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第一章
香袋ひとつ、心のうちに
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香月邸の門が、静かに、控えめな音を立てて閉じる。
冬の朝靄が薄らと残る中、まだ冷たい空気の中に、門を閉ざすその音はさながら余韻の終止符のように響いた。
背後からは、木刀が交わる鋭い音が断続的に響いてくる。
庭を叩く踏み込みの気配、掛け声、遠くから聞こえる鳥のさえずり──それらが、冬晴れの冴えた空へと溶けていく。
表通りに出た四人──近藤勇、土方歳三、沖田総司、伊庭八郎は、並んで静かに歩き出していた。
道中着の裾をさばく仕草には武士らしい所作が滲んでいたが、その足取りには、どこかしら後ろ髪を引かれるような名残の気配があった。誰も口に出さぬまま、それぞれが邸内で過ごした時間を反芻しているようだった。
「……名残惜しいな。もう一、二日ぐらい、泊まっていけた気もするんだが」
と、近藤がぽつりとこぼす。
その声音には、旅路に向かう者らしからぬ柔らかさが宿っていた。
夜の縁側で交わした他愛ない会話。そして、あの座布団合戦すらも──思い出せば自然と口元がほころぶような、騒がしくも温かな一幕だった。
「もう一日いたら、次は座布団どころじゃ済まねぇぞ。……いずれ木刀が飛んでくる」
土方が腕を組んだまま、冷ややかな口ぶりで返す。
だがその目元は、かすかに緩んでいた。
「でも、先に帰った試衛館の連中も羨ましがりますよ。“香月道場で座布団投げの修行してきました”なんて言ったら」
沖田が肩をすくめて笑い、からかうような口調で続ける。
「……それは修行じゃない、ただの騒動だ」
伊庭が静かに応じ、視線を空へ向けた。
冬晴れの澄んだ空に、わずかに霞むような白雲がひとつ流れていく。
「……けれど、よい気をいただきました。あの香月家のように、剣を“人の道”と重ねて伝える場所が、もっと広がれば──世の中も少しは穏やかになるのかもしれません」
その静かな言葉に、土方がふと歩を緩める。
「……ああ。だが、香月の道場がここまで根づくには、まだ時間がかかるだろうな」
遠くを見据えるような目で、ぽつりと呟く。
「だからこそ、我々が“帰る場”を、しっかり持っておかねぇとな」
近藤が力強く言い、それに三人が黙って頷いた。
――天然理心流・試衛館。
自らが生きる意味を問い、剣を学ぶ場所。
いつかこの香月の道場と交わる日が来るのかもしれない──そんな未来を、誰もが胸の奥に描いていた。
そんな中、沖田がふと横を歩く土方の懐に目をやり、小さく笑った。
「そういえば……さっき美織さんから、いただいてましたよね。あれ、香袋ですか?」
そのひと言に、土方がぴたりと眉を寄せる。
「……何の話だ」
「とぼけても無駄ですよ。懐に収める時、やけに慎重だった。あれ、相当気に入ってるんでしょう?」
にやにやと笑う沖田に、伊庭も柔らかく頷いた。
「なるほど……道中のお守りというには、渡し方が随分“丁寧”でしたね」
「しかも、香りつき。……こりゃあ、“個人仕様”だな」
近藤が口元を押さえて笑いを堪えながら、わざとらしく咳払いを一つ。
「土方、お前まさか……春先にまた此処へ戻って来るんじゃねえだろうな?“香袋の香りが忘れられなくて……”とか言ってよ」
「……やかましい」
ぶっきらぼうな一言が返るが、三人のからかいは止まらない。
「香月道場じゃなく、“香月美織”に再会しに、ですよねぇ?」
「おい、もし戻ってきたら歓迎の座布団シャワー用意しとくからな。いや、いっそ“香袋ノック”にするか。香り付きの千本ノック──」
悪ノリが頂点に達したそのとき。
土方は、こめかみをひくつかせながらも黙って歩を進め──一言だけ、低く言い放った。
「……馬鹿言ってねぇで、さっさと歩け」
その声には、わずかな熱が滲んでいた。
