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白雨【8月短編】
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「りょーた……あつい……」
「夏だからなぁ」
「あついー……」
8月も盛りの盛り、朝から気温が高く蝉の声も響き渡っている。ここは湿度が低いからまだマシだけど、都心は大変な暑さだろう。
暑さに弱いおみは、ここ数日ずっとうにゃうにゃしていた。自慢の尻尾はぺしゃりとうなだれ、少しでも涼しいところを探すためにウロウロ店の中をさまよい歩いている。そんなに動き回ると逆に暑いんじゃないのか、と思わなくもないが、好きにさせていた。
「おみ、自分の上にだけ雨雲出せないのか」
「うー……できない……」
「そっか」
「できないから、りょーたのとこで修行してる」
「なるほど……」
確かに、そんな器用なことが出来たら泣いただけで大雨が降ったりしないだろう。龍神様も大変だ。
そんな、未熟で幼い龍神様は、何を思ったか俺の膝に乗り上げてきた。絶対に暑いだろ。何を考えているんだ。
「りょーた、汗かいてる」
「暑いからな」
「うにぃ……」
これはもう、暑いせいで駄々を捏ねているだけだな。うんうん、分かるよ。俺も小さい頃そうだった。少しでも宥められるかと顎の下をくすぐってやる。それだけで、嬉しそうに笑うから単純なやつだ。
しかし、どうしたものかな。俺はまだ耐えられるが、おみは人じゃない。これで体調を崩したらもっと大変なことになる。どうにか涼しくしてやれないだろうか。ううん。
「あ、そうだ」
「んぁ?」
「確か物置にあったはず……おみ、少しだけ店番頼む」
「うぃ!」
いつもだったら、なるべく動きたくないと思うのに。おみのためなら何かしてやりたい。どうにかして喜んでもらいたい。
これが親心ってやつなんだろうか。二十六になって初めて知った。結婚もしていないのに。なんだかおかしくなって、自然と口元が緩んでしまっていた。
「ふあぁ……きもちい……」
「まるで温泉だな」
「温泉?」
「そう。極楽極楽、ってさ」
物置から引っ張り出してきたのは、古いビニールプールだった。必死こいて膨らませ、冷たい水をたっぷり入れてやる。
いくら田舎とはいえ店の前だから、おみには尻尾と角は絶対に出すなと言いつけて中に入れてやった。さすがに水着はなかったから、修行用の襦袢を着せる。肌に張り付いて気持ち悪いかと思ったが、慣れているようで気にしている様子はない。
「おみ、これ好き!」
「よかった。あとでアイス食べような」
「やったー!」
おみが両手を上げた途端、空に浮かんでいた雲が一瞬でどこかに流れて行った。そのまま強い太陽の光が差し込んでくる。
分かりやすいやつ。
「おーう、室生の坊、風流だねぇ」
「坂口さん、こんにちは」
着流しに団扇、それにカンカン帽という風流な着こなしをした坂口さんは、じいさんの古い友人だ。俺がこの店を引き継いだ時から何かと気にかけてくれる。
今日も手には大きな風呂敷が収まっていた。
「おみ坊も楽しそうだなぁ、気持ちいいかい?」
「気持ちいい! さかぐちはおさんぽ?」
「おう。あと、今夜の酒を買いにな」
袂から五千円札を取り出し、俺の手に押し付けてくる。これで適当に見繕ってくれ、という意味だろう。おみのことは坂口さんに任せるとして、店の酒蔵へと向かう。
古本屋の奥にある扉を開けると、そこには小さなテーブルと椅子がある。五人も入れば満員になるその場所は、常連しか知らない秘密の酒場だ。そこに置かれている秘蔵の酒をいくつか手に取り、紙袋に詰めていく。
地ビールを二本と辛口の日本酒を選んで、おおよそ五千円になるよう計算する。お釣りはいつも受け取ってもらえないから、自宅で採れた大葉を醤油に漬けたものをタッパーに入れておく。きっと今日の冷酒に合うだろう。
「さて、こんなものかな」
酒場の電気を消して、おみたちの元へ向かう。棚に飾られた写真立てが、かたりと音を立てた。
「坂口さん、お待たせしました……って、なんですか、それ」
「りょーた! みて! おおきい!」
店に戻ると、プールには白い毛玉と、同じくらいの大きさをした立派な西瓜が浮かんでいた。風呂敷の中身はこれだったのか。
「最近あっついだろう? 少しでも涼しくなるようにって、おみ坊にな」
「さかぐち優しい」
「だろう? まあ、最近は雨が多くてよく育たねぇんだけどな」
「んにゅ」
それは完全にこの毛玉のせいです。昨日の夕方に降った雨も、この毛玉がテーブルで足を打った時に泣いたせいです。
「また良いのが採れたら持ってきてやるよ。店番、頑張れよ」
「さかぐちもがんばれよ」
「何をだよ。じゃな、坊」
カランコロンと下駄を鳴らしながら、坂口さんは酒の袋を持って帰っていく。後ろ姿に手を振るおみは、少しだけ浮かない顔をしていた。
ちくり、と頭が痛くなる、やれやれ。お前は本当に下手くそだな。
「りょーた、おみ、迷惑かけてる?」
「坂口さんに?」
「うん……すいか、育たないって」
濡れてぺしょんとなった髪を撫でる。水気を吸って重たくなっていた。
「そんなこともある。おみが泣いても泣かなくても、西瓜が育ちにくい時はあるよ」
「でも、おみがちゃんと力を使えたら……」
「使えるようになるため、ここにいるんだろう? 今は出来なくても、いつか出来るようになればいい」
大きな瞳がぱちりと瞬く。ぽろりと雫がこぼれ落ちていくのと同時に、空からも一粒だけ雨が落ちてきた。
空を見上げても、雲はひとつも無い。
「そろそろ中に入ろう。西瓜切ってやるから」
「たべる! りょーただいすき!」
「はいはい。俺も大好きだよ」
大きな西瓜を抱えたままのおみを持ち上げる。海色の瞳に光が反射して、キラキラと輝いていた。
「夏だからなぁ」
「あついー……」
8月も盛りの盛り、朝から気温が高く蝉の声も響き渡っている。ここは湿度が低いからまだマシだけど、都心は大変な暑さだろう。
暑さに弱いおみは、ここ数日ずっとうにゃうにゃしていた。自慢の尻尾はぺしゃりとうなだれ、少しでも涼しいところを探すためにウロウロ店の中をさまよい歩いている。そんなに動き回ると逆に暑いんじゃないのか、と思わなくもないが、好きにさせていた。
「おみ、自分の上にだけ雨雲出せないのか」
「うー……できない……」
「そっか」
「できないから、りょーたのとこで修行してる」
「なるほど……」
確かに、そんな器用なことが出来たら泣いただけで大雨が降ったりしないだろう。龍神様も大変だ。
そんな、未熟で幼い龍神様は、何を思ったか俺の膝に乗り上げてきた。絶対に暑いだろ。何を考えているんだ。
「りょーた、汗かいてる」
「暑いからな」
「うにぃ……」
これはもう、暑いせいで駄々を捏ねているだけだな。うんうん、分かるよ。俺も小さい頃そうだった。少しでも宥められるかと顎の下をくすぐってやる。それだけで、嬉しそうに笑うから単純なやつだ。
しかし、どうしたものかな。俺はまだ耐えられるが、おみは人じゃない。これで体調を崩したらもっと大変なことになる。どうにか涼しくしてやれないだろうか。ううん。
「あ、そうだ」
「んぁ?」
「確か物置にあったはず……おみ、少しだけ店番頼む」
「うぃ!」
いつもだったら、なるべく動きたくないと思うのに。おみのためなら何かしてやりたい。どうにかして喜んでもらいたい。
これが親心ってやつなんだろうか。二十六になって初めて知った。結婚もしていないのに。なんだかおかしくなって、自然と口元が緩んでしまっていた。
「ふあぁ……きもちい……」
「まるで温泉だな」
「温泉?」
「そう。極楽極楽、ってさ」
物置から引っ張り出してきたのは、古いビニールプールだった。必死こいて膨らませ、冷たい水をたっぷり入れてやる。
いくら田舎とはいえ店の前だから、おみには尻尾と角は絶対に出すなと言いつけて中に入れてやった。さすがに水着はなかったから、修行用の襦袢を着せる。肌に張り付いて気持ち悪いかと思ったが、慣れているようで気にしている様子はない。
「おみ、これ好き!」
「よかった。あとでアイス食べような」
「やったー!」
おみが両手を上げた途端、空に浮かんでいた雲が一瞬でどこかに流れて行った。そのまま強い太陽の光が差し込んでくる。
分かりやすいやつ。
「おーう、室生の坊、風流だねぇ」
「坂口さん、こんにちは」
着流しに団扇、それにカンカン帽という風流な着こなしをした坂口さんは、じいさんの古い友人だ。俺がこの店を引き継いだ時から何かと気にかけてくれる。
今日も手には大きな風呂敷が収まっていた。
「おみ坊も楽しそうだなぁ、気持ちいいかい?」
「気持ちいい! さかぐちはおさんぽ?」
「おう。あと、今夜の酒を買いにな」
袂から五千円札を取り出し、俺の手に押し付けてくる。これで適当に見繕ってくれ、という意味だろう。おみのことは坂口さんに任せるとして、店の酒蔵へと向かう。
古本屋の奥にある扉を開けると、そこには小さなテーブルと椅子がある。五人も入れば満員になるその場所は、常連しか知らない秘密の酒場だ。そこに置かれている秘蔵の酒をいくつか手に取り、紙袋に詰めていく。
地ビールを二本と辛口の日本酒を選んで、おおよそ五千円になるよう計算する。お釣りはいつも受け取ってもらえないから、自宅で採れた大葉を醤油に漬けたものをタッパーに入れておく。きっと今日の冷酒に合うだろう。
「さて、こんなものかな」
酒場の電気を消して、おみたちの元へ向かう。棚に飾られた写真立てが、かたりと音を立てた。
「坂口さん、お待たせしました……って、なんですか、それ」
「りょーた! みて! おおきい!」
店に戻ると、プールには白い毛玉と、同じくらいの大きさをした立派な西瓜が浮かんでいた。風呂敷の中身はこれだったのか。
「最近あっついだろう? 少しでも涼しくなるようにって、おみ坊にな」
「さかぐち優しい」
「だろう? まあ、最近は雨が多くてよく育たねぇんだけどな」
「んにゅ」
それは完全にこの毛玉のせいです。昨日の夕方に降った雨も、この毛玉がテーブルで足を打った時に泣いたせいです。
「また良いのが採れたら持ってきてやるよ。店番、頑張れよ」
「さかぐちもがんばれよ」
「何をだよ。じゃな、坊」
カランコロンと下駄を鳴らしながら、坂口さんは酒の袋を持って帰っていく。後ろ姿に手を振るおみは、少しだけ浮かない顔をしていた。
ちくり、と頭が痛くなる、やれやれ。お前は本当に下手くそだな。
「りょーた、おみ、迷惑かけてる?」
「坂口さんに?」
「うん……すいか、育たないって」
濡れてぺしょんとなった髪を撫でる。水気を吸って重たくなっていた。
「そんなこともある。おみが泣いても泣かなくても、西瓜が育ちにくい時はあるよ」
「でも、おみがちゃんと力を使えたら……」
「使えるようになるため、ここにいるんだろう? 今は出来なくても、いつか出来るようになればいい」
大きな瞳がぱちりと瞬く。ぽろりと雫がこぼれ落ちていくのと同時に、空からも一粒だけ雨が落ちてきた。
空を見上げても、雲はひとつも無い。
「そろそろ中に入ろう。西瓜切ってやるから」
「たべる! りょーただいすき!」
「はいはい。俺も大好きだよ」
大きな西瓜を抱えたままのおみを持ち上げる。海色の瞳に光が反射して、キラキラと輝いていた。
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