10 / 15
第9話「春の雪解けと不吉な影」
しおりを挟む
ガルドが村を去ってから、ひと月が過ぎた。
長く厳しい冬がようやく終わりを告げ、エルムの村にも遅い春が訪れようとしている。
屋根に積もった雪が溶け出し、軒先から等間隔で落ちる雫の音が、静かな朝の空気に規則正しいリズムを刻んでいた。土の香りが風に混じり始め、凍てついていた大地がゆっくりと深呼吸をしているかのようだ。
ルシアンは家の裏手にある小さな畑で、湿った土をスキで掘り返していた。
冷たい泥の感触が指先に伝わる。雪の下で耐え忍んでいた薬草の若葉が、日の光を浴びて淡い緑色をのぞかせている。
かつて教会で純白の法衣をまとっていた頃には、土に触れることなど決してなかった。泥にまみれ、額に汗を浮かべて働く今の生活は、彼にとって何よりも確かな現実だった。
『これでいい。これが私の生きる場所だ』
ルシアンは泥だらけの手の甲で額の汗をぬぐい、深く息を吸い込んだ。
だが、春の土の匂いを嗅ぐたびに、どうしても思い浮かべてしまうものがある。
雨上がりの深い森の土。
あの無骨で、不器用で、けれどひどく温かかったアルファの匂い。
ルシアンは作業の手を止め、スキの柄に体重をかけた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
ガルドが去ったあの日から、ルシアンの体には明らかな変化が起きていた。
オメガとしての発情期が、完全に沈黙してしまったのだ。
通常であれば、強い薬草を用いて必死に抑え込まなければならないほどの熱と衝動が、まるで嘘のように静まり返っている。
それは、ルシアンの体がすでに特定のアルファであるガルドを番として深く認識し、彼以外の存在を受け入れることを拒絶している証拠だった。
首筋に噛み跡は刻まれていない。永遠の誓いも交わしていない。互いに後腐れのない刹那の慰めだと割り切ったはずだった。
それなのに、魂の奥底で結ばれてしまった見えない絆は、ルシアンの理性を嘲笑うかのように、彼の体をガルドのものへと作り変えていた。
「……馬鹿な人だ。私も、あの人も」
ルシアンは小さくつぶやき、自嘲気味に唇を歪めた。
傷つくことを恐れて永遠を拒んだ結果、かえって永遠に忘れられない呪いのような痛みを抱え込むことになってしまった。
ガルドは今頃、どこかの戦場で剣を振るっているのだろうか。それとも、別の誰かと酒を酌み交わしているのだろうか。
ルシアンの脳裏に、暖炉の火に照らされたガルドの横顔が浮かぶ。
『俺は、戦場で相棒を死なせた』
あんなにも深く傷つき、孤独を抱えていた男が、一人で生きていけるはずがない。ルシアンの指先が、スキの柄をきつく握りしめた。
***
その時だった。
村の入り口のほうから、けたたましい馬のいななきと、複数の人間の荒々しい足音が聞こえてきた。
ルシアンははっとして顔を上げた。
辺境のエルム村に、大勢の人間が訪れることなど滅多にない。行商人が来るにしても、まだ雪解け道がぬかるんでおり、馬車が通れるような状態ではないはずだ。
ざわめきが次第に大きくなり、村人たちの戸惑う声が風に乗って微かに届いた。
ルシアンは嫌な予感を覚え、スキを放り出して家の表へと回り込んだ。
木立の隙間から見えたのは、太陽の光を反射してぎらぎらと輝く、純白の鎧を身にまとった騎士たちの姿だった。
その胸元には、ルシアンがかつて所属していた教会の紋章、金色の十字架に絡みつく茨の意匠がはっきりと刻まれている。
「教会……なぜ、こんなところに」
ルシアンの血の気が一気に引き、指先が氷のように冷たくなった。
彼らは十人ほどの部隊で、先頭に立つのは見覚えのある初老の男だった。高位の神官が着る豪勢な法衣をまとい、冷酷な灰色の目で村人たちを見下ろしている。
かつてルシアンを汚らわしい獣と罵り、追放を言い渡した張本人、神官長のマクシムだ。
「村の者たちよ、よく聞け」
マクシムのよく通る声が、静かな村に響き渡った。
「我々は、教会から逃亡した大罪人を追ってこの地へ参った。その者は、神聖なる教会の宝物庫から聖女の涙と呼ばれる尊い聖遺物を盗み出し、この北の辺境に潜伏しているとの情報を得ている」
