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第5話「初めての街と甘い誘惑」
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クロヴィス王子たちが屋敷を訪れてから数日後、アシュレイ公爵が僕に思いがけないことを言った。
「リアム、街へ行くぞ。準備をしろ」
「えっ、街へ? 僕がですか?」
屋敷から一歩も出たことがなかった僕にとって、それは信じられない言葉だった。
「お前はいつも同じ服ばかりだろう。必要な物を買い揃える」
確かに僕が着ているのは、屋敷に来た時に与えられた数枚の服だけだった。でもまさか公爵様自らが僕の買い物に付き合ってくれるなんて。
「で、でも、僕が外に出たらまた誰かに見つかるんじゃ……」
「変装すれば問題ない。それに俺のそばから離れなければ誰も手出しはできん」
有無を言わせぬ口調。だけどその言葉には僕を心配してくれているような響きがあって、断ることはできなかった。
ギルバートさんが用意してくれたのは、フードのついた質素な外套だった。これを深く被れば僕の顔はほとんど見えなくなる。アシュレイ公爵もいつも着ている豪華な服ではなく、目立たない濃紺の旅装に着替えていた。銀色の髪もフードで隠している。
二人きりのお忍びでの外出。そう思うだけでなんだか胸がそわそわした。
屋敷を抜け出し、庶民が多く暮らす地区へと馬で向かう。貴族街とは違う活気に満ちた雑多な雰囲気が、僕にはどこか懐かしく感じられた。
アシュレイ公爵は慣れない人混みに少し眉をひそめていたが、僕が物珍しそうに露店を眺めていると、何も言わずに歩調を合わせてくれた。
「まずは服だ。あそこの店に入るぞ」
彼が指さしたのは、仕立ての良い服を扱うこぎれいな店だった。
店主は最初、僕たちの質素な身なりを見て怪訝な顔をしたが、アシュレイ公爵がフードの隙間からちらりと顔を見せ、銀貨を数枚カウンターに置くと途端に態度を豹変させた。
「こいつに似合う服を、上から下まで一式見繕ってくれ」
「は、はい! かしこまりました!」
そこから先は僕にとって初めての経験の連続だった。
次から次へと持ってこられる肌触りの良いシャツや動きやすいズボン。今まで着たこともないような上等な服に、僕は戸惑うばかりだ。
「ど、どれも僕にはもったいないです……」
「いいから着てみろ」
公爵様に促されるまま、いくつか試着してみる。鏡に映った自分の姿はなんだか自分ではないみたいで、とても気恥ずかしかった。
僕が着替えを終えて試着室から出るたびに、アシュレイ公爵は腕を組んで品定めするように僕をじっと見つめる。その真剣な眼差しに、なんだか顔が熱くなるのを感じた。
「……悪くない」
僕が白のシンプルなシャツに着替えた時、彼がぽつりとそう呟いた。その声が思ったより優しくて、僕の心臓はまた大きく跳ねた。
結局アシュレイ公爵が選んだ数着の服を買ってもらうことになった。まるでお人形の着せ替えみたいだ。でも彼が僕のために真剣に服を選んでくれたことが素直に嬉しかった。
服屋を出た後も僕たちは街をぶらぶらと歩いた。
美味しそうな匂いに誘われて足を止めると、そこは焼き菓子を売る小さな露店だった。甘く香ばしい香りが僕のお腹をきゅるきゅると鳴らす。
『お腹すいたな……』
そんな僕の心の声が聞こえたかのように、アシュレイ公爵が店主に声をかけた。
「あれを二つ」
彼が指さしたのは蜂蜜がたっぷりかかった熱々の焼きリンゴだった。
彼は無言で一つを僕に差し出す。
「え、でも……」
「早く受け取れ。冷める」
僕は恐る恐るそれを受け取った。ほんのり温かい包み紙が心地よい。
近くの広場にあるベンチに腰掛けて、二人で焼きリンゴを食べる。一口かじると、しゃくっとした歯ごたえと共に甘酸っぱい果汁と蜂蜜の濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。
「おいしい……!」
思わず顔がほころぶ。こんなに美味しいお菓子を食べたのは生まれて初めてだ。
夢中で頬張る僕を、アシュレイ公爵がじっと見つめていることに気づいた。彼は自分の焼きリンゴにはほとんど口をつけず、僕の顔をただ眺めている。
「……公爵様は、食べないんですか?」
「……俺は、甘いものはあまり好かん」
そう言う彼の横顔はどこか寂しそうに見えた。もしかしたら呪いのせいで味覚もおかしくなっているのかもしれない。
そう思った瞬間、僕はとっさに行動していた。
自分の焼きリンゴの中から一番蜜が絡んで美味しそうな部分をフォークで切り分け、彼の口元へと差し出したのだ。
「えい」
「……なっ、何を……」
アシュレイ公爵は驚きに目を見開いている。僕も自分が何て大胆なことをしてしまったのかと、一気に血の気が引いた。
公爵様の口に食べ物を『あーん』するなんて! 不敬罪で首をはねられてもおかしくない!
「も、申し訳ありません! つい、こんな美味しいものを公爵様にも味わってほしくて……!」
慌ててフォークを引っ込めようとした僕の手を、彼の手がぐいっと掴んだ。そして彼は僕が差し出した焼きリンゴを、ぱくりと一口で食べた。
「……」
彼は何も言わずにゆっくりとそれを咀嚼する。その間、僕の心臓は破裂しそうなくらいドキドキしていた。
やがて彼はごくりとそれを飲み込むと、僕の目を見て静かに言った。
「……甘いな」
その声はいつもより少しだけ低く、掠れていた。彼の紫水晶の瞳が熱を帯びて僕を映している。
どきりとした。
それはアルファがオメガに向ける、雄としての眼差しだった。
彼のフェロモンがふわりと香る。冬の薔薇の香りに、今日の焼きリンゴみたいな甘い香りが混じっている。その香りに誘われるように、僕の体も内側からじんわりと熱くなった。
まずい。これはオメガの発情期(ヒート)の兆候かもしれない。
「っ、あの、そろそろ屋敷に……」
僕がそう言いかけた時だった。
「あら? もしかしてヴァインベルク公爵様ではございませんか?」
甲高い声と共に、僕たちの前に一人の女性が立ちふさがった。
それは先日屋敷にやってきた、あの燃えるような赤い髪の令嬢――エレオノーラだった。
彼女は驚いたように目を見開いた後、ねっとりとした視線で僕のことからアシュレイ公爵のことまでを交互に見た。そして僕が女物の外套ではなく男物のそれを着ていることに気づくと、翠の瞳に侮蔑の色を浮かべた。
「まあ、公爵様。このような庶民の街で男と逢い引きですの? しかも……この不快な匂い。まさかオメガですのね?」
最悪のタイミングで最悪の相手に見つかってしまった。
エレオノーラ嬢の言葉に周囲の人々がざわめき始める。公爵が男のオメガを連れている。その事実は好奇と差別の視線となって僕に突き刺さった。
アシュレイ公爵の顔からすっと表情が消えた。
彼はゆっくりと立ち上がると、僕を背中にかばうようにしてエレオノーラ嬢の前に立った。
「失せろ」
地獄の底から響くような、冷たい声だった。
その一言が僕たちの甘い時間を無残に打ち砕いた。
「リアム、街へ行くぞ。準備をしろ」
「えっ、街へ? 僕がですか?」
屋敷から一歩も出たことがなかった僕にとって、それは信じられない言葉だった。
「お前はいつも同じ服ばかりだろう。必要な物を買い揃える」
確かに僕が着ているのは、屋敷に来た時に与えられた数枚の服だけだった。でもまさか公爵様自らが僕の買い物に付き合ってくれるなんて。
「で、でも、僕が外に出たらまた誰かに見つかるんじゃ……」
「変装すれば問題ない。それに俺のそばから離れなければ誰も手出しはできん」
有無を言わせぬ口調。だけどその言葉には僕を心配してくれているような響きがあって、断ることはできなかった。
ギルバートさんが用意してくれたのは、フードのついた質素な外套だった。これを深く被れば僕の顔はほとんど見えなくなる。アシュレイ公爵もいつも着ている豪華な服ではなく、目立たない濃紺の旅装に着替えていた。銀色の髪もフードで隠している。
二人きりのお忍びでの外出。そう思うだけでなんだか胸がそわそわした。
屋敷を抜け出し、庶民が多く暮らす地区へと馬で向かう。貴族街とは違う活気に満ちた雑多な雰囲気が、僕にはどこか懐かしく感じられた。
アシュレイ公爵は慣れない人混みに少し眉をひそめていたが、僕が物珍しそうに露店を眺めていると、何も言わずに歩調を合わせてくれた。
「まずは服だ。あそこの店に入るぞ」
彼が指さしたのは、仕立ての良い服を扱うこぎれいな店だった。
店主は最初、僕たちの質素な身なりを見て怪訝な顔をしたが、アシュレイ公爵がフードの隙間からちらりと顔を見せ、銀貨を数枚カウンターに置くと途端に態度を豹変させた。
「こいつに似合う服を、上から下まで一式見繕ってくれ」
「は、はい! かしこまりました!」
そこから先は僕にとって初めての経験の連続だった。
次から次へと持ってこられる肌触りの良いシャツや動きやすいズボン。今まで着たこともないような上等な服に、僕は戸惑うばかりだ。
「ど、どれも僕にはもったいないです……」
「いいから着てみろ」
公爵様に促されるまま、いくつか試着してみる。鏡に映った自分の姿はなんだか自分ではないみたいで、とても気恥ずかしかった。
僕が着替えを終えて試着室から出るたびに、アシュレイ公爵は腕を組んで品定めするように僕をじっと見つめる。その真剣な眼差しに、なんだか顔が熱くなるのを感じた。
「……悪くない」
僕が白のシンプルなシャツに着替えた時、彼がぽつりとそう呟いた。その声が思ったより優しくて、僕の心臓はまた大きく跳ねた。
結局アシュレイ公爵が選んだ数着の服を買ってもらうことになった。まるでお人形の着せ替えみたいだ。でも彼が僕のために真剣に服を選んでくれたことが素直に嬉しかった。
服屋を出た後も僕たちは街をぶらぶらと歩いた。
美味しそうな匂いに誘われて足を止めると、そこは焼き菓子を売る小さな露店だった。甘く香ばしい香りが僕のお腹をきゅるきゅると鳴らす。
『お腹すいたな……』
そんな僕の心の声が聞こえたかのように、アシュレイ公爵が店主に声をかけた。
「あれを二つ」
彼が指さしたのは蜂蜜がたっぷりかかった熱々の焼きリンゴだった。
彼は無言で一つを僕に差し出す。
「え、でも……」
「早く受け取れ。冷める」
僕は恐る恐るそれを受け取った。ほんのり温かい包み紙が心地よい。
近くの広場にあるベンチに腰掛けて、二人で焼きリンゴを食べる。一口かじると、しゃくっとした歯ごたえと共に甘酸っぱい果汁と蜂蜜の濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。
「おいしい……!」
思わず顔がほころぶ。こんなに美味しいお菓子を食べたのは生まれて初めてだ。
夢中で頬張る僕を、アシュレイ公爵がじっと見つめていることに気づいた。彼は自分の焼きリンゴにはほとんど口をつけず、僕の顔をただ眺めている。
「……公爵様は、食べないんですか?」
「……俺は、甘いものはあまり好かん」
そう言う彼の横顔はどこか寂しそうに見えた。もしかしたら呪いのせいで味覚もおかしくなっているのかもしれない。
そう思った瞬間、僕はとっさに行動していた。
自分の焼きリンゴの中から一番蜜が絡んで美味しそうな部分をフォークで切り分け、彼の口元へと差し出したのだ。
「えい」
「……なっ、何を……」
アシュレイ公爵は驚きに目を見開いている。僕も自分が何て大胆なことをしてしまったのかと、一気に血の気が引いた。
公爵様の口に食べ物を『あーん』するなんて! 不敬罪で首をはねられてもおかしくない!
「も、申し訳ありません! つい、こんな美味しいものを公爵様にも味わってほしくて……!」
慌ててフォークを引っ込めようとした僕の手を、彼の手がぐいっと掴んだ。そして彼は僕が差し出した焼きリンゴを、ぱくりと一口で食べた。
「……」
彼は何も言わずにゆっくりとそれを咀嚼する。その間、僕の心臓は破裂しそうなくらいドキドキしていた。
やがて彼はごくりとそれを飲み込むと、僕の目を見て静かに言った。
「……甘いな」
その声はいつもより少しだけ低く、掠れていた。彼の紫水晶の瞳が熱を帯びて僕を映している。
どきりとした。
それはアルファがオメガに向ける、雄としての眼差しだった。
彼のフェロモンがふわりと香る。冬の薔薇の香りに、今日の焼きリンゴみたいな甘い香りが混じっている。その香りに誘われるように、僕の体も内側からじんわりと熱くなった。
まずい。これはオメガの発情期(ヒート)の兆候かもしれない。
「っ、あの、そろそろ屋敷に……」
僕がそう言いかけた時だった。
「あら? もしかしてヴァインベルク公爵様ではございませんか?」
甲高い声と共に、僕たちの前に一人の女性が立ちふさがった。
それは先日屋敷にやってきた、あの燃えるような赤い髪の令嬢――エレオノーラだった。
彼女は驚いたように目を見開いた後、ねっとりとした視線で僕のことからアシュレイ公爵のことまでを交互に見た。そして僕が女物の外套ではなく男物のそれを着ていることに気づくと、翠の瞳に侮蔑の色を浮かべた。
「まあ、公爵様。このような庶民の街で男と逢い引きですの? しかも……この不快な匂い。まさかオメガですのね?」
最悪のタイミングで最悪の相手に見つかってしまった。
エレオノーラ嬢の言葉に周囲の人々がざわめき始める。公爵が男のオメガを連れている。その事実は好奇と差別の視線となって僕に突き刺さった。
アシュレイ公爵の顔からすっと表情が消えた。
彼はゆっくりと立ち上がると、僕を背中にかばうようにしてエレオノーラ嬢の前に立った。
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