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第5話「溶け出す氷」
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夜が深まり、外の風はすっかり鳴りを潜めていた。
厚い雲の隙間から青白い月明かりが差し込み、雪の積もった森を薄ぼんやりと照らし出している。
部屋の中の灯りは、暖炉の赤黒い炭火だけだ。
ルシアンは薄手の毛布を肩にかけ、揺らめく残り火をじっと見つめていた。
ガルドは少し離れた床に座り、膝を立てて同じように火を眺めている。
夜の静寂が、二人の間にある空間を透明な水で満たすように包み込んでいた。
言葉はない。ただ、互いの呼吸の音が微かに聞こえるだけだ。
ルシアンの淹れたカモミールの熱いお茶が、二人の手元で細い湯気を上げている。
『どうして、こんなに穏やかなのだろう』
ルシアンは器の縁を指でなぞりながら、ふとそんなことを思った。
アルファの男と、こんなにも無防備な距離で座っている。それなのに、恐怖も嫌悪も感じない。むしろ、ガルドが放つ雨上がりの土の匂いが、ルシアンの神経を優しく撫でるように落ち着かせていた。
ルシアン自身の体からも、冬の夜の澄んだ空気の匂いが無意識のうちに漏れ出していることに、彼は気づいていた。
二つのフェロモンが、暖炉の温かい空気の中で混ざり合い、溶け合っていく。
それは、本能が互いを求めている証拠だった。オメガとアルファとして、深く結びつくことを魂が渇望している。
だが、二人は大人だ。
過去の痛みを知り、喪失の重さを知っている。本能のままに飛び込むことが、どれほど恐ろしい結果を招くかを嫌というほど理解していた。
だからこそ、彼らは見えない境界線の手前で立ち止まり、必死に理性の鎖を握りしめている。
「ルシアン」
不意に名前を呼ばれ、ルシアンの肩がびくっと跳ねた。
ガルドが名前を呼んだのは、これが初めてだった。いつもはあんたと呼んでいたのに。
ルシアンが顔を向けると、ガルドは火を見たまま口を開いた。
「あんたの淹れる茶は、本当にうまいな」
ただそれだけの言葉。
けれど、その声の低さや、わずかに掠れた響きに、隠しきれない熱がこもっているのがわかった。
ルシアンの心臓が、早鐘のように打ち始める。
「……特別なことはしていません。ただ、お湯を注ぐだけですから」
ルシアンの声は、ひどく震えていた。
ガルドがゆっくりと顔を向け、ルシアンを真っ直ぐに見つめた。金色の瞳の奥で、押さえ込んでいた感情の炎がちろちろと燃え上がっている。
「本当に、それだけか」
ガルドの言葉の裏にある意味に気づき、ルシアンは息を呑んだ。
空間を満たす土の匂いが、一瞬だけ濃く、甘く変化した。アルファがオメガを誘う、抗いがたい本能の呼びかけだ。
ルシアンの下腹部に、甘い痺れのような熱が走る。
指先から力が抜け、持っていた器を落としそうになるのを必死でこらえた。
『いけない。これ以上は』
ルシアンは視線をそらし、震える手で毛布を強く握りしめた。
「もう、遅い時間です。私は休みます」
早口でそう告げ、立ち上がろうとした。
だが、ガルドの大きな手が伸びてきて、ルシアンの細い手首をふわりと包み込んだ。
強い力ではない。振り払おうと思えば、簡単に振り払えるほどの優しい力だ。
「……逃げるのか」
ガルドの問いかけに、ルシアンは動きを止めた。
手首から伝わるガルドの体温が、凍りついていたルシアンの心を確実に溶かしていく。
恐ろしい。誰かを信じることが、再びすべてを失う引き金になるかもしれないことが。
けれど、この温もりを手放したくないと願ってしまう自分が、確かにそこにいた。
ルシアンはゆっくりと振り返り、ガルドの瞳を見つめ返した。
「……逃げているのは、お互い様でしょう」
ルシアンの小さな声が、夜の静寂の中に吸い込まれていった。
ガルドは痛みを堪えるような顔をして、手首を握る力をほんの少しだけ強めた。
二人の影が、暖炉の火に照らされて、壁の上で一つに重なり合おうとしていた。
厚い雲の隙間から青白い月明かりが差し込み、雪の積もった森を薄ぼんやりと照らし出している。
部屋の中の灯りは、暖炉の赤黒い炭火だけだ。
ルシアンは薄手の毛布を肩にかけ、揺らめく残り火をじっと見つめていた。
ガルドは少し離れた床に座り、膝を立てて同じように火を眺めている。
夜の静寂が、二人の間にある空間を透明な水で満たすように包み込んでいた。
言葉はない。ただ、互いの呼吸の音が微かに聞こえるだけだ。
ルシアンの淹れたカモミールの熱いお茶が、二人の手元で細い湯気を上げている。
『どうして、こんなに穏やかなのだろう』
ルシアンは器の縁を指でなぞりながら、ふとそんなことを思った。
アルファの男と、こんなにも無防備な距離で座っている。それなのに、恐怖も嫌悪も感じない。むしろ、ガルドが放つ雨上がりの土の匂いが、ルシアンの神経を優しく撫でるように落ち着かせていた。
ルシアン自身の体からも、冬の夜の澄んだ空気の匂いが無意識のうちに漏れ出していることに、彼は気づいていた。
二つのフェロモンが、暖炉の温かい空気の中で混ざり合い、溶け合っていく。
それは、本能が互いを求めている証拠だった。オメガとアルファとして、深く結びつくことを魂が渇望している。
だが、二人は大人だ。
過去の痛みを知り、喪失の重さを知っている。本能のままに飛び込むことが、どれほど恐ろしい結果を招くかを嫌というほど理解していた。
だからこそ、彼らは見えない境界線の手前で立ち止まり、必死に理性の鎖を握りしめている。
「ルシアン」
不意に名前を呼ばれ、ルシアンの肩がびくっと跳ねた。
ガルドが名前を呼んだのは、これが初めてだった。いつもはあんたと呼んでいたのに。
ルシアンが顔を向けると、ガルドは火を見たまま口を開いた。
「あんたの淹れる茶は、本当にうまいな」
ただそれだけの言葉。
けれど、その声の低さや、わずかに掠れた響きに、隠しきれない熱がこもっているのがわかった。
ルシアンの心臓が、早鐘のように打ち始める。
「……特別なことはしていません。ただ、お湯を注ぐだけですから」
ルシアンの声は、ひどく震えていた。
ガルドがゆっくりと顔を向け、ルシアンを真っ直ぐに見つめた。金色の瞳の奥で、押さえ込んでいた感情の炎がちろちろと燃え上がっている。
「本当に、それだけか」
ガルドの言葉の裏にある意味に気づき、ルシアンは息を呑んだ。
空間を満たす土の匂いが、一瞬だけ濃く、甘く変化した。アルファがオメガを誘う、抗いがたい本能の呼びかけだ。
ルシアンの下腹部に、甘い痺れのような熱が走る。
指先から力が抜け、持っていた器を落としそうになるのを必死でこらえた。
『いけない。これ以上は』
ルシアンは視線をそらし、震える手で毛布を強く握りしめた。
「もう、遅い時間です。私は休みます」
早口でそう告げ、立ち上がろうとした。
だが、ガルドの大きな手が伸びてきて、ルシアンの細い手首をふわりと包み込んだ。
強い力ではない。振り払おうと思えば、簡単に振り払えるほどの優しい力だ。
「……逃げるのか」
ガルドの問いかけに、ルシアンは動きを止めた。
手首から伝わるガルドの体温が、凍りついていたルシアンの心を確実に溶かしていく。
恐ろしい。誰かを信じることが、再びすべてを失う引き金になるかもしれないことが。
けれど、この温もりを手放したくないと願ってしまう自分が、確かにそこにいた。
ルシアンはゆっくりと振り返り、ガルドの瞳を見つめ返した。
「……逃げているのは、お互い様でしょう」
ルシアンの小さな声が、夜の静寂の中に吸い込まれていった。
ガルドは痛みを堪えるような顔をして、手首を握る力をほんの少しだけ強めた。
二人の影が、暖炉の火に照らされて、壁の上で一つに重なり合おうとしていた。
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