懐の内側──包むように収めた香袋に、土方の指先は触れようとはせず、むしろそっと避けるように握りをゆるめた。
三人は、そのさりげない仕草を見逃してはいなかった。
背中越しに近藤が笑いを含ませてぼやく。
「……いやぁ、ほんっとに分かりやすいんだよな、土方って」
「そうですねぇ。でも、案外──」
沖田が目を細め、ふっと言葉を濁す。
「……そういうところが、好かれるんですよ」
伊庭も静かに頷き、朝の光の中、四人の影が長く伸びていく。
やがて、交差点へ差しかかったところで、伊庭が足を止めた。
「……では、私はこちらで。御徒方面までは、まだ少しかかりますので」
言葉とともに丁寧に一礼し、伊庭は道の分かれへと身を向けた。
「どうかご武運を。春になったら、またお会いしましょう」
「おう、気をつけてな」
「風邪ひかないようにね、伊庭くん」
「真っ直ぐ帰れよ、寄り道すんなよ」
三人が代わる代わる声をかけ、伊庭が静かに微笑みながら頷く。
それぞれが、それぞれの道を歩み始める冬の朝。
四人の背に、香月邸で過ごした温もりと──淡く残る香袋の香りが、いつまでも静かに尾を引いていた。
◆
門が静かに閉じられ、四人の姿が角を曲がって完全に見えなくなった頃──
香月邸の中庭には、まだ冬の朝の冷気がうっすらと漂っていた。
障子越しに射し込む柔らかな陽の光が、長く伸びた柱の影を縁側へと引きながら、空気の静けさにさらに奥行きを与えている。
離れの一室。その縁側に、美織の姿があった。
彼女は自ら淹れたばかりの茶を茶碗に注ぎ、湯気の立ちのぼるそれを両手でそっと包みながら、静かに腰を下ろしていた。
茶葉の香りがふわりと鼻先をかすめ、冬の張りつめた空気の中に、ほんのひとしずくのぬくもりを添えている。
美織は、縁側に長く伸びた朝の影を静かに見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……お見送りできて、よかった」
それは、かすかに揺れる声音だった。けれどその奥には、穏やかな安堵と、拭いきれぬ名残惜しさが滲んでいた。
と、そのすぐ後。
畳をわずかに沈ませるような足音が、廊下の方からそっと近づく。香月邸の主であり、兄でもある悠臣が、気配を和らげるようにして姿を見せる。
彼は美織の隣に腰を下ろし、ゆるく身体を斜めに向けた。
「……あの四人が並んで“ありがとう”なんて言うのは、そうそう見られるものじゃない。……お前の茶の力か、それとも香袋の効き目か」
冗談めかした口調に、兄としての柔らかな親しみと、友人たちを誇るような響きがにじんでいた。
美織はそっと茶碗を膝に戻し、両手を重ねる。指先に残る温もりを感じながら、その所作にはどこか、胸の奥に生まれたさざ波の名残が映っていた。
「……皆さま、お強いだけでなく、とても、あたたかい方々でした。特に……土方さまは」
名前を口にした途端、わずかに声が揺れた。
その微かな震えに、悠臣がちらと目を向ける。だが、美織は目を伏せたまま、ふっと柔らかな笑みを浮かべていた。
「……香袋をお渡しするとき、ほんの少し、ためらっていらしたようでした。でも……最後にはきちんと、受け取ってくださって。それだけで……嬉しくて」
その言葉に、悠臣はふっと息を緩めるように笑った。
「……歳さんのことだ。懐にしまったあとも、ずっと香りが気になって、道中で何度も確認してるかもしれんな」
「……ふふ」
美織が思わず声に出して笑う。頬にはわずかに朱がさし、それを朝の光がそっと包んでいた。
悠臣はその横顔をしばらく見つめたあと、ふと目を伏せる。
「……美織」
「はい?」
「……あまり、深入りするなよ」
その声音は穏やかだが、そこには兄としての慈しみと、一人の男としての静かな配慮がこもっていた。
美織は一瞬まばたきをし、そして、静かに頷いた。
「……ええ。分かっております」
声に逆らう色はなかった。
