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ケース3:①
瑛太くんのお母さんから、手紙が届いた。
封筒は水色で、裏に「三崎」と書いてあった。便箋は一枚。丁寧な字で、短く書かれていた。
「なんて」
棘がキッチンから首を伸ばした。
「『瑛太が、自分から電気を消して寝るようになりました』って」
縁がコーヒーを飲みながら読み上げた。
「『まだ夜中に一度起きますが、クッションを握って、もう一度眠れています。朝ごはんを食べる量が増えました。先生方に、瑛太から手紙を書きたいと言っているので、またお手紙が届くかもしれません。ありがとうございました』」
「よかったな」
「よかったね」
縁は手紙をファイルに挟んだ。棘はフライパンの上で卵を焼いていた。朝の八時半。事務所の窓から秋の光が差している。十月に入って空気が乾き始めていた。
「棘くん、昨日の残りのカレー温めてくれる?」
「あれは俺が作り直したカレーだ。縁さんのカレーは捨てた」
「捨てたの。ひどくない?」
「食べたら死ぬ」
「言い過ぎでは」
「言い足りないくらいだ」
縁は反論を諦めた。カレーの皿を受け取り、卵焼きを載せた。朝からカレーを食べる大人。棘は味噌汁とごはん。食器の音だけが事務所に響いていた。
「縁さん」
「なに」
「手首」
棘がまた見ていた。縁の左手首。ケース2の後から、一週間に一度は確認するようになっていた。聞くのではない。見ている。不文律は守っている。だが見えるものを無視できない体質だった。
縁は袖をまくらなかった。
「消えたって言ったでしょ」
「ああ」
「嘘はつかないよ、こういうことでは」
嘘か本当か、棘にはまだ分からなかった。分からないまま卵焼きを口に入れた。自分で作った卵焼き。出汁が効いていて美味い。
デスクの上に、松永からの紹介状が置いてある。昨日届いた。
「心因性失声。器質的異常なし。発症より四ヶ月。声帯機能は正常だが発話不能。催眠療法、EMDR、いずれも効果なし。蔵書症の可能性あり」
十七歳。女子高生。
「今日か」
「今日。午後四時」
「学校帰りか」
「たぶん。制服で来るんじゃない」
縁はカレーを食べ終え、皿を流しに持っていった。洗わなかった。棘がため息をついた。いつものことだった。
「棘くん」
「ああ」
「十七歳って何考えてたっけ」
「知らないですよ。縁さんこそ何考えてたんですか」
「忘れた。たぶん何も」
縁はデスクに戻り、テレビをつけた。昼のワイドショーの再放送。芸人が大喜利をしている。縁がゲラゲラ笑った。面白いのかどうか、棘には分からなかった。
午後四時三分。インターホンが鳴った。一回。長め。迷いのない押し方。
棘がドアを開けた。
見上げる必要はなかった。百六十センチ前後。紺のブレザーにチェックのスカート。制服だった。膝上丈。黒いローファー。スクールバッグを左肩にかけている。
顔を見た。
目の下にくまがあった。ファンデーションで隠そうとしている。隠しきれていない。唇が乾いていて、その上からリップを塗った跡。髪は肩の少し下。染めてはいないが、地毛が明るい。栗色に近い。
綺麗な顔だった。整っている、というよりは鋭い。頬骨が高くて、目が大きい。視線に力がある。
その後ろに、保護者はいなかった。一人だった。
「朝倉さんですね。お待ちしておりました」
棘が頭を下げた。正座はしなかった。子供でもないし、大人でもない。立ったまま、丁寧に会釈した。
少女が頷いた。声は出さなかった。
右手にスマートフォンを持っていた。画面をこちらに向けた。
『朝倉紗世です。よろしくお願いします。声が出ないので、文字で失礼します』
打ち慣れた速度だった。毎日これをやっているのだ。
「大丈夫ですよ。どうぞ、中へ」
棘は紗世を中に通した。歩き方を見た。背筋が伸びている。足音が静か。制服のスカートに皺がない。鞄の中身が整頓されている。きちんとしている。きちんとしすぎている。
縁はデスクにいた。テレビは消してあった。棘が消したのではない。縁が自分で消していた。来客の前では消す。それくらいの常識はある。
「どうも、糸守です」
縁が手を挙げた。名刺は出さない。いつも通り。
紗世がソファに座った。バッグを横に置いた。スマートフォンを膝の上に構えている。すぐに打てるように。
「保護者の方は」
縁が聞いた。
紗世がスマートフォンを操作した。
『母は仕事です。一人で来ました。承諾書は署名済みです』
バッグからA4の書類を取り出し、テーブルに置いた。署名欄に母親の名前と紗世本人の名前。十七歳だが、段取りが大人だった。
「ありがとう。読むのが面倒だから助かる」
縁が書類を受け取った。棘が横目で見た。縁は本当に助かったという顔をしていた。書類仕事が嫌いなのは知っている。
棘が紅茶を出した。カルピスではない。十七歳にカルピスは失礼だろうと思った。だが何を出せばいいのか分からなかった。コーヒーか紅茶か。紅茶にした。砂糖は横に添えた。