村人たちがざわめき合い、不安げな視線を交わす。
「その者の名は、ルシアン。かつては聖職者を名乗っていたが、その正体は神をあざむく薄汚いオメガの獣だ。かくまっている者がいれば、同罪とみなして異端審問にかける!」
マクシムの言葉に、ルシアンの心臓が早鐘のように打ち始めた。
聖遺物を盗み出しただと。そんな覚えは一切ない。
追放されるとき、ルシアンは身一つで教会を追い出された。持ち出したのは、自分が着ていた粗末な服と、少しの薬草の知識だけだ。
これは濡れ衣だ。教会の中で何らかの権力闘争か横領があり、その罪を追放されたルシアンになすりつけようとしているに違いない。
オメガである彼をスケープゴートにするのは、教会の連中にとって最も簡単な解決策なのだ。
『逃げなければ』
本能がそう叫び、ルシアンは一歩後ずさった。
だが、村人たちの怯えた顔が目に入り、足がすくんだ。
自分が逃げれば、この村はどうなる。マクシムのような狂信的な男は、ルシアンの行方を吐かせるために、罪のない村人たちに容赦なく拷問を加えるだろう。
ルシアンはこの三年間、村の人々にどれほど助けられてきたかを知っている。彼らはルシアンの過去を聞かず、ただの薬師として温かく受け入れてくれた。
彼らを巻き込むことなど、絶対にできない。
ルシアンは奥歯を強く噛み締め、深く息を吐き出した。震える両手を修道服の裾で強く握り、決意を固めて前へ歩み出そうとした。
その時。
背後の木立の陰から、不意に強い力で腕を引かれた。
「っ……!」
声を上げる暇もなく、ルシアンは太い腕に抱きすくめられ、家の裏手にある古い薪小屋の影へと引きずり込まれた。
口を塞がれ、もがこうとしたルシアンの鼻先に、あの強烈で、けれどどうしようもなく安らぐ匂いが飛び込んできた。
雨上がりの深い森の土の匂い。
「……静かにしろ」
耳元で低く囁かれたその声に、ルシアンの目が見開かれた。
薄暗い薪小屋の中で、ルシアンを見下ろしていたのは、ひと月前に村を去ったはずのガルドだった。
長く厳しい冬がようやく終わりを告げ、エルムの村にも遅い春が訪れようとしている。
屋根に積もった雪が溶け出し、軒先から等間隔で落ちる雫の音が、静かな朝の空気に規則正しいリズムを刻んでいた。土の香りが風に混じり始め、凍てついていた大地がゆっくりと深呼吸をしているかのようだ。
ルシアンは家の裏手にある小さな畑で、湿った土をスキで掘り返していた。
冷たい泥の感触が指先に伝わる。雪の下で耐え忍んでいた薬草の若葉が、日の光を浴びて淡い緑色をのぞかせている。
かつて教会で純白の法衣をまとっていた頃には、土に触れることなど決してなかった。泥にまみれ、額に汗を浮かべて働く今の生活は、彼にとって何よりも確かな現実だった。
『これでいい。これが私の生きる場所だ』
ルシアンは泥だらけの手の甲で額の汗をぬぐい、深く息を吸い込んだ。
だが、春の土の匂いを嗅ぐたびに、どうしても思い浮かべてしまうものがある。
雨上がりの深い森の土。
あの無骨で、不器用で、けれどひどく温かかったアルファの匂い。
ルシアンは作業の手を止め、スキの柄に体重をかけた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
ガルドが去ったあの日から、ルシアンの体には明らかな変化が起きていた。
オメガとしての発情期が、完全に沈黙してしまったのだ。
通常であれば、強い薬草を用いて必死に抑え込まなければならないほどの熱と衝動が、まるで嘘のように静まり返っている。
それは、ルシアンの体がすでに特定のアルファであるガルドを番として深く認識し、彼以外の存在を受け入れることを拒絶している証拠だった。
首筋に噛み跡は刻まれていない。永遠の誓いも交わしていない。互いに後腐れのない刹那の慰めだと割り切ったはずだった。
それなのに、魂の奥底で結ばれてしまった見えない絆は、ルシアンの理性を嘲笑うかのように、彼の体をガルドのものへと作り変えていた。
「……馬鹿な人だ。私も、あの人も」
ルシアンは小さくつぶやき、自嘲気味に唇を歪めた。
傷つくことを恐れて永遠を拒んだ結果、かえって永遠に忘れられない呪いのような痛みを抱え込むことになってしまった。
ガルドは今頃、どこかの戦場で剣を振るっているのだろうか。それとも、別の誰かと酒を酌み交わしているのだろうか。
ルシアンの脳裏に、暖炉の火に照らされたガルドの横顔が浮かぶ。
『俺は、戦場で相棒を死なせた』
あんなにも深く傷つき、孤独を抱えていた男が、一人で生きていけるはずがない。ルシアンの指先が、スキの柄をきつく握りしめた。
***
その時だった。
村の入り口のほうから、けたたましい馬のいななきと、複数の人間の荒々しい足音が聞こえてきた。
ルシアンははっとして顔を上げた。
辺境のエルム村に、大勢の人間が訪れることなど滅多にない。行商人が来るにしても、まだ雪解け道がぬかるんでおり、馬車が通れるような状態ではないはずだ。
ざわめきが次第に大きくなり、村人たちの戸惑う声が風に乗って微かに届いた。
ルシアンは嫌な予感を覚え、スキを放り出して家の表へと回り込んだ。
木立の隙間から見えたのは、太陽の光を反射してぎらぎらと輝く、純白の鎧を身にまとった騎士たちの姿だった。
その胸元には、ルシアンがかつて所属していた教会の紋章、金色の十字架に絡みつく茨の意匠がはっきりと刻まれている。
「教会……なぜ、こんなところに」
ルシアンの血の気が一気に引き、指先が氷のように冷たくなった。
彼らは十人ほどの部隊で、先頭に立つのは見覚えのある初老の男だった。高位の神官が着る豪勢な法衣をまとい、冷酷な灰色の目で村人たちを見下ろしている。
かつてルシアンを汚らわしい獣と罵り、追放を言い渡した張本人、神官長のマクシムだ。
「村の者たちよ、よく聞け」
マクシムのよく通る声が、静かな村に響き渡った。
「我々は、教会から逃亡した大罪人を追ってこの地へ参った。その者は、神聖なる教会の宝物庫から聖女の涙と呼ばれる尊い聖遺物を盗み出し、この北の辺境に潜伏しているとの情報を得ている」
村人たちがざわめき合い、不安げな視線を交わす。
「その者の名は、ルシアン。かつては聖職者を名乗っていたが、その正体は神をあざむく薄汚いオメガの獣だ。かくまっている者がいれば、同罪とみなして異端審問にかける!」
マクシムの言葉に、ルシアンの心臓が早鐘のように打ち始めた。
聖遺物を盗み出しただと。そんな覚えは一切ない。
追放されるとき、ルシアンは身一つで教会を追い出された。持ち出したのは、自分が着ていた粗末な服と、少しの薬草の知識だけだ。
これは濡れ衣だ。教会の中で何らかの権力闘争か横領があり、その罪を追放されたルシアンになすりつけようとしているに違いない。
オメガである彼をスケープゴートにするのは、教会の連中にとって最も簡単な解決策なのだ。
『逃げなければ』
本能がそう叫び、ルシアンは一歩後ずさった。
だが、村人たちの怯えた顔が目に入り、足がすくんだ。
自分が逃げれば、この村はどうなる。マクシムのような狂信的な男は、ルシアンの行方を吐かせるために、罪のない村人たちに容赦なく拷問を加えるだろう。
ルシアンはこの三年間、村の人々にどれほど助けられてきたかを知っている。彼らはルシアンの過去を聞かず、ただの薬師として温かく受け入れてくれた。
彼らを巻き込むことなど、絶対にできない。
ルシアンは奥歯を強く噛み締め、深く息を吐き出した。震える両手を修道服の裾で強く握り、決意を固めて前へ歩み出そうとした。
その時。
背後の木立の陰から、不意に強い力で腕を引かれた。
「っ……!」
声を上げる暇もなく、ルシアンは太い腕に抱きすくめられ、家の裏手にある古い薪小屋の影へと引きずり込まれた。
口を塞がれ、もがこうとしたルシアンの鼻先に、あの強烈で、けれどどうしようもなく安らぐ匂いが飛び込んできた。
雨上がりの深い森の土の匂い。
「……静かにしろ」
耳元で低く囁かれたその声に、ルシアンの目が見開かれた。
薄暗い薪小屋の中で、ルシアンを見下ろしていたのは、ひと月前に村を去ったはずのガルドだった。
1
あなたにおすすめの小説
虐げられΩは冷酷公爵に買われるが、実は最強の浄化能力者で運命の番でした
水凪しおん
BL
