243 / 257
八章
4、歩くようになりました
しおりを挟む
町さんと出会ったとんど焼きの夜から、一月後。
お庭は雪に覆われ、真っ白い中に南天の赤い実と、まるで薔薇のように花弁が重なった薄紅の八重のさざんかが、鮮やかに目立っています。
柔らかに降り積もった新雪は、あまりにも白が眩しくて。ほの青く見えるほどです。
よくうちにくる猫が、足跡をつけるのが楽しいのか、勇ましく雪の上を歩いているのですけれど。
猫って寒いのが苦手じゃなかったかしら?
「にゃあ、にゃあ?」
「ええ、そうね。猫っていうのよ」
縁側に座るわたしのお膝に乗った琥太郎さんが、黒い尻尾を勇ましく立てて進む猫を掴もうとしています。
もちろん、縁側とお庭ですから。無理なんですけれど。
もし琥太郎さんが歩けたら……いいえ走れたら、猫を追いかけてぴんと立った尻尾を握って、それから力任せに抱っこする気がします。
猫は、小さなお鼻を雪にふかっと突っ込んで、鼻先についた粉の雪を、ふるふるとふり払いました。
銀粉のような雪が、黒い毛にふりかかり。ちょうど教会の鐘の音と同時だったので、空気を震わせて鳴り響く鐘に重なり、静謐な油絵のようでした。
「ごぉ? こぉん」
「教会の鐘の音よ。お母さんの……わたしの通っていた女學院で修道女が鐘を鳴らしているの。お寺の鐘の音と少し違うでしょう?」
「にゃあ、こぉん」
「二つも覚えられて、えらいわねぇ」
琥太郎さんが一番初めに話した言葉は「ま……ま」でした。
わたしは感動して「そうよ。琥太郎さん、わたしがあなたのママですよ」と涙したのですけれど。
蒼一郎さんったら「そもそもうちでは、そんなハイカラな言葉は使たことないで? ご飯のことちゃうん?」なんて、興醒めな指摘をするのよ。
まったく、失礼しちゃうわ。
琥太郎さんに一番初めに呼んでもらうのは、わたしにしたかったのに。
それにうちでは「まんま」なんて言葉は使っていません……使ってませんよね?
蒼一郎さんは、そんな赤ちゃん言葉を使うとは思えないんですけれど。
「おお、琥太郎はええ子やなぁ。まんま食べよな」と言いつつ、小さな匙に湯気の立つお粥をのせる蒼一郎さんの姿は想像できません。
でも「坊ちゃんはええ子ですねぇ。まんまにしましょうね」と赤ちゃん用の白いふかふかのお煎餅をあげる波多野さんの姿は……困ったことに容易に想像できてしまいます。
黒猫は、しみじみと感じ入るように空をあおいでは、柔らかな雪に足が沈むさまを楽しんでいるようです。
そういえばこの子、お風呂場にもついてくるって蒼一郎さんから聞いたことがあります。
昨夜はとても冷えたようで、なかなか目にすることのない氷柱が軒から下がっていました。透明に儚い氷の尖りを伝って、水のしずくがぽとりと落ちては新雪に穴を穿っています。
「んー、んー」と、琥太郎さんは唸ると、その静かにしたたる氷柱のしずくに触れようとしています。
「だめですよ。あれはね、とても冷たいの。可愛い手がしもやけになってしまうわ」
縁側には火鉢が置いてあるので、窓を開いていてもさほど寒くはないんです。
なのに琥太郎さんはどうしても触れたいみたいです。困りました、抱っこして触らせてあげたらいいのかしら。
黒猫は「ジブン、過保護なんちゃうん?」とでも言いたげに、わたしの顔を見つめています。想像上でも口調が蒼一郎さんなのは、どういうことかしら。
ふと、膝が軽くなりました。見れば、琥太郎さんがわたしの膝から降りて、縁側を這い這いしているんです。
「待って、待って。這い這いのまま雪の上は進めないですよ」
まず沓脱石の上に落ちて、きっと頭を打って。その様子を考えると、わたしは「ひぃっ」と短い悲鳴を上げそうになりました。次に雪に体が沈み込んで、顔も埋もれて。
しかも琥太郎さんの頭を、猫が踏んづけたりしたら……。
ああ、駄目です。危険すぎますよ。
おろおろとしていると、影が上方に動いたように見えました。
自分の目に映るものが、一瞬遅れて脳に届きました。
琥太郎さんが、柱につかまってすっくと立っているんです。
まるではなから、立っていたかのように涼しい顔で。
しかも今度は柱の側に置いてある長持の蓋の部分に手を置いて、ゆっくりと進んでいるんです。
つかまり立ちと伝い歩きって一度にできるようになるんでしたっけ? 家事や育児について記されている『婦人宝典』にはどう書かれていたかしら?