けれど──胸の奥でひっそりと燃える小さな焔だけは、誰にも否定されることのないものだった。
ふと、縁側を冷たい風がさらりと通り抜けた。
庭の植え込みがさやさやと揺れ、一枚の落ち葉が音もなく、静かに石畳へと舞い降りる。
悠臣はゆっくりと立ち上がり、襖の方へと歩きながら、ふと振り返った。
「……今日は、稽古の立ち合いはしなくていい。ここでゆっくり休め。母上にも、そう伝えておく」
「ありがとうございます」
美織が小さく頭を下げると、悠臣はそれに言葉を重ねず、静かに奥へと姿を消した。
縁側には再び、凛とした静けさが満ちていく。
美織は茶碗を手のひらに包み直し、そっと目を閉じた。
心の奥に残っているのは──懐へとそっと納められた、あの香袋のかすかな記憶の香り。
それが、たとえほんのひとときのものであったとしても。
誰かの旅路に、そっと寄り添えたのだとしたら──
それだけで、きっと十分だった。
そう、思いたかった。
悠臣が襖の向こうへと姿を消し、しんとした静けさが、ふたたび離れの一室に満ちていく。
縁側に取り残された美織は、膝の上に置いたままの茶碗を、静かに見つめていた。
すでに湯気はほとんど消えていた。
けれど、掌に残るわずかなぬくもりが、名残のように、心の底にじんわりと沁みていた。
──深入りするな。
先ほどの兄の言葉が、胸の奥にぽつりと落ち、静かに波紋を広げてゆく。
「……分かっておりますのに」
誰にも届かぬような、小さな呟き。
それは、まるで自分自身への戒めのようであり、あるいは微かな嘆きのようでもあった。
香月家の娘として生まれ、礼節を重んじ、名を汚さぬよう育てられてきた。
幼い頃から叩き込まれてきた教えは、今も深く、身の内に刻まれている。
ふさわしき振る舞いを乱さぬこと。
分別と礼儀と弁えをもって、常にあるべき姿で在ること。
──そのすべてを、美織は誇りとして生きてきた。
けれど。
土方歳三という男が見せた、まっすぐな眼差し。
飾らぬ言葉の端々に滲む、不器用な誠実さ。
沈黙の合間に感じた、決して軽んじることのない真摯な気配。
あの瞬間──香袋を受け取る土方の手が、ほんのわずかでも、その想いを受け止めてくれたような気がしてしまった。
胸の奥で、そっと何かが揺れる。
「……ほんの少しだけ、夢を見ても。罰にはなりませんわよね」
自嘲とも、祈りともつかぬ声が、冬の空気に溶けていく。
唇から零れたひとひらの吐息は白く、すぐに淡く消えていった。
思えば、言葉を交わしたのはほんのわずか。
けれど──最後に見た、あの仕草。
ためらいながらも、香袋を懐に納めたあの動作を、美織はきっと忘れない。
そっと、膝の上の茶碗を再び両手で包み込み、静かに目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、背筋をまっすぐに伸ばして歩いていく、あの人の背中。
どこか寂しげでありながら、決して揺るがぬ覚悟を感じさせる、凛とした後ろ姿。
──その背を、追いかけてはならない。
分かっている。
あの方の隣に立つべき女性は、わたくしではないと──
心の内でそっと、誰にも届かぬように呟いた。
その言葉には、諦めでも、悲しみでもなく、
ただ静かに受け入れた者だけが持つ、淡く確かな覚悟が滲んでいた。
風が、さらりと縁側を吹き抜ける。
庭の紅葉がわずかに揺れ、枝先から、ひとひら、またひとひらと、葉が舞い落ちていく。
「……私は、香月美織として。すべてを弁えております」
その声音は穏やかで、凛としていた。
けれど、そのすぐあとに続いた一言だけは、どこか祈りにも似た響きを宿していた。
「……あの方が、どうか、ご無事でありますように」
それが恋なのか、憧れなのか──
それとも、まだ名も知らぬ感情なのか。
美織自身にも、答えは分からない。
けれど、その想いだけは、確かに胸の内に在り続けている。
ひっそりと、けれど消えることなく、今もそこに息づいていた。
冬の澄んだ朝の光が、縁側に座る美織の横顔を、やわらかく照らす。
香のほのかな残り香が、風に乗って──
誰もいない離れの奥へ、静かに流れていった。
冬の朝靄が薄らと残る中、まだ冷たい空気の中に、門を閉ざすその音はさながら余韻の終止符のように響いた。
背後からは、木刀が交わる鋭い音が断続的に響いてくる。
庭を叩く踏み込みの気配、掛け声、遠くから聞こえる鳥のさえずり──それらが、冬晴れの冴えた空へと溶けていく。
表通りに出た四人──近藤勇、土方歳三、沖田総司、伊庭八郎は、並んで静かに歩き出していた。
道中着の裾をさばく仕草には武士らしい所作が滲んでいたが、その足取りには、どこかしら後ろ髪を引かれるような名残の気配があった。誰も口に出さぬまま、それぞれが邸内で過ごした時間を反芻しているようだった。
「……名残惜しいな。もう一、二日ぐらい、泊まっていけた気もするんだが」
と、近藤がぽつりとこぼす。
その声音には、旅路に向かう者らしからぬ柔らかさが宿っていた。
夜の縁側で交わした他愛ない会話。そして、あの座布団合戦すらも──思い出せば自然と口元がほころぶような、騒がしくも温かな一幕だった。
「もう一日いたら、次は座布団どころじゃ済まねぇぞ。……いずれ木刀が飛んでくる」
土方が腕を組んだまま、冷ややかな口ぶりで返す。
だがその目元は、かすかに緩んでいた。
「でも、先に帰った試衛館の連中も羨ましがりますよ。“香月道場で座布団投げの修行してきました”なんて言ったら」
沖田が肩をすくめて笑い、からかうような口調で続ける。
「……それは修行じゃない、ただの騒動だ」
伊庭が静かに応じ、視線を空へ向けた。
冬晴れの澄んだ空に、わずかに霞むような白雲がひとつ流れていく。
「……けれど、よい気をいただきました。あの香月家のように、剣を“人の道”と重ねて伝える場所が、もっと広がれば──世の中も少しは穏やかになるのかもしれません」
その静かな言葉に、土方がふと歩を緩める。
「……ああ。だが、香月の道場がここまで根づくには、まだ時間がかかるだろうな」
遠くを見据えるような目で、ぽつりと呟く。
「だからこそ、我々が“帰る場”を、しっかり持っておかねぇとな」
近藤が力強く言い、それに三人が黙って頷いた。
――天然理心流・試衛館。
自らが生きる意味を問い、剣を学ぶ場所。
いつかこの香月の道場と交わる日が来るのかもしれない──そんな未来を、誰もが胸の奥に描いていた。
そんな中、沖田がふと横を歩く土方の懐に目をやり、小さく笑った。
「そういえば……さっき美織さんから、いただいてましたよね。あれ、香袋ですか?」
そのひと言に、土方がぴたりと眉を寄せる。
「……何の話だ」
「とぼけても無駄ですよ。懐に収める時、やけに慎重だった。あれ、相当気に入ってるんでしょう?」
にやにやと笑う沖田に、伊庭も柔らかく頷いた。
「なるほど……道中のお守りというには、渡し方が随分“丁寧”でしたね」
「しかも、香りつき。……こりゃあ、“個人仕様”だな」
近藤が口元を押さえて笑いを堪えながら、わざとらしく咳払いを一つ。
「土方、お前まさか……春先にまた此処へ戻って来るんじゃねえだろうな?“香袋の香りが忘れられなくて……”とか言ってよ」
「……やかましい」
ぶっきらぼうな一言が返るが、三人のからかいは止まらない。
「香月道場じゃなく、“香月美織”に再会しに、ですよねぇ?」
「おい、もし戻ってきたら歓迎の座布団シャワー用意しとくからな。いや、いっそ“香袋ノック”にするか。香り付きの千本ノック──」
悪ノリが頂点に達したそのとき。
土方は、こめかみをひくつかせながらも黙って歩を進め──一言だけ、低く言い放った。
「……馬鹿言ってねぇで、さっさと歩け」
その声には、わずかな熱が滲んでいた。
懐の内側──包むように収めた香袋に、土方の指先は触れようとはせず、むしろそっと避けるように握りをゆるめた。
三人は、そのさりげない仕草を見逃してはいなかった。
背中越しに近藤が笑いを含ませてぼやく。
「……いやぁ、ほんっとに分かりやすいんだよな、土方って」
「そうですねぇ。でも、案外──」
沖田が目を細め、ふっと言葉を濁す。
「……そういうところが、好かれるんですよ」
伊庭も静かに頷き、朝の光の中、四人の影が長く伸びていく。
やがて、交差点へ差しかかったところで、伊庭が足を止めた。
「……では、私はこちらで。御徒方面までは、まだ少しかかりますので」
言葉とともに丁寧に一礼し、伊庭は道の分かれへと身を向けた。
「どうかご武運を。春になったら、またお会いしましょう」
「おう、気をつけてな」
「風邪ひかないようにね、伊庭くん」
「真っ直ぐ帰れよ、寄り道すんなよ」
三人が代わる代わる声をかけ、伊庭が静かに微笑みながら頷く。
それぞれが、それぞれの道を歩み始める冬の朝。
四人の背に、香月邸で過ごした温もりと──淡く残る香袋の香りが、いつまでも静かに尾を引いていた。
◆
門が静かに閉じられ、四人の姿が角を曲がって完全に見えなくなった頃──
香月邸の中庭には、まだ冬の朝の冷気がうっすらと漂っていた。
障子越しに射し込む柔らかな陽の光が、長く伸びた柱の影を縁側へと引きながら、空気の静けさにさらに奥行きを与えている。
離れの一室。その縁側に、美織の姿があった。
彼女は自ら淹れたばかりの茶を茶碗に注ぎ、湯気の立ちのぼるそれを両手でそっと包みながら、静かに腰を下ろしていた。
茶葉の香りがふわりと鼻先をかすめ、冬の張りつめた空気の中に、ほんのひとしずくのぬくもりを添えている。
美織は、縁側に長く伸びた朝の影を静かに見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……お見送りできて、よかった」
それは、かすかに揺れる声音だった。けれどその奥には、穏やかな安堵と、拭いきれぬ名残惜しさが滲んでいた。
と、そのすぐ後。
畳をわずかに沈ませるような足音が、廊下の方からそっと近づく。香月邸の主であり、兄でもある悠臣が、気配を和らげるようにして姿を見せる。
彼は美織の隣に腰を下ろし、ゆるく身体を斜めに向けた。
「……あの四人が並んで“ありがとう”なんて言うのは、そうそう見られるものじゃない。……お前の茶の力か、それとも香袋の効き目か」
冗談めかした口調に、兄としての柔らかな親しみと、友人たちを誇るような響きがにじんでいた。
美織はそっと茶碗を膝に戻し、両手を重ねる。指先に残る温もりを感じながら、その所作にはどこか、胸の奥に生まれたさざ波の名残が映っていた。
「……皆さま、お強いだけでなく、とても、あたたかい方々でした。特に……土方さまは」
名前を口にした途端、わずかに声が揺れた。
その微かな震えに、悠臣がちらと目を向ける。だが、美織は目を伏せたまま、ふっと柔らかな笑みを浮かべていた。
「……香袋をお渡しするとき、ほんの少し、ためらっていらしたようでした。でも……最後にはきちんと、受け取ってくださって。それだけで……嬉しくて」
その言葉に、悠臣はふっと息を緩めるように笑った。
「……歳さんのことだ。懐にしまったあとも、ずっと香りが気になって、道中で何度も確認してるかもしれんな」
「……ふふ」
美織が思わず声に出して笑う。頬にはわずかに朱がさし、それを朝の光がそっと包んでいた。
悠臣はその横顔をしばらく見つめたあと、ふと目を伏せる。
「……美織」
「はい?」
「……あまり、深入りするなよ」
その声音は穏やかだが、そこには兄としての慈しみと、一人の男としての静かな配慮がこもっていた。
美織は一瞬まばたきをし、そして、静かに頷いた。
「……ええ。分かっております」
声に逆らう色はなかった。
けれど──胸の奥でひっそりと燃える小さな焔だけは、誰にも否定されることのないものだった。
ふと、縁側を冷たい風がさらりと通り抜けた。
庭の植え込みがさやさやと揺れ、一枚の落ち葉が音もなく、静かに石畳へと舞い降りる。
悠臣はゆっくりと立ち上がり、襖の方へと歩きながら、ふと振り返った。
「……今日は、稽古の立ち合いはしなくていい。ここでゆっくり休め。母上にも、そう伝えておく」
「ありがとうございます」
美織が小さく頭を下げると、悠臣はそれに言葉を重ねず、静かに奥へと姿を消した。
縁側には再び、凛とした静けさが満ちていく。
美織は茶碗を手のひらに包み直し、そっと目を閉じた。
心の奥に残っているのは──懐へとそっと納められた、あの香袋のかすかな記憶の香り。
それが、たとえほんのひとときのものであったとしても。
誰かの旅路に、そっと寄り添えたのだとしたら──
それだけで、きっと十分だった。
そう、思いたかった。
悠臣が襖の向こうへと姿を消し、しんとした静けさが、ふたたび離れの一室に満ちていく。
縁側に取り残された美織は、膝の上に置いたままの茶碗を、静かに見つめていた。
すでに湯気はほとんど消えていた。
けれど、掌に残るわずかなぬくもりが、名残のように、心の底にじんわりと沁みていた。
──深入りするな。
先ほどの兄の言葉が、胸の奥にぽつりと落ち、静かに波紋を広げてゆく。
「……分かっておりますのに」
誰にも届かぬような、小さな呟き。
それは、まるで自分自身への戒めのようであり、あるいは微かな嘆きのようでもあった。
香月家の娘として生まれ、礼節を重んじ、名を汚さぬよう育てられてきた。
幼い頃から叩き込まれてきた教えは、今も深く、身の内に刻まれている。
ふさわしき振る舞いを乱さぬこと。
分別と礼儀と弁えをもって、常にあるべき姿で在ること。
──そのすべてを、美織は誇りとして生きてきた。
けれど。
土方歳三という男が見せた、まっすぐな眼差し。
飾らぬ言葉の端々に滲む、不器用な誠実さ。
沈黙の合間に感じた、決して軽んじることのない真摯な気配。
あの瞬間──香袋を受け取る土方の手が、ほんのわずかでも、その想いを受け止めてくれたような気がしてしまった。
胸の奥で、そっと何かが揺れる。
「……ほんの少しだけ、夢を見ても。罰にはなりませんわよね」
自嘲とも、祈りともつかぬ声が、冬の空気に溶けていく。
唇から零れたひとひらの吐息は白く、すぐに淡く消えていった。
思えば、言葉を交わしたのはほんのわずか。
けれど──最後に見た、あの仕草。
ためらいながらも、香袋を懐に納めたあの動作を、美織はきっと忘れない。
そっと、膝の上の茶碗を再び両手で包み込み、静かに目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、背筋をまっすぐに伸ばして歩いていく、あの人の背中。
どこか寂しげでありながら、決して揺るがぬ覚悟を感じさせる、凛とした後ろ姿。
──その背を、追いかけてはならない。
分かっている。
あの方の隣に立つべき女性は、わたくしではないと──
心の内でそっと、誰にも届かぬように呟いた。
その言葉には、諦めでも、悲しみでもなく、
ただ静かに受け入れた者だけが持つ、淡く確かな覚悟が滲んでいた。
風が、さらりと縁側を吹き抜ける。
庭の紅葉がわずかに揺れ、枝先から、ひとひら、またひとひらと、葉が舞い落ちていく。
「……私は、香月美織として。すべてを弁えております」
その声音は穏やかで、凛としていた。
けれど、そのすぐあとに続いた一言だけは、どこか祈りにも似た響きを宿していた。
「……あの方が、どうか、ご無事でありますように」
それが恋なのか、憧れなのか──
それとも、まだ名も知らぬ感情なのか。
美織自身にも、答えは分からない。
けれど、その想いだけは、確かに胸の内に在り続けている。
ひっそりと、けれど消えることなく、今もそこに息づいていた。
冬の澄んだ朝の光が、縁側に座る美織の横顔を、やわらかく照らす。
香のほのかな残り香が、風に乗って──
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