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八章
10、門の前
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「こっちやで」
蒼一郎さんに手を引かれた琥太郎さんは、おとなしくついて歩きました。
今日はたくさん歩いたので、普段なら「おとうさん、おんぶして」とか「おかあさん、だっこ」と、ぐずり始める頃ですのに。
「もう、ここから高瀬さんとこの屋敷や」
「広いですね」
そう応じた後で、あの坊やのお家は地主であることを思い出しました。
むろん、蒼一郎さんのお家も、組の人が住み込んでいるので、相当に広いのですが。両親と坊やと使用人が三人ほどと伺っていたので。
蒼一郎さんが指さす築地塀は長く。塀の上の銀鼠色の瓦に、傾きかけた太陽が照りつく光を零していました。
風は停滞したように止み、塀の上から道の上を覆う細い枝は、若葉の芽吹きの浅緑をまとっていました。
ひっそりとした静けさに包まれたお屋敷。常にどこからか野太い話し声の聞こえる、三條家の賑わいとは随分と違います。
「あ、おった」
突然、琥太郎さんが蒼一郎さんの手をふり払い、駆けてゆきました。ぱたぱた、と軽やかな足音。小さな手が握りしめる手巾から、ひらひらとうすい花びらがこぼれ落ちてゆきます。
まるで光の軌跡のように。
見れば、門の石段に幼子が座っていました。まだ夜には早いのに、明らかに寝間着姿で小さく背を丸めて、細い腕で両膝を抱えて。
黒い髪よりも、さらに黒く見える瞳。形容としては「黒」と表現しても、実際に真黒な瞳の人などおりません。
なのに、その子の目には光が宿っていないように、夜の闇そのものを映しているか如くに暗いのです。
どこを見るでもなくぼんやりと、夕暮れ前の影が道に移ろいゆくさまを、ただ眺めているというたたずまい。
わたしは背筋がぞくりとしました。
春のさなかですのに、うすら寒い冬の冷気に肌を撫でられた気がしたのです。
これは子どもの表情ではないわ。
「なぁなぁ。おはな、もってきたで」
琥太郎さんが張り上げた声に、坊やは顔を上げました。小首をかしげて、それでも自分に話しかけられているとは分からぬ様子で、また視線をうつろに地面に落とします。
誰からも可愛がられて育った琥太郎さんは、遠慮もなしにその子の隣に腰を下ろしました。
けれど母親だから分かるのです。
普段であれば、石段や地面にお尻をつけて座ることはありません。繊細な琥太郎さんは、しゃがみこむだけで、ぺたりと座ったりしないのです。
なのに今日は坊やの隣に、少しばかりの距離を置いて、彼と同じように数寄屋門の前の平たい石段に座りました。
その距離の近さが気になったのでしょうか。坊やが横に位置をずらします。
「琥太郎。あんまり厚かましいことしたらあかんで」と蒼一郎さんが呼びかけるのですが、琥太郎さんは知らん顔。
いえ、あえて聞こえないふりをしているようなのです。
「あの子、確か欧之丞っていうはずやねんけど。夕方も近いし、肌寒くなってくるのに。なんで家の中やのうて、門で座っとんのやろ」
「もしかしたらですけど。お母さんの帰りを待っているのではないかしら」
わたしの推測が当たっているかどうかは分かりません。
けれど、午前中に大通りで彼に出会った時。小さな欧之丞さんはお清さんに抱っこされて、去ってゆく母親の背中を見ていました。はっきりと。
自動車や俥、馬車が往来する大通りは塵埃も多く、濁ったにおいが澱んでいるもの。そんな中でも、欧之丞さんからはきつい消毒薬のにおいがしていたのです。
病院で手当てをしてもらった欧之丞さんは、今日一日、お布団に入って過ごしたのでしょう。
