193 / 194
六章
3、勇気を出して【1】
しおりを挟む
お片づけを終えた旦那さまとわたくしは、連れ立って街に出ることにしました。
高瀬のお家は住宅街にあるので、お買い物には坂を下っていくのです。
夕暮れだというのに陽射しは強烈で。灰色の瓦屋根を銀色に光らせ、鮮やかな橙色の凌霄花の花はくったりと萎れています。塀を伝う凌霄花から、蟻が地面へと列をなしているのが見えました。
「翠子さん、これを差しなさい」
旦那さまが手渡してくださったのは、レースの日傘でした。日傘を差してもなお、白い布からまばゆい光を感じて、わたくしは目を細めました。
「標高が違うと、こうも気温に差があるとはな」
旦那さまも目を細めながら、夕日を受けてきらきらと輝いている海を見つめていらっしゃいます。家と家との間に垣間見える海は、青というよりも金色に近いようです。
それでもやはり秋は近いようで、道端にはかなげな萩の花がひっそりと咲いていました。
「ねぇ、旦那さま。何を買いにいらっしゃるの?」
返事はありません。聞こえなかったのでしょうか? 確かにひぐらしは鳴いていますが。うるさくはありませんよ?
わたくしはもう一度「旦那さま」と呼びかけました。
でも反応がありません。
中折れ帽子を目深にかぶりなおして、少し先を進んでいらっしゃるの。
もうっ、きっとわざとですね。ならば、とわたくしは呼び方を変えてみました。
「高瀬先生」
「まだ学校は始まっていない」
「聞こえていらっしゃるじゃないですか」
今日の旦那さまは我儘ですね。まるで駄々っ子の子どもみたいですよ?
カナカナカナ、と涼しげなヒグラシの声。
空高くまで伸びる入道雲は、夕日に照らされて淡い茜色に縁どられています。
「……今更かもしれないが」
「はい。なんでしょうか」
坂の途中で立ち止まった旦那さまは、肩越しにわたくしをふり返りました。
今度は中折れ帽子のつばを上げて、じーっと見つめてきます。
そんなに大事なお話なのでしょうか?
畳の上なら正座をした方がいいのかもしれませんが。ここは路上ですもの。
「あー、その。たとえば、だ。俺が翠子さんのことを『お嬢さん』と呼んだらどう思う?」
「はい? 突然どうなさったんですか?」
もう家族も同然ですのに「お嬢さん」だなんて、おかしいわ。よそよそしいじゃないですか。
旦那さまは地面に視線を落としたと思うと、今度はわたくしを見つめます。まるで反応を窺うように。
授業の時、わたくしが数学の問題が解けない時は、高瀬先生はそんな戸惑いがちな瞳はなさいません。
今の表情は、まるで乙女が恥じらうかのような……。
え? まさかぁ、恥じらうだなんて。旦那さまに限って、そんなこと。
わたくしは頭に浮かんだ考えを振り払いました。
「では、お嬢さん。買い物に行こうか」
そう告げると、旦那さまは踵を返して歩き出しました。
おかしいです。どうして急にわたくしのことを名前で呼ばなくなったのかしら。
もしかして怒っていらっしゃるの? でも、翠子は怒らせるようなことはしていないと思うのですけれど。
歩き出さないわたくしを不審に思ったのか、旦那さまは立ち止まりました。
旦那さま?
