば、美織さんはこれからも、この屋敷で暮らされるのですか?」
口調はあくまで控えめであったが、その声音にはどこか気遣うような温かさがにじんでいた。
悠臣はほんのわずかに眉を動かし、湯呑の中を見つめたまま、短い沈黙を挟む。
そしてやがて、どこか苦笑の滲む声で応じる。
「一応、離れを……美織の部屋にしています。けれど……この先どうなるかは、本人次第ですから」
その言葉の奥には、兄としての複雑な思いがそっと揺れていた。
すると、湯呑を唇に運びかけていた土方が、鼻を鳴らすようにふんっと低く笑う。
「……母親に釘を刺されてるんだろ。道場の運営には口も手も出すなってな」
その声音は素っ気なかったが、どこか事情を察した者だけが持つ重みがあった。
悠臣は肩をすくめるように笑い、頬を指先でぽりぽりと掻く。
「……ええ、まあ。さすがにお見通しですね」
「それで、“離れ暮らし”というわけですか」
伊庭が微笑を浮かべ、茶をひとくち啜ると、隣で沖田がふいに顔を上げた。
「……土方さんって、ずいぶんと美織さんのこと、よくご存じなんですね」
それはふとした一言だったが、そこには先ほどの場面──
美織が縁側を辞して奥へ戻る、その背中をじっと見送っていた土方の姿が重なっていた。
「さっきも……随分、見つめてましたし。土方さんにしては、珍しいほど“入れ込んでる”ように見えましたよ?」
からかうような響きはなく、むしろ微笑ましげに語られたその言葉に、土方はぴたりと湯呑を置く。
「……うるせぇ」
短く吐き捨て、視線をわざと逸らす。
だが、その横顔にうっすらと浮かんだ気恥ずかしさを、三人は敏感に察していた。
悠臣が、くすりと笑う。
「……それ、歳さんの“癖”なんですよ」
「癖?」
「癖って……何の?」
沖田と伊庭が揃って小首をかしげると、悠臣は湯呑を軽く回しながら、どこか懐かしむような眼差しで語りはじめた。
「──うちの母は、まあ……武家の出でも、相当厳しい気質の人でして。美織には、小さな頃から礼儀作法や教養を、それこそ容赦なく叩き込んでいたんです」
「……なるほど」
「泣くことは“弱さ”とされて、どれだけ辛くても涙を見せることすら許されなかった。それが、あの子にとってどれだけ息苦しかったか……」
ふっと言葉を切った悠臣の声に、過ぎ去った日々へのほのかな痛みが滲む。
「そんな時、気にかけてくださったのが、歳さんでした。美織は……誰にも見られない場所で、歳さんの膝の上でこっそり泣いてたんです」
そう言って、悠臣は静かに微笑む。
夜気に揺れる灯籠の明かりの中、縁側には再び、ゆるやかな沈黙が降りた。
誰もが、まだ幼かった美織の面影を胸に思い描いていた。
そして──
「……あいつは、そんなこと……もう覚えちゃいねぇと思うがな」
ぽつりと、土方が呟いた。
それは自嘲とも、諦念ともつかない、静かな独白だった。
だがその横顔には、ふと訪れた懐かしさと、言葉にできない温もりが確かに宿っていた。
「……膝の上で泣く美織さん、か。可愛かっただろうなぁ」
ぽつりと、沖田が湯呑を両手に包み込んだまま、縁側の向こうに目をやりながら呟いた。
湯上がりの火照りが残る頬に、夜風がひやりと心地よく触れる。
湯気の名残がまだ縁の下に漂い、しんとした空気の中に、その言葉はひときわ柔らかく響いた。
隣に腰を下ろしていた伊庭もまた、静かに微笑をこぼす。
「悠臣さんも……あんなに可愛らしい妹さんがいたら、気が気じゃないでしょうね。これからは道場に出入りする男たちも増えるでしょうし」
湯に癒された心地よさの中に、どこかくすぐったような冗談めいた響きが混じる。
「……まぁ、本音を言えば、心配で仕方ありません」
と、悠臣は小さく笑い、やれやれと肩をすくめた。
普段はどこか達観したような口ぶりの彼が、家族の話となると年相応の兄の顔を覗かせる。
すると、沖田がわざとらしく深く頷きながら口を開いた。
「じゃあ、俺も泣きたくなったら土方さんの膝の上で泣きますよ。……子どもの頃みたいに」
「やめろ。重い」
即座に返した土方の声は低くぶっきらぼうだったが、長年の付き合いを物語るような柔らかな棘があるだけだった。
「では、その座を賭けて──じゃんけん、でしょうか」
と、伊庭が真面目な顔のままで続け、沖田がぷっと吹き出す。
悠臣も堪えきれずに喉を震わせて笑い、湯呑を少し傾けた。
「順番待ちか……。じゃあ、先に泣きたい奴、名乗り出ろ」
土方が半ば本気、半ば呆れ混じりにぼやくと、三人は示し合わせたように同時に手を上げる素振りをし、縁側にあたたかな笑い声が広がった。
──冷たく冴えた夜気を、どこか懐かしいような笑いが、そっと包み込んでいく。
そして、沖田がふいに湯呑を口元へと運び、一口だけ茶を含んだ。
湯気の立つ器を、くるりと指先で転がすように弄びながら、またもとぼけた調子でぽつりと口を開く。
「……その様子だと、美織ちゃんが嫁に行くときは、大変でしょうねぇ」
「……なにがだ」
すかさず土方が低く返す。
だが沖田はその問いを受け流すように、にこにこと笑みを浮かべたまま話を続けた。
「だって、あれだけ手のかかる妹さんですよ? 悠臣さんも、そりゃ気が気じゃないでしょうし。
それに、“土方さんの膝の上で泣いてた美織ちゃん”ですからねぇ……
お相手の男、婿殿はご挨拶に来るんでしょうかね。……“拷問覚悟”で」
冗談めかしたその言葉に、伊庭が小さく吹き出した。
笑いをかみ殺しながら、湯呑を少し持ち上げ、楽しげに言う。
「それは……なかなかの関門になりそうですね。」
「“どれだけ志が立派でも、無事に帰れる保証はない”……そんな噂が立ちそうです」
「やめてくださいよ……」
悠臣が苦笑しながら肩をすくめた。
「冗談でも、妙に現実味があるから困るんです。……実のところ、美織への縁談、すでに三件ほど来てますから」
その一言に、茶を啜る三人の手がぴたりと止まる。
「……え、もう?」
「三件も?」
「思ったより多いな……」
それぞれが驚きと共に口々に漏らすなか、悠臣はゆるく首を振った。
「すべて、香月家に名を通してきた筋の良い家ばかりです。でも、美織自身が『まだ心の準備が……』って言っていて。断りはしませんでしたが、いったん保留にしてもらっています」
どこか遠くを見るような眼差しで、兄はそう静かに語る。
「本当は……俺も、まだそのときじゃないと思っているんです。
少なくとも、今のあの子が“誰かの隣に立つ覚悟”を持てるようになるまで……もう少しだけ、傍で見守っていたい」
伊庭がそっと視線を落とし、湯呑を手元で回す。
沖田もまた、表情を崩さずに黙って茶を啜る。
そして土方は、腕を組んだまま、静かに呟いた。
「……あいつは、優しすぎるんだ」
「え?」
沖田が問い返すより先に、土方はさらに言葉を継ぐ。
「自分より他人のことを先に考える。気づけば、誰かの悲しみに寄り添って、涙を背負って──
それでも笑っていられる子だ。……そんな女を、半端な覚悟で娶ろうって男がいたら」
ごとり、と湯呑が置かれる音がした。
「……俺がぶん殴る」
無表情のまま言い切ったその一言に、一拍の間があって──
「うん。間違いないですね」
「拷問決定ですね」
「婿殿、合掌……」
三人の声が重なり、縁側に再び笑いが広がった。
──夜のしじまのなか、遠くから虫の音が小さく聞こえていた。
灯籠の灯が、揺れながら縁側の影をさらに長く伸ばしてゆく。
庭の灯籠が風に揺れ、縁側に伸びる四人の影がわずかに動いた。
ほんのひととき、静かな余韻が残る。
湯呑の湯気がやさしく立ちのぼり、秋の夜気に溶けてゆく中──
その静けさを、何かが破った。
それまで穏やかだった静寂を破るように、屋敷の奥から突然、ドタドタッ!と床を揺らす慌ただしい足音が響きわたる。
「わああああああっ!! 誰かッ、誰か止めてぇええっ!!」
甲高い叫び声とともに現れたのは、なぜかしっかりと座布団を抱えた御影直熙。
その後ろを、顔面蒼白の天城朔也と桐原篤哉が、ほとんど転がるように必死で追いすがってくる。
「直熙っ! そっち行ったら庭に出るぞっ!!」
「もう知りませんっ! 私は……私は生き延びたいだけなんですぅぅぅっ!!」
「ひィィィっ!? また飛んできたァァッ!!」
直後、空を裂いて一枚の巨大な座布団が、弧を描きながら**シュンッ!**と音を立てて飛来する。
なんとか直撃を避けながら、三人は縁側を転げるように駆け抜ける。
その後方から現れたのは、怒涛の勢いで座布団を複数抱えた──“暴れ牛”近藤勇。
「待たんかッ!! 何事も真剣勝負!! 座布団とて例外にあらずッ!!
逃げ出すとは武士の風上にも置けんぞッ!!」
目を見開き、満面の笑み。だがその迫力は、もはや洒落にならない。
“遊び”の域を遥かに超えた気迫と投擲の精度で、近藤は次々と座布団を投げ放つ。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ! これはただの、ほんとにただの座布団合戦なんですってばぁっ!!」
「うわぁあっ!? いってぇぇ!? ちょ……これ、剣のスナップ効いてますって!!
桐原っ!お前が始めた事だろっ!責任を持って収めろっ!」
「この人、何言うても聞いてへんっ! あかん、完全に“覚醒”しとるっ!!」
桐原が絶叫し、天城が泣きそうな声を上げ、御影は襖の隙間に滑り込もうとする──
だが、再び飛来した座布団が寸前で炸裂し、三人とも再び一斉に跳ね飛ばされていく。
その騒動を、縁側からじっと見守っていた土方たち四人は、まるで時が止まったかのように唖然としていた。
「…………」
長い沈黙ののち──
土方が額に手を当て、どこか遠い目をしながら、ぽつりと呟く。
「……おい、沖田。あれ……うちの道場主か?」
「いえ、少なくとも“香月道場の主”ではないことは確かですね」
沖田が吹き出す寸前の顔で、静かに湯呑を口に運ぶ。
「それにしても……」
伊庭が小さく呟いた。
「さっきまで姿が見えなかったので、もうお休みになったのかと……思ってました」
「……俺もだ」
悠臣が肩を落とし、深いため息をつく。
「まさか……寝室に入ったのではなく、“座布団”を手に取っていたとは……」
庭の向こうでは、御影が襖の隙間に滑り込み、朔也が縁側から身を投げるように逃げ、桐原が庭石の陰に隠れるも──
次の瞬間、近藤の鮮やかな投擲によって三人はまたしても走り出す羽目に。
──秋の夜長。香月邸に轟く爆笑と悲鳴と座布団の衝突音。
つい先ほどまでの静けさはどこへやら、一転して“戦場”と化す屋敷の中。
……だが、不思議なことに。
そのどたばたな騒動ですら、縁側に集う者たちの心をどこか、ほっとあたためていた。
笑い声。足音。叫び声。
それらすべてが──この場に確かに「生きている」という、かけがえのない証のように。
──ひときわ鋭い悲鳴と、何かが勢いよくぶつかる鈍い音が、屋敷中にこだました。その直後──
「……いったい何事ですの……?」
縁側の障子がそっと開かれ、灯りに浮かび上がったのは、美織の姿だった。
薄桃色の寝間着に淡い羽織を重ね、ほどけかけた髪を手櫛で慌ただしく整えながら、きょろきょろとあたりを見回す。
足元はまだ素足のままで、部屋履きすら履く暇もなかったことが、その慌てぶりを物語っていた。
「美織……すまん、起こしたか」
縁側に腰を下ろしていた悠臣が顔を上げ、苦笑まじりに声をかける。
美織は兄の顔を見て、小さく首を振った。
「いいえ……でも、あまりに物音が激しくて。火事か、それとも賊かと……」
言葉の途中、美織の視線が自然と庭へと向けられる。
──そして目に飛び込んできたのは。
両手に座布団を構えて突進する、異様な気迫を纏った近藤勇の姿。
その後ろで襖から半身だけ覗かせている御影直熙。庭石の陰で身体を縮こませる桐原篤哉。塀の前で蹲る天城朔也──。
「………………」
美織はその異様すぎる光景を前に、しばし言葉を失った。
やがて、そっと口元に手を添え、戸惑い混じりに小さく呟く。
