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一章
25、ウィスケ【3】
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ウィスケの香りのする接吻程度で酔ったわけでもあるまいに。翠子さんは焚き火を前に椅子にもたれてまどろんでいた。
規則正しく胸元が上下している。だが、少し顔をしかめているのは浅い眠りの中で、忠勇征露丸のにおいに苦しめられているのかもしれない。
周囲を森に囲まれているので、火の周囲には蛾や羽虫が飛んでいる。
薪が燃え落ちてごとりと崩れると、鮮やかな朱色の火の粉が散った。
翠子さんの頬は明るい色に照らされて、いつもよりも血色がよく見える。
「旦那さま。もう焚き火を消しましょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
テラスの階段を下りてきた銀司が、椅子の側に置いていた水を張った桶を手に取る。
いつもながら、よく気を配ってくれる。こちらの気配を察して、さりげなく声をかけてくれるのだから。
俺は翠子さんを抱え上げた。
湖の波が静かに岸辺に寄せる音が聞こえる。波音が聞こえるのに、潮の香りや海の生物のにおいがしないのが不思議だ。
近くの木にとまっていたフクロウが低い声で鳴いた。眠っている翠子さんは、無意識に俺の首にぎゅっとしがみつく。
「大丈夫。エリスはちゃんといるよ」
翠子さんは自身がフクロウを怖がっているのではなく、エリスが狙われることを恐れているのだ。当のエリスは、翠子さんの心配など気にせぬそぶりで、俺の足元にまとわりついている。歩きにくいことこの上ない。
二階の寝室へ上がり、翠子さんを壁際のベッドに寝かせる。昨夜ほどには、体が沈み込まない。
いい感じだ。これならいくらでも転がれるだろう。
「えーと。翠子さんの寝間着は……」
俺は箪笥を開いて、畳んでしまってある寝間着と帯紐を取りだした。それをベッドに置いて、翠子さんがまとっているブラウスのボタンを一つずつ外していく。
磨き上げられた貝ボタンは、オパールのようにも見える。だが、なにぶんにも小さすぎて俺をてこずらせるが、きっと翠子さんの指にはぴったりの大きさなのだろう。
夜気を吸い込んだブラウスの代わりに、ひなたの匂いのする寝間着を着せつける。不思議なものだ、夜にまとう寝間着の方が昼の香りがするなんて。
「う……ん」
服を脱がせた翠子さんの腕を寝間着の袖に通そうとしたとき、素肌をさらした彼女が寝返りを打った。まるで着替えを拒むかのように。
横を向いた翠子さんの柔らかな胸に、ゆうべ俺が散らした痣が残っている。
「お嬢さま、今宵は誘わないでください」
まったくもう目の毒だ。俺は翠子さんの背中を抱えて、手早く寝間着を着せつけた。ついでに髪も緩く三つ編みにしてやる。我ながら手慣れたものだ。
彼女の頭の下に枕をさし入れて、うちで使っているものよりも少し厚めの布団をかけてやる。
すぐにエリスがやってきて、翠子さんの肩の辺りで丸くなった。
「ゆっくりおやすみ、翠子さん」
起きていたら嫌がるかもしれないが、ウィスケの香りのくちづけをする。エリスが邪魔だとばかりに、翠子さんに覆いかぶさる俺の肩やら鎖骨を蹴り飛ばした。
さて、今夜は俺も暖かく眠れるかな?