紗世は紅茶に手をつけなかった。砂糖も使わなかった。
「それで」
縁がソファの向かいに座った。
「声が出ない」
紗世が頷いた。スマートフォンを操作した。
『四ヶ月前からです。六月の中旬に、朝起きたら出なくなっていました』
「急に?」
『前の晩までは普通に話していました』
「きっかけは何か思い当たる?」
紗世の指が止まった。二秒。三秒。それから打ち始めた。
『学校で、スピーチコンテストの予選がありました。英語の。その翌日から出なくなりました』
「英語のスピーチ」
縁が繰り返した。
『帰国子女です。小学校三年生まで、アメリカにいました。英語は話せます。話せたはずです』
紗世の指が速くなった。感情が乗ると速くなるのだ。棘はそれを見ていた。声が出ない代わりに、指が喋っている。
『コンテストは毎年あります。帰国子女だから出ろと言われて。去年も出ました。問題なかったです。でも今年は、壇上に立ったとき、何も出てこなかった。英語も。日本語も。口を開いたのに何も。先生が近づいてきて、名前を呼ばれました。聞こえていましたが返事ができなかった。それから四ヶ月、何も出ません』
棘の喉が詰まった。
自分の喉ではない。紗世の喉だった。声を出そうとして出ない。口を開けて、息を吐いて、声帯を震わせようとしているのに、音にならない。その閉塞感が、棘の喉の奥にそっくりそのまま再現されていた。
棘は水を飲んだ。自分の喉を確認した。飲み込めた。声も出る。自分のものだと確認する動作が、最近は速くなっていた。
「病院は行った?」
縁が聞いた。
『耳鼻咽喉科、神経内科、精神科。全部行きました。声帯は正常です。脳にも異常なし。精神科で心因性失声と診断されて、松永先生を紹介されました』
「松永が、うちを紹介した」
『「変な人たちだけど腕はいい」と言われました』
縁が笑った。棘は笑わなかった。松永の評価として正確すぎる。
「紗世さん」
縁が言った。
「変なこと聞くんだけど」
紗世がスマートフォンを構えた。待っている。何を聞かれるか分かっているような構え。
「子供の頃、好きだった絵本ってある?」
紗世の指が止まった。
今度は二秒や三秒ではなかった。十秒。十五秒。スマートフォンの画面を見つめたまま、何も打たない。指先が画面の上で浮いている。
棘の腕に鳥肌が立った。紗世の体の中で何かが締まるのを感じた。胸の奥の筋肉が収縮する感覚。喉の奥が詰まる感覚。声を出そうとして、出せなくて、その代わりに体の内側が閉じていく感覚。
紗世が打ち始めた。
『あります。一冊。英語の絵本です。アメリカにいたとき、お母さんが買ってくれた。ABCの絵本。魔法使いが出てきて、子供にアルファベットを教える絵本。一文字ずつ、魔法で文字を出して、その文字から始まる単語を教えてくれる。Aはapple。Bはbutterfly。Cはcaterpillar』
「思い出せる? その絵本の中身」
紗世の指が止まった。また長い沈黙。
それから、打った。
『思い出そうとすると、喉が詰まります』
「どんなふうに」
『飲み込んだものが逆流してくるような。何かが喉の奥から上がってくる感じ。でも何も出てこない。出そうとしても出てこない。吐きたいのに吐けない。喉に何かが詰まっている感覚が、ずっと消えない』
紗世の目が赤くなった。泣いてはいない。泣けないのだ。声を出せないと泣くことも難しい。嗚咽が出ない。息が詰まるだけ。
棘の喉が痛んだ。ずきずきと。声帯の周辺が腫れているような感覚。自分のものではない。分かっている。分かっていても痛い。
「紗世さん」
縁が少し身を乗り出した。
「アメリカにいたとき、英語は得意だった?」
『得意でした。友達もいました。学校も楽しかった』
「日本に帰ってきたのは」
『小学三年の秋です。父の転勤で帰国しました。地元の公立小学校に転入しました』
「日本語は」
紗世の指が、一瞬だけ震えた。
棘はそれを見た。指先が震えていた。画面の上で。
『話せました。家では日本語でしたから。でも、読み書きが遅れていました。漢字が書けなかった。「し」と「つ」を間違えた。「わ」と「は」の使い分けができなかった。作文で「私はは学校にいきました」と書いて、先生に直されました。クラスの子に笑われました』
棘は何も言わなかった。紗世の感情が流れ込んでいた。教室の空気。自分だけが違う空気を吸っている感覚。日本語を話しているはずなのに通じない。通じているはずなのに笑われる。自分の口から出る言葉が、全部間違っている気がする。
『英語を話すと「外人」と言われました。日本語を話すと「変な日本語」と言われました。どっちを話しても間違いでした』
「どちらも間違いだった」
縁が繰り返した。声は平坦だった。感情がない。だが平坦だからこそ、繰り返された言葉が正確に響いた。
紗世が頷いた。
『だから黙りました。しゃべらなければ間違えない。黙っていれば笑われない。中学に上がるまで、ほとんどしゃべりませんでした。中学で友達ができて、少しずつ話せるようになりました。高校では普通に話せていました。英語も使えていました。治ったと思っていました』
「治ってなかった」
『壇上で口を開けたとき、どの言葉で話せばいいか分からなくなりました。英語のスピーチなのに、日本語が邪魔をした。日本語を押しのけようとしたら、英語も消えた。両方消えた。何も残らなかった』
紗世がスマートフォンをテーブルに置いた。
両手を膝の上に載せた。指が握りしめられていた。爪が掌に食い込んでいる。
泣いていなかった。泣けなかった。声がないと、泣くための回路が塞がる。目は赤いのに、涙が出ない。
縁は何も言わなかった。椅子に座ったまま、紗世を見ていた。心は動いていなかった。動かないまま、正確に観察していた。
蔵書症。第三期。
英語学習絵本。アルファベットの魔法使い。「正しく発音すれば魔法が使える」という原作の世界観が、「正しく話さなければ排除される」というトラウマに感染している。声帯の物理的な封鎖。声を出すことそのものが、体に拒否されている。
厄介だ、と縁は思った。
前の二人は、道具を使えた。言葉を。榊は「残します」と言えた。瑛太は「おやすみ」と言えた。声を出すことで、歪んだ物語を書き換えた。
この子は声が出ない。
対話ができない。言葉が使えない。治療の最も核心的な手段が、最初から封じられている。
「紗世さん」
縁が立ち上がった。
「少し準備が要るんで、二十分くらい待ってもらっていいですか」
紗世が頷いた。
「あ、そういえば」
縁がポケットからスマートフォンを出した。
「棘くん、知ってる? アルファベットの Aって、元は牛の頭をひっくり返した形なんだって。ほら、こう」
縁が指で空中にAを描いた。
「上下逆にすると、角が生えた牛の顔に見えるでしょ。三千年くらい前のフェニキア人が考えたらしい。牛ってことは、つまりAの正体はステーキなんですよ」
棘がため息をついた。
「今する話ですか」
「いや、アルファベットの話が出たから思い出して」
「出てないです。出したのは縁さんです」
「出したっけ」
紗世がスマートフォンを持ち上げた。
『牛が逆さまでAなら、Bは何ですか』
縁が目を丸くした。返されると思っていなかったのだ。
「B? えーと、Bは家の間取り図だった気がする。部屋が二つある家。出入り口が左側で」
『Cは』
「Cはラクダの背中。いや、投げ縄だったかな。忘れた」
紗世の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑みにはならなかった。声がないと表情も乏しくなる。声が出ないことで、顔の筋肉まで固まっていく。四ヶ月間、笑い声も泣き声も上げていない顔は、表情の可動域が狭くなっている。
だが動こうとした。筋肉が。
棘はそれを見た。見てしまった。笑おうとして笑えない顔。声を出そうとして出せない喉。その二つが同じ原因で止まっている。
縁が奥の部屋に入った。針と糸を取りに。
棘は紗世に紅茶のおかわりを勧めた。紗世は首を振った。
二人きりになった。棘と、十七歳の少女。
棘はソファの端に座った。距離を取った。近すぎない。遠すぎない。だが瑛太のときとは違った。子供なら手を繋げる。十七歳には繋げない。何をしていいか分からなかった。
紗世がスマートフォンを操作した。棘に画面を向けた。
『鉤谷さんは、普段何してるんですか。ここ、あんまり忙しそうに見えない』
棘の耳が赤くなった。図星だった。
「掃除とか。料理とか。あの人のあとの片付けとか」
顎で奥の部屋を示した。
『お二人は、夫婦ですか』
「違います」
速すぎた。否定が速すぎた。棘は自分でそれに気づいて、さらに耳が赤くなった。
『すみません。よく聞かれるんだろうなと思って』
「初めてです」
『嘘ですね。耳が赤い』
棘は耳を押さえた。見られていた。
「よく言われます」
『隠し事が下手なタイプですね』
「よく言われます」
紗世の目が、少しだけ緩んだ。警戒が一段下がった。この人は危険ではない、と判断した目。十七歳の観察力。子供の頃からずっと人の顔色を読んできた人間の目。
棘にはそれが分かった。分かってしまった。この子は自分と同じだ。人の顔色を読みすぎる。先回りして相手の望む反応を返す。嫌われないように。排除されないように。
違うのは、棘は言葉でそれをやり、紗世は沈黙でそれをやっていることだった。
縁が戻ってきた。
「準備できた。紗世さん、一つ確認」
紗世がスマートフォンを構えた。
「あなたの中に入ります。心の中の、絵本がある場所に。そこは綺麗な場所に見えると思う。魔法使いがいて、アルファベットがあって、子供の頃に好きだった世界。でも今は腐ってる。中身が変わってる。何が見えるか分からない。怖いものが出る。声が出ない状態で、そこに入る」
縁の目が変わっていた。物語世界モードの目。
「私と棘くんが一緒にいます。でも私たちにも戦う力はない。逃げるか隠れるかしかない。それでも入りますか」
紗世は十秒ほど黙っていた。スマートフォンを見つめていた。それから、打たなかった。
頷いた。一度だけ、はっきりと。
声は出なかった。だが頷き方に迷いはなかった。
「じゃあ来週。同じ時間に。学校の後で」
紗世が立ち上がった。バッグを肩にかけた。ローファーの踵を揃えて、頭を下げた。深く。
棘が玄関まで送った。
階段を降りる足音が遠ざかった。十七歳の足音。軽いけれど、少しだけ重い。
ドアを閉めた。
事務所に戻ると、縁がデスクに突っ伏していた。
「縁さん」
「棘くん」
「ああ」
「この子、今までで一番やっかいかもしれない」
縁が顔を上げた。日常の顔ではなかった。物語世界モードの目が、まだ残っていた。
「声が出ないんですよ。前の二人は、最後に自分の言葉で怪異に語りかけて、物語を書き換えた。榊さんは『残します』と言った。瑛太くんは『おやすみ』と言った。でもこの子は声が出ない。対話ができない。私たちの治療の一番大事な部分が、使えない」
「じゃあどうするんだ」
「分からない」
縁がコーヒーを飲んだ。五杯目。胃薬のシートから一錠。
「入ってみないと分からない。でも一つだけ予想できる」
「何だ」
「あの子の世界では、言葉が武器になってる。言葉は敵。発話することそのものが罰になる世界。『正しく話せ』が呪いになってる。魔法使いは『教える』存在から『裁く』存在に変わってるはず」
縁は天井を見た。染みを数えている。いつもの癖。
「前の二人は、怪異が相談者を『愛して』いた。マカロンは榊さんを愛していた。クマは瑛太くんを愛していた。愛しているから、話せた。対話ができた」
「今回は違う」
「今回の魔法使いは、たぶん愛してない。教師だから。教師が生徒を愛しているわけじゃない。教師が求めるのは正解。間違えた生徒に教師がすることは、愛じゃない。矯正だ」
棘の背筋に冷たいものが走った。
「愛してない怪異に、対話は通じるのか」
「通じない可能性がある」
縁がコーヒーカップをテーブルに置いた。音が静かだった。
「通じなかったときのことを、考えておかないといけない」
沈黙が落ちた。
棘は左目に手を当てた。眼帯の下が疼いていた。今日は朝からだった。紗世が事務所に入ったときから、じくじくと。いつもと違う疼き方だった。少女が走る映像の端に、何か別のものが見えた気がした。暗い。人の形をしている。本を持っている。
一瞬だった。瞬きをしたら消えていた。
「縁さん」
「なに」
「目が、今日はいつもと違う」
縁が棘を見た。日常の顔に戻りかけていた目が、もう一度鋭くなった。
「どう違う」
「走ってる子の後ろに、何か見えた。人みたいなもの。黒い。すぐ消えたけど」
縁は何も言わなかった。コーヒーを口に運んだ。カップが空だった。空のカップを傾けた格好のまま、三秒ほど固まっていた。
「淹れてくるよ」
棘が立ち上がった。
「お願い」
縁の声は平坦だった。だが棘が台所に向かう前に、縁がもう一度言った。
「棘くん」
「ああ」
「来週、あの子の世界に入ったら、今までと同じだと思わないで。準備を変える」
「何をどう変えるんだ」
「言葉が通じない相手と、どうやって向き合うか。それを考える」
棘はコーヒーを淹れた。新しい豆。苦めのやつ。酸味の少ないやつ。
手が、少しだけ震えていた。紗世の感覚がまだ残っていた。喉の奥の閉塞感。声を出そうとして出ない苦しさ。四ヶ月間、この感覚と暮らしてきた十七歳の体。
コーヒーを縁のデスクに置いた。
「ありがとう」
縁は飲んだ。顔をしかめなかった。温度がちょうどよかった。
窓の外では、秋の夕暮れが雑居ビルの隙間に沈んでいた。カラスが鳴いている。いつもの夕方。いつもの事務所。だが何かが違っていた。
言葉が使えない世界。対話ができない治療。
今までのやり方が通じない相手に、どうやって向き合うのか。
棘は台所の流しで、縁が放置した皿を洗った。カレーの皿。卵焼きの皿。コーヒーカップ三つ。紗世が手をつけなかった紅茶のカップ。
紅茶はまだ温かかった。
飲まれなかった紅茶。口をつけられなかった飲み物。手をつけなかったのは遠慮だったのか、それとも。
棘はカップを洗いながら考えた。
あの子は四ヶ月間、声を出していない。声を出さないということは、食事の場面で「いただきます」も「ごちそうさま」も言えない。店で注文もできない。電話もできない。笑い声も出せない。
生きているのに、世界との接点が半分閉じている。
棘の左目が、また疼いた。
眼帯の下で、少女がまだ走っている。だが今日は、森の木々の間に、見慣れないものが混じっていた。
文字だった。
木の幹に、アルファベットが刻まれている。AからDまでの四文字。森の入口付近の木にだけ。まだ少ない。だが先週は一文字もなかった。
少女はそれを避けて走っている。文字に触れないように。文字に近づかないように。
棘は目を閉じた。三秒以内に開けた。
封筒は水色で、裏に「三崎」と書いてあった。便箋は一枚。丁寧な字で、短く書かれていた。
「なんて」
棘がキッチンから首を伸ばした。
「『瑛太が、自分から電気を消して寝るようになりました』って」
縁がコーヒーを飲みながら読み上げた。
「『まだ夜中に一度起きますが、クッションを握って、もう一度眠れています。朝ごはんを食べる量が増えました。先生方に、瑛太から手紙を書きたいと言っているので、またお手紙が届くかもしれません。ありがとうございました』」
「よかったな」
「よかったね」
縁は手紙をファイルに挟んだ。棘はフライパンの上で卵を焼いていた。朝の八時半。事務所の窓から秋の光が差している。十月に入って空気が乾き始めていた。
「棘くん、昨日の残りのカレー温めてくれる?」
「あれは俺が作り直したカレーだ。縁さんのカレーは捨てた」
「捨てたの。ひどくない?」
「食べたら死ぬ」
「言い過ぎでは」
「言い足りないくらいだ」
縁は反論を諦めた。カレーの皿を受け取り、卵焼きを載せた。朝からカレーを食べる大人。棘は味噌汁とごはん。食器の音だけが事務所に響いていた。
「縁さん」
「なに」
「手首」
棘がまた見ていた。縁の左手首。ケース2の後から、一週間に一度は確認するようになっていた。聞くのではない。見ている。不文律は守っている。だが見えるものを無視できない体質だった。
縁は袖をまくらなかった。
「消えたって言ったでしょ」
「ああ」
「嘘はつかないよ、こういうことでは」
嘘か本当か、棘にはまだ分からなかった。分からないまま卵焼きを口に入れた。自分で作った卵焼き。出汁が効いていて美味い。
デスクの上に、松永からの紹介状が置いてある。昨日届いた。
「心因性失声。器質的異常なし。発症より四ヶ月。声帯機能は正常だが発話不能。催眠療法、EMDR、いずれも効果なし。蔵書症の可能性あり」
十七歳。女子高生。
「今日か」
「今日。午後四時」
「学校帰りか」
「たぶん。制服で来るんじゃない」
縁はカレーを食べ終え、皿を流しに持っていった。洗わなかった。棘がため息をついた。いつものことだった。
「棘くん」
「ああ」
「十七歳って何考えてたっけ」
「知らないですよ。縁さんこそ何考えてたんですか」
「忘れた。たぶん何も」
縁はデスクに戻り、テレビをつけた。昼のワイドショーの再放送。芸人が大喜利をしている。縁がゲラゲラ笑った。面白いのかどうか、棘には分からなかった。
午後四時三分。インターホンが鳴った。一回。長め。迷いのない押し方。
棘がドアを開けた。
見上げる必要はなかった。百六十センチ前後。紺のブレザーにチェックのスカート。制服だった。膝上丈。黒いローファー。スクールバッグを左肩にかけている。
顔を見た。
目の下にくまがあった。ファンデーションで隠そうとしている。隠しきれていない。唇が乾いていて、その上からリップを塗った跡。髪は肩の少し下。染めてはいないが、地毛が明るい。栗色に近い。
綺麗な顔だった。整っている、というよりは鋭い。頬骨が高くて、目が大きい。視線に力がある。
その後ろに、保護者はいなかった。一人だった。
「朝倉さんですね。お待ちしておりました」
棘が頭を下げた。正座はしなかった。子供でもないし、大人でもない。立ったまま、丁寧に会釈した。
少女が頷いた。声は出さなかった。
右手にスマートフォンを持っていた。画面をこちらに向けた。
『朝倉紗世です。よろしくお願いします。声が出ないので、文字で失礼します』
打ち慣れた速度だった。毎日これをやっているのだ。
「大丈夫ですよ。どうぞ、中へ」
棘は紗世を中に通した。歩き方を見た。背筋が伸びている。足音が静か。制服のスカートに皺がない。鞄の中身が整頓されている。きちんとしている。きちんとしすぎている。
縁はデスクにいた。テレビは消してあった。棘が消したのではない。縁が自分で消していた。来客の前では消す。それくらいの常識はある。
「どうも、糸守です」
縁が手を挙げた。名刺は出さない。いつも通り。
紗世がソファに座った。バッグを横に置いた。スマートフォンを膝の上に構えている。すぐに打てるように。
「保護者の方は」
縁が聞いた。
紗世がスマートフォンを操作した。
『母は仕事です。一人で来ました。承諾書は署名済みです』
バッグからA4の書類を取り出し、テーブルに置いた。署名欄に母親の名前と紗世本人の名前。十七歳だが、段取りが大人だった。
「ありがとう。読むのが面倒だから助かる」
縁が書類を受け取った。棘が横目で見た。縁は本当に助かったという顔をしていた。書類仕事が嫌いなのは知っている。
棘が紅茶を出した。カルピスではない。十七歳にカルピスは失礼だろうと思った。だが何を出せばいいのか分からなかった。コーヒーか紅茶か。紅茶にした。砂糖は横に添えた。
紗世は紅茶に手をつけなかった。砂糖も使わなかった。
「それで」
縁がソファの向かいに座った。
「声が出ない」
紗世が頷いた。スマートフォンを操作した。
『四ヶ月前からです。六月の中旬に、朝起きたら出なくなっていました』
「急に?」
『前の晩までは普通に話していました』
「きっかけは何か思い当たる?」
紗世の指が止まった。二秒。三秒。それから打ち始めた。
『学校で、スピーチコンテストの予選がありました。英語の。その翌日から出なくなりました』
「英語のスピーチ」
縁が繰り返した。
『帰国子女です。小学校三年生まで、アメリカにいました。英語は話せます。話せたはずです』
紗世の指が速くなった。感情が乗ると速くなるのだ。棘はそれを見ていた。声が出ない代わりに、指が喋っている。
『コンテストは毎年あります。帰国子女だから出ろと言われて。去年も出ました。問題なかったです。でも今年は、壇上に立ったとき、何も出てこなかった。英語も。日本語も。口を開いたのに何も。先生が近づいてきて、名前を呼ばれました。聞こえていましたが返事ができなかった。それから四ヶ月、何も出ません』
棘の喉が詰まった。
自分の喉ではない。紗世の喉だった。声を出そうとして出ない。口を開けて、息を吐いて、声帯を震わせようとしているのに、音にならない。その閉塞感が、棘の喉の奥にそっくりそのまま再現されていた。
棘は水を飲んだ。自分の喉を確認した。飲み込めた。声も出る。自分のものだと確認する動作が、最近は速くなっていた。
「病院は行った?」
縁が聞いた。
『耳鼻咽喉科、神経内科、精神科。全部行きました。声帯は正常です。脳にも異常なし。精神科で心因性失声と診断されて、松永先生を紹介されました』
「松永が、うちを紹介した」
『「変な人たちだけど腕はいい」と言われました』
縁が笑った。棘は笑わなかった。松永の評価として正確すぎる。
「紗世さん」
縁が言った。
「変なこと聞くんだけど」
紗世がスマートフォンを構えた。待っている。何を聞かれるか分かっているような構え。
「子供の頃、好きだった絵本ってある?」
紗世の指が止まった。
今度は二秒や三秒ではなかった。十秒。十五秒。スマートフォンの画面を見つめたまま、何も打たない。指先が画面の上で浮いている。
棘の腕に鳥肌が立った。紗世の体の中で何かが締まるのを感じた。胸の奥の筋肉が収縮する感覚。喉の奥が詰まる感覚。声を出そうとして、出せなくて、その代わりに体の内側が閉じていく感覚。
紗世が打ち始めた。
『あります。一冊。英語の絵本です。アメリカにいたとき、お母さんが買ってくれた。ABCの絵本。魔法使いが出てきて、子供にアルファベットを教える絵本。一文字ずつ、魔法で文字を出して、その文字から始まる単語を教えてくれる。Aはapple。Bはbutterfly。Cはcaterpillar』
「思い出せる? その絵本の中身」
紗世の指が止まった。また長い沈黙。
それから、打った。
『思い出そうとすると、喉が詰まります』
「どんなふうに」
『飲み込んだものが逆流してくるような。何かが喉の奥から上がってくる感じ。でも何も出てこない。出そうとしても出てこない。吐きたいのに吐けない。喉に何かが詰まっている感覚が、ずっと消えない』
紗世の目が赤くなった。泣いてはいない。泣けないのだ。声を出せないと泣くことも難しい。嗚咽が出ない。息が詰まるだけ。
棘の喉が痛んだ。ずきずきと。声帯の周辺が腫れているような感覚。自分のものではない。分かっている。分かっていても痛い。
「紗世さん」
縁が少し身を乗り出した。
「アメリカにいたとき、英語は得意だった?」
『得意でした。友達もいました。学校も楽しかった』
「日本に帰ってきたのは」
『小学三年の秋です。父の転勤で帰国しました。地元の公立小学校に転入しました』
「日本語は」
紗世の指が、一瞬だけ震えた。
棘はそれを見た。指先が震えていた。画面の上で。
『話せました。家では日本語でしたから。でも、読み書きが遅れていました。漢字が書けなかった。「し」と「つ」を間違えた。「わ」と「は」の使い分けができなかった。作文で「私はは学校にいきました」と書いて、先生に直されました。クラスの子に笑われました』
棘は何も言わなかった。紗世の感情が流れ込んでいた。教室の空気。自分だけが違う空気を吸っている感覚。日本語を話しているはずなのに通じない。通じているはずなのに笑われる。自分の口から出る言葉が、全部間違っている気がする。
『英語を話すと「外人」と言われました。日本語を話すと「変な日本語」と言われました。どっちを話しても間違いでした』
「どちらも間違いだった」
縁が繰り返した。声は平坦だった。感情がない。だが平坦だからこそ、繰り返された言葉が正確に響いた。
紗世が頷いた。
『だから黙りました。しゃべらなければ間違えない。黙っていれば笑われない。中学に上がるまで、ほとんどしゃべりませんでした。中学で友達ができて、少しずつ話せるようになりました。高校では普通に話せていました。英語も使えていました。治ったと思っていました』
「治ってなかった」
『壇上で口を開けたとき、どの言葉で話せばいいか分からなくなりました。英語のスピーチなのに、日本語が邪魔をした。日本語を押しのけようとしたら、英語も消えた。両方消えた。何も残らなかった』
紗世がスマートフォンをテーブルに置いた。
両手を膝の上に載せた。指が握りしめられていた。爪が掌に食い込んでいる。
泣いていなかった。泣けなかった。声がないと、泣くための回路が塞がる。目は赤いのに、涙が出ない。
縁は何も言わなかった。椅子に座ったまま、紗世を見ていた。心は動いていなかった。動かないまま、正確に観察していた。
蔵書症。第三期。
英語学習絵本。アルファベットの魔法使い。「正しく発音すれば魔法が使える」という原作の世界観が、「正しく話さなければ排除される」というトラウマに感染している。声帯の物理的な封鎖。声を出すことそのものが、体に拒否されている。
厄介だ、と縁は思った。
前の二人は、道具を使えた。言葉を。榊は「残します」と言えた。瑛太は「おやすみ」と言えた。声を出すことで、歪んだ物語を書き換えた。
この子は声が出ない。
対話ができない。言葉が使えない。治療の最も核心的な手段が、最初から封じられている。
「紗世さん」
縁が立ち上がった。
「少し準備が要るんで、二十分くらい待ってもらっていいですか」
紗世が頷いた。
「あ、そういえば」
縁がポケットからスマートフォンを出した。
「棘くん、知ってる? アルファベットの Aって、元は牛の頭をひっくり返した形なんだって。ほら、こう」
縁が指で空中にAを描いた。
「上下逆にすると、角が生えた牛の顔に見えるでしょ。三千年くらい前のフェニキア人が考えたらしい。牛ってことは、つまりAの正体はステーキなんですよ」
棘がため息をついた。
「今する話ですか」
「いや、アルファベットの話が出たから思い出して」
「出てないです。出したのは縁さんです」
「出したっけ」
紗世がスマートフォンを持ち上げた。
『牛が逆さまでAなら、Bは何ですか』
縁が目を丸くした。返されると思っていなかったのだ。
「B? えーと、Bは家の間取り図だった気がする。部屋が二つある家。出入り口が左側で」
『Cは』
「Cはラクダの背中。いや、投げ縄だったかな。忘れた」
紗世の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑みにはならなかった。声がないと表情も乏しくなる。声が出ないことで、顔の筋肉まで固まっていく。四ヶ月間、笑い声も泣き声も上げていない顔は、表情の可動域が狭くなっている。
だが動こうとした。筋肉が。
棘はそれを見た。見てしまった。笑おうとして笑えない顔。声を出そうとして出せない喉。その二つが同じ原因で止まっている。
縁が奥の部屋に入った。針と糸を取りに。
棘は紗世に紅茶のおかわりを勧めた。紗世は首を振った。
二人きりになった。棘と、十七歳の少女。
棘はソファの端に座った。距離を取った。近すぎない。遠すぎない。だが瑛太のときとは違った。子供なら手を繋げる。十七歳には繋げない。何をしていいか分からなかった。
紗世がスマートフォンを操作した。棘に画面を向けた。
『鉤谷さんは、普段何してるんですか。ここ、あんまり忙しそうに見えない』
棘の耳が赤くなった。図星だった。
「掃除とか。料理とか。あの人のあとの片付けとか」
顎で奥の部屋を示した。
『お二人は、夫婦ですか』
「違います」
速すぎた。否定が速すぎた。棘は自分でそれに気づいて、さらに耳が赤くなった。
『すみません。よく聞かれるんだろうなと思って』
「初めてです」
『嘘ですね。耳が赤い』
棘は耳を押さえた。見られていた。
「よく言われます」
『隠し事が下手なタイプですね』
「よく言われます」
紗世の目が、少しだけ緩んだ。警戒が一段下がった。この人は危険ではない、と判断した目。十七歳の観察力。子供の頃からずっと人の顔色を読んできた人間の目。
棘にはそれが分かった。分かってしまった。この子は自分と同じだ。人の顔色を読みすぎる。先回りして相手の望む反応を返す。嫌われないように。排除されないように。
違うのは、棘は言葉でそれをやり、紗世は沈黙でそれをやっていることだった。
縁が戻ってきた。
「準備できた。紗世さん、一つ確認」
紗世がスマートフォンを構えた。
「あなたの中に入ります。心の中の、絵本がある場所に。そこは綺麗な場所に見えると思う。魔法使いがいて、アルファベットがあって、子供の頃に好きだった世界。でも今は腐ってる。中身が変わってる。何が見えるか分からない。怖いものが出る。声が出ない状態で、そこに入る」
縁の目が変わっていた。物語世界モードの目。
「私と棘くんが一緒にいます。でも私たちにも戦う力はない。逃げるか隠れるかしかない。それでも入りますか」
紗世は十秒ほど黙っていた。スマートフォンを見つめていた。それから、打たなかった。
頷いた。一度だけ、はっきりと。
声は出なかった。だが頷き方に迷いはなかった。
「じゃあ来週。同じ時間に。学校の後で」
紗世が立ち上がった。バッグを肩にかけた。ローファーの踵を揃えて、頭を下げた。深く。
棘が玄関まで送った。
階段を降りる足音が遠ざかった。十七歳の足音。軽いけれど、少しだけ重い。
ドアを閉めた。
事務所に戻ると、縁がデスクに突っ伏していた。
「縁さん」
「棘くん」
「ああ」
「この子、今までで一番やっかいかもしれない」
縁が顔を上げた。日常の顔ではなかった。物語世界モードの目が、まだ残っていた。
「声が出ないんですよ。前の二人は、最後に自分の言葉で怪異に語りかけて、物語を書き換えた。榊さんは『残します』と言った。瑛太くんは『おやすみ』と言った。でもこの子は声が出ない。対話ができない。私たちの治療の一番大事な部分が、使えない」
「じゃあどうするんだ」
「分からない」
縁がコーヒーを飲んだ。五杯目。胃薬のシートから一錠。
「入ってみないと分からない。でも一つだけ予想できる」
「何だ」
「あの子の世界では、言葉が武器になってる。言葉は敵。発話することそのものが罰になる世界。『正しく話せ』が呪いになってる。魔法使いは『教える』存在から『裁く』存在に変わってるはず」
縁は天井を見た。染みを数えている。いつもの癖。
「前の二人は、怪異が相談者を『愛して』いた。マカロンは榊さんを愛していた。クマは瑛太くんを愛していた。愛しているから、話せた。対話ができた」
「今回は違う」
「今回の魔法使いは、たぶん愛してない。教師だから。教師が生徒を愛しているわけじゃない。教師が求めるのは正解。間違えた生徒に教師がすることは、愛じゃない。矯正だ」
棘の背筋に冷たいものが走った。
「愛してない怪異に、対話は通じるのか」
「通じない可能性がある」
縁がコーヒーカップをテーブルに置いた。音が静かだった。
「通じなかったときのことを、考えておかないといけない」
沈黙が落ちた。
棘は左目に手を当てた。眼帯の下が疼いていた。今日は朝からだった。紗世が事務所に入ったときから、じくじくと。いつもと違う疼き方だった。少女が走る映像の端に、何か別のものが見えた気がした。暗い。人の形をしている。本を持っている。
一瞬だった。瞬きをしたら消えていた。
「縁さん」
「なに」
「目が、今日はいつもと違う」
縁が棘を見た。日常の顔に戻りかけていた目が、もう一度鋭くなった。
「どう違う」
「走ってる子の後ろに、何か見えた。人みたいなもの。黒い。すぐ消えたけど」
縁は何も言わなかった。コーヒーを口に運んだ。カップが空だった。空のカップを傾けた格好のまま、三秒ほど固まっていた。
「淹れてくるよ」
棘が立ち上がった。
「お願い」
縁の声は平坦だった。だが棘が台所に向かう前に、縁がもう一度言った。
「棘くん」
「ああ」
「来週、あの子の世界に入ったら、今までと同じだと思わないで。準備を変える」
「何をどう変えるんだ」
「言葉が通じない相手と、どうやって向き合うか。それを考える」
棘はコーヒーを淹れた。新しい豆。苦めのやつ。酸味の少ないやつ。
手が、少しだけ震えていた。紗世の感覚がまだ残っていた。喉の奥の閉塞感。声を出そうとして出ない苦しさ。四ヶ月間、この感覚と暮らしてきた十七歳の体。
コーヒーを縁のデスクに置いた。
「ありがとう」
縁は飲んだ。顔をしかめなかった。温度がちょうどよかった。
窓の外では、秋の夕暮れが雑居ビルの隙間に沈んでいた。カラスが鳴いている。いつもの夕方。いつもの事務所。だが何かが違っていた。
言葉が使えない世界。対話ができない治療。
今までのやり方が通じない相手に、どうやって向き合うのか。
棘は台所の流しで、縁が放置した皿を洗った。カレーの皿。卵焼きの皿。コーヒーカップ三つ。紗世が手をつけなかった紅茶のカップ。
紅茶はまだ温かかった。
飲まれなかった紅茶。口をつけられなかった飲み物。手をつけなかったのは遠慮だったのか、それとも。
棘はカップを洗いながら考えた。
あの子は四ヶ月間、声を出していない。声を出さないということは、食事の場面で「いただきます」も「ごちそうさま」も言えない。店で注文もできない。電話もできない。笑い声も出せない。
生きているのに、世界との接点が半分閉じている。
棘の左目が、また疼いた。
眼帯の下で、少女がまだ走っている。だが今日は、森の木々の間に、見慣れないものが混じっていた。
文字だった。
木の幹に、アルファベットが刻まれている。AからDまでの四文字。森の入口付近の木にだけ。まだ少ない。だが先週は一文字もなかった。
少女はそれを避けて走っている。文字に触れないように。文字に近づかないように。
棘は目を閉じた。三秒以内に開けた。
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