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第7話「仮面舞踏会の夜と甘い罠」
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僕がアシュレイ公爵に「そばにいたい」と宣言してから、彼の態度は少しだけ軟化した。
相変わらず口数は少ないが僕をあからさまに避けることはなくなり、治療も再開された。温室で一緒に過ごす時間も以前のように戻ってきた。
ただ二人の間にはまだ、どこかぎこちない空気が流れている。
あの日僕が彼を守りたいと言ったこと。彼がそれを受け入れてくれたこと。その事実が僕たちの関係を今までとは違うものに変えてしまったのだ。
僕は彼のことをただの『主人』だとは思えなくなっていたし、彼もきっと僕をただの『所有物』だとは思っていない。
でもその先の関係にどう踏み出していいのか、お互いに分からなかった。
そんな微妙な日々が続いていたある日、王城で仮面舞踏会が開かれることになった。
もちろん僕のような平民のオメガには関係のない話だ。アシュレイ公爵は当然招待されているらしかった。
「……行きたくない」
舞踏会の招待状を前に、アシュレイ公爵がぽつりと呟いた。
「どうしてですか? 楽しそうなのに」
「ああいう騒がしい場所は好かん。それにどうせクロヴィスやエレオノーラのような連中が、また何か仕掛けてくるに決まっている」
彼の言う通りかもしれない。僕の存在を知ったクロヴィス王子たちがこの機会を逃すはずがない。
不安そうな顔をする僕を見て、彼はふっと息を吐いた。
「……だが公爵家の当主として、参加しないわけにはいかない」
その横顔はひどく憂鬱そうだった。
僕は何か彼にしてあげられることはないだろうかと考えた。そうだ、あれなら。
「公爵様。僕、お守りを作ります」
「お守り?」
「はい。僕の浄化の力を込めたハーブの匂い袋です。気休めかもしれませんが、少しは悪いものから守ってくれるはずです」
僕は温室で育てたハーブの中から特に浄化の力が強いものをいくつか選び、小さな布袋に詰めた。そして一晩中祈りを込めて特別な匂い袋を作り上げた。
舞踏会の当日、僕は出かける準備をするアシュレイ公爵の元へその匂い袋を届けに行った。
「これ……持っていってください」
「……子供だましだな」
彼はそう言って鼻で笑ったが、僕から匂い袋を受け取るとそれを大事そうに上着の内ポケットにしまった。その不器用な優しさが僕の胸を温かくする。
「行ってくる」
「はい。……お気をつけて」
彼を見送った後、僕は広い屋敷に一人取り残された。
なんだか胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。彼がいないだけでこんなにも心細いなんて。
僕はいつの間にか、アシュレイ公爵の存在に大きく依存してしまっているのかもしれない。
その夜、僕は落ち着かずにずっと窓の外を眺めていた。
アシュレイ公爵は今頃きらびやかな舞踏会で、美しい貴族の女性たちに囲まれているのだろうか。エレオノーラ嬢のような彼にふさわしいアルファの女性と踊ったりしているのかもしれない。
そう考えると胸の奥がちくりと痛んだ。
これは、嫉妬?
僕なんかが公爵様にそんな感情を抱くなんて。許されるはずがないのに。
自己嫌悪に陥りながら、僕はただ彼の帰りを待ち続けた。
深夜、ようやく屋敷の前に馬車が到着する音がした。
僕はいてもたってもいられず、玄関ホールへと駆け出した。
扉が開きアシュレイ公爵が中に入ってきた。その顔色は青白く、足取りもどこかおぼつかない。
「公爵様!?」
「……リアムか」
彼が僕の名を呼んだ声はひどくかすれていた。そして彼の体からいつもとは違う甘ったるい香りが漂ってくる。
これは、まさか。
「……薬を、盛られた」
彼は苦しげに呟き、壁に手をついて崩れ落ちそうになる。僕は慌てて彼の体を支えた。
「しっかりしてください!」
「オメガを誘惑するための……強力な媚薬だ。クロヴィスの差し金だろう」
息も絶え絶えに彼は説明する。
どうやらクロヴィス王子は舞踏会でアシュレイ公爵に薬を盛り、無理やりオメガの僕と番わせて醜聞をでっち上げるつもりだったらしい。なんという卑劣な罠。
アシュレイ公爵はアルファとしての本能を刺激され、理性を失いかけていた。彼の体は火のように熱く、その瞳は欲望の色でどろりと濁っている。
「……リアム、離れろ。俺は、お前を……傷つけたくない」
彼は最後の理性を振り絞って僕を突き放そうとする。
だけど僕は彼の腕を離さなかった。
「嫌です! 僕があなたを助けます!」
「馬鹿を言うな! お前も俺のフェロモンに当てられておかしくなるぞ……!」
