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第52話 【空白】
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雨が降っていた。
王都の石畳を、灰色の雨粒が叩いている。
マルセルは傘もささずに歩いていた。
隣を歩くリナが、何度も彼を見上げる。
だが、マルセルは一度も目を合わせなかった。
ギルド本部の扉が見えてきた。
重厚な木の扉。
かつては誇らしげにくぐった場所だ。
今は、ただの扉でしかない。
「マルセルさん」
リナが声をかけた。
「私も一緒に入るから」
返事はなかった。
マルセルは黙って扉を押し開けた。
* * *
ギルド本部の中は、いつもと変わらない喧騒に満ちていた。
冒険者たちが依頼書を見比べている。
受付には列ができている。
誰もマルセルを見なかった。
いや、見ていたかもしれない。
ただ、すぐに視線を逸らした。
受付を通り過ぎ、奥の部屋へ向かう。
リナが不安げに後を追う。
* * *
ギルドマスターの部屋は、薄暗かった。
窓の外では雨が降り続けている。
灰色の光が、室内をぼんやりと照らしていた。
ガレスが椅子に座っていた。
五十歳を超えた大男。
かつてS級冒険者として名を馳せた人物だ。
その目が、マルセルを見つめている。
厳しい目ではない。
どこか、悲しみを含んだ目だ。
「来たか、マルセル」
低い声が響いた。
「座れ」
マルセルは言われるまま椅子に座った。
背筋は曲がり、肩は落ちている。
以前の彼なら、決してしなかった姿勢だ。
リナは立ったままだった。
両手を胸の前で握りしめている。
「マルセル」
ガレスが口を開いた。
「お前に言わねばならんことがある」
沈黙。
雨の音だけが響く。
「お前のパーティは、正式に解散扱いとする」
リナが息を呑んだ。
「そんな」
彼女の声が震えている。
だが、マルセルは動かなかった。
表情ひとつ変わらない。
まるで、他人事のように聞いている。
「メンバーが二名では、パーティとして認められん」
ガレスが続けた。
「それに、お前の最近の依頼成功率は十パーセントを切っている」
数字が告げられた。
かつてのマルセルなら、怒りをあらわにしただろう。
言い訳を並べただろう。
だが、今のマルセルは、ただ頷いた。
「ああ」
それだけだった。
ガレスの眉間に皺が寄った。
彼は机に両肘をつき、マルセルを見据えた。
「マルセル、お前は昔、優秀な冒険者だった」
声が低く響く。
「何があった」
問いかけ。
だが、マルセルは答えない。
ただ、虚ろな目で床を見つめている。
「いや、分かっている」
ガレスが言葉を続けた。
「アクセルを追放したことを、後悔しているのか」
その名前が出た瞬間。
マルセルの指先が、膝の上で強張った。
喉が小さく動く。
何かを飲み込むように。
だが、それだけだった。
すぐに、また動かなくなった。
* * *
後悔、か。
マルセルの頭の中で、言葉が反響した。
後悔。
その感情が、どんなものだったか。
思い出せない。
以前は、確かにあった。
夜、眠れないほどの苦しみ。
胸を締め付ける痛み。
あの時の判断を、何度も悔いた。
でも、今は。
何もない。
怒りもない。
悲しみもない。
後悔も、絶望も、何もかも。
全て、消えていた。
残っているのは、空白だけだ。
心の中に、ぽっかりと穴が開いている。
何も感じない。
何も考えられない。
俺は、空っぽだ。
その事実すら、もう痛みを伴わなかった。
* * *
「後悔、か」
マルセルが口を開いた。
乾いた息が漏れる。
「もう、何も感じない」
その声には、自嘲すらなかった。
ただの事実を述べているだけだ。
ガレスが目を細めた。
彼の大きな体が、ゆっくりと椅子に沈む。
長い沈黙。
やがて、重いため息をついた。
「そうか」
リナが一歩前に出た。
「マルセルさん」
声が震えている。
目に涙が浮かんでいた。
マルセルは、それを見ていた。
見ていたが、何も感じなかった。
泣いている。
リナが泣いている。
俺のせいで。
そう理解していた。
だが、それだけだった。
罪悪感も、申し訳なさも、湧いてこない。
ただ、事実として認識しているだけだ。
俺は、壊れている。
その自覚だけが、かすかに残っていた。
* * *
マルセルは立ち上がった。
ガレスを見ることなく、扉に向かう。
「マルセル」
ガレスが呼び止めた。
足が止まった。
振り返らない。
「自分を捨てるな」
返事はなかった。
マルセルは、そのまま出ていった。
* * *
ギルドを出ると、雨が顔を打った。
冷たい。
だが、それすら遠い感覚だった。
石畳を歩く。
足音が、雨に紛れていく。
背中が丸まっていた。
肩が落ちている。
目に光がない。
すれ違う人々が、マルセルを避けて歩いた。
誰も声をかけない。
誰も見ない。
亡霊のようだ。
この世にいながら、すでにこの世の者ではない。
俺は、何だったんだ。
その問いが、頭の中に浮かんだ。
だが、答えを探す気力もなかった。
「待って」
後ろから声がした。
リナだ。
足を止めない。
マルセルは歩き続けた。
「待って、マルセルさん」
リナが追いついてきた。
息を切らしている。
髪が雨に濡れて、顔に張り付いていた。
「私、あなたを見捨てない」
彼女は言った。
その声には、震えがあった。
だが、同時に芯があった。
リナは両手を握りしめていた。
爪が掌に食い込んでいる。
唇を噛み、涙をこらえている。
ずっと、見てきた。
マルセルが少しずつ壊れていくのを。
カミラが去り、ブライトが去り。
それでも、自分だけは残ると決めた。
あの時と同じだ。
アクセルが追放された時。
何も言えなかった。
庇えなかった。
ただ、見ているだけだった。
あの後悔が、ずっと胸にある。
だから今度こそ。
今度こそ、傍にいる。
たとえ何もできなくても。
「私だけは、絶対に」
声が詰まる。
雨が頬を伝う。涙なのか、雨なのか、もう分からない。
マルセルは立ち止まった。
振り返らない。
「好きにしろ」
その言葉だけを残して、また歩き出した。
リナは唇を噛んだ。
拳を握りしめ、その背中を追った。
* * *
雨は、いつまでも降り続いていた。
灰色の空。
灰色の街。
灰色の世界。
その中を、二つの影が歩いていく。
一人は背中を丸め、俯いている。
もう一人は、その後ろを離れずについていく。
かつて、勇者と呼ばれた男がいた。
仲間に慕われ、民衆に讃えられた男がいた。
今、その面影は、どこにもない。
残ったのは、空っぽの殻だけだ。
雨が降り続ける。
二人の足跡が、石畳に消えていく。
王都の片隅で。
誰にも知られることなく。
一つのパーティが、静かに終わりを迎えた。
王都の石畳を、灰色の雨粒が叩いている。
マルセルは傘もささずに歩いていた。
隣を歩くリナが、何度も彼を見上げる。
だが、マルセルは一度も目を合わせなかった。
ギルド本部の扉が見えてきた。
重厚な木の扉。
かつては誇らしげにくぐった場所だ。
今は、ただの扉でしかない。
「マルセルさん」
リナが声をかけた。
「私も一緒に入るから」
返事はなかった。
マルセルは黙って扉を押し開けた。
* * *
ギルド本部の中は、いつもと変わらない喧騒に満ちていた。
冒険者たちが依頼書を見比べている。
受付には列ができている。
誰もマルセルを見なかった。
いや、見ていたかもしれない。
ただ、すぐに視線を逸らした。
受付を通り過ぎ、奥の部屋へ向かう。
リナが不安げに後を追う。
* * *
ギルドマスターの部屋は、薄暗かった。
窓の外では雨が降り続けている。
灰色の光が、室内をぼんやりと照らしていた。
ガレスが椅子に座っていた。
五十歳を超えた大男。
かつてS級冒険者として名を馳せた人物だ。
その目が、マルセルを見つめている。
厳しい目ではない。
どこか、悲しみを含んだ目だ。
「来たか、マルセル」
低い声が響いた。
「座れ」
マルセルは言われるまま椅子に座った。
背筋は曲がり、肩は落ちている。
以前の彼なら、決してしなかった姿勢だ。
リナは立ったままだった。
両手を胸の前で握りしめている。
「マルセル」
ガレスが口を開いた。
「お前に言わねばならんことがある」
沈黙。
雨の音だけが響く。
「お前のパーティは、正式に解散扱いとする」
リナが息を呑んだ。
「そんな」
彼女の声が震えている。
だが、マルセルは動かなかった。
表情ひとつ変わらない。
まるで、他人事のように聞いている。
「メンバーが二名では、パーティとして認められん」
ガレスが続けた。
「それに、お前の最近の依頼成功率は十パーセントを切っている」
数字が告げられた。
かつてのマルセルなら、怒りをあらわにしただろう。
言い訳を並べただろう。
だが、今のマルセルは、ただ頷いた。
「ああ」
それだけだった。
ガレスの眉間に皺が寄った。
彼は机に両肘をつき、マルセルを見据えた。
「マルセル、お前は昔、優秀な冒険者だった」
声が低く響く。
「何があった」
問いかけ。
だが、マルセルは答えない。
ただ、虚ろな目で床を見つめている。
「いや、分かっている」
ガレスが言葉を続けた。
「アクセルを追放したことを、後悔しているのか」
その名前が出た瞬間。
マルセルの指先が、膝の上で強張った。
喉が小さく動く。
何かを飲み込むように。
だが、それだけだった。
すぐに、また動かなくなった。
* * *
後悔、か。
マルセルの頭の中で、言葉が反響した。
後悔。
その感情が、どんなものだったか。
思い出せない。
以前は、確かにあった。
夜、眠れないほどの苦しみ。
胸を締め付ける痛み。
あの時の判断を、何度も悔いた。
でも、今は。
何もない。
怒りもない。
悲しみもない。
後悔も、絶望も、何もかも。
全て、消えていた。
残っているのは、空白だけだ。
心の中に、ぽっかりと穴が開いている。
何も感じない。
何も考えられない。
俺は、空っぽだ。
その事実すら、もう痛みを伴わなかった。
* * *
「後悔、か」
マルセルが口を開いた。
乾いた息が漏れる。
「もう、何も感じない」
その声には、自嘲すらなかった。
ただの事実を述べているだけだ。
ガレスが目を細めた。
彼の大きな体が、ゆっくりと椅子に沈む。
長い沈黙。
やがて、重いため息をついた。
「そうか」
リナが一歩前に出た。
「マルセルさん」
声が震えている。
目に涙が浮かんでいた。
マルセルは、それを見ていた。
見ていたが、何も感じなかった。
泣いている。
リナが泣いている。
俺のせいで。
そう理解していた。
だが、それだけだった。
罪悪感も、申し訳なさも、湧いてこない。
ただ、事実として認識しているだけだ。
俺は、壊れている。
その自覚だけが、かすかに残っていた。
* * *
マルセルは立ち上がった。
ガレスを見ることなく、扉に向かう。
「マルセル」
ガレスが呼び止めた。
足が止まった。
振り返らない。
「自分を捨てるな」
返事はなかった。
マルセルは、そのまま出ていった。
* * *
ギルドを出ると、雨が顔を打った。
冷たい。
だが、それすら遠い感覚だった。
石畳を歩く。
足音が、雨に紛れていく。
背中が丸まっていた。
肩が落ちている。
目に光がない。
すれ違う人々が、マルセルを避けて歩いた。
誰も声をかけない。
誰も見ない。
亡霊のようだ。
この世にいながら、すでにこの世の者ではない。
俺は、何だったんだ。
その問いが、頭の中に浮かんだ。
だが、答えを探す気力もなかった。
「待って」
後ろから声がした。
リナだ。
足を止めない。
マルセルは歩き続けた。
「待って、マルセルさん」
リナが追いついてきた。
息を切らしている。
髪が雨に濡れて、顔に張り付いていた。
「私、あなたを見捨てない」
彼女は言った。
その声には、震えがあった。
だが、同時に芯があった。
リナは両手を握りしめていた。
爪が掌に食い込んでいる。
唇を噛み、涙をこらえている。
ずっと、見てきた。
マルセルが少しずつ壊れていくのを。
カミラが去り、ブライトが去り。
それでも、自分だけは残ると決めた。
あの時と同じだ。
アクセルが追放された時。
何も言えなかった。
庇えなかった。
ただ、見ているだけだった。
あの後悔が、ずっと胸にある。
だから今度こそ。
今度こそ、傍にいる。
たとえ何もできなくても。
「私だけは、絶対に」
声が詰まる。
雨が頬を伝う。涙なのか、雨なのか、もう分からない。
マルセルは立ち止まった。
振り返らない。
「好きにしろ」
その言葉だけを残して、また歩き出した。
リナは唇を噛んだ。
拳を握りしめ、その背中を追った。
* * *
雨は、いつまでも降り続いていた。
灰色の空。
灰色の街。
灰色の世界。
その中を、二つの影が歩いていく。
一人は背中を丸め、俯いている。
もう一人は、その後ろを離れずについていく。
かつて、勇者と呼ばれた男がいた。
仲間に慕われ、民衆に讃えられた男がいた。
今、その面影は、どこにもない。
残ったのは、空っぽの殻だけだ。
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