広くて静かな、静かすぎる広いお屋敷の一室で、ただ天井を眺めて。そして今は、道に落ちる影を眺めて。
ゆらぐ影を見るだけならば、お庭でも縁側でもいいはずです。
「あの子、お母さんの帰りを待っているんだわ」
「なんで? 怪我さしたん、その母親やんか」
蒼一郎さんは、素っ頓狂な声を上げました。
たぶん、わたし達は幸せに育っているのでしょう。
蒼一郎さんは、三條組の跡継ぎとしてお父さまに厳しく育てられと伺いましたが。それでもお母さまは、お優しかったのだと思います。
わたしもそう。体が弱くて、寝床についてばかりの子ども時代でしたが。家族に邪険に扱われたことなど一度もなく、桃や葡萄を父がよく買って帰ってくれました。
そんな当たり前が、欧之丞さんにはないのです。
パシフィック・メイル商會の前で、ずっとずっと母親の背中が小さくなるのを見つめていた時と同じように。きっと自分を叩いた母親が、廊下を去っていく背中を見つめてもいたのでしょう。
泣けばもっと怒られる。引き留めても叱られる。
ならば何も言わずに待っていればいい。いずれ母親の機嫌が直るまで。
胸が引き裂かれるような心地でした。喉に硬い結晶が詰まったように、苦しくて。
もしわたしが母親ならば、そんなつらい思いはさせないのに。
けれど、欧之丞さんはよそさまのお子さんです。親族でもないわたし達がどうすることもできないのです。
「てぇだして」
突然、琥太郎さんに命じられて、欧之丞さんは反射的にもみじのような両手を前に差し出しました。まるで条件反射のように。
寝間着の袖から覗く白い包帯。微かに漂う消毒のつんとしたにおい。
「おみやげ。ええこは、おみやげがもらえるんやで」
琥太郎さんは手巾を広げて、中の桜を欧之丞さんの両手にのせます。
それは小さな花の瀧、花びらの奔流、ほとぼしる白と薄紅。
真っ黒だった欧之丞さんの瞳に、春の宵の一番星に似た光が宿りました。それはきらきらと光って、見えたのです。
蒼一郎さんに手を引かれた琥太郎さんは、おとなしくついて歩きました。
今日はたくさん歩いたので、普段なら「おとうさん、おんぶして」とか「おかあさん、だっこ」と、ぐずり始める頃ですのに。
「もう、ここから高瀬さんとこの屋敷や」
「広いですね」
そう応じた後で、あの坊やのお家は地主であることを思い出しました。
むろん、蒼一郎さんのお家も、組の人が住み込んでいるので、相当に広いのですが。両親と坊やと使用人が三人ほどと伺っていたので。
蒼一郎さんが指さす築地塀は長く。塀の上の銀鼠色の瓦に、傾きかけた太陽が照りつく光を零していました。
風は停滞したように止み、塀の上から道の上を覆う細い枝は、若葉の芽吹きの浅緑をまとっていました。
ひっそりとした静けさに包まれたお屋敷。常にどこからか野太い話し声の聞こえる、三條家の賑わいとは随分と違います。
「あ、おった」
突然、琥太郎さんが蒼一郎さんの手をふり払い、駆けてゆきました。ぱたぱた、と軽やかな足音。小さな手が握りしめる手巾から、ひらひらとうすい花びらがこぼれ落ちてゆきます。
まるで光の軌跡のように。
見れば、門の石段に幼子が座っていました。まだ夜には早いのに、明らかに寝間着姿で小さく背を丸めて、細い腕で両膝を抱えて。
黒い髪よりも、さらに黒く見える瞳。形容としては「黒」と表現しても、実際に真黒な瞳の人などおりません。
なのに、その子の目には光が宿っていないように、夜の闇そのものを映しているか如くに暗いのです。
どこを見るでもなくぼんやりと、夕暮れ前の影が道に移ろいゆくさまを、ただ眺めているというたたずまい。
わたしは背筋がぞくりとしました。
春のさなかですのに、うすら寒い冬の冷気に肌を撫でられた気がしたのです。
これは子どもの表情ではないわ。
「なぁなぁ。おはな、もってきたで」
琥太郎さんが張り上げた声に、坊やは顔を上げました。小首をかしげて、それでも自分に話しかけられているとは分からぬ様子で、また視線をうつろに地面に落とします。
誰からも可愛がられて育った琥太郎さんは、遠慮もなしにその子の隣に腰を下ろしました。
けれど母親だから分かるのです。
普段であれば、石段や地面にお尻をつけて座ることはありません。繊細な琥太郎さんは、しゃがみこむだけで、ぺたりと座ったりしないのです。
なのに今日は坊やの隣に、少しばかりの距離を置いて、彼と同じように数寄屋門の前の平たい石段に座りました。
その距離の近さが気になったのでしょうか。坊やが横に位置をずらします。
「琥太郎。あんまり厚かましいことしたらあかんで」と蒼一郎さんが呼びかけるのですが、琥太郎さんは知らん顔。
いえ、あえて聞こえないふりをしているようなのです。
「あの子、確か欧之丞っていうはずやねんけど。夕方も近いし、肌寒くなってくるのに。なんで家の中やのうて、門で座っとんのやろ」
「もしかしたらですけど。お母さんの帰りを待っているのではないかしら」
わたしの推測が当たっているかどうかは分かりません。
けれど、午前中に大通りで彼に出会った時。小さな欧之丞さんはお清さんに抱っこされて、去ってゆく母親の背中を見ていました。はっきりと。
自動車や俥、馬車が往来する大通りは塵埃も多く、濁ったにおいが澱んでいるもの。そんな中でも、欧之丞さんからはきつい消毒薬のにおいがしていたのです。
病院で手当てをしてもらった欧之丞さんは、今日一日、お布団に入って過ごしたのでしょう。
広くて静かな、静かすぎる広いお屋敷の一室で、ただ天井を眺めて。そして今は、道に落ちる影を眺めて。
ゆらぐ影を見るだけならば、お庭でも縁側でもいいはずです。
「あの子、お母さんの帰りを待っているんだわ」
「なんで? 怪我さしたん、その母親やんか」
蒼一郎さんは、素っ頓狂な声を上げました。
たぶん、わたし達は幸せに育っているのでしょう。
蒼一郎さんは、三條組の跡継ぎとしてお父さまに厳しく育てられと伺いましたが。それでもお母さまは、お優しかったのだと思います。
わたしもそう。体が弱くて、寝床についてばかりの子ども時代でしたが。家族に邪険に扱われたことなど一度もなく、桃や葡萄を父がよく買って帰ってくれました。
そんな当たり前が、欧之丞さんにはないのです。
パシフィック・メイル商會の前で、ずっとずっと母親の背中が小さくなるのを見つめていた時と同じように。きっと自分を叩いた母親が、廊下を去っていく背中を見つめてもいたのでしょう。
泣けばもっと怒られる。引き留めても叱られる。
ならば何も言わずに待っていればいい。いずれ母親の機嫌が直るまで。
胸が引き裂かれるような心地でした。喉に硬い結晶が詰まったように、苦しくて。
もしわたしが母親ならば、そんなつらい思いはさせないのに。
けれど、欧之丞さんはよそさまのお子さんです。親族でもないわたし達がどうすることもできないのです。
「てぇだして」
突然、琥太郎さんに命じられて、欧之丞さんは反射的にもみじのような両手を前に差し出しました。まるで条件反射のように。
寝間着の袖から覗く白い包帯。微かに漂う消毒のつんとしたにおい。
「おみやげ。ええこは、おみやげがもらえるんやで」
琥太郎さんは手巾を広げて、中の桜を欧之丞さんの両手にのせます。
それは小さな花の瀧、花びらの奔流、ほとぼしる白と薄紅。
真っ黒だった欧之丞さんの瞳に、春の宵の一番星に似た光が宿りました。それはきらきらと光って、見えたのです。
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