「……あれは、何の……御修行なのでしょうか……?」
あまりにも真剣な表情で放たれた一言に、縁側にいた四人は噴き出すのをこらえるのに必死だった。
沖田は肩を震わせながら、懸命に茶を啜り、
伊庭は咳払いを装って笑いを紛らわせる。
悠臣は顔を覆ったまま、「違う、あれは修行じゃない」とかすれ声で応じた。
そして土方だけが、ふっとため息をつくと、低くぼやいた。
「……あれは、“魂の座布団合戦”だ」
「は……?」
美織がきょとんとした顔で土方に視線を向ける。
「あの男の中では、何かが……きっと戦っているんだろうよ。夜食を断った怒りとか、座布団の硬さへの執念とか……」
「いや、歳さん、それ適当すぎますって!」
悠臣の突っ込みが入るや否や、ついに沖田が笑い声を漏らした。
──だが、笑いの余韻も束の間。
「悪いけど、もらってくで!」
庭石の陰から飛び出してきた桐原が、まるで忍びのごとく静かに、美織へと一気に距離を詰める。
そのまま驚く間もなく、彼女の体を軽々と抱き上げた。
「きゃっ……!?」
美織は突然のことに短く悲鳴を上げ、反射的に桐原の首に両腕を回す。
ぎゅっと目を瞑ったまま、その顔を彼の胸元に埋めた。
「ど、どうっ!? これでさすがに座布団は飛んで来んやろっ!!」
まるで勝利の鍵を手に入れた英雄のように、美織を“人質”に抱いた桐原が、縁側へ向けてどや顔を投げかける。
──しかし、次の瞬間。
「………………」
空気が凍りついたかのように、静寂が満ちる。
近藤が動きを止め、構えていた座布団をゆっくりと下ろす。
「………………ふむ」
低く唸るような声が落ちたと同時に、土方がすっくと立ち上がり、額に手をやって嘆息した。
「おい……桐原。お前、どの面下げて香月家の娘を“盾”にしてる?」
「……それ、洒落になりませんよ、冗談でも」
伊庭が淡々と茶を啜りながら告げる。
悠臣に至っては、一言も発せず、ただ静かに眉をひくりと動かした──その視線だけで、桐原の背筋を凍らせるには十分だった。
「ま、待って待って!? ちがっ……俺、ただ咄嗟に……!!美織ちゃんも楽しめたらなぁ…って……!!」
じわじわと顔が引きつっていく桐原の腕の中で、美織がそっと顔を上げる。
「……あの、桐原さん?」
「ひっ……は、はいっ……!」
「ご無事を、お祈りしておりますわ」
にこり、と穏やかな微笑みを浮かべたその瞳は──不思議と、どこかすぅっと底冷えするような静けさを湛えていた。
「うわぁぁああああああっ!!! 誰かっ!! もうほんまにごめんなさいぃぃぃぃっ!!」
座布団どころではない圧に耐え切れず、桐原は美織をそっと下ろすと、まるで鬼から逃げるような勢いで、元いた庭石の陰へと猛ダッシュで戻っていった。
その背中を見送って、近藤が鼻を鳴らす。
「……うむ。やはり、座布団の方が潔い」
もはや沖田は肩を抱えて笑い転げ、
伊庭も肩を揺らして吹き出し、
悠臣は額に手を当てながら、呆れたように空を見上げる。
そして、土方が再び湯呑を持ち直し、ぼそりとひとこと。
「……だから言ったろ。“魂の座布団合戦”だってな」
──こうして、香月邸の秋の夜は、静寂をはるか彼方に追いやったまま。
なおも騒がしく、しかしどこか温かなぬくもりを宿したまま、夜更けへと続いていった。
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