貧しい村で育った隠れオメガのリアム。彼の運命は、冷酷無比と噂される『銀薔薇の公爵』アシュレイと出会ったことで、激しく動き出す。
強大な魔力の呪いに苦しむ公爵にとって、リアムの持つ不思議な『浄化』の力は唯一の希望だった。道具として屋敷に囚われたリアムだったが、氷の仮面に隠された公爵の孤独と優しさに触れるうち、抗いがたい絆が芽生え始める。
「お前は、俺だけのものだ」
これは、身分も性も、運命さえも乗り越えていく、不器用で一途な二人の成り上がりロマンス。惹かれ合う魂が、やがて世界の理をも変える奇跡を紡ぎ出す――。
貧乏子爵のオメガ令息は、王子妃候補になりたくない
こたま
BL
山あいの田舎で、子爵とは名ばかりの殆ど農家な仲良し一家で育ったラリー。男オメガで貧乏子爵。このまま実家で生きていくつもりであったが。王から未婚の貴族オメガにはすべからく王子妃候補の選定のため王宮に集うようお達しが出た。行きたくないしお金も無い。辞退するよう手紙を書いたのに、近くに遠征している騎士団が帰る時、迎えに行って一緒に連れていくと連絡があった。断れないの?高貴なお嬢様にイジメられない?不安だらけのラリーを迎えに来たのは美丈夫な騎士のニールだった。
冷酷なアルファ(氷の将軍)に嫁いだオメガ、実はめちゃくちゃ愛されていた。
水凪しおん
BL
これは、愛を知らなかった二人が、本当の愛を見つけるまでの物語。
国のための「生贄」として、敵国の将軍に嫁いだオメガの王子、ユアン。
彼を待っていたのは、「氷の将軍」と恐れられるアルファ、クロヴィスとの心ない日々だった。
世継ぎを産むための「道具」として扱われ、絶望に暮れるユアン。
しかし、冷たい仮面の下に隠された、不器用な優しさと孤独な瞳。
孤独な夜にかけられた一枚の外套が、凍てついた心を少しずつ溶かし始める。
これは、政略結婚という偽りから始まった、運命の恋。
帝国に渦巻く陰謀に立ち向かう中で、二人は互いを守り、支え合う「共犯者」となる。
偽りの夫婦が、唯一無二の「番」になるまでの軌跡を、どうぞ見届けてください。
新年に余り物でおせちを作ったら、冷酷と噂の騎士団長様に「運命の番」だと求婚されました
水凪しおん
BL
料理人だった俺が転生したのは、男性オメガというだけで家族に虐げられる不遇の青年カイ。
新年くらいはと前世の記憶を頼りに作ったのは、この世界にはない『おせち料理』だった。
それを偶然口にしたのは、氷のように冷酷と噂される最強の騎士団長リアム。
「お前は俺の運命の番だ」
彼の屋敷に保護され、俺の作る料理が彼の心を溶かしていく。
不器用で、だけどまっすぐな愛情を注いでくれる彼と、美味しい料理で紡ぐ、甘くて温かい異世界スローライフ。
「毒が効かない体になるまで毒を盛られた令嬢は、復讐なんて望まない——ただ、助けもしないだけ」
歩人
ファンタジー
侯爵令嬢エレーナは、義母と義妹に3年間毒を盛られ続けた。「病弱な姉」として
社交界から消し、財産と婚約者を奪う計画——しかしエレーナには、前世の記憶から
来る毒物の知識があった。毒の種類を特定し、密かに解毒しながら「弱った姉」を
演じ続け、証拠が積み上がるのを待つ。卒業の夜会で義妹が勝ち誇るその場で、
エレーナは3年分の診断書を差し出す。「復讐? いいえ。ただ、もう助けないだけ」
【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。
紺
ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」
実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて……
「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」
信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。
微ざまぁあり。
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる