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二章
1、朝
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旦那さまの邸で暮らすようになって二日後。
わたくしは、女学校へ登校することにしました。
「学校までの道が分からないだろうから。途中まで一緒に行こう」
朝食をとりながら、旦那さま……いえ、この場合は先生ですね。高瀬先生はおっしゃいました。
夕食は二人の寝室でもある座敷で、朝食と昼食は畳の上にテーブルと椅子を置いた洋室でいただきます。
窓の上部はステンドグラスで、磨き抜かれた床は黒々とし、壁は中ほどまで板が張られた腰壁の部屋です。
わたくしの家にも洋室はありましたが。ステンドグラスはなく、仄暗い床に薄緑や水色の光が落ちるさまは、まるで宝石が床で煌めいているようで、見ていてわくわくします。
「懐かしいですね」
ふとこぼれた言葉に、自分でも首をかしげました。
壁や床に散りばめられるステンドグラスの光。かつて同じ光景を見たことがあります。
もしかしたら小さい時に、教会を訪れたことでもあるのでしょうか。
「翠子さんは、甲かな」
「なんのことですか?」
かりっと焼かれたパンをちぎりながら、先生はゆったりとうなずきました。わたくしには何のことかさっぱり分かりません。
とろりと煮込まれた苺のジャムを匙ですくいながら、わたくしは続く言葉を待ちました。
「成績のことだ」
おかしなことを仰います。わたくしの数学の成績が甲乙丙丁ではぎりぎり丙か丁であることを、先生はご存じのはずですのに。
「数学のことではない」と、先生はふっと笑いました。少し馬鹿にしたように見えたのは錯覚ではないと思います。
「では、何のことですか? お習字くらいでしたら甲をいただいていますけど」
「そうだね、手芸も裁縫も、体操も成績が悪いからな。翠子さんは。国語と外国語は、そこそこだな」
真実ですが、そうずけずけと言ってほしくはありません。
「俺が言っているのは、昨夜の乱れようだ。男に触れられるのは初めてだろうに、あんな風に煽ることができるのは、素晴らしいと言っているんだ」
わたくしの手から、匙が落ちました。
硬い音を立ててテーブルに落下した匙から、赤いジャムの塊がこぼれます。
「あ、あの……わたくし、そんな……」
「覚えていない?」
とっさにうなずきましたが、本当はうっすらと覚えています。
先生の……旦那さまの指が与えてくれる快感を。
昨夜のことを思い出すと、腰のあたりがもぞもぞするような、妙な感覚に襲われます。
「困ったな。覚えていないなら、また教え込まないといけないな」
「え? またですか。あれで終わりではないんですか?」
思わず返してしまってから、はっとしました。
向かいの椅子に座る先生の口元が、微笑んでいたからです。
「覚えているじゃないか。嘘はいけない、翠子さん。まだ躾が足りていないようだな」
ステンドグラスからこぼれる光は明るくて、清らかなほど美しいのに。わたくしと先生の間には、まだ夜が残っているようでした。
◇◇◇
お清さんという女中さんに見送られ、わたくしと先生は家を出ました。先生のお邸には何人かの使用人がいるようですが、このお清さんが一番長く勤めていらっしゃるそうです。
「本当によくお似合いですこと」
広い玄関の三和土に並んで立つ先生とわたくしを眺めながら、なぜかお清さんは割烹着の袖で目元を押さえていました。
お清さん、どこかで会った気がするのですけど。先生のお家の方ですから、学校に来られたことがあるのかもしれませんね。
久しぶりの登校です。家から持ってきた薄桃色の着物をまとい、藤色の袴を着付けます。
髪は後頭部に髪留めを付けて、背中へと垂らします。姿見の前で、後ろの髪がはねていないのを確認して終了です。
広い玄関で、女中さんが持たせてくれたお弁当を鞄に入れて、履き慣れた足首までのブーツに足を入れます。
「新しいブーツを用意した方がいいな」
「いえ、これで十分です」
先に玄関の三和土に下りていた先生が、わたくしの足下を眺めています。恥ずかしくなったわたくしは、思わず鞄で足下を隠しました。
実家に、ブーツを新調する余裕などもちろんありません。せめてわたくしがお給金をいただける仕事をしていれば、違うのかもしれませんが。
わたくしの代金は、とうに笠井家に払われているのですから。
わたくしは、女学校へ登校することにしました。
「学校までの道が分からないだろうから。途中まで一緒に行こう」
朝食をとりながら、旦那さま……いえ、この場合は先生ですね。高瀬先生はおっしゃいました。
夕食は二人の寝室でもある座敷で、朝食と昼食は畳の上にテーブルと椅子を置いた洋室でいただきます。
窓の上部はステンドグラスで、磨き抜かれた床は黒々とし、壁は中ほどまで板が張られた腰壁の部屋です。
わたくしの家にも洋室はありましたが。ステンドグラスはなく、仄暗い床に薄緑や水色の光が落ちるさまは、まるで宝石が床で煌めいているようで、見ていてわくわくします。
「懐かしいですね」
ふとこぼれた言葉に、自分でも首をかしげました。
壁や床に散りばめられるステンドグラスの光。かつて同じ光景を見たことがあります。
もしかしたら小さい時に、教会を訪れたことでもあるのでしょうか。
「翠子さんは、甲かな」
「なんのことですか?」
かりっと焼かれたパンをちぎりながら、先生はゆったりとうなずきました。わたくしには何のことかさっぱり分かりません。
とろりと煮込まれた苺のジャムを匙ですくいながら、わたくしは続く言葉を待ちました。
「成績のことだ」
おかしなことを仰います。わたくしの数学の成績が甲乙丙丁ではぎりぎり丙か丁であることを、先生はご存じのはずですのに。
「数学のことではない」と、先生はふっと笑いました。少し馬鹿にしたように見えたのは錯覚ではないと思います。
「では、何のことですか? お習字くらいでしたら甲をいただいていますけど」
「そうだね、手芸も裁縫も、体操も成績が悪いからな。翠子さんは。国語と外国語は、そこそこだな」
真実ですが、そうずけずけと言ってほしくはありません。
「俺が言っているのは、昨夜の乱れようだ。男に触れられるのは初めてだろうに、あんな風に煽ることができるのは、素晴らしいと言っているんだ」
わたくしの手から、匙が落ちました。
硬い音を立ててテーブルに落下した匙から、赤いジャムの塊がこぼれます。
「あ、あの……わたくし、そんな……」
「覚えていない?」
とっさにうなずきましたが、本当はうっすらと覚えています。
先生の……旦那さまの指が与えてくれる快感を。
昨夜のことを思い出すと、腰のあたりがもぞもぞするような、妙な感覚に襲われます。
「困ったな。覚えていないなら、また教え込まないといけないな」
「え? またですか。あれで終わりではないんですか?」
思わず返してしまってから、はっとしました。
向かいの椅子に座る先生の口元が、微笑んでいたからです。
「覚えているじゃないか。嘘はいけない、翠子さん。まだ躾が足りていないようだな」
ステンドグラスからこぼれる光は明るくて、清らかなほど美しいのに。わたくしと先生の間には、まだ夜が残っているようでした。
◇◇◇
お清さんという女中さんに見送られ、わたくしと先生は家を出ました。先生のお邸には何人かの使用人がいるようですが、このお清さんが一番長く勤めていらっしゃるそうです。
「本当によくお似合いですこと」
広い玄関の三和土に並んで立つ先生とわたくしを眺めながら、なぜかお清さんは割烹着の袖で目元を押さえていました。
お清さん、どこかで会った気がするのですけど。先生のお家の方ですから、学校に来られたことがあるのかもしれませんね。
久しぶりの登校です。家から持ってきた薄桃色の着物をまとい、藤色の袴を着付けます。
髪は後頭部に髪留めを付けて、背中へと垂らします。姿見の前で、後ろの髪がはねていないのを確認して終了です。
広い玄関で、女中さんが持たせてくれたお弁当を鞄に入れて、履き慣れた足首までのブーツに足を入れます。
「新しいブーツを用意した方がいいな」
「いえ、これで十分です」
先に玄関の三和土に下りていた先生が、わたくしの足下を眺めています。恥ずかしくなったわたくしは、思わず鞄で足下を隠しました。
実家に、ブーツを新調する余裕などもちろんありません。せめてわたくしがお給金をいただける仕事をしていれば、違うのかもしれませんが。
わたくしの代金は、とうに笠井家に払われているのですから。
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