「にゃあ」と、琥太郎さんは長持に胸やお腹をもたれさせながら、猫に手を振っています。
我が子ながら愛らしくて、もしわたしに絵の才があれば今この瞬間を切り取ることができるのに……と、瞬きもせずに琥太郎さんを見つめていました。
「絲さん。えらい静かやけど、どないしたん?」
廊下側の襖を開けて、蒼一郎さんがお部屋に入ってきました。
そして伝い歩きをしている琥太郎さんを目にして、時が止まったように動かなくなってしまったんです。
「琥太郎が、歩いとう」
「そうなんです。すごいでしょう」
「あかん」
蒼一郎さんがいきなり大声を出したせいで、琥太郎さんがぺたりと床に座り込んでしまいました。
「なんでや。歌が思い浮かばへん。せっかくの情景やったのに」
いかにも残念そうに、蒼一郎さんはひたいに手を当ててうなだれています。
なんだ「あかん」って、そのことでしたか。
風が吹き、屋根に積もった雪がちらちらと散りかかるように落ちてきます。
太陽に照らされて、それはまるで水晶の粒の煌めきのよう。
前栽の木々の葉も、とけた雪の水滴に光を宿して輝いて見えました。
琥太郎さんは猫に手を振っていると思ったのですけれど。実際には尻尾を掴もうと、小さな手を何度も開いたり閉じたりしています。
そんなに尻尾が気になるのかしら?
琥太郎さんは猫が好きなのね。でもきっと猫には好かれないかもしれないわ。
なんとなくだけれど、琥太郎さんは猫に関しては片想いになる気がしたの。
お庭は雪に覆われ、真っ白い中に南天の赤い実と、まるで薔薇のように花弁が重なった薄紅の八重のさざんかが、鮮やかに目立っています。
柔らかに降り積もった新雪は、あまりにも白が眩しくて。ほの青く見えるほどです。
よくうちにくる猫が、足跡をつけるのが楽しいのか、勇ましく雪の上を歩いているのですけれど。
猫って寒いのが苦手じゃなかったかしら?
「にゃあ、にゃあ?」
「ええ、そうね。猫っていうのよ」
縁側に座るわたしのお膝に乗った琥太郎さんが、黒い尻尾を勇ましく立てて進む猫を掴もうとしています。
もちろん、縁側とお庭ですから。無理なんですけれど。
もし琥太郎さんが歩けたら……いいえ走れたら、猫を追いかけてぴんと立った尻尾を握って、それから力任せに抱っこする気がします。
猫は、小さなお鼻を雪にふかっと突っ込んで、鼻先についた粉の雪を、ふるふるとふり払いました。
銀粉のような雪が、黒い毛にふりかかり。ちょうど教会の鐘の音と同時だったので、空気を震わせて鳴り響く鐘に重なり、静謐な油絵のようでした。
「ごぉ? こぉん」
「教会の鐘の音よ。お母さんの……わたしの通っていた女學院で修道女が鐘を鳴らしているの。お寺の鐘の音と少し違うでしょう?」
「にゃあ、こぉん」
「二つも覚えられて、えらいわねぇ」
琥太郎さんが一番初めに話した言葉は「ま……ま」でした。
わたしは感動して「そうよ。琥太郎さん、わたしがあなたのママですよ」と涙したのですけれど。
蒼一郎さんったら「そもそもうちでは、そんなハイカラな言葉は使たことないで? ご飯のことちゃうん?」なんて、興醒めな指摘をするのよ。
まったく、失礼しちゃうわ。
琥太郎さんに一番初めに呼んでもらうのは、わたしにしたかったのに。
それにうちでは「まんま」なんて言葉は使っていません……使ってませんよね?
