天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

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「イヴァニエッ!!」

イヴァニエの発した一言が部屋の中に響いた瞬間、怒気の籠った声が空気を揺らし、体と心臓がビクンと跳ねた。

「いい加減にしろ!! お前の感情をアニーに押し付けるな!!」
「ッ…、押し付けてなどいません!! 私はただ…!」

イヴァニエの腕の中、目の前で声を荒げるイヴァニエとルカーシュカの険しい表情に、カタカタと体が震えた。

(……なん…で…? なんで…怒ってるの…?)

何が起こっているのか、状況を理解できない。
イヴァニエの叫び声で断ち切られた思考と、ルカーシュカの怒鳴り声で真っ白になった頭。
恐怖か何かすらも分からない感情に飲まれた肉体は、茫然としたまま、固まっていることしかできなかった。

「お二人とも! 落ち着いて下さいませ!」

悲痛さを孕んだエルダの声に、言い争う声が途切れるも、痛いほど鼓動する心臓で胸は苦しく、吐く息は不自然なほどに荒かった。

「はっ…、はっ…」

ドクドクと跳ねる臓器が気持ち悪い。
冷えた感情が体内をぐるぐると巡る感覚は、久しく感じていなかったもので、腹の底から迫り上がるような何かに、思わず口元を押さえた。

「ぅ…っ」
「「アニー!!」」
「アドニス様…!!」

(ど……し、よ…)

自分の発言で、彼らを怒らせてしまった。
怒らせるような、いけないことを言ってしまった。
恐れか、悲しみか、はたまた別の感情か。勝手に震える体の揺れを止めることもできず、目尻にはじわりと涙が滲んだ。

(あ、あやまら、なきゃ……)

そう思うのに、何に対して謝ればいいのかが分からない。
大天使達について、触れてはいけなかったのだろうか?
それとも、会って話がしたいと言ったのがいけなかったのだろうか?
何に対してイヴァニエは『嫌』と感じ、その言葉を口にしたのか。
ルカーシュカは、そんな彼の何に対して怒っているのか…冷静さを失った頭は、ただ謝罪の言葉を口にすることすら躊躇い、はくりと震える息を吐くだけだった。
それでも、何か言わなければ…そんな焦燥感からじとりと汗が滲んだその時、脳がガクンと揺れた。

「…え?」
「イヴァニエ!!」

突然の浮遊感と、ブレた視界。眩暈にも似たそれに意識が追いつくより先に、ルカーシュカの叫ぶ声が聞こえた。
イヴァニエに抱き上げられている───そう認識するのと同時に、バチンッ! というけたたましい音が響き、驚きと恐怖から耳を塞いだ。

「やっ! や…、なに…?」

何が起こっているのかも分からないまま、助けを求めるようにイヴァニエの体に身を寄せれば、肩を抱く手に力が籠ったのが分かった。

「…イヴ?」
「おい!! イヴァニエ!!」
「お待ち下さい!!」

そのまま踵を返したイヴァニエに声を掛けるが、返事はない。背後で二人の叫ぶ声が響くも、彼が反応を示すことはなかった。
一歩を踏み出したイヴァニエが床を蹴れば、ふわりと体が宙に浮く。反射的に目を瞑り、身を固くするも、浮遊感に包まれたのはほんの一瞬で、そろりと目を開ければ、すぐ目の前には見慣れた転移扉があった。
たった一度の跳躍で壁際まで移動したことに驚いている間に、イヴァニエが鯨のレリーフに何かを押し当てる。瞬間、純白の扉は、彼の離宮へと繋がるそれにパッと姿を変えた。

「え……どうして…?」

この扉を変化させられるのも、開けられるのも、自分だけのはず───混乱続きの頭が落ち着く間もなく、イヴァニエの手がドアノブに掛けられた。

「───ッ、待て!!」
「アドニス様!!」

ルカーシュカとエルダの叫ぶ声に、ハッとして彼らに視線を向ける。
パリン…と薄い硝子が割れるような音と共に、イヴァニエの肩越しにこちらに向かってくる二人の姿が見えるも、イヴァニエの体は既に開け放たれた扉の向こう側に移動していて、視界が狭まるように、ゆっくりと扉は閉じられていく。

「っ…、ルカ! エルダ!」

咄嗟に叫んだ二人の名前。その声ごと断ち切るように、目の前で扉が閉じられた。




───ガキンッ!!

