【月影録】 ー新選組江戸支部ー

愛希

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第二章

祈りは香に紛れて

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 ──文久元年も、師走に入り半ばを過ぎた頃。
 日ごとに冷え込みが強まる江戸の町には、吐く息が白く立ちのぼり、夕暮れの空には凍てつくような薄光が差していた。

 香月道場の稽古が終わり、門弟たちの足取りと笑い声が、表門の方へと徐々に遠ざかっていく。

 廊下の角に差しかかった美織は、そっと足を止めた。
 盆に載せた湯気の立つ薬湯と、端然と畳まれた白布。母・佐江から伝わった調合で、冬の疲労を和らげるものだった。

 控えの間の襖の向こうには、着替えもせぬまま気配を鎮めている男の気配がある。美織は数拍、息を整えるように立ち止まり──

「天城さん、失礼いたします。薬湯をお持ちしました」

「……あ、美織さん? すみません、どうぞ」

 朔也の声が、やや慌ただしげに返る。

 中へ通され、膝をついて盆を置いた美織の目に映ったのは、髪も乱れたまま、額にうっすらと汗を滲ませた朔也の姿だった。

「本日は、皆さま相手に立ち合いをなさって……。お疲れのご様子が見えましたので」

 そう言って薬湯を差し出す美織の手元を、朔也は一瞬だけ見つめ、そしてそっと受け取った。

「……ありがとうございます。ああ……良い香りだ。身も心もほぐれるようです」

 茶碗を両手で包み込むようにして、彼は穏やかに微笑んだ。その笑みに、美織も思わず、ふっと頬を緩める。

「昔から、母が疲れた父や兄たちに、こうして薬湯を淹れておりましたの。……たいしたものではありませんが、お役に立てば嬉しゅうございます」

「……充分すぎるほど、ありがたいです。……香月家のご令嬢から、このようなお気遣いを頂けるとは……。身に余るほどです」

 言葉の端に、ほのかに自嘲めいた響きが滲む。朔也の視線が、ふと逸れた。

 その微細な変化に、美織は気づいていた。

 けれど、彼の目を追おうとはせず、ただ静かに微笑んだ。

「わたくしは、ただの香月の娘でございます。こうして皆さまが道場へ足を運んでくださることが、何よりの喜びにございます」

 その声音は、やわらかで、穏やかだった。

 ──けれど、その奥には、誰にも明かせぬ小さな寂しさが、かすかに滲んでいた。

 朔也は薬湯に目を落としたまま、ひと呼吸置いてから、ゆっくりと口を開く。

「……差し入れ、とても嬉しかったです。でも……あまり、ご無理なさらぬよう」

「……無理、でございましょうか?」

「ええ。……もちろん、お心遣いには、ただただ感謝しております。ただ……それが、御家にとって思わぬ形で……波風を立てることがあっては、と」

 その一言に、美織の睫毛がふるりと震えた。

 彼が言わんとする“波風”──

 香月家と天城家。
 本来、交わることのなかった水脈が、今、どこかでわずかに触れ合いはじめている。

 けれど、彼はそれ以上踏み込まない。
 ただ誠実に、礼を尽くしながら距離を保とうとしていた。

 それが、彼なりの“真っ直ぐさ”であると、美織には分かっていた。

「……承知いたしました」

 その声は少し寂しげだったが、顔に浮かぶのは、あくまでやわらかな微笑み。

「どうか、薬湯だけは冷めませぬうちに。効果が薄れてしまいますゆえ」

 そう言って、そっと頭を下げた美織は、静かに襖を引いた。

 その背へ向けて、朔也がふと、小さく呟く。

「……本当に、ありがとうございました」

 言葉の中に、礼だけではない想いが、静かに込められていた。

 美織は振り返らず、ただ廊下に出る手前で、わずかに歩みを止め──

「……どうか、あなたさまがご無事でありますように」

 美織の足音が、廊下の先で静かに遠ざかっていく。
 その余韻が消えきらぬうちに、襖の向こうには再び静けさが満ちた。

 部屋の中に残された朔也は、膝に置いたままの盆の上、湯気を立てる茶碗をじっと見つめていた。

 立ちのぼる湯気は、ゆらゆらと儚く揺れながら、やがて冬の冷えた空気に吸われるように、すうっと溶けていく。

「……香月美織、か」

 ぽつりと、静かにその名をつぶやいた。
 それはまるで、自らの胸の奥にその響きを染み込ませるような、祈りに似た声音だった。

 室内には、彼女が残していった微かな香の余韻がまだ漂っていた。
 その香りが鼻先をかすめるたび、思い出されるのは、彼女の柔らかな声と、茶碗を差し出す繊細な手の動き。

 そして、襖を閉める直前に、そっと添えられたひとこと──

 ──どうか、あなたさまがご無事でありますように。

 たったそれだけの言葉が、不思議と胸の奥に深く残っていた。

(……何を、期待してるんだ)

 心の片隅に、ひとつ苦い笑みが浮かぶ。

 香月家──その名は幕府の中枢にも届く名門。
 その娘と、自分のような身の者が肩を並べられるはずなど、本来あろうはずもない。

 ……それでも。

 思い返すたび、胸を締めつけるような過去がある。

 天城家はかつて、旗本として幕政に連なる家柄だった。
 政に名を連ねたのは二代前のこと。父の代で急速に傾き、やがては政争の波に呑まれた。

 仕えていた一派が失脚し、忠義を貫いた代償として、家は取り潰し寸前にまで追いやられた。
 屋敷は手狭になり、資産は削られ、残されたのは名跡という名の空虚な殻。

 兄・惣一郎は家名の再興を胸に秘め、幕臣として官途を進んでいる。
 だが──朔也は、別の道を選んだ。

 家の威光や立場ではなく、己という人間が何を為せるか。
 “人としての矜持”を、自らの手で見出したかった。

 そのために残されたのは、ただ一振りの「剣」だけだった。

(……剣しかなかった俺に、“名前”を呼んでくれたのは、あの人だった)

 そっと視線を落とし、朔也は心の中に香月悠臣の姿を思い浮かべる。

 ──あの冬のこと。

 家の没落により一時期京へ身を寄せていた少年時分、道場の片隅で、名すら呼ばれず掃除を続けていた自分に──
 ただ一人、あたたかく声をかけてくれたのが、まだ修行中だった香月悠臣だった。

 「君の名前は?」

 その問いかけが、胸の奥に火を灯した。
 誰にも見つけてもらえなかった自分が、“誰かに存在を認められた”気がした。

 それがすべての始まりだった。

 この人の剣に追いつきたい。
 この人の隣に、誇りをもって立てるような男になりたい──

 その想いだけを支えに、ここまで歩いてきた。

 けれど現実は。
 香月家の養子でも、血縁でもない自分は、ただの門弟にすぎず──
 その立場さえ、悠臣の厚意と信頼に支えられた、不安定な場所だった。

 ほんの少しでも踏み誤れば、たちまち足元は崩れる。

(……そんな俺が、香月の娘に心を寄せるなんて)

 あり得ない。
 あってはならない。

 ──それは、誰よりも自分が知っている。

 けれど、美織の笑顔は、どうしても胸から離れない。

 江戸の市中で不逞浪士が暴れたとき、かすり傷を負った自分に、彼女は迷いなく駆け寄り、手当てをしてくれた。

 震える指先。
 真剣に傷を見つめるまなざし。
 そして、何よりもその手の温もりが忘れられない。

 ──今日もまた、あの小さな手で、薬湯を届けに来てくれた。

 寒空の下を、誰にも強いられることなく、ただ彼女の意志で。

 差し出された湯のみ、あたたかな声、揺るぎない眼差し──
 すべてが、まっすぐで、誠実だった。

 ……だからこそ、触れてしまったのだ。
 彼女の“真心”に。

 自分が守るべきものは、いったい何なのか。
 家名か。誇りか。信義か。
 それとも──あの人の笑顔、そのものか。

「……ああ、参ったな」

 ため息とともに漏れた呟きは、どこか諦めにも似ていた。
 だが、ほんの僅かに滲む温もりが、その声音に残っていた。

 冷めかけた茶碗を手に取り、口元に運ぶ。
 苦みと共に広がる薬草の香が、少しずつ心の淀みを洗い流していくようだった。

(……このままでは、もう見上げているだけでは駄目だ)

 知らぬ間に、そんな想いが芽を出していた。
 香月家と天城家の間に横たわる、大きな隔たり──
 それを超えるために必要なのは、剣の冴えではなく、己の「生き様」そのものだ。

 ゆっくりと、朔也は立ち上がる。
 そして、背筋をまっすぐに伸ばした。

 与えられた部屋の障子を開けると──

 外には、淡く光る冬空と、稽古の余韻を残す庭の静けさが広がっていた。
 土の匂いが、冷たい空気に微かに溶け込んでいる。

 空は澄みきって、白い光をたたえていた。

 その光の下で、自分は──いったいどこまで歩いていけるのか。

 その答えを、朔也はまだ、探し続けていた。

 ◆

 雪こそまだ舞わぬものの、空気には冬の気配がしんと染み入り、肌を刺すように冷えていた。
 陽はすでに傾き始め、白む空の下、静まり返った庭先に、ただひとつ──動の気配が灯っていた。

 凍てつく地面を踏み締める足音。
 振り下ろされた木刀が風を裂くたび、空気が張り詰めるように震え、朔也の額にはじんわりと汗が浮かんでいた。

 呼吸は深く、型は一見整っている。
 だが、研ぎ澄まされていたはずの動きには、どこか僅かな歪みがある。
 眉間にはわずかな皺が寄り、剣筋の端々には、ふだんならあり得ぬ微かな揺らぎが宿っていた。

 その様子を、縁側の柱の陰から静かに見つめる男がいた。
 香月悠臣──淡い墨色の羽織をまとい、腕を組んだまま、無言で朔也の所作を追っていた。

 やがて、木刀の音が止む。
 朔也が構えを解き、ひとつ深く息を吐いたその瞬間──
 縁側から、柔らかな声が届いた。

「……いつになく、手元が荒れているな」

 静かな一言に、朔也ははっとして振り返る。
 視線の先には、柱にもたれかかるようにして立つ悠臣の姿があった。

「……申し訳ありません。稽古の最中に、お目汚しを」

 軽く頭を下げながら、朔也は木刀を持ち直す。
 だが、悠臣は首を横に振った。

「違う。……らしくないように見えた。それだけだ」

「……らしく、ない……ですか」

「ああ。お前の剣は、いつも澄んでいる。
 強く斬り込むときも、揺らがず、迷いがない。
 だが今は……剣が迷っているように見える」

 指摘されたその一言に、朔也の指先がわずかに震える。
 返す言葉を探すように一瞬沈黙し、やがて木刀をそっと脇に下ろした。

「……己の未熟さゆえです。剣に“心”を持ち込むなど、本来、あってはならぬこと……」

「ふむ」

 悠臣は静かに縁側から降りると、霜を帯びた地面を踏みしめながら歩み寄り、朔也の正面に立つ。
 腕を組み直し、淡く目を細めた。

「“剣に心を持ち込むな”……確かに、それも剣の道におけるひとつの理かもしれない。
 だが、それは“心を殺せ”という意味ではない」

 悠臣の声音は静かで、けれど芯を孕んでいた。

「お前の剣が、これまで美しかったのは……
 お前が“誰かのために”その剣を振るっていたからだと、俺は思っている」

 朔也の瞳が、驚きに揺れる。
 けれど悠臣は、淡々と続けた。

「それを“未熟”と呼びたいのなら、いずれ乗り越えればいい。
 ……だが、“心を抱くこと”そのものを否定するな。
 お前はそれを、剣に昇華できる男だ」

 冬の風がふっと吹き抜け、落ち葉を揺らしながら、二人の間をそっと通り過ぎてゆく。
 その一瞬の静寂ののち、朔也は数歩下がって深く頭を下げた。

「……お言葉、痛み入ります」

 顔を上げた朔也は、ためらいながらも悠臣の顔を正面から見つめた。
 その瞳には、何かを決意するような、澄んだ光が宿っていた。

「香月殿。……いつか、俺は──」

 そこまで言いかけて、朔也は言葉を飲み込む。
 その続きを語るには、まだ、己の足が追いついていなかった。

 悠臣はその沈黙を咎めることなく、微笑だけを返す。

「……楽しみにしているよ」

 その言葉は、剣ではなく心に届くものだった。

 朔也はもう一度、木刀を両手で握り直す。
 さきほどまでと違う、より澄んだ気配が、静かに全身から立ち昇っていく。

 再び庭に、剣が風を斬る音が戻る。
 その音に、先ほどまでの迷いはなかった。

悠臣は静かに背を向け、何も言わず屋敷の奥へと戻っていく。
 その背を、朔也はただ一度、深く、静かに見送った。

 屋敷の奥へと戻る悠臣の足取りは、砂利を踏みしめながらも、ほとんど音を立てなかった。
 冷えた夕暮れの空気が庭を包み込み、傾いた陽が植え込みの影を長く伸ばしている。

 その静けさの中にあって、彼の胸の内では、先ほど朔也の目に宿った光だけが、いまだに残像のように焼き付いていた。

 ──真っ直ぐで、不器用で、そして切実な光。

(……あの頃と、変わらぬな)

 ふと胸裏に灯ったのは、遠い冬の記憶。
 十年以上も前──まだ己も修行の身であった、京の寒さが骨に沁みるようなある日のことだった。

 あの頃の道場は、今よりずっと厳しく、静かだった。
 その片隅に、小柄な少年がひとり、黙々と雑巾を動かしていた。

 痩せて、声もなく、ただいるだけの存在。
 門弟たちは彼に目を向けることも、名を呼ぶこともせず、まるでそこに誰もいないかのように通り過ぎていった。

 ──だが、あるときふと、目に留まった。

 その少年が、誰よりも真摯に、剣の稽古を見つめていることに。
 稽古を終えた者に混じって、誰よりも深く、静かに頭を下げる姿に。

 それは、誰にも気づかれぬままに在り続ける“矜持”だった。

 気づいたときには、自然に言葉がこぼれていた。

「君の名前は?」

 ただの一言だった。
 けれどその瞬間、少年の目が大きく見開かれたのを、今でもはっきりと覚えている。
 声にならぬまま唇を震わせ、絞り出すように名乗ったあの声──

「……天城、朔也です」

 その瞬間、胸の奥に灯った小さな火が、今なお消えることなく残っている。

 それが、彼との始まりだった。

(あのとき、俺が見つけたものは──)

 剣の素質だけではなかった。
 踏みにじられてもなお、自分という存在を捨てなかった意志。
 名も呼ばれずとも、そこで息をし、頭を垂れ続けた誇り。

 ──もしかすると、あの時、救われたのは自分の方だったのかもしれない。

 今も、あの音が耳に残っている。
 背中越しに聞いた、澄んだ木刀の音。
 迷いを断ち切るように、真っ直ぐに空を斬っていった音。

(……名を呼んだ者として、見届ける責は果たせるだろうか)

 香月道場を預かる者として──
 常に冷静で、動じぬ器を求められる立場にありながら、それでも彼は知っている。

 人を本当に動かすのは、剣の技ではなく、「心」であるということを。

 そして──

(……もし朔也が、あの“壁”を越えようとするのなら)

 その未来を、決して止めてはならない。
 いや──できることなら、あの手が扉を開く瞬間を、この目で見届けたい。

 きっと、それが、自分の役目の終わりなのだろう

 そう思いながら、悠臣はゆっくりと歩を進めた。
 静かな廊下に、彼の足音だけが微かに響いていた。

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