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三章
8、七夕の紙衣【3】
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指先には、千代紙のかさかさした感触。でも唇は、旦那さまに貪られるようで。
でんぷん糊のにおいも、千代紙もどちらも子どもの物なのに。こうして大人の激しいくちづけを交わしていると、頭が混乱して……息が。
息苦しさを覚えたわたくしは、旦那さまのシャツの袖に爪を立てました。
「翠子さん。ちゃんと呼吸をしなさい」
呆れたような声と共に、顔を離されます。わたくしは「はい」と返事をすると、深呼吸をしました。
ああ、焦ってしまいました。
「え?」
少し落ち着いたと思ったとたん、再び旦那さまに唇を塞がれたのです。
今度のキスは長くて、しかも貪るような激しさはなく。なのに、深いくちづけでした。
どうなさったの?
尋ねようとしても唇は塞がれたままです。わたくしは瞼を開いて、でも旦那さまは瞼を閉じていらっしゃるから。ただ瞬きを繰り返すことしかできません。
抱きしめる左腕の力は強く。なのに、頬や耳を撫でる右の指はとても優しいのです。
耳朶の縁をたどるような、手の動き。指に表情があるわけではないのに、切なそうでいらっしゃるのが伝わってくるんです。
「俺は、時々忘れてしまうんだ」
「旦那さま?」
くちづけとくちづけの間に、旦那さまは言葉を零します。
「あなたが居てくれるのが、当たり前だと思ってしまう。他の誰かと話しているだけで、寂しさを感じてしまう」
「翠子は、旦那さまのことを忘れているわけではありませんよ?」
「ああ、そうだよな。だが、思い上がってしまうんだ。俺はあなたを独り占めできるのだと」
再び、わたくしに軽くくちづけてから、旦那さまは言葉を続けました。
「違うのにな……あなたが俺の元に居続けてくれるのは、とても幸運で恵まれているんだ」
琥太郎さんに何か言われたのでしょうか。
弱気な旦那さまの姿を目にするなんて、珍しいことです。
わたくしは手を伸ばすと、旦那さまの前髪の乱れを直しました。旦那さまはご存じないでしょうけれど。前髪を上げている時の方が、自信家なのですよ。
「翠子は、確かに笠井家の借金のことで引き取られましたけど。でも、先生の……旦那さまのお傍にいるのは自分の意思ですよ」
「翠子さん」
「ね? 今は高瀬家がわたくしの帰るお家でしょう? あのお庭に面した縁側で、旦那さまの隣に座るのがわたしの定位置でしょ?」
「確かに」と、旦那さまは小さく笑いました。
「それに今はエリスもいるしな。そもそも俺は翠子さんを独り占めしていなかったな。女学校では深山さんに譲っているし、家ではエリスにも遠慮していた」
あら? 急に自信を取り戻したご様子です。
名前を呼ばれたからでしょうか。千代紙や鋏に興味を示していたエリスが、急にわたくしの膝に前脚を掛けました。
あ、もうこの後の展開は想像がつきます。
そして一分後、体をびよーんと伸ばしたエリスが、わたくしと旦那さまの間に割って入りました。
「あんた、キスしすぎ」という風に、旦那さまの胸を長い尻尾でぱしぱしと叩いています。
「こいつが一番強引だと思うぞ」
無理やりにエリスを抱きあげた旦那さまを、これでもかと小さな後ろ脚が蹴り続けていました。
でんぷん糊のにおいも、千代紙もどちらも子どもの物なのに。こうして大人の激しいくちづけを交わしていると、頭が混乱して……息が。
息苦しさを覚えたわたくしは、旦那さまのシャツの袖に爪を立てました。
「翠子さん。ちゃんと呼吸をしなさい」
呆れたような声と共に、顔を離されます。わたくしは「はい」と返事をすると、深呼吸をしました。
ああ、焦ってしまいました。
「え?」
少し落ち着いたと思ったとたん、再び旦那さまに唇を塞がれたのです。
今度のキスは長くて、しかも貪るような激しさはなく。なのに、深いくちづけでした。
どうなさったの?
尋ねようとしても唇は塞がれたままです。わたくしは瞼を開いて、でも旦那さまは瞼を閉じていらっしゃるから。ただ瞬きを繰り返すことしかできません。
抱きしめる左腕の力は強く。なのに、頬や耳を撫でる右の指はとても優しいのです。
耳朶の縁をたどるような、手の動き。指に表情があるわけではないのに、切なそうでいらっしゃるのが伝わってくるんです。
「俺は、時々忘れてしまうんだ」
「旦那さま?」
くちづけとくちづけの間に、旦那さまは言葉を零します。
「あなたが居てくれるのが、当たり前だと思ってしまう。他の誰かと話しているだけで、寂しさを感じてしまう」
「翠子は、旦那さまのことを忘れているわけではありませんよ?」
「ああ、そうだよな。だが、思い上がってしまうんだ。俺はあなたを独り占めできるのだと」
再び、わたくしに軽くくちづけてから、旦那さまは言葉を続けました。
「違うのにな……あなたが俺の元に居続けてくれるのは、とても幸運で恵まれているんだ」
琥太郎さんに何か言われたのでしょうか。
弱気な旦那さまの姿を目にするなんて、珍しいことです。
わたくしは手を伸ばすと、旦那さまの前髪の乱れを直しました。旦那さまはご存じないでしょうけれど。前髪を上げている時の方が、自信家なのですよ。
「翠子は、確かに笠井家の借金のことで引き取られましたけど。でも、先生の……旦那さまのお傍にいるのは自分の意思ですよ」
「翠子さん」
「ね? 今は高瀬家がわたくしの帰るお家でしょう? あのお庭に面した縁側で、旦那さまの隣に座るのがわたしの定位置でしょ?」
「確かに」と、旦那さまは小さく笑いました。
「それに今はエリスもいるしな。そもそも俺は翠子さんを独り占めしていなかったな。女学校では深山さんに譲っているし、家ではエリスにも遠慮していた」
あら? 急に自信を取り戻したご様子です。
名前を呼ばれたからでしょうか。千代紙や鋏に興味を示していたエリスが、急にわたくしの膝に前脚を掛けました。
あ、もうこの後の展開は想像がつきます。
そして一分後、体をびよーんと伸ばしたエリスが、わたくしと旦那さまの間に割って入りました。
「あんた、キスしすぎ」という風に、旦那さまの胸を長い尻尾でぱしぱしと叩いています。
「こいつが一番強引だと思うぞ」
無理やりにエリスを抱きあげた旦那さまを、これでもかと小さな後ろ脚が蹴り続けていました。
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