彼の言う通り僕の体もおかしい。彼の甘いフェロモンに煽られてオメガの本能が疼き始める。体の奥からじわりと熱がこみ上げてくる。
これが発情期(ヒート)。僕がずっと恐れていたものだ。
でも不思議と怖くはなかった。
この人のためならどうなってもいい。そう思えたから。
「僕の浄化の力で薬を消し去ります。だから僕を信じてください!」
僕は彼の体を必死で支えながら彼の部屋へと向かった。
ベッドに彼を横たえると、僕は彼の上にまたがるような体勢になった。そうしないと暴れる彼を押さえつけられないからだ。
至近距離で彼の熱い吐息がかかる。甘いフェロモンが僕の理性を溶かしていく。
「リアム……逃げろ……」
「逃げません」
僕は彼の胸に両手を置き、全ての意識を集中させた。
『この人の中から、悪いものを全部消し去って!』
金色の浄化の光が僕の手から彼の中へと流れ込んでいく。
薬の力は僕が今まで浄化してきたどんなものよりも強力で邪悪だった。それを消し去るには僕の力のほとんどを注ぎ込まなければならない。
だけど僕は諦めなかった。
「う……ぁ……」
苦しげな呻き声がアシュレイ公爵の口から漏れる。
僕も自分の体が限界に近いことを感じていた。意識が朦朧としてくる。
それでも僕は力を注ぎ続けた。
どれくらいの時間が経ったのか。
不意に彼の体からふっと力が抜けた。僕の体を締め付けていた彼の腕がだらりとベッドに落ちる。
「……はぁ……はぁ……」
見下ろすとアシュレイ公爵は穏やかな寝息を立てていた。彼の瞳から欲望の色は消え、体温も平熱に戻っている。甘ったるい香りももうしない。
やったんだ。僕、彼を助けられたんだ。
安堵した瞬間、僕の意識もぷつりと途切れた。
倒れ込む僕の体を眠っているはずのアシュレイ公爵の腕が、無意識に、だけど優しく受け止めてくれた気がした。
相変わらず口数は少ないが僕をあからさまに避けることはなくなり、治療も再開された。温室で一緒に過ごす時間も以前のように戻ってきた。
ただ二人の間にはまだ、どこかぎこちない空気が流れている。
あの日僕が彼を守りたいと言ったこと。彼がそれを受け入れてくれたこと。その事実が僕たちの関係を今までとは違うものに変えてしまったのだ。
僕は彼のことをただの『主人』だとは思えなくなっていたし、彼もきっと僕をただの『所有物』だとは思っていない。
でもその先の関係にどう踏み出していいのか、お互いに分からなかった。
そんな微妙な日々が続いていたある日、王城で仮面舞踏会が開かれることになった。
もちろん僕のような平民のオメガには関係のない話だ。アシュレイ公爵は当然招待されているらしかった。
「……行きたくない」
舞踏会の招待状を前に、アシュレイ公爵がぽつりと呟いた。
「どうしてですか? 楽しそうなのに」
「ああいう騒がしい場所は好かん。それにどうせクロヴィスやエレオノーラのような連中が、また何か仕掛けてくるに決まっている」
彼の言う通りかもしれない。僕の存在を知ったクロヴィス王子たちがこの機会を逃すはずがない。
不安そうな顔をする僕を見て、彼はふっと息を吐いた。
「……だが公爵家の当主として、参加しないわけにはいかない」
その横顔はひどく憂鬱そうだった。
僕は何か彼にしてあげられることはないだろうかと考えた。そうだ、あれなら。
「公爵様。僕、お守りを作ります」
「お守り?」
「はい。僕の浄化の力を込めたハーブの匂い袋です。気休めかもしれませんが、少しは悪いものから守ってくれるはずです」
僕は温室で育てたハーブの中から特に浄化の力が強いものをいくつか選び、小さな布袋に詰めた。そして一晩中祈りを込めて特別な匂い袋を作り上げた。
舞踏会の当日、僕は出かける準備をするアシュレイ公爵の元へその匂い袋を届けに行った。
「これ……持っていってください」
「……子供だましだな」
彼はそう言って鼻で笑ったが、僕から匂い袋を受け取るとそれを大事そうに上着の内ポケットにしまった。その不器用な優しさが僕の胸を温かくする。
「行ってくる」
「はい。……お気をつけて」
彼を見送った後、僕は広い屋敷に一人取り残された。
なんだか胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。彼がいないだけでこんなにも心細いなんて。
僕はいつの間にか、アシュレイ公爵の存在に大きく依存してしまっているのかもしれない。
その夜、僕は落ち着かずにずっと窓の外を眺めていた。
アシュレイ公爵は今頃きらびやかな舞踏会で、美しい貴族の女性たちに囲まれているのだろうか。エレオノーラ嬢のような彼にふさわしいアルファの女性と踊ったりしているのかもしれない。
そう考えると胸の奥がちくりと痛んだ。
これは、嫉妬?
