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47 騏驥の馬房 別離 *「完全に合意の上」とは言い難い身体接触からの吐精に至る行為があります*

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 痛い、と声を出したような気がするけれど出していなかったような気もする。
 ぶつかった瞬間の痛みよりも、自分を見下ろしてくるルーランの目の冷たさの方が恐ろしかった。

(あ)

 一瞬感じた、まぎれもない恐怖と慄きを、ルーランがどう受け止めたのかはわからない。
 身体が竦んだ次の瞬間、ぐるりと視界が反転し、リィは彼にのし掛かられていた。
 顔のすぐ横に、彼が腕をついていた。
 右腕。手首の「輪」がチラリと見える。
 見下ろしてくる冷えた双眸。零れ落ちてくる括られていない髪の一房一房が、リィの視界を狭くする。まるで外界から遮られ隔絶してしまったかのようだ。
 
「…………なんの、つもりだ」

 リィはルーランを見上げたまま震える声で尋ねた。
 どういうことになっているのか。
 意味がわからない。
 
 勝手に身体に触れるのは不敬だ。しかも痛みを覚えるほど掴むなど論外だ。強引にこちらの行動の自由を奪うことも。
 その上——。
 
(その上、こんな……まるで組み敷くような……)

 だがそんなリィに、ルーランは薄く笑うだけだ。
 元が端正な顔立ちなだけに、そうして嘲るように嗤うと心底から人を慄かせる凄みがある。
 人ではない者が——人でも獣でもある騏驥が漂わせる異形の気配だ。
 
「退け」

 リィは込み上げてくる恐怖に抗いながら、応えないルーランに重ねて言う。
 
「退け、ルーラン!」

 それでもルーランの身体は退かない。
 それどころか、しなやかな長身はじわじわとリィに体重をかけてくる。
 
 触れ合う面積が広がるほどに互いの体温を感じる箇所も多くなり、リィは我知らず頬を染めた。
 他人とこんなに接触することなど、普段はほとんどない。

「ルーラン……っ」

 懇願するような声になってしまったことが恥ずかしい。
 誤魔化すように、強く彼の肩を押し返しなんとか自分の身体の上から退かそうとするが、やはルーランは動かない。
 思い切って叩いてみてもそれは同じだ。
 加減がわからず、恐々と叩いているからだろうか、拳が当たってもぽすぽすと間の抜けた音がするだけで、ルーランは痛そうな素振りすら見せない。

「ルーラン! お前、なんのつもりで……っ……」

 布越しに伝わってくる温もりが生々しい。
 リィが声を荒らげると、ようやっとルーランが口を開いた。

「不公平だろ」
「!?」
「遠征。どうしても、って言うなら行ってやってもいいけどな。俺にだけ『嫌でも我慢しろ』って言うのはずるいんじゃねえの」
「……」

 何を言っているのだ。
 この騏驥は。

 リィは唖然としながら身体の上の男を見遣る。
 不公平とかずるいとか。
 それは「同じ立場」の者同士で初めて成立する話ではないのか。
 
「お前、自分をなんだと——」
「騏驥」

 リィの声を奪うように、ルーランは言った。
 短く、感情のない声で。

「いくらでも代わりのいる畜生で下僕で兵器——だろ」
「……」
「人の言葉を理解して、魔術を使って命令すれば何でも言うことを聞く便利な馬。苛立った時には叩いて鬱憤を晴らすこともできる」
「……」
「傷つこうが壊れようが死のうが、あんたたちの明日の飯には一向に関わり合いの無い、都合のいい化け物だ」

 だろう————?

