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八章
3、學校帰り
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とんどの火はまだ燃え盛っているけれど、琥太郎さんが眠ってしまったので、わたし達はお家へ帰ることにしました。
会場となっている田圃を後にしても、暗い空はふだんの何倍も明るくて。
低く垂れこめた雲は、炎に赤く照らされています。煤けたにおいは、着物や髪についてしまったみたい。お家に帰ったらお風呂に入らないと。
「道に戻ると歩きやすいですね」
「せやなぁ。けど、足下が暗いから。絲さん、自分の足下も照らしや」
「大丈夫ですよ。あっ」
蒼一郎さんに大丈夫と言ったとたんに、わたしは小石につまずいてしまいました。
「耐えるんや、絲さん。俺は琥太郎を抱っこしとうから……」
大丈夫ですと答えたいのに、足を踏ん張りたいのに。角燈が手から落ちて、足が草履からずれて鼻緒が指の間に食い込みます。
「大丈夫?」
「す、すみません」
誰かがわたしを抱きとめてくださいました。ふわっとした柔らかな体の感触に、女性だとすぐに気づきました。
暗いから顔は分かりませんが。でも、声に聞き覚えが……。
「久しぶりね、絲さん」
「町さんっ」
わたしを助けてくれたのは親友の町さんでした。もう遅い時間なのに學校帰りのようで、お書物の入った風呂敷を片手に抱えています。
ちなみにもう片手は、わたしを支えてくれているんです。
「もうっ。何も言わず女學院を辞めちゃうんだもの。ずっと心配していたのよ」
「ごめんなさい」
確かに日々の忙しさのせいで、連絡を怠っていました。中退の手続きは蒼一郎さんが代わりにしてくださったのですけれど。
妊娠中も具合が悪く、産後、床上げを済ませてからは琥太郎さん中心の生活で、いろんなことが後回しになってしまっていました。
町さんはぎろっと蒼一郎さんを睨みつけると「まぁ、あの人が學校に来なくなって、不審ではなくなったけどね」と肩をすくめます。
相変わらずの強気です。本の匂いと懐かしい教室のにおいが鼻をかすめて。
わたしは一瞬、學生の頃に戻りました。
本来ならば御御堂で、朝の御ミサに出席して。教室に戻れば急いで町さんの宿題を写させてもらって。
シスターの目を盗んで雑誌を読んで、不謹慎と思いつつもピエタ像の後ろに隠したり。
軋む廊下を走って、シスターに叱られたり。
もう二度と戻ることの叶わない、当たり前の日々。
「町さん、帰りがとても遅いのね」
「え? ああ、そろそろ慈善市の時期だから。出品する手提げをね、縫っていたのよ。ローンテニスのコートを作るのに資金が必要なんですって」
苦笑しながら町さんは肩をすくめました。
初めて聞く話でした。
慈善市は毎年開かれていましたが。テニスって庭球のことですよね。
わたしの知らぬ間に、思い出はどんどん差し替えられて。いつか懐かしい友人と語り合っても、話が通じなくなるのでしょうか。
「元気な顔を見ることができてよかったわ。さすがに三條邸に乗り込む勇気はなかったし」
そこで言葉を切った町さんは、蒼一郎さんに抱っこされている琥太郎さんを見つめました。
「ま、しょうがないかな。こんなに可愛い子どもが生まれたら、わたしは置いていかれちゃうわね」
何気ないその言葉に、はっとしました。
町さんの表情が寂しく見えるのは、炎に照らされた低い雲のせいだけではありません。
わたしは町さんや學校の皆に置いて行かれた、あの頃にはもう戻れないと感じたけれど。町さんにとっては、わたしの方が置いていってしまったのです。
「頻繁に会えなくなって寂しいけれど。でも、絲さんがいなくなったわけじゃないし」
「……町さん」
肩を震わせるわたしの背を、町さんがそっと抱きしめます。彼女の手もまた微かに震えていました。
もうわたしは女學生ではないのです。娘ではないのです。お母さんになったんですもの。でも……。
「三條さんは怖いけど、勇気を出して遊びに行くわ。だって赤ちゃんと遊びたいもの。さすがに三條さんもお茶くらい出してくれるでしょ?」
「粗茶やで」
「そうね、玉露でお願いするわ。三條さん、息子さんの名前は?」
「琥太郎や。虎やのうて琥珀の方の琥や」