わたくしははっとしました。
そうです。お嬢さんと旦那さまは、呼び方としては同じ。
旦那さまは、わたくしのことを常に「翠子さん」と呼んでくださるのに。
あまりにも「旦那さま」と呼ぶのが当たり前になってしまって。深く考えたこともありませんでした。
でも、きっと旦那さまは名前で呼んでもらいたいと願っている、と思うのです。
でも、今になって呼び名を変えるのは難しいんです。
文子さんのように琥太郎さんと出会ってすぐにでしたら、お名前で呼ぶことも可能でしょうが。
いまさら……恥ずかしいじゃないですか。
日傘の柄を両手できゅっと握りしめ、さっきの旦那さまと同じように地面を見つめます。乾ききった土の道は白っぽく、萎れた凌霄花の花が、道の端に落ちています。
勇気を出して、呼ばなくちゃ。
だって、旦那さまがそう望んでいらっしゃるんですもの。
わたくしだって、よそよそしく「お嬢さん」なんて呼ばれるのは嫌ですもの。
高瀬のお家は住宅街にあるので、お買い物には坂を下っていくのです。
夕暮れだというのに陽射しは強烈で。灰色の瓦屋根を銀色に光らせ、鮮やかな橙色の凌霄花の花はくったりと萎れています。塀を伝う凌霄花から、蟻が地面へと列をなしているのが見えました。
「翠子さん、これを差しなさい」
旦那さまが手渡してくださったのは、レースの日傘でした。日傘を差してもなお、白い布からまばゆい光を感じて、わたくしは目を細めました。
「標高が違うと、こうも気温に差があるとはな」
旦那さまも目を細めながら、夕日を受けてきらきらと輝いている海を見つめていらっしゃいます。家と家との間に垣間見える海は、青というよりも金色に近いようです。
それでもやはり秋は近いようで、道端にはかなげな萩の花がひっそりと咲いていました。
「ねぇ、旦那さま。何を買いにいらっしゃるの?」
返事はありません。聞こえなかったのでしょうか? 確かにひぐらしは鳴いていますが。うるさくはありませんよ?
わたくしはもう一度「旦那さま」と呼びかけました。
でも反応がありません。
中折れ帽子を目深にかぶりなおして、少し先を進んでいらっしゃるの。
もうっ、きっとわざとですね。ならば、とわたくしは呼び方を変えてみました。
「高瀬先生」
「まだ学校は始まっていない」
「聞こえていらっしゃるじゃないですか」
今日の旦那さまは我儘ですね。まるで駄々っ子の子どもみたいですよ?
カナカナカナ、と涼しげなヒグラシの声。
空高くまで伸びる入道雲は、夕日に照らされて淡い茜色に縁どられています。
「……今更かもしれないが」
「はい。なんでしょうか」
坂の途中で立ち止まった旦那さまは、肩越しにわたくしをふり返りました。
今度は中折れ帽子のつばを上げて、じーっと見つめてきます。
そんなに大事なお話なのでしょうか?
畳の上なら正座をした方がいいのかもしれませんが。ここは路上ですもの。
「あー、その。たとえば、だ。俺が翠子さんのことを『お嬢さん』と呼んだらどう思う?」
「はい? 突然どうなさったんですか?」
もう家族も同然ですのに「お嬢さん」だなんて、おかしいわ。よそよそしいじゃないですか。
旦那さまは地面に視線を落としたと思うと、今度はわたくしを見つめます。まるで反応を窺うように。
授業の時、わたくしが数学の問題が解けない時は、高瀬先生はそんな戸惑いがちな瞳はなさいません。
今の表情は、まるで乙女が恥じらうかのような……。
え? まさかぁ、恥じらうだなんて。旦那さまに限って、そんなこと。
わたくしは頭に浮かんだ考えを振り払いました。
「では、お嬢さん。買い物に行こうか」
そう告げると、旦那さまは踵を返して歩き出しました。
おかしいです。どうして急にわたくしのことを名前で呼ばなくなったのかしら。
もしかして怒っていらっしゃるの? でも、翠子は怒らせるようなことはしていないと思うのですけれど。
歩き出さないわたくしを不審に思ったのか、旦那さまは立ち止まりました。
旦那さま?
わたくしははっとしました。
そうです。お嬢さんと旦那さまは、呼び方としては同じ。
旦那さまは、わたくしのことを常に「翠子さん」と呼んでくださるのに。
あまりにも「旦那さま」と呼ぶのが当たり前になってしまって。深く考えたこともありませんでした。
でも、きっと旦那さまは名前で呼んでもらいたいと願っている、と思うのです。
でも、今になって呼び名を変えるのは難しいんです。
文子さんのように琥太郎さんと出会ってすぐにでしたら、お名前で呼ぶことも可能でしょうが。
いまさら……恥ずかしいじゃないですか。
日傘の柄を両手できゅっと握りしめ、さっきの旦那さまと同じように地面を見つめます。乾ききった土の道は白っぽく、萎れた凌霄花の花が、道の端に落ちています。
勇気を出して、呼ばなくちゃ。
だって、旦那さまがそう望んでいらっしゃるんですもの。
わたくしだって、よそよそしく「お嬢さん」なんて呼ばれるのは嫌ですもの。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
442
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる