【第ニ部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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六章

2、名前で

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 お清さんが買い出しに行っている間に、わたくしは荷物を片付けました。
 ぎゅうぎゅうに荷物を詰め込んだトランクは、まるで弾けるように開いて、中からお着物の小物やお洋服が飛び出してきたんです。

 びっくりしたエリスは背中の毛と尻尾を立てて、横跳びに後ずさります。
 本当に、よく閉まっていたこと。

 荷物を手に取ると、森の香りが鼻をかすめて。鬱蒼とした木々の梢を吹き抜ける涼しい風の音や、静謐な湖や水晶の粒を思わせる浜が脳裏をよぎりました。

 おかしいわ。さっきこちらに戻って来たばかりなのに、もうあの高原に帰りたいだなんて。まるで懐郷病ホォムシックになってしまったかのようではなくて?

「だめよ、浸っていては。晩ご飯までに片づかないわ」
「いい心がけだな」

 お庭からお部屋に上がっていらした旦那さまが、わたくしの手元を覗きこんでいました。
 井戸水を使っていらしたから、湿った手拭いを肩にかけていらっしゃいます。

「心がけはいいんだが、手は止まっているな」

 やれやれ、と肩をすくめながら、畳の上に散らばった荷物を拾い上げてくださいました。
 
「早くに片づけてしまって、久しぶりに菓子でも買いに行くか」
「え? いいんですか?」
「ああ。それに翠子さんも書店に寄りたいだろう?」

 こくこくと何度も頷き、わたくしは大急ぎでお洋服を畳み直し、たとう紙に包まれたお着物を桐の箪笥にしまっていきました。
 あまりにも早くに片づいたので、旦那さまったら呆気に取られて口をぽかんと開けていらっしゃるの。

 ふふ、翠子はやればできるのです。有能なんですよ。

◇◇◇

 トランクからはじけ飛んだ荷物を手にした翠子さんを見て、俺は少しばかり心が痛んだ。
 彼女の身はここにあるのに、心は今もあの透明に涼しい風の吹く森や高原に残っているかのようだ。

 あと少しで夏休みも終わる。海辺の街は水蒸気が多く、空は晴れ渡っていてもどこかぼんやりとした青だ。
 きりっと澄み渡った藍青色らんせいしょくの空は、なかなか望むことはできない。

 どこか宙に浮いたままの翠子さんを戻すには、俗っぽいが彼女の好きなもので釣るしかないのだ。
 ああ、だめだなぁ。俺のいる所なら、どこでも楽園ですなどと言ってほしいと願うのは、きっと我儘なのだろう。

 エリスがおもちゃにしている帯紐を抽斗に入れようとすると、ズボンのふくらはぎの辺りに爪を立てられた。猫の爪は細くて、結構痛い。
 知らん顔をしていると、今度は俺の背中にのぼってくる。

「待て。なんで這い上がってくるんだ」
「ぶにゃあ」
「いや、お前が遊んでいいものじゃないから。普通の麻紐とかで遊びなさい」

 結局左肩にエリスを乗せた状態で、俺は翠子さんの片づけを手伝った。
 湿った手拭いが気持ち悪いのか、しきりに首を振ったり尻尾で俺の背中を叩いたりするが。それなら床に下りればいいのになぁ。

 久しぶりに家に帰って来た俺には、ひとつの考えがある。考えというか、願望というか……そう、名前で呼んでほしいのだ。翠子さんに。

 別荘では、深山さんが琥太兄のことを何度も「琥太郎さん」と呼ぶのを聞いた。
 琥太兄もまんざらでもなさそうというか……他の誰も気づかなかっただろうが、顔がにやけていた。

 あの人は飄々としているから、笑顔であっても作り笑顔のことが多い。(それにころっと騙される女性もいるのだが。目許を見てみろ、まともに笑ってないことが多いぞ)だが「琥太郎さん」と深山さんに呼ばれて返事をする時の琥太兄の目も表情も、今にもとろけそうなんだ。
 
 羨ましい。琥太兄は強引に見合い話を進めて、深山さんをかっさらうように高原に連れ出したのに。
 俺と何が違うんだ……。いや、明確に違うんだろうなぁ。
 翠子さんのことが好きすぎて、歯止めが効かなかったもんなぁ。

 俺は翠子さんが贈ってくれたドイツの養命酒とやらを、じーっと見つめた。
 狩人が祝いの飲み物としていた香草のリキュール。その深い緑の瓶は、飾り棚に置いてある。
 一度蓋を開けてみたところ、オレンジの皮や八角、ニッキの強い匂いがした。
 まだ飲んでいないが、味はなんとなく想像できる。
 やっぱり西洋の養命酒だな。きっと体にとてもいい。

 そう、翠子さんが俺の体を労わってくれるように、心も労わって欲しい。
 要するに、俺も名前で呼んでもらって琥太兄のようににやけてみたい。
……そんなだいそれた願いじゃないと思うんだけどなぁ。すごくささやかな願いだぞ、なぜうまくいかないんだ?

 しかし環境の変わった時ならば、名前で呼ぶのも可能じゃないか? それは今をおいて他にない、気がする。
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