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白雨【8月短編】
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どこからともなく、焼けたソースの香りが漂ってきた。昔からこの香りには食欲を刺激される。久しぶりの夏祭りは、思いのほか人が集まっていた。からん、ころんと下駄を鳴らしながら、前を歩く小さな毛玉を見逃さないよう歩いていた。
「りょーた、これなに?」
「水風船。知らない?」
「しらない」
だよな。こうやって現世のことを知るために修行しているんだから、知らないことがたくさんあるのは当然だ。おまけに生まれ持ったものか年相応のものか、旺盛すぎる好奇心も相まって今日のおみはずっと浮き足立っているようだった。
真新しい浴衣(尻尾を隠せる特殊機能付き)を仕立ててもらったことがよほど嬉しかったのか、ここ数日はずっと快晴が続いていた。今日も花火が上がる。雨が降らないといいんだけれど。
「いいか、取れなくても怒るなよ?」
「おみ、怒ったことない」
「……確かに」
怒ったりはしないが、拗ねて泣いちゃうんだよな、お前は。
「ほら、上手に引っ掛けて。糸が千切れないように持ち上げるんだ」
「むむむ」
「お前……腕、短いな」
「むー!」
必死に背伸びをして水風船を釣り上げる姿はとても可愛らしい。結局、店主に引っ掛けてもらい見事おみは自力(?)で水風船を手に入れることができた。
「おおー……!」
「こうやって、何回も手のひらで叩くんだ」
「おおー!」
緑色の水風船がぽんぽん音を立てる。俺も子供の頃は好きだったな。中に入っている水の音が心地よくて、毎日これで遊んでいた。数日すると萎んでしまうのが悲しかった記憶がある。
もしかしたら、おみも同じように悲しくなるだろうか。それも修行の一つとはいえ、おみの泣き顔はあまり見たくないな。
「りょーた、雲がある!」
「ええ? 雲?」
ぼんやり考え事をしている間に、当の本人は出店を満喫していたらしい。大きなわたあめを前にぴょんぴょん飛び跳ねていた。なるほど、雲というのは確かにそうだ。今までおみが見てきたものはおそらくこういうものばかりだったんだろう。ほとんど色のない、静かで誰もいない場所。ずっとそこに居たと聞いている。
こうやって、見たことないものや、行ったことない場所、食べたことないものをたくさん知ることがおみの修行だ。
「食べる?」
「雲、食べられないよ?」
「これは食べられる。甘くてふわふわだ」
「わー!」
その代わり上手に食べないと大変なことになるぞ。今日は浴衣だから髪を高い位置でまとめているからいいけれど、いつもみたいに下ろしたままだったら確実にくっついていた。そして泣いていただろう。
今日は花火も上がるんだ。泣くな、とは言わないが、せめて家に帰るまでは我慢してもらいたい。なんたって今日の花火を一番楽しみにしていたのは、紛れもなくおみなんだから。
「はい。出来立てだからあったかいぞ」
「あったかくてふわふわ! すごい!」
「すごいなぁ」
代金を支払って、さてそろそろ次に行くかと振り返る。花火が打ち上がる前に今日の夕飯を済ませておきたい。ここなら焼きそばや箸巻き、焼き鳥だってある。おみが今まで食べたことないものばかりのはずだ。そして、俺には作れないものばかり。
何がいいか聞こうとして、やけに静かなことに気がついた。
嫌な予感がする。
「おみ……お前なぁ」
「み、みぇ……」
案の定、思った通り、おみは顔いっぱいにわたあめをくっつけていた。きっと勢いよく顔を近づけたのだろう。見た目は雲みたいにふわふわしているけれど、実際は砂糖だ。触れるとベタベタするし、一度くっつくとなかなか落としづらい。
自分でも何が起きたか理解できていないのか、大きな目をぱちくりしたままこちらを見つめている。
「ふわふわじゃなかった……」
「ベトベトだったな」
「みえ……」
「ほら、拭いてやるから。こっちにおいで」
「みいいぃ……」
今にも泣き出しそうな声を出すが、必死になって堪えている。当然、そうなると俺の頭痛はひどくなるが、大泣きして花火が中止になるよりは断然いい。おみも頑張っているんだ。俺もこれくらい、耐えられないわけがない。
濡らしたハンカチで顔を綺麗に拭ってやる。海色の大きな瞳が涙で潤んでいた。
「泣かなかったな、おみ」
「おみが、泣いたら、花火見れない」
「うん。花火見たかった?」
「みんな見たいって言ってたから、おみが泣いちゃ、だめだと思ったの」
「そっか。我慢したんだな」
「うぃ」
綺麗になった頬を撫でてやる。そうすると、今度は甘えるように頭を擦りつけてきた。そのままぎゅうと抱き締めると、くぐもった声で「みぇ」と鳴いた。抱きついたまま離れようとしないが、雨は降ってこない。泣きたい気持ちを必死に押し込めているんだろう。
よいしょ、とおみを抱いたまま立ち上がり、花火が見える場所までのんびりと歩いていく。人が少なくて静かに見られるこの場所は、俺が幼い頃に見つけた秘密のスポット。十年近く経った今でも、誰にも気づかれていないようだ。
「おみ、もうすぐ花火が上がるぞ」
「うみゅ……」
「花火が終わったら、焼きそば買って帰ろうな。あと、りんごあめも」
「りんごあめ?」
「そう。硬いけど、甘くて美味しい」
「ん」
遠くからざわめきが聞こえてきた。どうやら花火が上がるようだ。
視界に銀色の尻尾が揺れているのが見えた。泣くのを我慢することに全力で、尻尾を隠し続けるのが限界だったんだろう。ここなら誰も来ないし、来ても暗いからすぐにはわからないか。
「帰ったらたくさん泣いていいからな」
「んん……」
ぱたぱた、尻尾が地面を弱々しく叩く。背中を撫でていると、遠くから、ひゅる、と花火の打ち上がる音が聞こえてきた。
夜空に満開の花火が咲く。参道からは歓声が上がっていた。
「きれー……」
「うん。綺麗だな」
相変わらず俺の浴衣を握ったまま、半分顔を埋めたままだったけれど。おみの瞳にはいくつもの花火が映っていた。
「りょーた、これなに?」
「水風船。知らない?」
「しらない」
だよな。こうやって現世のことを知るために修行しているんだから、知らないことがたくさんあるのは当然だ。おまけに生まれ持ったものか年相応のものか、旺盛すぎる好奇心も相まって今日のおみはずっと浮き足立っているようだった。
真新しい浴衣(尻尾を隠せる特殊機能付き)を仕立ててもらったことがよほど嬉しかったのか、ここ数日はずっと快晴が続いていた。今日も花火が上がる。雨が降らないといいんだけれど。
「いいか、取れなくても怒るなよ?」
「おみ、怒ったことない」
「……確かに」
怒ったりはしないが、拗ねて泣いちゃうんだよな、お前は。
「ほら、上手に引っ掛けて。糸が千切れないように持ち上げるんだ」
「むむむ」
「お前……腕、短いな」
「むー!」
必死に背伸びをして水風船を釣り上げる姿はとても可愛らしい。結局、店主に引っ掛けてもらい見事おみは自力(?)で水風船を手に入れることができた。
「おおー……!」
「こうやって、何回も手のひらで叩くんだ」
「おおー!」
緑色の水風船がぽんぽん音を立てる。俺も子供の頃は好きだったな。中に入っている水の音が心地よくて、毎日これで遊んでいた。数日すると萎んでしまうのが悲しかった記憶がある。
もしかしたら、おみも同じように悲しくなるだろうか。それも修行の一つとはいえ、おみの泣き顔はあまり見たくないな。
「りょーた、雲がある!」
「ええ? 雲?」
ぼんやり考え事をしている間に、当の本人は出店を満喫していたらしい。大きなわたあめを前にぴょんぴょん飛び跳ねていた。なるほど、雲というのは確かにそうだ。今までおみが見てきたものはおそらくこういうものばかりだったんだろう。ほとんど色のない、静かで誰もいない場所。ずっとそこに居たと聞いている。
こうやって、見たことないものや、行ったことない場所、食べたことないものをたくさん知ることがおみの修行だ。
「食べる?」
「雲、食べられないよ?」
「これは食べられる。甘くてふわふわだ」
「わー!」
その代わり上手に食べないと大変なことになるぞ。今日は浴衣だから髪を高い位置でまとめているからいいけれど、いつもみたいに下ろしたままだったら確実にくっついていた。そして泣いていただろう。
今日は花火も上がるんだ。泣くな、とは言わないが、せめて家に帰るまでは我慢してもらいたい。なんたって今日の花火を一番楽しみにしていたのは、紛れもなくおみなんだから。
「はい。出来立てだからあったかいぞ」
「あったかくてふわふわ! すごい!」
「すごいなぁ」
代金を支払って、さてそろそろ次に行くかと振り返る。花火が打ち上がる前に今日の夕飯を済ませておきたい。ここなら焼きそばや箸巻き、焼き鳥だってある。おみが今まで食べたことないものばかりのはずだ。そして、俺には作れないものばかり。
何がいいか聞こうとして、やけに静かなことに気がついた。
嫌な予感がする。
「おみ……お前なぁ」
「み、みぇ……」
案の定、思った通り、おみは顔いっぱいにわたあめをくっつけていた。きっと勢いよく顔を近づけたのだろう。見た目は雲みたいにふわふわしているけれど、実際は砂糖だ。触れるとベタベタするし、一度くっつくとなかなか落としづらい。
自分でも何が起きたか理解できていないのか、大きな目をぱちくりしたままこちらを見つめている。
「ふわふわじゃなかった……」
「ベトベトだったな」
「みえ……」
「ほら、拭いてやるから。こっちにおいで」
「みいいぃ……」
今にも泣き出しそうな声を出すが、必死になって堪えている。当然、そうなると俺の頭痛はひどくなるが、大泣きして花火が中止になるよりは断然いい。おみも頑張っているんだ。俺もこれくらい、耐えられないわけがない。
濡らしたハンカチで顔を綺麗に拭ってやる。海色の大きな瞳が涙で潤んでいた。
「泣かなかったな、おみ」
「おみが、泣いたら、花火見れない」
「うん。花火見たかった?」
「みんな見たいって言ってたから、おみが泣いちゃ、だめだと思ったの」
「そっか。我慢したんだな」
「うぃ」
綺麗になった頬を撫でてやる。そうすると、今度は甘えるように頭を擦りつけてきた。そのままぎゅうと抱き締めると、くぐもった声で「みぇ」と鳴いた。抱きついたまま離れようとしないが、雨は降ってこない。泣きたい気持ちを必死に押し込めているんだろう。
よいしょ、とおみを抱いたまま立ち上がり、花火が見える場所までのんびりと歩いていく。人が少なくて静かに見られるこの場所は、俺が幼い頃に見つけた秘密のスポット。十年近く経った今でも、誰にも気づかれていないようだ。
「おみ、もうすぐ花火が上がるぞ」
「うみゅ……」
「花火が終わったら、焼きそば買って帰ろうな。あと、りんごあめも」
「りんごあめ?」
「そう。硬いけど、甘くて美味しい」
「ん」
遠くからざわめきが聞こえてきた。どうやら花火が上がるようだ。
視界に銀色の尻尾が揺れているのが見えた。泣くのを我慢することに全力で、尻尾を隠し続けるのが限界だったんだろう。ここなら誰も来ないし、来ても暗いからすぐにはわからないか。
「帰ったらたくさん泣いていいからな」
「んん……」
ぱたぱた、尻尾が地面を弱々しく叩く。背中を撫でていると、遠くから、ひゅる、と花火の打ち上がる音が聞こえてきた。
夜空に満開の花火が咲く。参道からは歓声が上がっていた。
「きれー……」
「うん。綺麗だな」
相変わらず俺の浴衣を握ったまま、半分顔を埋めたままだったけれど。おみの瞳にはいくつもの花火が映っていた。
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