 軽やかに言うと、微かに目を眇めてルーランは見下ろしてくる。
 触れ合っている身体は温かなはずなのに、身体の内側からみるみる冷えていく気がする。

 リィは震えるように頭を振った。

 違う。

 違う。

 けれど声が出ない。

 出せない。

 声に出して言えば、それは嘘になってしまうからだ。
 
 だって騎士はそんな風に騏驥を扱っている。
 自分だって、彼がこんなことをした以上は彼を罰さなければならない。
 遠征に連れて行くなど到底できない。

「……退け……」

 リィは身を捩って声を上げた。
 
「退け! 離れ……っ!?」

 次の瞬間、リィは自身の身体をはっきりと触れられたことを感じ、驚きに声を呑んだ。

(え……)

「お、お前! 何をやって……っ」

 リィは狼狽えながら声をあげる。

 腕のように比較的身体の端の部分であり、さらに普段から晒している箇所ですら、当然ながら勝手に触れることはご法度だ。
 なのに今ルーランは、もっと身体の中心に近い場所——はっきりいえば腰や臀部に触れてきているのだ。
 よほど親しい者でなければ触れさせないような、そんな場所を。

「ルーラン! お、お前、気でも——」
「あんまり暴れるなよ。この寝台、さして大きくもないから暴れると落ちるぞ」
「ふざ……ふざけるな! 離れろ! 触るな……っ」
「声出すと人が来るぞ。騏驥に組み敷かれていいようにされているとこを見られたいか?」
「わたしは恥じるようなことはしてない! 人が来て捕らえられるのはお前の方で……」

 言っている最中も、ルーランの手はしきりにリィの身体をまさぐっている。
 輪郭を、温かさを確かめるように。
 やがて、その手はリィの纏っているものを乱して、身体の中心に——彼の牡芯に触れる。

「!」

 リィは瞠目した。
 そんなところ、他人に触れられたのは初めてだ。
 他人が触れるとも思っていなかった。

 声も出せないリィに、ルーランは間近から口の端を上げてみせる。

「人、呼びたきゃ呼べばいい。声上げて呼べばいいさ。ただし、間に合えば、な」
「?」

 どういうことだ、と瞳を揺らすリィに、ルーランはますます笑みを深めてみせる。

「この状況で、俺が馬の姿になったらどうなると思う?」
「!」
「そう。あんた押し潰されて死ぬんだ」

 それでよければどうぞご勝手に。

 喉の奥で嗤いながら言うルーランに、リィは青くなった。
 

 騏驥が姿を変えるとき——。
 それは、本人の自由意志か魔術による強制、もしくは興奮や混乱で本人が変化を制御できなくなった時——だ。

 

 ルーランは、声を上げられなくなったリィを楽しげに見下ろしたまま、性器を掴んでいる手をゆるゆると動かし始める。

「ァっ——」

 その刺激に、びくりと腰が跳ね、リィの口から高い声が上がる。
 その甘ったるいような奇妙な声はやけに恥ずかしく、リィは慌てて自身の手で自らの口を塞ぐ。

 その様がよほどおかしかったのだろう。
 ルーランがクッと声を漏らして嗤った。

「なに、もしかして初めて」
「は……なに……」
「触られるのが。っていうか、もしかして自分でも触らないとか?」
「あ、当たり前だ!」
「そう?」

 声がした直後、触れられているそこにきゅっ僅かに力を込められ、また腰が跳ねた。
「ん、ん、」とくぐもった声が漏れてしまうことすら恥ずかしい。恥ずかしいのに、刺激されるたびにそれは抑えられずに溢れてしまうからなお恥ずかしい。
 
「っ……は……あぅ、あ、いや、嫌だ……っ……」

 なんとかして逃れたいのに、のしかかってきている身体は退きそうになく、また、強引に引き剥がすこともできない。
 腕を突っ張り肩を押し返してみたりするのだが、ろくに力が入らないのだ。

 自分のそんな無様な足掻きを間近で見られていると思うと、リィは羞恥に泣きたくなる思いだ。
 いくら問題のある騏驥だとはいえ、まさかこんなことをしてくるとは思っていなかった。