蒼一郎さんは、そんな赤ちゃん言葉を使うとは思えないんですけれど。
「おお、琥太郎はええ子やなぁ。まんま食べよな」と言いつつ、小さな匙に湯気の立つお粥をのせる蒼一郎さんの姿は想像できません。
でも「坊ちゃんはええ子ですねぇ。まんまにしましょうね」と赤ちゃん用の白いふかふかのお煎餅をあげる波多野さんの姿は……困ったことに容易に想像できてしまいます。
黒猫は、しみじみと感じ入るように空をあおいでは、柔らかな雪に足が沈むさまを楽しんでいるようです。
そういえばこの子、お風呂場にもついてくるって蒼一郎さんから聞いたことがあります。
昨夜はとても冷えたようで、なかなか目にすることのない氷柱が軒から下がっていました。透明に儚い氷の尖りを伝って、水のしずくがぽとりと落ちては新雪に穴を穿っています。
「んー、んー」と、琥太郎さんは唸ると、その静かにしたたる氷柱のしずくに触れようとしています。
「だめですよ。あれはね、とても冷たいの。可愛い手がしもやけになってしまうわ」
縁側には火鉢が置いてあるので、窓を開いていてもさほど寒くはないんです。
なのに琥太郎さんはどうしても触れたいみたいです。困りました、抱っこして触らせてあげたらいいのかしら。
黒猫は「ジブン、過保護なんちゃうん?」とでも言いたげに、わたしの顔を見つめています。想像上でも口調が蒼一郎さんなのは、どういうことかしら。
ふと、膝が軽くなりました。見れば、琥太郎さんがわたしの膝から降りて、縁側を這い這いしているんです。
「待って、待って。這い這いのまま雪の上は進めないですよ」
まず沓脱石の上に落ちて、きっと頭を打って。その様子を考えると、わたしは「ひぃっ」と短い悲鳴を上げそうになりました。次に雪に体が沈み込んで、顔も埋もれて。
しかも琥太郎さんの頭を、猫が踏んづけたりしたら……。
ああ、駄目です。危険すぎますよ。
おろおろとしていると、影が上方に動いたように見えました。
自分の目に映るものが、一瞬遅れて脳に届きました。
琥太郎さんが、柱につかまってすっくと立っているんです。
まるではなから、立っていたかのように涼しい顔で。
しかも今度は柱の側に置いてある長持の蓋の部分に手を置いて、ゆっくりと進んでいるんです。
つかまり立ちと伝い歩きって一度にできるようになるんでしたっけ? 家事や育児について記されている『婦人宝典』にはどう書かれていたかしら?
「にゃあ」と、琥太郎さんは長持に胸やお腹をもたれさせながら、猫に手を振っています。
我が子ながら愛らしくて、もしわたしに絵の才があれば今この瞬間を切り取ることができるのに……と、瞬きもせずに琥太郎さんを見つめていました。
「絲さん。えらい静かやけど、どないしたん?」
廊下側の襖を開けて、蒼一郎さんがお部屋に入ってきました。
そして伝い歩きをしている琥太郎さんを目にして、時が止まったように動かなくなってしまったんです。
「琥太郎が、歩いとう」
「そうなんです。すごいでしょう」
「あかん」
蒼一郎さんがいきなり大声を出したせいで、琥太郎さんがぺたりと床に座り込んでしまいました。
「なんでや。歌が思い浮かばへん。せっかくの情景やったのに」
いかにも残念そうに、蒼一郎さんはひたいに手を当ててうなだれています。
なんだ「あかん」って、そのことでしたか。
風が吹き、屋根に積もった雪がちらちらと散りかかるように落ちてきます。
太陽に照らされて、それはまるで水晶の粒の煌めきのよう。
前栽の木々の葉も、とけた雪の水滴に光を宿して輝いて見えました。
琥太郎さんは猫に手を振っていると思ったのですけれど。実際には尻尾を掴もうと、小さな手を何度も開いたり閉じたりしています。
そんなに尻尾が気になるのかしら?
琥太郎さんは猫が好きなのね。でもきっと猫には好かれないかもしれないわ。
なんとなくだけれど、琥太郎さんは猫に関しては片想いになる気がしたの。
0
あなたにおすすめの小説
ヤンデレヤクザの束縛婚から逃れられません!
古亜
恋愛
旧題:ヤンデレヤクザの束縛婚〜何も覚えていませんが〜
なぜかここ一年の間の記憶を失い、なぜかその間にヤクザの若頭と結婚することになってました。
書いてみたかった記憶喪失もの。相変わらずのヤクザものです。
文字数バラバラで40話くらい。
なんでも許せる方向け。苦手な方は即回れ右でお願いします。
お肌に合わないと感じたら即座に使用を止めてください。誤字脱字等はご指摘いただければありがたく修正させていただきます。肌に合わない、想像と違った等の批判否定は豆腐メンタルにきて泣きますのでご遠慮ください。
この話はフィクションです。
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
虚弱なヤクザの駆け込み寺
菅井群青
恋愛
突然ドアが開いたとおもったらヤクザが抱えられてやってきた。
「今すぐ立てるようにしろ、さもなければ──」
「脅してる場合ですか?」
ギックリ腰ばかりを繰り返すヤクザの組長と、治療の相性が良かったために気に入られ、ヤクザ御用達の鍼灸院と化してしまった院に軟禁されてしまった女の話。
※なろう、カクヨムでも投稿
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
お隣さんはヤのつくご職業
古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。
残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。
元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。
……え、ちゃんとしたもん食え?
ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!!
ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ
建築基準法と物理法則なんて知りません
登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。
2020/5/26 完結
ヤクザの組長は随分と暇らしい
海野 月
恋愛
キャバクラでバイトするリカ
店に来たヤクザの組長である中井律希のテーブルにつかされた
目当ての女の接客じゃないことに面倒くさそうな態度だったこの男。それがどうして――
「リカちゃん。俺の女になって」
初めての彼氏がヤクザなんて絶対にごめんだ!
汚い手も使いながらあの手この手で迫ってくる中井を躱し、平和な日常を取り戻そうとあがくストーリー
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる