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一章
10、電話
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近くのホテルまでは徒歩で五分ほどだ。渋る翠子さんの手を引っ張って、落葉樹の明るい道を歩く。
森に静かにたたずむ厳かなホテルは濃い茶色の木造で、木々に溶け込むかのようだ。
受付で電話を借り、三條組の番号を交換手に告げる。
その間、翠子さんは俺の傍から離れ、たった一人でホテルのロビーにある椅子に座っていた。
時おり、ちらっとこちらを見るが、またすぐに顔を背けてしまう。
いじらしいな、とは思うが。友人と同じ男を好きになって苦しむとか、少女小説の読みすぎなのではないか?
あ、どこかの下衆野郎が翠子さんに声をかけた。
こら、翠子さんは困っているだろ。彼女の連れは、ここにいるんだ。さっさと離れろ。
ようやく電話がつながり、三條組の者が琥太郎兄さんに取り次いでくれた。
俺は、背後の翠子さんと男が気になって仕方がない。
『なんや、欧之丞。今、別荘やろ。兄ちゃんがおらんと寂しいんか。甘えたやな』
呑気な声が、受話器から聞こえてくる。
まったくもってイライラする。琥太兄が誰を好きになろうが勝手だが、回りくどいやり方をするから、俺まで振りまわされるんだ。
「寂しくないし、そういうお約束はいらないから」
『なんやー、冷たいなぁ。そうや、エリスは元気にしとうか? もう私のこと忘れたんちゃうやろか。寂しいなぁ』
イラッ。
俺はこめかみが引きつるのを感じた。
「本題に入るぞ。琥太兄、深山さんに短歌、渡しただろ!」
『なんで知っとん?』
「俺が訊きたいのは、渡したかどうかだ」
『渡したでー。でも短歌だけやのうて……』
「分かった」
俺は、さっさと電話を切った。他に何か深山さんに渡したらしいが、短歌の件だと分かったのなら問題はすでに解決した。
俺は電話代を支払うと、翠子さんに向かって急いだ。
◇◇◇
自分でも、いじけているとは思うのです。
だけど、文子さんが友人であるわたくしにではなく、旦那さまに電報を出したこと。それが気にかかってしまって。
ホテルのロビーに置かれている案内のリーフレットを眺めながらも、電話をかけていらっしゃる旦那さまのことが気にかかってしまいます。
でも、しげしげと眺めるのも失礼ですし。
リーフレットには洋室と日本室の宿泊料、それにグリルルームで提供されている料理などが記されています。
もちろん、内容は頭に入ってきません。
窓辺の籐の椅子に座っていると、急に前が暗くなりました。
もうお電話が終わったのかしら? そう思って顔を上げると、見知らぬ男性が前に立っていました。
「え、あの?」
旦那さまは? そう思って辺りを見ると、まだ電話をなさっています。
「君、ここに泊まっているの?」
「いえ、違いますけど」
「じゃあ、別荘に来ている人なんだね。どうだい? 暇そうだし、ぼくと庭球をしないかい」
「む、無理です」
わたくしは顔の前で両手を振りました。
庭球なんて、苦手中の苦手です。普通に走るのも遅いのに、ラケットを持って球を追いかけて、それを打ち返すだなんて。そんな器用なことできるはずがありません。
「大丈夫、簡単だから。ぼくが教えてあげるよ」
「いえ、遠慮します」
「遠慮なんてしなくていいよ。ぼくもこのホテルに長逗留していてね」
少し湿った手が、わたくしの肩に置かれました。
わたくしは「ひっ」という妙な声を出して、顔を引きつらせました。
男の人が、わたくしに触れるだなんて。
半袖から伸びる腕に、鳥肌が立ちます。
無理です、怖いです。庭球も嫌ですし、気軽に声をかけてくる男性も苦手です。
「失礼。うちの妻に何か用ですか?」
突然、肩に置かれていた男性の手がふり払われました。
顔を上げると、旦那さまがわたくしとその人の間に立ちふさがっています。ちょうど旦那さまの背中にわたくしの姿が隠される形です。
「用事があるなら、夫である私が伺いますが?」
「え、いや。別に用事という訳では……」
旦那さまに睨みつけられて、その人はすぐに立ち去りました。
「まったく。あなたからは目が離せないな。まぁ、俺のせいでもあるんだが」
大きな手が、わたくしの頭を撫でてくださいます。いつの間にか鳥肌は治まっていました。
「電話は終わったんですか?」
「ああ。琥太兄がまた小難しい手紙を出したらしい。深山さんの電報は、その解説の件だろ」
「そうだったんですか……」
ほっとしたせいで、わたくしは表情が緩んでしまいました。
さっきの男性に触れられた緊張からも同時に解放されて、椅子に座ったままで旦那さまの腰に抱きつきます。
「よかったです。本当に」
「安心してくださってよかったですが。俺を信用しなさすぎでは? お嬢さま」
だって旦那さまは魅力的なんですもの。不安はあって当然です。
ふいに旦那さまがわたくしの両頬を、片手の指で挟みました。
頬がむにっと押されて、唇がまるで蛸の口のようになってしまいます。
「な、なにをなさるんですか? 恥ずかしいじゃないですか」
「俺の愛情を信じなかったから、お仕置き」
ロビーを歩く紳士淑女が、わたくしを横目で見て、くすくすと笑っています。
やめてください。恥ずかしすぎです。
森に静かにたたずむ厳かなホテルは濃い茶色の木造で、木々に溶け込むかのようだ。
受付で電話を借り、三條組の番号を交換手に告げる。
その間、翠子さんは俺の傍から離れ、たった一人でホテルのロビーにある椅子に座っていた。
時おり、ちらっとこちらを見るが、またすぐに顔を背けてしまう。
いじらしいな、とは思うが。友人と同じ男を好きになって苦しむとか、少女小説の読みすぎなのではないか?
あ、どこかの下衆野郎が翠子さんに声をかけた。
こら、翠子さんは困っているだろ。彼女の連れは、ここにいるんだ。さっさと離れろ。
ようやく電話がつながり、三條組の者が琥太郎兄さんに取り次いでくれた。
俺は、背後の翠子さんと男が気になって仕方がない。
『なんや、欧之丞。今、別荘やろ。兄ちゃんがおらんと寂しいんか。甘えたやな』
呑気な声が、受話器から聞こえてくる。
まったくもってイライラする。琥太兄が誰を好きになろうが勝手だが、回りくどいやり方をするから、俺まで振りまわされるんだ。
「寂しくないし、そういうお約束はいらないから」
『なんやー、冷たいなぁ。そうや、エリスは元気にしとうか? もう私のこと忘れたんちゃうやろか。寂しいなぁ』
イラッ。
俺はこめかみが引きつるのを感じた。
「本題に入るぞ。琥太兄、深山さんに短歌、渡しただろ!」
『なんで知っとん?』
「俺が訊きたいのは、渡したかどうかだ」
『渡したでー。でも短歌だけやのうて……』
「分かった」
俺は、さっさと電話を切った。他に何か深山さんに渡したらしいが、短歌の件だと分かったのなら問題はすでに解決した。
俺は電話代を支払うと、翠子さんに向かって急いだ。
◇◇◇
自分でも、いじけているとは思うのです。
だけど、文子さんが友人であるわたくしにではなく、旦那さまに電報を出したこと。それが気にかかってしまって。
ホテルのロビーに置かれている案内のリーフレットを眺めながらも、電話をかけていらっしゃる旦那さまのことが気にかかってしまいます。
でも、しげしげと眺めるのも失礼ですし。
リーフレットには洋室と日本室の宿泊料、それにグリルルームで提供されている料理などが記されています。
もちろん、内容は頭に入ってきません。
窓辺の籐の椅子に座っていると、急に前が暗くなりました。
もうお電話が終わったのかしら? そう思って顔を上げると、見知らぬ男性が前に立っていました。
「え、あの?」
旦那さまは? そう思って辺りを見ると、まだ電話をなさっています。
「君、ここに泊まっているの?」
「いえ、違いますけど」
「じゃあ、別荘に来ている人なんだね。どうだい? 暇そうだし、ぼくと庭球をしないかい」
「む、無理です」
わたくしは顔の前で両手を振りました。
庭球なんて、苦手中の苦手です。普通に走るのも遅いのに、ラケットを持って球を追いかけて、それを打ち返すだなんて。そんな器用なことできるはずがありません。
「大丈夫、簡単だから。ぼくが教えてあげるよ」
「いえ、遠慮します」
「遠慮なんてしなくていいよ。ぼくもこのホテルに長逗留していてね」
少し湿った手が、わたくしの肩に置かれました。
わたくしは「ひっ」という妙な声を出して、顔を引きつらせました。
男の人が、わたくしに触れるだなんて。
半袖から伸びる腕に、鳥肌が立ちます。
無理です、怖いです。庭球も嫌ですし、気軽に声をかけてくる男性も苦手です。
「失礼。うちの妻に何か用ですか?」
突然、肩に置かれていた男性の手がふり払われました。
顔を上げると、旦那さまがわたくしとその人の間に立ちふさがっています。ちょうど旦那さまの背中にわたくしの姿が隠される形です。
「用事があるなら、夫である私が伺いますが?」
「え、いや。別に用事という訳では……」
旦那さまに睨みつけられて、その人はすぐに立ち去りました。
「まったく。あなたからは目が離せないな。まぁ、俺のせいでもあるんだが」
大きな手が、わたくしの頭を撫でてくださいます。いつの間にか鳥肌は治まっていました。
「電話は終わったんですか?」
「ああ。琥太兄がまた小難しい手紙を出したらしい。深山さんの電報は、その解説の件だろ」
「そうだったんですか……」
ほっとしたせいで、わたくしは表情が緩んでしまいました。
さっきの男性に触れられた緊張からも同時に解放されて、椅子に座ったままで旦那さまの腰に抱きつきます。
「よかったです。本当に」
「安心してくださってよかったですが。俺を信用しなさすぎでは? お嬢さま」
だって旦那さまは魅力的なんですもの。不安はあって当然です。
ふいに旦那さまがわたくしの両頬を、片手の指で挟みました。
頬がむにっと押されて、唇がまるで蛸の口のようになってしまいます。
「な、なにをなさるんですか? 恥ずかしいじゃないですか」
「俺の愛情を信じなかったから、お仕置き」
ロビーを歩く紳士淑女が、わたくしを横目で見て、くすくすと笑っています。
やめてください。恥ずかしすぎです。
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