俺の可愛いお嬢さまを離さない

真風月花

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二章

2、名前では呼ばない

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 最近、俺が仕事で旦那さまの書斎に行くと、釣り書きらしき物が机の上に積んである。
 ふた月ほど前から、どこぞの坊ぼん達の釣り書きが増えてきて。勿論、中身を見ることは俺にはできへん。
 心が騒いで……いや、違うな。まるで常に鈍色の雲から落ちてくる雨に打たれとうみたいで、ほんまに嫌になる。

「どうしたの? 静生。ぼうっとして」

 俺の頭に両手をかけて、頭上から鈴を転がすような愛らしい声が聞こえた。
 そうやった。俺は愛しいお嬢さんを抱っこしてさしあげとったんや。

 なんでも、庭の木に生るさくらんぼを採りたいからと。この家にさくらんぼなどあったやろか、としばし考えたが。大事なお嬢さんの命令や、逆らう事なんかできへん。

「ほら、小さいけどちゃんと実が生っているのよ」
 
 両手を俺の頭から離して、お嬢さんは身を乗り出すから。俺はよろけながらも、なんとか足を踏ん張って堪えた。
 磨き上げた革靴が土で汚れてしもたが、意地にかけてもお嬢さんを落とすことがあってはならない。

 お嬢さんを守るのは俺、そしてこの気持ちに歯止めをかける為にも彼女のことを名前ではなく「お嬢さん」と呼び続ける。

「お嬢さんは……」
「なぁに?」

 縁談が次々と来とうことをご存じなんですか?
 そう尋ねそうになって、唇を噛みしめる。

「いや、何でもありません」
「ねぇ、静生」
「なんですか?」

 動揺を悟られないように、不愛想な声で返事する。けど、俺の頭に手を置いてお嬢さんが顔を覗きこんできた。
 そういう至近距離で覗きこむんは、あかんやろ。

「いつまでもわたくしのことを、名前で呼んでくれないのね」
「俺はただの使用人ですから」
「使用人とは少し違うわ。でも、ねえやや他の使用人達は、わたくしのことを『冨貴子お嬢さま』って呼ぶわ」

 さらりとした黒髪が春の風に揺れ、首を傾けて俺を覗きこむお嬢さんの髪に、白い花びらが舞い降りた。その花びらは淡く甘い香りがした。まるでお嬢さんそのもののように。

「お嬢さんは、ご自分の名前がお嫌いでしょ」
「まぁ……そうだけど。ずるいわ、わたくしは静生のことを名前で呼んでいるのに」
「呼び捨てですけどね」

 俺は苦笑しつつ、指摘した。
 それもそうね、とお嬢さんはうなずいて深呼吸をする。
 甘くて優しい春の空気を胸いっぱいに吸い込み、瞼を閉じたお嬢さんは、しばらくして決意を固めたような表情をした。

「静生さん」
「はい?」

 突然の呼称に、俺は瞬きを繰り返した。

「ね、静生さん。もっと桜の木に寄ってちょうだい」
「ちょ、ちょっと待とか、お嬢さん」
「あら、静生さんは『冨貴子さん』って呼ぶのよ?」

 なんの罰や。これは私刑か。
 にっこりと微笑むお嬢さんからは、悪意の欠片も見えへん。
 そういう呼び方は、夫婦になる者同士でやってれ。
 俺は関係あらへんのや。
 夫婦にも、ましてや恋人にもなられへんのに。そんなごっこ遊びはようせん。

 変に期待するよりも、ただの護衛でおった方がええ。
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