「綺麗な名前ね。きっと素敵な子に育つわ、絲さんに似て」と町さんは微笑みました。
わたしのよく知る、町さんの笑顔でした。
会場となっている田圃を後にしても、暗い空はふだんの何倍も明るくて。
低く垂れこめた雲は、炎に赤く照らされています。煤けたにおいは、着物や髪についてしまったみたい。お家に帰ったらお風呂に入らないと。
「道に戻ると歩きやすいですね」
「せやなぁ。けど、足下が暗いから。絲さん、自分の足下も照らしや」
「大丈夫ですよ。あっ」
蒼一郎さんに大丈夫と言ったとたんに、わたしは小石につまずいてしまいました。
「耐えるんや、絲さん。俺は琥太郎を抱っこしとうから……」
大丈夫ですと答えたいのに、足を踏ん張りたいのに。角燈が手から落ちて、足が草履からずれて鼻緒が指の間に食い込みます。
「大丈夫?」
「す、すみません」
誰かがわたしを抱きとめてくださいました。ふわっとした柔らかな体の感触に、女性だとすぐに気づきました。
暗いから顔は分かりませんが。でも、声に聞き覚えが……。
「久しぶりね、絲さん」
「町さんっ」
わたしを助けてくれたのは親友の町さんでした。もう遅い時間なのに學校帰りのようで、お書物の入った風呂敷を片手に抱えています。
ちなみにもう片手は、わたしを支えてくれているんです。
「もうっ。何も言わず女學院を辞めちゃうんだもの。ずっと心配していたのよ」
「ごめんなさい」
確かに日々の忙しさのせいで、連絡を怠っていました。中退の手続きは蒼一郎さんが代わりにしてくださったのですけれど。
妊娠中も具合が悪く、産後、床上げを済ませてからは琥太郎さん中心の生活で、いろんなことが後回しになってしまっていました。
町さんはぎろっと蒼一郎さんを睨みつけると「まぁ、あの人が學校に来なくなって、不審ではなくなったけどね」と肩をすくめます。
相変わらずの強気です。本の匂いと懐かしい教室のにおいが鼻をかすめて。
わたしは一瞬、學生の頃に戻りました。
本来ならば御御堂で、朝の御ミサに出席して。教室に戻れば急いで町さんの宿題を写させてもらって。
シスターの目を盗んで雑誌を読んで、不謹慎と思いつつもピエタ像の後ろに隠したり。
軋む廊下を走って、シスターに叱られたり。
もう二度と戻ることの叶わない、当たり前の日々。
「町さん、帰りがとても遅いのね」
「え? ああ、そろそろ慈善市の時期だから。出品する手提げをね、縫っていたのよ。ローンテニスのコートを作るのに資金が必要なんですって」
苦笑しながら町さんは肩をすくめました。
初めて聞く話でした。
慈善市は毎年開かれていましたが。テニスって庭球のことですよね。
わたしの知らぬ間に、思い出はどんどん差し替えられて。いつか懐かしい友人と語り合っても、話が通じなくなるのでしょうか。
「元気な顔を見ることができてよかったわ。さすがに三條邸に乗り込む勇気はなかったし」
そこで言葉を切った町さんは、蒼一郎さんに抱っこされている琥太郎さんを見つめました。
「ま、しょうがないかな。こんなに可愛い子どもが生まれたら、わたしは置いていかれちゃうわね」
何気ないその言葉に、はっとしました。
町さんの表情が寂しく見えるのは、炎に照らされた低い雲のせいだけではありません。
わたしは町さんや學校の皆に置いて行かれた、あの頃にはもう戻れないと感じたけれど。町さんにとっては、わたしの方が置いていってしまったのです。
「頻繁に会えなくなって寂しいけれど。でも、絲さんがいなくなったわけじゃないし」
「……町さん」
肩を震わせるわたしの背を、町さんがそっと抱きしめます。彼女の手もまた微かに震えていました。
もうわたしは女學生ではないのです。娘ではないのです。お母さんになったんですもの。でも……。
「三條さんは怖いけど、勇気を出して遊びに行くわ。だって赤ちゃんと遊びたいもの。さすがに三條さんもお茶くらい出してくれるでしょ?」
「粗茶やで」
「そうね、玉露でお願いするわ。三條さん、息子さんの名前は?」
「琥太郎や。虎やのうて琥珀の方の琥や」
「綺麗な名前ね。きっと素敵な子に育つわ、絲さんに似て」と町さんは微笑みました。
わたしのよく知る、町さんの笑顔でした。
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