階下に降りてテラスに出ると、銀司が火の始末の確認をしていた。
「翠子さまは、もうお休みですか?」
「ああ、よく眠っている」
「なんか独特なにおいがしますね」
「ウィスケだ。忠勇征露丸じゃないぞ」
まだテラスに戻していない側卓に置いてある瓶を取り、蓋を開ける。小さなグラスに少し注いで、それを銀司に手渡した。飲んでみろと言葉にはせずに、目で促す。
「いただきます」と言って銀司は琥珀色の液体を口に含んだ。あ、けっこう一息に飲むんだな。そういや銀司は焼酎も飲み慣れてるんだった。
「においほどには味は強烈じゃないんですね」
「これは大好きになるか大嫌いになるか、好みが分かれる味らしいんだが。どうだ?」
銀司は少し考え込むように首を傾げた。口の中に残る味を反芻しているようだ。
「海藻みたいな匂いがしますけど。美味しいと思います」
「ほらな」
これでこのウィスケの好みは二対一だ。残念だったな翠子さん。
「『ほらな』って、何がですか?」
「いや、まぁ気にするほどのことではない」
規則正しく胸元が上下している。だが、少し顔をしかめているのは浅い眠りの中で、忠勇征露丸のにおいに苦しめられているのかもしれない。
周囲を森に囲まれているので、火の周囲には蛾や羽虫が飛んでいる。
薪が燃え落ちてごとりと崩れると、鮮やかな朱色の火の粉が散った。
翠子さんの頬は明るい色に照らされて、いつもよりも血色がよく見える。
「旦那さま。もう焚き火を消しましょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
テラスの階段を下りてきた銀司が、椅子の側に置いていた水を張った桶を手に取る。
いつもながら、よく気を配ってくれる。こちらの気配を察して、さりげなく声をかけてくれるのだから。
俺は翠子さんを抱え上げた。
湖の波が静かに岸辺に寄せる音が聞こえる。波音が聞こえるのに、潮の香りや海の生物のにおいがしないのが不思議だ。
近くの木にとまっていたフクロウが低い声で鳴いた。眠っている翠子さんは、無意識に俺の首にぎゅっとしがみつく。
「大丈夫。エリスはちゃんといるよ」
翠子さんは自身がフクロウを怖がっているのではなく、エリスが狙われることを恐れているのだ。当のエリスは、翠子さんの心配など気にせぬそぶりで、俺の足元にまとわりついている。歩きにくいことこの上ない。
二階の寝室へ上がり、翠子さんを壁際のベッドに寝かせる。昨夜ほどには、体が沈み込まない。
いい感じだ。これならいくらでも転がれるだろう。
「えーと。翠子さんの寝間着は……」
俺は箪笥を開いて、畳んでしまってある寝間着と帯紐を取りだした。それをベッドに置いて、翠子さんがまとっているブラウスのボタンを一つずつ外していく。
磨き上げられた貝ボタンは、オパールのようにも見える。だが、なにぶんにも小さすぎて俺をてこずらせるが、きっと翠子さんの指にはぴったりの大きさなのだろう。
夜気を吸い込んだブラウスの代わりに、ひなたの匂いのする寝間着を着せつける。不思議なものだ、夜にまとう寝間着の方が昼の香りがするなんて。
「う……ん」
服を脱がせた翠子さんの腕を寝間着の袖に通そうとしたとき、素肌をさらした彼女が寝返りを打った。まるで着替えを拒むかのように。
横を向いた翠子さんの柔らかな胸に、ゆうべ俺が散らした痣が残っている。
「お嬢さま、今宵は誘わないでください」
まったくもう目の毒だ。俺は翠子さんの背中を抱えて、手早く寝間着を着せつけた。ついでに髪も緩く三つ編みにしてやる。我ながら手慣れたものだ。
彼女の頭の下に枕をさし入れて、うちで使っているものよりも少し厚めの布団をかけてやる。
すぐにエリスがやってきて、翠子さんの肩の辺りで丸くなった。
「ゆっくりおやすみ、翠子さん」
起きていたら嫌がるかもしれないが、ウィスケの香りのくちづけをする。エリスが邪魔だとばかりに、翠子さんに覆いかぶさる俺の肩やら鎖骨を蹴り飛ばした。
さて、今夜は俺も暖かく眠れるかな?
階下に降りてテラスに出ると、銀司が火の始末の確認をしていた。
「翠子さまは、もうお休みですか?」
「ああ、よく眠っている」
「なんか独特なにおいがしますね」
「ウィスケだ。忠勇征露丸じゃないぞ」
まだテラスに戻していない側卓に置いてある瓶を取り、蓋を開ける。小さなグラスに少し注いで、それを銀司に手渡した。飲んでみろと言葉にはせずに、目で促す。
「いただきます」と言って銀司は琥珀色の液体を口に含んだ。あ、けっこう一息に飲むんだな。そういや銀司は焼酎も飲み慣れてるんだった。
「においほどには味は強烈じゃないんですね」
「これは大好きになるか大嫌いになるか、好みが分かれる味らしいんだが。どうだ?」
銀司は少し考え込むように首を傾げた。口の中に残る味を反芻しているようだ。
「海藻みたいな匂いがしますけど。美味しいと思います」
「ほらな」
これでこのウィスケの好みは二対一だ。残念だったな翠子さん。
「『ほらな』って、何がですか?」
「いや、まぁ気にするほどのことではない」
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