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第8話 危機 ― もう二度と会えない
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王子との再会から、数日が過ぎた。
修道院の庭には静けさが戻り、
リリアはいつものように孤児たちの読み書きを教えていた。
春の光は穏やかで、空気は透き通るように澄んでいる。
――まるで、嵐の前の静けさのように。
「リリア様、今日も王都からの使いが来ています。」
修道女の声に振り向くと、門の外に黒い外套の男が立っていた。
王家の紋章のない馬車。
彼女の胸に、微かな違和感が走る。
「お届け物です。殿下からのご依頼で。」
男は丁寧に頭を下げ、包みを差し出した。
けれど、その仕草にはどこか不自然な影があった。
リリアが手を伸ばした瞬間、男の腕が閃いた。
「――っ!」
刃の冷たい光。
彼女は反射的に後ろへ退いたが、
男は一瞬の隙を突いて腕を掴む。
「離して!」
「お静かに。あなたには、少し“同行”していただきます。」
その声には、奇妙な丁寧さと冷たさが混じっていた。
リリアが抵抗するより早く、布が口を覆う。
鼻を刺す薬の匂い――。
視界が滲み、世界がゆっくりと暗転していく。
遠くで、修道女たちの叫び声が聞こえた気がした。
***
夜。
エドガーは馬を走らせていた。
報せを聞いたのは日没前。
「リリア様が連れ去られた」と泣き叫ぶ修道女の声が、耳から離れなかった。
馬の蹄が土を打ち、風が頬を切る。
胸の奥で、何かが燃えている。
――また守れなかったら、今度こそ自分を許せない。
夜風の中、王都の方角に赤い光が見えた。
その光は、火事のようで、どこか血のようにも見えた。
彼は剣を握りしめ、唇を噛む。
「誰だ……彼女を狙うのは……!」
彼の脳裏には一人の名が浮かんでいた。
リュシェル・ヴァレンティナ――。
あの女がまだ動いているのだとしたら、これも彼女の仕業に違いない。
エドガーはさらに馬に鞭を入れた。
月明かりの中、森を抜け、街道を駆ける。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り続ける。
それは焦燥でもあり、恐怖でもあった。
「どうか、無事でいてくれ……」
彼の呟きは風に溶けていった。
そしてそのころ、暗い馬車の中で、リリアはうっすらと意識を取り戻していた。
身体は縛られ、口には布。
外では馬の蹄の音が響く。
自分がどこに連れて行かれているのかも分からない。
けれど、恐怖よりも先に浮かんだのは――エドガーの顔だった。
あの時の炎の中、差し伸べられた手の温もり。
その記憶が、彼女を繋ぎ止めていた。
「……来て、エドガー……」
かすれた声が漏れた。
馬車の外では、森の影がざわめく。
風が木々を揺らし、どこか遠くで狼の遠吠えが響いた。
夜が、音もなく深まっていく。
その先に待つのは、試練か、それとも――運命か。
暗い森の奥、古びた屋敷の中に灯りがひとつ揺れていた。
その灯りの下で、リリアは椅子に縛り付けられたまま、静かに目を開ける。
空気は冷たく、かすかに湿っている。
壁には長い影――そして、見覚えのある女の姿があった。
「久しぶりね、リリア・オルデン。」
リュシェル・ヴァレンティナ。
紅の唇が歪む。
豪奢なドレスを身にまといながら、その瞳には狂気の光が宿っていた。
「あなたがいなければ、今ごろ私は王妃よ。
殿下があなたを忘れられないせいで、どれだけ私が屈辱を味わったか、分かる?」
「……あなたの恨みは、過去の私に向けるものではなくて?」
リリアの声は落ち着いていた。
縛られながらも、恐怖より哀れみが勝っていた。
だがリュシェルは笑い、ナイフを手に取る。
「あなたが生きている限り、殿下の心は戻らないの。
だから――終わりにしましょう。」
刃が光った瞬間、外から激しい音が響いた。
扉が蹴破られ、風が吹き込む。
黒い外套が揺れ、その中から鋭い声が響いた。
「リリア様!」
エドガーだった。
剣を抜き放ち、間に割って入る。
リュシェルが驚愕の表情を浮かべるより早く、彼は刃を弾き飛ばした。
金属音が響き、ナイフが床を転がる。
「あなた……どうしてここが――」
「あなたの名前を呼んで、風が教えてくれた。」
エドガーの声は低く、震えていた。
怒りと焦り、そして――安堵が入り混じる。
リリアの視界が滲む。
夢ではない。彼が、本当に来てくれた。
リュシェルがなおも何かを叫び、もう一度刃を掴もうとした。
だが、その瞬間、エドガーの剣が閃いた。
刃は女の袖を裂き、壁に深く突き刺さる。
「二度とその手で、彼女に触れるな。」
その声は静かで、凍るように冷たかった。
リュシェルは唇を震わせ、一歩後ずさる。
そのまま逃げ出すように、暗闇の中へと消えていった。
残されたのは、リリアとエドガーだけ。
夜の静寂が戻り、蝋燭の炎がわずかに揺れる。
「……また、助けられてしまったわね。」
リリアが微笑むと、エドガーは膝をつき、縄を解いた。
「助けるのは、もう義務じゃない。俺の望みだ。」
リリアの手を取る。
その指先が触れた瞬間、涙がこぼれた。
ずっと堪えていた感情が、ようやく溢れた。
「怖かった……でも、あなたが来てくれるって信じてた。」
彼はその言葉に息を詰め、静かに彼女を抱きしめた。
温もりが広がり、世界が静まる。
心臓の鼓動が二人の間で重なる。
「俺の命がある限り、あなたを二度と離さない。」
その誓いは、神への祈りよりも強かった。
リリアは目を閉じ、その胸に顔を埋めた。
外では夜明けの気配が始まっていた。
暗闇の向こうに、光の筋が差し込む。
それはまるで、二人の新しい朝を告げるかのようだった。
「……もう一度、生きていいのね。」
リリアの呟きに、エドガーは優しく頷いた。
朝の光が二人を包み込む。
炎の夜を越えて、ようやくたどり着いた静かな再生の瞬間――。
修道院の庭には静けさが戻り、
リリアはいつものように孤児たちの読み書きを教えていた。
春の光は穏やかで、空気は透き通るように澄んでいる。
――まるで、嵐の前の静けさのように。
「リリア様、今日も王都からの使いが来ています。」
修道女の声に振り向くと、門の外に黒い外套の男が立っていた。
王家の紋章のない馬車。
彼女の胸に、微かな違和感が走る。
「お届け物です。殿下からのご依頼で。」
男は丁寧に頭を下げ、包みを差し出した。
けれど、その仕草にはどこか不自然な影があった。
リリアが手を伸ばした瞬間、男の腕が閃いた。
「――っ!」
刃の冷たい光。
彼女は反射的に後ろへ退いたが、
男は一瞬の隙を突いて腕を掴む。
「離して!」
「お静かに。あなたには、少し“同行”していただきます。」
その声には、奇妙な丁寧さと冷たさが混じっていた。
リリアが抵抗するより早く、布が口を覆う。
鼻を刺す薬の匂い――。
視界が滲み、世界がゆっくりと暗転していく。
遠くで、修道女たちの叫び声が聞こえた気がした。
***
夜。
エドガーは馬を走らせていた。
報せを聞いたのは日没前。
「リリア様が連れ去られた」と泣き叫ぶ修道女の声が、耳から離れなかった。
馬の蹄が土を打ち、風が頬を切る。
胸の奥で、何かが燃えている。
――また守れなかったら、今度こそ自分を許せない。
夜風の中、王都の方角に赤い光が見えた。
その光は、火事のようで、どこか血のようにも見えた。
彼は剣を握りしめ、唇を噛む。
「誰だ……彼女を狙うのは……!」
彼の脳裏には一人の名が浮かんでいた。
リュシェル・ヴァレンティナ――。
あの女がまだ動いているのだとしたら、これも彼女の仕業に違いない。
エドガーはさらに馬に鞭を入れた。
月明かりの中、森を抜け、街道を駆ける。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り続ける。
それは焦燥でもあり、恐怖でもあった。
「どうか、無事でいてくれ……」
彼の呟きは風に溶けていった。
そしてそのころ、暗い馬車の中で、リリアはうっすらと意識を取り戻していた。
身体は縛られ、口には布。
外では馬の蹄の音が響く。
自分がどこに連れて行かれているのかも分からない。
けれど、恐怖よりも先に浮かんだのは――エドガーの顔だった。
あの時の炎の中、差し伸べられた手の温もり。
その記憶が、彼女を繋ぎ止めていた。
「……来て、エドガー……」
かすれた声が漏れた。
馬車の外では、森の影がざわめく。
風が木々を揺らし、どこか遠くで狼の遠吠えが響いた。
夜が、音もなく深まっていく。
その先に待つのは、試練か、それとも――運命か。
暗い森の奥、古びた屋敷の中に灯りがひとつ揺れていた。
その灯りの下で、リリアは椅子に縛り付けられたまま、静かに目を開ける。
空気は冷たく、かすかに湿っている。
壁には長い影――そして、見覚えのある女の姿があった。
「久しぶりね、リリア・オルデン。」
リュシェル・ヴァレンティナ。
紅の唇が歪む。
豪奢なドレスを身にまといながら、その瞳には狂気の光が宿っていた。
「あなたがいなければ、今ごろ私は王妃よ。
殿下があなたを忘れられないせいで、どれだけ私が屈辱を味わったか、分かる?」
「……あなたの恨みは、過去の私に向けるものではなくて?」
リリアの声は落ち着いていた。
縛られながらも、恐怖より哀れみが勝っていた。
だがリュシェルは笑い、ナイフを手に取る。
「あなたが生きている限り、殿下の心は戻らないの。
だから――終わりにしましょう。」
刃が光った瞬間、外から激しい音が響いた。
扉が蹴破られ、風が吹き込む。
黒い外套が揺れ、その中から鋭い声が響いた。
「リリア様!」
エドガーだった。
剣を抜き放ち、間に割って入る。
リュシェルが驚愕の表情を浮かべるより早く、彼は刃を弾き飛ばした。
金属音が響き、ナイフが床を転がる。
「あなた……どうしてここが――」
「あなたの名前を呼んで、風が教えてくれた。」
エドガーの声は低く、震えていた。
怒りと焦り、そして――安堵が入り混じる。
リリアの視界が滲む。
夢ではない。彼が、本当に来てくれた。
リュシェルがなおも何かを叫び、もう一度刃を掴もうとした。
だが、その瞬間、エドガーの剣が閃いた。
刃は女の袖を裂き、壁に深く突き刺さる。
「二度とその手で、彼女に触れるな。」
その声は静かで、凍るように冷たかった。
リュシェルは唇を震わせ、一歩後ずさる。
そのまま逃げ出すように、暗闇の中へと消えていった。
残されたのは、リリアとエドガーだけ。
夜の静寂が戻り、蝋燭の炎がわずかに揺れる。
「……また、助けられてしまったわね。」
リリアが微笑むと、エドガーは膝をつき、縄を解いた。
「助けるのは、もう義務じゃない。俺の望みだ。」
リリアの手を取る。
その指先が触れた瞬間、涙がこぼれた。
ずっと堪えていた感情が、ようやく溢れた。
「怖かった……でも、あなたが来てくれるって信じてた。」
彼はその言葉に息を詰め、静かに彼女を抱きしめた。
温もりが広がり、世界が静まる。
心臓の鼓動が二人の間で重なる。
「俺の命がある限り、あなたを二度と離さない。」
その誓いは、神への祈りよりも強かった。
リリアは目を閉じ、その胸に顔を埋めた。
外では夜明けの気配が始まっていた。
暗闇の向こうに、光の筋が差し込む。
それはまるで、二人の新しい朝を告げるかのようだった。
「……もう一度、生きていいのね。」
リリアの呟きに、エドガーは優しく頷いた。
朝の光が二人を包み込む。
炎の夜を越えて、ようやくたどり着いた静かな再生の瞬間――。
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