 しかも指は、手は、時に荒々しく、そして時に戸惑うほど繊細に蠢く。
 揉まれ、扱かれ、そのたびリィは翻弄され、身体は熱を増していく。

「お、前……っ、こんなこと、して……っ」

 リィはルーランを睨んで言ったが、彼は可笑しそうに笑うだけだ。

「罰したいならご自由に。どうせあんたの騎乗を断ってる時点で詰んでるんだ。今更一つ二つ罪状が増えたところで、な」

 言いながら、ルーランは巧みにリィの昂りを弄ぶ。
 リィは強く弱く襲ってくる快感に耐えられず、イヤイヤをするように頭を振り、身を捩る。

「っ……ゃめ……いや、だ……っ……ルーラ……いや、ァ……っ——」
「嫌なことされるの嫌だろ。俺もそうだよ。あんたたちはそんなこと気づいてなかったかもしれないけどな」
「…………」
「しかも——処分されたくなければ言うことを聞け、か。俺はそういうのが一番嫌いだ」
「ち……あァッ——!」

 違う、と言いかけた瞬間に一際強く扱かれ、高い声が喉をつく。
 リィは湿った息を零しながら幾度も頭を振った。

 違う。違う。
 そんなつもりで言ったんじゃなかった。

 ただ彼が処分されてしまうかもしれないのは嫌で……。
 だから。
 だから……。
 
 言いたいことはあるのに、頭がうまく働かない。
 ルーランが手を動かすたび、「そこ」はクチュクチュと秘かな音をたて、その言葉にできない淫猥さに、リィは耳まで赤くなる。
 自分の息が熱くて眩暈がするようだ。
 
 身体の奥で渦巻く熱と羞恥のせいで、視界がぼんやりと潤む。
 そんな中、絡んだルーランの視線が徐々に下に降りていく。
 目から鼻。鼻から唇。
 そこに止まる。

 さっきから開きっぱなしのそこを見られているのがわかって、リィはぎゅっと噛み締めた。
 ルーランが笑う。

「可愛いことするんだな」
「何、が……」
「いや、そこも触られたことないんだろ」
「あるわけない!」
「へえ」

 可愛いな、あんた。本当に箱入りだ。


 可笑しそうにルーランは言うと、悪戯のように顔を近づけてくる。
 リィは自分が緊張するのがわかった。
 震える唇に、笑った形の唇が近づく。
 思わずぎゅっと目を閉じてしまう。
 心臓の音が大きい。耳の奥でどくどく響いている。 
 息がかかる。触れていなくてもお互いの温かさが分かりそうなほどだ。
 だが——いつまでも触れる気配がない。
 リィがそろそろと目を開けると、ルーランは表情を曇らせ、ふっと顔を離してしまった。

(あ……)

 リィは声にならない声を零した。
 
 触れられずに済んで良かったはずなのに、どうしてそこは寒く感じるのだろう。
 寂しく感じられるのだろう?

(……え……)

 自分の中で何が起こっているのか分からず、リィは混乱する。
 けれどそんな混乱も、再開されたルーランの愛撫に掻き消されてしまう。

 今まで誰にも触れられていなかったその器官は、少しの刺激にも敏感に反応し、リィをより深い官能の沼に引き摺り込んでいく。
 全体を柔らかく揉み込まれるように刺激されるのも気持ちが良かったが、指の腹で擦るようにしながら扱かれると堪らなかった。

「あ、あ、あ……っ」

 うねるような快感に思わず大きく背を撓らせると、その背を片腕で掬われ、露わになった首筋に歯を立てられる。
 その刺激に、また高い声が溢れた。

 行為そのものの恥ずかしさと、相手は騏驥だという屈辱感と背徳感で消えてしまいたいほどなのに、身体はルーランに触れられるたび快感に震え、もっともっととねだるようにみるみる貪欲になっていく。
 自分から腰を揺らめかしてしまっているのが嫌だ。嫌なのに、止められない。

「っ……いやだ……ルーラン……っ……いやだ……ぁ……」
「『いや』? そう? あんたすごく気持ち良さそうな顔してるけどな」
「ちが……あァっ——」

 怖い。
 どうしてこんな声が出るのか。
 どうしてこんなに気持ちがいいのか。
 どうして。

 この騏驥は自分を嗤うためにこんなことをしているのに。
 嫌がらせのために。
 辱めるために。
 貶めるためにこんなことをしているだけなのに。

 彼は。

(わたしに乗られるくらいなら処分される方がましなのだと——)
 
 彼はわたしを拒絶したのに。

「っふ……」

 思い出すと、今更ながらに目の奥が熱くなる。
 けれどそんな顔を見られるのは嫌で、リィは口元を抑えるふりで目元を隠す。

 だが。

「歯で切る」

 声がしたかと思うと、その腕を難なく引き剥がされる。
 びくりと潤んだ目を向けたリィを、ルーランはどう思ったのだろう?
 
「声、が」

 咄嗟にリィが言うと、ルーランはしばし考えるような顔を見せる。
 そしてそのまま腕を引かれたかと思うと、ん、と肩口に抱き寄せられた。
 リィの身体は、そこに不思議とすっぽりおさまった。
 まるでずっと昔からリィのためだけに用意されていた場所のように。

 そして彼の首筋に、緑がかった特別な色合いの髪の向こうに「輪」が見える。
 外れない騏驥の証。二人を隔て、結びつけ、そしてまた隔てようとしているもの。


「ん、ん、んんっ——」

 ルーランが手を動かすたび、リィは彼にしがみついた。逃げているのか縋っているのかわからないまま、声が漏れないように、彼の肩に、首筋に噛み付くように唇を押し付ける。
 
 頭の芯が、身体の奥が熱い。
 触れられているところから、触れているところから、身体の内側から溶けていきそうだ。
 溢れる息も湿り気を増していて、意識が朦朧とし始める。

 しがみついていた腕が緩み、ずるりと落ちそうになる。その身体が、しなやかで逞しい腕に支えられた。
 見つめると、見つめ返される。
 ルーランの双眸に、もう昏さはなかった。冷たさも。険しさも。
 あるのは、苦しげにも切なげにも感じられる、胸が苦しくなるような気配だけだ。

 直後、汗の浮いた額に、そっと唇が押し当てられる。
 それが口付けだと気づいたのは、ルーランの唇が離れてからだった。

 先刻は触れられなかった唇。
 
「……なんで……っ……」

 リィはルーランを見つめたまま、そう口にしていた。
 それが何に対する「なぜ」なのか自分でもわからないまま、リィはそう口にしていた。
 
 なぜこんなことを。
 なぜわたしとは行かないなどと。
 なぜわたしを拒むのか。

 なぜ。

 なぜそこに?

 わたしはそこではない場所にあなたの唇を——。


「んっ——」


 次の瞬間、リィの唇はルーランのそれに塞がれていた。
 彼は堪えに堪えていたものを堰き止められなくなったかのように、荒々しくリィの唇を貪ると、それだけでは足りないとばかり、味わい尽くさんとせんばかりに口内に舌を挿し入れてくる。

「リィ……」
「ん……っ」
「リィ……リィ……っ……」

 譫言のような声で繰り返し名を呼ばれる。
 そのたび、全身が悦びにさざめいた。
 温かく滑った舌は、リィの柔らかな粘膜を舐め、擽り、擦っては幾度も舌をしゃぶり、柔らかく甘噛みする。
 息まで欲するかのようなその激しさに、リィは一方的にされるがままだ。

 加えて、下肢が昂りを増してくる。
 経験のない快感への恐怖と羞恥にリィは幾度も頭を振るが、込み上げてくる熱は限界を訴えている。
  
「あ、あ、ぁ……っく……ぁは、ゃ、ァ、ああっ……」

 刺激に合わせて、否、より強い刺激を促すように腰が揺れる。
 恥ずかしいのに止められない。

 縋るようにぎゅっとルーランに抱きつくと、抱き返され、口付けられたまま、きつく性器を扱かれる。
 快感の解放を促すようなその動きに耐えられず、リィはとうとう、短く掠れた声を上げながら、ルーランの手の中に精を放っていた。

 息が上手くできなくて、頭がクラクラする。
 後から後から涙が零れる。
 腰の震えが、身体の震えが止まらない。ふわふわして、力が全く入らない。
 気づけば口元は涎でベタベタになっている。
 慌ててそれを拭う。途端、その唇が直前まで何をしていたかを思いだし、リィはまた真っ赤になる。
 

 そして一気に血の気が引いた。


 自分は、騏驥と、一体なんということを——。


 とんでもないことをした、という恐怖と自己嫌悪に目の前が暗くなる。
 
 抵抗できなかったとはいえ……いや、それはなんの言い訳にもならない。
 それどころか自分は——。

 まるで彼を求めるようにその身体をかき抱いた時の自分の心理など、もう覚えてはいない。
 いないけれど「そう」したことは事実で、抱きしめられたことに喜びを感じたのも嘘じゃない。
 
(どうして……)

 あまつさえ、自分は彼の唇を……。

(……)

 思い出すと、混乱に拍車がかかる。

 いっそ快感に流されてしまったのだと思いたい。
 未知の快楽に巻き込まれて正常な判断ができなくなってしまったのだ、と。
 
 でも。
 それだけじゃないことも薄々わかっているから、なおさら混乱してしまう。

 
 合意も同意もなく強引に始められた行為だった。だから抵抗した。
 なのに。
 自分はいつしかそこに優しさがあるかもしれないと感じてしまったのだ。まるで根底に愛情が存在するかのような優しさが。
 彼に。彼の行為に。彼が自分に向けてくる視線や、あらゆる全てに。
 
 そんなことあるわけないのに。

 心のどこかで「そうだったらいい」と思っていたから「そう」だと錯覚して——。
 挙句、とんでもないことをしてしまった。


 ——馬鹿だ。
 

 そうしていると、ルーランがゆっくりと身体を離す。

 姿彼が身体を離す。
 自身は興奮することも混乱することもなく。
 ただこちらを傷つけ辱め嫌がらせを終えた彼が。

 リィは絶望感に打ちのめされながら無言で寝台を降りる。
 さっきまでの甘いような浮ついた感覚が嘘のようだ。
 足元がフラフラする。それでも自分の足で立ち、おぼつかない手つきで身なりを整えると、改めてルーランを見やる。
 しゃがみ込んだままだったルーランが、察したようにリィを見上げ——観念するように目を閉じる。

 リィは一度ぎゅっと拳を握りしめると、ゆっくりとそれを開き、目の前に差し出されている身体を、その騏驥の頬を強く打った。
 パン、と乾いた音が馬房に響く。

 ややあって、ルーランが目を開けた。
 頬が赤くなっている。だが彼はそこに触れることはなく、リィを見つめてくる。
 リィは騏驥を見つめ返すと、まだ乱れがちな息を無理やり整えて言った。

「お前のしたことは……騎士への重大な反抗だ」
「……気持ちよさそうでしたが?」

 再び、乾いた音が響く。
 リィは手のひらが痺れたようにジンジンするのを感じながら、言葉を継ぐ。
 怖いぐらい冷静だ。頭は。
 心は悲鳴をあげているのに。

「お前は、遠征には連れて行かない。来なくていい。……好きにしろ」
「反抗への罰は? まさかこの二発で終わりでは——」
「終わりだ」

 リィが言うと、ルーランは微かに眉を寄せる。

「終わりだ。もう。全部」

「リ……」

「お前の好きにすればいい。わたしは……」

 訝しそうにこちらを見つめてくるルーランを見つめ返しながら、リィは一旦言葉を切った。

「わたしは、お前にとってのいい騎士にはなれないようだ……」

 ルーランが息を呑む気配があった。
 微かに視線を揺らしたようにも見えたが、それは見間違いだったかもしれない。

 彼を打った手が熱い。
 素手で誰かを叩いたのも初めてだな、と思いながら、リィは踵を返す。

(こんなことを言いに来たはずじゃなかったのにな……)

 そう思うと目の奥が熱くなった。
 一秒でも早く彼に会いたいと思っていた。彼に伝えたいと思っていた。
 喜んでもらえると、思っていたのに。

 結果は……。

 馬房を出ると、あたりはもう深夜の気配だ。
 思っていた以上に長くいたようだ。

(……)

 一瞬。
 呼ばれたような気がして、リィは微かに肩を震わせる。
 けれど振り返らず、帰途に着く。

 もうここにくることもない……。

 それを堪らなく寂しく思いながら。

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