「ひゃっ!?」

扉が閉まると同時に、金属が割れるような重く大きな音が響き、破壊音にも似たそれに体が跳ねた。
ギィンと耳の奥に残る残響音に、心臓がドクドクと脈打ち、唇からは短く浅い息が零れる。
一体何が起こったのか、なぜイヴァニエの部屋に来たのか、どうしてルカとエルダを置いてきてしまったのか…いくつもの疑問が次々と浮かんでは、不安を煽るように積み重なっていった。

「…イ、イヴ…?」

先ほどまでの騒がしさが嘘のように静まり返った部屋の中、縮こまったまま恐る恐るイヴァニエに声を掛ければ、薄暗い部屋の中でも一際輝く水色と視線が絡んだ。

「……ごめんなさい、アニー。怖がらせてしまいましたね」
「ぅ、うぅん…」

正直に言えば、少し、ほんの少しだけ、怯えのようなものはある。
だからと言って怖い訳ではなくて、ふるふると首を横に振れば、イヴァニエがふっと表情を和らげた。

「少し、二人だけでお話ししましょう?」
「…う、ん……でも、あの、ルカ達は…」
「……大丈夫ですよ。きっと、じきに来ます」

「じきに来る」とはどういう意味だろう?
その疑問を尋ねる前に、イヴァニエがゆっくりと歩き出す。
これまで何度も通った彼の寝室。その奥にあるベッドまで辿り着くと、広い寝具の上にゆっくりと降ろされた。
イヴァニエも寝具の上に乗り上げ、天蓋の幕が閉じられる。
箱型の大きなベッドは、天蓋を閉じるとまるで秘密の小部屋のようで、いつもなら不思議な高揚感を味わえるのだが、今は高揚感とは異なる動悸で胸が騒いで仕方なかった。

「アニー、おいで」
「…うん」

広いベッドの上、クッションを背凭れに座るイヴァニエが手を広げ、「おいで」と誘う。招かれるまま彼に近づくと、彼が広げた腕の中にぽふりと身を預けた。
即座にぎゅうっと抱き締められるも、その腕の力は強く、ほんの少しも身動きがとれなかった。

「…イヴ?」
「………」

肩口に鼻先を埋めたまま、黙り込んでしまったイヴァニエ。どうすることもできず、同じように彼の肩口に鼻先を擦り寄せると、静かに瞼を閉じた。
それから暫く、互いに口を噤んだまま、抱き合うだけの時間が過ぎた。
閉ざされた空間に流れる空気は少しだけ重く、だが穏やかで、温かな腕に抱き締められている安心感から、胸の鼓動も次第に落ち着いていった。

「……アニー」

そうしてどれほどか時間が流れた頃、イヴァニエがポツリと自身の名を呟いた。

「なぁに?」
「…なぜ、他の大天使達に会いたいのですか?」
「…?」

質問の意図が分からず、合わせていた体をそっと離すと、首を傾げた。

「なんでって……なんで?」
「アニーはずっと、彼らを避けていたでしょう?」
「それは……そう、だけど…」

イヴァニエの言うことは事実だ。ずっと大天使達のことを避け、その話題に触れることすらなかった。でもそれは、彼らのことを自分がきちんと理解していなかったからだと、バルドル神との会話で気づけたのだ。
イヴァニエもそれを分かっているはずなのに、なぜ改めて問われるのか…不思議な質問に困惑が深まった。

「えっと…バルドル様とお話しして…大天使様達が、どうして怒ってたのかも、ちゃんと理解できて……みんなも、自分のこと、心配してるよって、バルドル様が、教えて下さったから…」
「だから、他の者達に会いたいのですか?」
「だ、だって……心配して、くれて…」
「心配してくれるから、会いたいのですか?」
「う……と…」

どこか責めるような声音と眼差しにたじろぎながら、イヴァニエの問いになんと答えるべきか考える。
バルドル神との会話の中で、大天使達が自分の存在を認めてくれたからこそ、自分も彼らのことを知りたいと思ったのは本当だ。ただそう思えたのは、彼らから自分に向けられた情があったのだと知れたからだろう。
『心配してくれている』ということは、少なからず、自分のことを気に掛けてくれているということだ。
『心配』に含まれている感情が、どんなものであってもいい。いない者として忘れ去られていたあの頃に比べたら、ずっとずっと喜ばしいことだと思えた。
だからこそ、前向きな感情が芽生えたからこそ、自然と『会ってみたい』という気持ちが生まれたのだが…

(どうやって説明したらいいんだろう…)

唸ってしまいそうになるのを堪え、必死に頭を動かすと、感覚として抱いた感情を懸命に言葉に変えた。

「…バルドル様が、みんなのことも、知った方がいいって、言ってくれたから、お話ししてみたいって思ったのは、本当だよ。…でも、そう思ったのは、みんなが、自分のこと、心配してくれて…それを嬉しいって、思ったからで……だから、私が、ただみんなに、会ってみたいなって思───」
「会って何かあったらどうするんです!」
「ッ!?」

突然発せられた大きな声に、ビクリと肩が跳ねる。

「な、なにか、て…、だって…みんな、もう、怖くない、のに…」
「怖くなければいいんですか?」
「……なんで…? イヴは……なんで、ヤなの…?」

険しい顔つきのイヴァニエに、勝手に声が震えた。
イヴァニエが何を嫌がり、何に憤っているのかが分からない。分からないからこそ、どうすればいいのかが分からない。
自分では導き出せない答えを求めて、宝石のような瞳を見つめ返せば、数秒の沈黙の後、イヴァニエがゆっくりと口を開いた。

「………アニーを、他の者達の前に出したくありません」
「え…?」
「アニーを他の者達に見せたくありません…!」
「…? どうし…っ、わっ!」

切羽詰まった声と共に体を押し倒され、柔らかなベッドの上に背が沈んだ。そのまま覆い被さるように抱き締められ、再び身動きが取れなくなる。
突然の出来事にポカンとしながら、そろそろとイヴァニエの背に手を回すと、その身を緩く抱き締め返した。

「…どうして、私を見せちゃダメなの?」
「アニーが可愛いからです」
「……可愛いと、見せちゃダメなの?」
「はい」
「…どうして?」
「……皆が、アニーを好きになってしまうからです」

言いながら、緩慢な動きで上体を起こしたイヴァニエは、なぜか泣きそうな顔をしていた。

「…アニーに好意を含んだ視線を送られるのも、そんな目で見られるのも嫌です。可愛い貴方を、誰にも見せたくありません」
「…う……と…」

なんと言葉を返したらいいのか分からない。
ただ、彼が心底嫌がっている感情だけは伝わってきて、胸が苦しくなった。

「で、でも…き、嫌われて、いるより、いいでしょう…? 好意なら…その、怖く、ないし…」
「害意や悪意が無いからと言って、それが安全であるという証明にはなりません」
「…?」
「好意的であれば、確かに怖くはないでしょう。でも、怖くないことと安全は別物です」

言葉と共にイヴァニエに両の手首を取られ、ベッドの上に縫い付けるように押さえつけられた。

「イヴ…?」
「…好きだからと、その感情を理由に襲われでもしたらどうするのです?」
「おそ…? …あっ、やっ!」

身を屈めたイヴァニエの唇が、首筋を喰み、柔らかな舌が皮膚を舐め上げた。
性的な愛撫に慣れた体はそれだけで戦慄き、鈍い頭はそこで初めて、イヴァニエの言わんとすることに気づいた。

「や…っ、し、しない! みんな、そんなこと、しない…!」
「なぜ襲われないと言い切れるのです? アニーは彼らのことを何も知らないのに」
「そ……そ、だけど…で、でも、だって…と、特別な、好きじゃなきゃ…え、えっちなこと、しない…」
「もしも誰かが、アニーに特別な好意を抱いたら?」
「そ、それでも…だって……私が好きなのは、イヴと、ルカと、エルダ、だから…」
「ならば無理やり奪ってしまおうと、考える者がいたらどうするのです? …アニーを攫うのは、きっととても簡単ですよ」
「ッ…」

手首を掴む手にグッと力が込められ、僅かに痛みが走る。イヴァニエはさほど力を入れていないはずなのに、それだけで全く動かせなくなった腕に、じわじわと焦燥感が溢れ出す。

「や、やだ…」
「…例え、その危険がなくとも、アニーを他の者達に見られるのも、アニーの意識が他の誰かに向くのも、嫌なんです」
「…ど、して…? 自分が好きなのは、イヴ達だけ───」
「そうだとしても!!」
「っ…!」
「……嫌です。嫌だ。私達のアニーに、他の者が近づくのも、アニーが私達から離れていくのも嫌なんです…!」

泣き声にも似たその一言に籠った切実な望みと隠しきれない寂しさに、息が詰まった。
例え他の大天使と交流を持つことになったとしても、他の誰かに特別な感情を抱いたりしない。イヴァニエ達から離れたりなどしない。
…そう言いたいのに、彼が嫌がっていることの本質はそこではないような気がして、返す言葉を失ってしまった。


(……私が、お外に出るのが…嫌なの…?)


ふと浮かんだ考えは、だが口にする勇気もなくて、ただ言葉を飲み込むことしかできない。
掴まれた手首の痛みも忘れてしまうほどの緊張の中、静寂を破ったのはイヴァニエだった。

「…バルドル様の離宮にだって、本当は行ってほしくありません」
「───」

薄々気づいていた彼の本音。剥き出しの言葉は、まるで鋭い刃のように、サクリと胸を刺した。

「……一人で行くのが、危ないから…?」
「そうです」
「…オリヴィアがいるよ…?」
「私達がいません」
「で、でも…っ、……じゃあ、どうして、危ないって言うの…?」
「…バルドル様の愛情表現は、私達とは異なるからです。アニーに常に触れているのも、好ましくありません」
「……バルドル様は…優しいよ? 危なくな…」
「優しければいいという話ではありません!」
「っ…、…なんで…」

イヴァニエの厳しい声に、心臓は竦み、瞳を涙の膜が覆った。
「遊びにおいで」と微笑んでくれた、皆と同じ経験をと願ってくれた、優しい優しい神様。
神様が喜んでくれるなら、安心してくれるなら、なにより、自分がバルドル神に会いたいから、あの庭に行きたい───そんな自分の感情ごと否定されたような悲しみから、ぽたりと涙が零れた。

「なんで、そんなこと…、言うの…っ」
「アニー…」

大好きな人が、大好きな神様ごと自分を否定する。
それが苦しくて、なぜか無性に悔しくて、ほろほろと涙が零れた。

「…アニー、違うんです。バルドル様を嫌っている訳ではありません。ただ、二人きりになるようなことを避けてほしいだけなんです」
「オ、オリヴィアが、いてくれる…」
「そうではなくて…っ、奥の宮に行ってほしくないんです!」
「あ、遊びに、おいでって…」
「そのまま帰ってこれなくなったらどうするんです!!」
「ッ…」

掴まれた手首が痛い。でもそれ以上に、締め付けられる胸が痛かった。

「奥の宮に私達は入れません! オリヴィアが側にいたとしても、必ずしも安全だなんて言い切れません! もしもバルドル様がアニーを奥の宮に閉じ込めてしまったら───」
「バルドル様はそんなことしない!」
「ッ…!」

堪らず言い返した言葉。瞬間、表情を歪めたイヴァニエが、ギリリと音が鳴るほど、強く歯を食いしばったのが分かった。

「……アニーは、私の言葉より、バルドル様を信じるのですね」
「!? ち、ちがっ、違うよ…! そうじゃな…」
「いいんです。……さぁ、お迎えが来ましたよ」
「───ッ」

いつもの柔らかな声からは想像もできないほど冷めた声に、ヒュッと喉が鳴った。
沈黙の中、手首を掴んでいた手が外れ、何かを諦めるように、イヴァニエの瞳が伏せられる。
翳りを含んだその瞳は、目の前にいる自分を映していなくて、あれほどうるさかった心臓が止まってしまいそうなほどの恐怖に襲われた。

(……やだ…)


待って、待って、そんな目をしないで───!!


離れていく体を追いかけたいのに、掴まれていた手首が軋んで、上手く起き上がれない。
こちらに背を向けたイヴァニエは、すぐ近くにいるはずなのに酷く遠くて、その背に手を伸ばそうと、必死になって痛む腕に力を入れた。

(やだ…、やだ…っ)

体が重い。上手く動かない。声が、出ない。
膨れ上がる恐怖が涙に変わって頬を伝うも、今は自分が泣いてることすら理解できなかった。

(やだ…!!)

ぶるぶると震える腕を叱咤し、無理やり体を起こす───それと重なるように、部屋の外から、こちらに向かって駆けてくる足音が聞こえた。
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