僕なんかが公爵様にそんな感情を抱くなんて。許されるはずがないのに。
自己嫌悪に陥りながら、僕はただ彼の帰りを待ち続けた。
深夜、ようやく屋敷の前に馬車が到着する音がした。
僕はいてもたってもいられず、玄関ホールへと駆け出した。
扉が開きアシュレイ公爵が中に入ってきた。その顔色は青白く、足取りもどこかおぼつかない。
「公爵様!?」
「……リアムか」
彼が僕の名を呼んだ声はひどくかすれていた。そして彼の体からいつもとは違う甘ったるい香りが漂ってくる。
これは、まさか。
「……薬を、盛られた」
彼は苦しげに呟き、壁に手をついて崩れ落ちそうになる。僕は慌てて彼の体を支えた。
「しっかりしてください!」
「オメガを誘惑するための……強力な媚薬だ。クロヴィスの差し金だろう」
息も絶え絶えに彼は説明する。
どうやらクロヴィス王子は舞踏会でアシュレイ公爵に薬を盛り、無理やりオメガの僕と番わせて醜聞をでっち上げるつもりだったらしい。なんという卑劣な罠。
アシュレイ公爵はアルファとしての本能を刺激され、理性を失いかけていた。彼の体は火のように熱く、その瞳は欲望の色でどろりと濁っている。
「……リアム、離れろ。俺は、お前を……傷つけたくない」
彼は最後の理性を振り絞って僕を突き放そうとする。
だけど僕は彼の腕を離さなかった。
「嫌です! 僕があなたを助けます!」
「馬鹿を言うな! お前も俺のフェロモンに当てられておかしくなるぞ……!」
彼の言う通り僕の体もおかしい。彼の甘いフェロモンに煽られてオメガの本能が疼き始める。体の奥からじわりと熱がこみ上げてくる。
これが発情期(ヒート)。僕がずっと恐れていたものだ。
でも不思議と怖くはなかった。
この人のためならどうなってもいい。そう思えたから。
「僕の浄化の力で薬を消し去ります。だから僕を信じてください!」
僕は彼の体を必死で支えながら彼の部屋へと向かった。
ベッドに彼を横たえると、僕は彼の上にまたがるような体勢になった。そうしないと暴れる彼を押さえつけられないからだ。
至近距離で彼の熱い吐息がかかる。甘いフェロモンが僕の理性を溶かしていく。
「リアム……逃げろ……」
「逃げません」
僕は彼の胸に両手を置き、全ての意識を集中させた。
『この人の中から、悪いものを全部消し去って!』
金色の浄化の光が僕の手から彼の中へと流れ込んでいく。
薬の力は僕が今まで浄化してきたどんなものよりも強力で邪悪だった。それを消し去るには僕の力のほとんどを注ぎ込まなければならない。
だけど僕は諦めなかった。
「う……ぁ……」
苦しげな呻き声がアシュレイ公爵の口から漏れる。
僕も自分の体が限界に近いことを感じていた。意識が朦朧としてくる。
それでも僕は力を注ぎ続けた。
どれくらいの時間が経ったのか。
不意に彼の体からふっと力が抜けた。僕の体を締め付けていた彼の腕がだらりとベッドに落ちる。
「……はぁ……はぁ……」
見下ろすとアシュレイ公爵は穏やかな寝息を立てていた。彼の瞳から欲望の色は消え、体温も平熱に戻っている。甘ったるい香りももうしない。
やったんだ。僕、彼を助けられたんだ。
安堵した瞬間、僕の意識もぷつりと途切れた。
倒れ込む僕の体を眠っているはずのアシュレイ公爵の腕が、無意識に、だけど優しく受け止めてくれた気がした。
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