248 / 257
八章
9、方向音痴
しおりを挟む
帰り道。わたしたちは、あの坊やのお家へと立ち寄ることにしました。門の外に、そっと琥太郎さんが拾った桜を置くだけでよかったのです。
もし気づいてくれるのなら、それでいい。気づかれなければ、それでもしょうがない。
わたしたち大人の考えは一致していましたが、琥太郎さんはそうではないようでした。
「ぜったいに、あの子、よろこぶねん」
桜並木の下を戻る時。白い頬を上気させて、琥太郎さんは小さい体そのものが春の柔らかな薄紅に染まっていました。
両手にはいっぱいの桜の花、そして花びら。むろん、小さな手ですから、持てる数は限られています。
「はよ、つかへんかなぁ」
「そうやな。電車に頑張ってもらわなあかんな」
「ぼくが、はしったらええんちゃうかな」
電車の中で琥太郎さんが走って、果たして意味があるのでしょうか。蒼一郎さんとわたしは、向かい合わせに座席に腰かけて苦笑しました。
凪いだ瀬戸内海は、海面もなめらかで、夕暮れには早い午後の空を映していました。
少し上げた窓から入り込む風は、潮の香りを伴っていましたが、肌にも髪にも柔らかでした。
滅多に赴くことはないのですが、東京に行く時などは、山が近くになく、風が乾いていることも不思議でならず。土埃もこちらよりも多く舞っている気がして、すぐに肌が乾燥するのです。
汽車ほどにはうるさくなく、黒い煙も撒き散らさない電車は、線路のつなぎ目の規則正しい音を立てています。
ふと蒼一郎さんが辺りを見まわして、目を細めました。
「走らへんのか? 琥太郎。今やったら、人もほとんどおらへんで」
「そんな、おぎょうぎのわるいこと、せぇへんもん」
「なんや、口だけかぁ。せやったら、お父さんが走ってきたろか? ちょっと電車が速よなるかもしれへんで」
冗談であると分かってはいるのに、わたしはふるふると首を振り。琥太郎さんはというと「やめてぇ、はずかしい」と必死に蒼一郎さんの羽織を摑むのです。
小さな手にしっかりと羽織を握られた蒼一郎さんはというと、にやにやと「なんやぁ、意気地がないなぁ」とからかうのでした。
「意地が悪いですよ」
「まぁまぁ。絲さん、今日は疲れたんとちゃうか? よう、歩いたからなぁ」
もう。すぐに話を逸らすんですから。
わたしは口を尖らせましたが、結局すぐに笑みがこぼれてしまうのです。
◇◇◇
最寄りの驛を降りると、琥太郎さんは一目散に走りだしました。
木の階段につまずきそうになりながら、それでも転ぶことはなく、方向も道も確認せずに駆けるのです。
「待て。待つんや、琥太郎。そっちやない」
蒼一郎さんとわたしは、切符を驛員さんに渡すのももどかしく、小さな背中を追いかけしたす。
向かう先に希望があるのか、或いは光があるのか。両手で手巾に包んだ桜の花をしっかりと握り、琥太郎さんは滲んだ春の青空の下を進みます。
あんなに歩いたとも思えぬ、軽やかな足音。空にはさざ波に似た細かな白い雲が散り、年の割にませたところのあるのに怖がりな琥太郎さんが、今ばかりは勇ましく見えるのです。
まぁ、逆方向に向かっているのですけれど。
運動が苦手なはずの琥太郎さんの足は、今日に限っては速く、蒼一郎さんもなかなか追いつけません。
「あいつ、方向音痴なんか? なんで正反対の方に行くねん」
結局、背後からひょいと蒼一郎さんに抱き上げられて、琥太郎さんはばたばたと空中で足を動かしました。
「もうっ。はなしてよ。はずかしいやんか」
まるで猫を持ちあげる時のように両脇に手を入れられて、琥太郎さんは結局足をだらりとさせました。
その前を走りすぎる人力車と、大八車。
土埃を立てて走り去るそれらを一瞥し、蒼一郎さんはため息を洩らします。
「あんなぁ。自動車やのうて、人が牽いてる俥でも、ぶつかったら怪我するねん。琥太郎みたいな小さい子ぉやったら、ほんまに危ないねんで」
「けど……ぼく、おはなあげたいから」
「あの子も、自分の為に琥太郎が怪我をしたって知ったら悲しむやろ」
そのことに思い至らなかった琥太郎さんは、目を見開いた後に、小さく「うん」と頷いたのでした。
相変わらず、蒼一郎さんに両脇を抱えられたまま。
もし気づいてくれるのなら、それでいい。気づかれなければ、それでもしょうがない。
わたしたち大人の考えは一致していましたが、琥太郎さんはそうではないようでした。
「ぜったいに、あの子、よろこぶねん」
桜並木の下を戻る時。白い頬を上気させて、琥太郎さんは小さい体そのものが春の柔らかな薄紅に染まっていました。
両手にはいっぱいの桜の花、そして花びら。むろん、小さな手ですから、持てる数は限られています。
「はよ、つかへんかなぁ」
「そうやな。電車に頑張ってもらわなあかんな」
「ぼくが、はしったらええんちゃうかな」
電車の中で琥太郎さんが走って、果たして意味があるのでしょうか。蒼一郎さんとわたしは、向かい合わせに座席に腰かけて苦笑しました。
凪いだ瀬戸内海は、海面もなめらかで、夕暮れには早い午後の空を映していました。
少し上げた窓から入り込む風は、潮の香りを伴っていましたが、肌にも髪にも柔らかでした。
滅多に赴くことはないのですが、東京に行く時などは、山が近くになく、風が乾いていることも不思議でならず。土埃もこちらよりも多く舞っている気がして、すぐに肌が乾燥するのです。
汽車ほどにはうるさくなく、黒い煙も撒き散らさない電車は、線路のつなぎ目の規則正しい音を立てています。
ふと蒼一郎さんが辺りを見まわして、目を細めました。
「走らへんのか? 琥太郎。今やったら、人もほとんどおらへんで」
「そんな、おぎょうぎのわるいこと、せぇへんもん」
「なんや、口だけかぁ。せやったら、お父さんが走ってきたろか? ちょっと電車が速よなるかもしれへんで」
冗談であると分かってはいるのに、わたしはふるふると首を振り。琥太郎さんはというと「やめてぇ、はずかしい」と必死に蒼一郎さんの羽織を摑むのです。
小さな手にしっかりと羽織を握られた蒼一郎さんはというと、にやにやと「なんやぁ、意気地がないなぁ」とからかうのでした。
「意地が悪いですよ」
「まぁまぁ。絲さん、今日は疲れたんとちゃうか? よう、歩いたからなぁ」
もう。すぐに話を逸らすんですから。
わたしは口を尖らせましたが、結局すぐに笑みがこぼれてしまうのです。
◇◇◇
最寄りの驛を降りると、琥太郎さんは一目散に走りだしました。
木の階段につまずきそうになりながら、それでも転ぶことはなく、方向も道も確認せずに駆けるのです。
「待て。待つんや、琥太郎。そっちやない」
蒼一郎さんとわたしは、切符を驛員さんに渡すのももどかしく、小さな背中を追いかけしたす。
向かう先に希望があるのか、或いは光があるのか。両手で手巾に包んだ桜の花をしっかりと握り、琥太郎さんは滲んだ春の青空の下を進みます。
あんなに歩いたとも思えぬ、軽やかな足音。空にはさざ波に似た細かな白い雲が散り、年の割にませたところのあるのに怖がりな琥太郎さんが、今ばかりは勇ましく見えるのです。
まぁ、逆方向に向かっているのですけれど。
運動が苦手なはずの琥太郎さんの足は、今日に限っては速く、蒼一郎さんもなかなか追いつけません。
「あいつ、方向音痴なんか? なんで正反対の方に行くねん」
結局、背後からひょいと蒼一郎さんに抱き上げられて、琥太郎さんはばたばたと空中で足を動かしました。
「もうっ。はなしてよ。はずかしいやんか」
まるで猫を持ちあげる時のように両脇に手を入れられて、琥太郎さんは結局足をだらりとさせました。
その前を走りすぎる人力車と、大八車。
土埃を立てて走り去るそれらを一瞥し、蒼一郎さんはため息を洩らします。
「あんなぁ。自動車やのうて、人が牽いてる俥でも、ぶつかったら怪我するねん。琥太郎みたいな小さい子ぉやったら、ほんまに危ないねんで」
「けど……ぼく、おはなあげたいから」
「あの子も、自分の為に琥太郎が怪我をしたって知ったら悲しむやろ」
そのことに思い至らなかった琥太郎さんは、目を見開いた後に、小さく「うん」と頷いたのでした。
相変わらず、蒼一郎さんに両脇を抱えられたまま。
0
あなたにおすすめの小説
ヤンデレヤクザの束縛婚から逃れられません!
古亜
恋愛
旧題:ヤンデレヤクザの束縛婚〜何も覚えていませんが〜
なぜかここ一年の間の記憶を失い、なぜかその間にヤクザの若頭と結婚することになってました。
書いてみたかった記憶喪失もの。相変わらずのヤクザものです。
文字数バラバラで40話くらい。
なんでも許せる方向け。苦手な方は即回れ右でお願いします。
お肌に合わないと感じたら即座に使用を止めてください。誤字脱字等はご指摘いただければありがたく修正させていただきます。肌に合わない、想像と違った等の批判否定は豆腐メンタルにきて泣きますのでご遠慮ください。
この話はフィクションです。
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
虚弱なヤクザの駆け込み寺
菅井群青
恋愛
突然ドアが開いたとおもったらヤクザが抱えられてやってきた。
「今すぐ立てるようにしろ、さもなければ──」
「脅してる場合ですか?」
ギックリ腰ばかりを繰り返すヤクザの組長と、治療の相性が良かったために気に入られ、ヤクザ御用達の鍼灸院と化してしまった院に軟禁されてしまった女の話。
※なろう、カクヨムでも投稿
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
ヤクザの組長は随分と暇らしい
海野 月
恋愛
キャバクラでバイトするリカ
店に来たヤクザの組長である中井律希のテーブルにつかされた
目当ての女の接客じゃないことに面倒くさそうな態度だったこの男。それがどうして――
「リカちゃん。俺の女になって」
初めての彼氏がヤクザなんて絶対にごめんだ!
汚い手も使いながらあの手この手で迫ってくる中井を躱し、平和な日常を取り戻そうとあがくストーリー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる