辺境の薬師は追放されたオメガの元聖職者~孤独な最強アルファ傭兵を拾ったら、激重な執着で運命の番にされました~

水凪しおん

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第9話「春の雪解けと不吉な影」

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 ガルドが村を去ってから、ひと月が過ぎた。

 長く厳しい冬がようやく終わりを告げ、エルムの村にも遅い春が訪れようとしている。

 屋根に積もった雪が溶け出し、軒先から等間隔で落ちる雫の音が、静かな朝の空気に規則正しいリズムを刻んでいた。土の香りが風に混じり始め、凍てついていた大地がゆっくりと深呼吸をしているかのようだ。

 ルシアンは家の裏手にある小さな畑で、湿った土をスキで掘り返していた。

 冷たい泥の感触が指先に伝わる。雪の下で耐え忍んでいた薬草の若葉が、日の光を浴びて淡い緑色をのぞかせている。

 かつて教会で純白の法衣をまとっていた頃には、土に触れることなど決してなかった。泥にまみれ、額に汗を浮かべて働く今の生活は、彼にとって何よりも確かな現実だった。

『これでいい。これが私の生きる場所だ』

 ルシアンは泥だらけの手の甲で額の汗をぬぐい、深く息を吸い込んだ。

 だが、春の土の匂いを嗅ぐたびに、どうしても思い浮かべてしまうものがある。

 雨上がりの深い森の土。

 あの無骨で、不器用で、けれどひどく温かかったアルファの匂い。

 ルシアンは作業の手を止め、スキの柄に体重をかけた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。

 ガルドが去ったあの日から、ルシアンの体には明らかな変化が起きていた。

 オメガとしての発情期が、完全に沈黙してしまったのだ。

 通常であれば、強い薬草を用いて必死に抑え込まなければならないほどの熱と衝動が、まるで嘘のように静まり返っている。

 それは、ルシアンの体がすでに特定のアルファであるガルドを番として深く認識し、彼以外の存在を受け入れることを拒絶している証拠だった。

 首筋に噛み跡は刻まれていない。永遠の誓いも交わしていない。互いに後腐れのない刹那の慰めだと割り切ったはずだった。

 それなのに、魂の奥底で結ばれてしまった見えない絆は、ルシアンの理性を嘲笑うかのように、彼の体をガルドのものへと作り変えていた。

「……馬鹿な人だ。私も、あの人も」

 ルシアンは小さくつぶやき、自嘲気味に唇を歪めた。

 傷つくことを恐れて永遠を拒んだ結果、かえって永遠に忘れられない呪いのような痛みを抱え込むことになってしまった。

 ガルドは今頃、どこかの戦場で剣を振るっているのだろうか。それとも、別の誰かと酒を酌み交わしているのだろうか。

 ルシアンの脳裏に、暖炉の火に照らされたガルドの横顔が浮かぶ。

『俺は、戦場で相棒を死なせた』

 あんなにも深く傷つき、孤独を抱えていた男が、一人で生きていけるはずがない。ルシアンの指先が、スキの柄をきつく握りしめた。

***

 その時だった。

 村の入り口のほうから、けたたましい馬のいななきと、複数の人間の荒々しい足音が聞こえてきた。

 ルシアンははっとして顔を上げた。

 辺境のエルム村に、大勢の人間が訪れることなど滅多にない。行商人が来るにしても、まだ雪解け道がぬかるんでおり、馬車が通れるような状態ではないはずだ。

 ざわめきが次第に大きくなり、村人たちの戸惑う声が風に乗って微かに届いた。

 ルシアンは嫌な予感を覚え、スキを放り出して家の表へと回り込んだ。

 木立の隙間から見えたのは、太陽の光を反射してぎらぎらと輝く、純白の鎧を身にまとった騎士たちの姿だった。

 その胸元には、ルシアンがかつて所属していた教会の紋章、金色の十字架に絡みつく茨の意匠がはっきりと刻まれている。

「教会……なぜ、こんなところに」

 ルシアンの血の気が一気に引き、指先が氷のように冷たくなった。

 彼らは十人ほどの部隊で、先頭に立つのは見覚えのある初老の男だった。高位の神官が着る豪勢な法衣をまとい、冷酷な灰色の目で村人たちを見下ろしている。

 かつてルシアンを汚らわしい獣と罵り、追放を言い渡した張本人、神官長のマクシムだ。

「村の者たちよ、よく聞け」

 マクシムのよく通る声が、静かな村に響き渡った。

「我々は、教会から逃亡した大罪人を追ってこの地へ参った。その者は、神聖なる教会の宝物庫から聖女の涙と呼ばれる尊い聖遺物を盗み出し、この北の辺境に潜伏しているとの情報を得ている」

 村人たちがざわめき合い、不安げな視線を交わす。

「その者の名は、ルシアン。かつては聖職者を名乗っていたが、その正体は神をあざむく薄汚いオメガの獣だ。かくまっている者がいれば、同罪とみなして異端審問にかける!」

 マクシムの言葉に、ルシアンの心臓が早鐘のように打ち始めた。

 聖遺物を盗み出しただと。そんな覚えは一切ない。

 追放されるとき、ルシアンは身一つで教会を追い出された。持ち出したのは、自分が着ていた粗末な服と、少しの薬草の知識だけだ。

 これは濡れ衣だ。教会の中で何らかの権力闘争か横領があり、その罪を追放されたルシアンになすりつけようとしているに違いない。

 オメガである彼をスケープゴートにするのは、教会の連中にとって最も簡単な解決策なのだ。

『逃げなければ』

 本能がそう叫び、ルシアンは一歩後ずさった。

 だが、村人たちの怯えた顔が目に入り、足がすくんだ。

 自分が逃げれば、この村はどうなる。マクシムのような狂信的な男は、ルシアンの行方を吐かせるために、罪のない村人たちに容赦なく拷問を加えるだろう。

 ルシアンはこの三年間、村の人々にどれほど助けられてきたかを知っている。彼らはルシアンの過去を聞かず、ただの薬師として温かく受け入れてくれた。

 彼らを巻き込むことなど、絶対にできない。

 ルシアンは奥歯を強く噛み締め、深く息を吐き出した。震える両手を修道服の裾で強く握り、決意を固めて前へ歩み出そうとした。

 その時。

 背後の木立の陰から、不意に強い力で腕を引かれた。

「っ……!」

 声を上げる暇もなく、ルシアンは太い腕に抱きすくめられ、家の裏手にある古い薪小屋の影へと引きずり込まれた。

 口を塞がれ、もがこうとしたルシアンの鼻先に、あの強烈で、けれどどうしようもなく安らぐ匂いが飛び込んできた。

 雨上がりの深い森の土の匂い。

「……静かにしろ」

 耳元で低く囁かれたその声に、ルシアンの目が見開かれた。

 薄暗い薪小屋の中で、ルシアンを見下ろしていたのは、ひと月前に村を去ったはずのガルドだった。
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