天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

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「アニー!」

顔面蒼白になり、苦しむように背を丸めたアドニスに、慌てて口を噤む。
イヴァニエの発言に気が昂り、アドニスの前で声を荒げてしまった…怯えさせてしまったことを猛省し、その身に触れようとした瞬間、不意にアドニスの体が宙に浮いた。
アドニスを腕に抱き、立ち上がったイヴァニエ。その行動に嫌な予感がして、咄嗟に手を伸ばすも、伸ばした指先がけたたましい音と共に弾かれ、眉間に皺が寄った。

「チィッ…!」

堪らず漏れた舌打ち。目の前に張られた薄い結界の壁は、イヴァニエが造り出したものだ。
近づくことを拒むように張られた透明な壁もそのままに、転移扉に向かって歩き出したイヴァニエに、堪らず声を荒げた。

「おい!! イヴァニエ!!」
「お待ち下さい!!」

自身の声と被さるようにエルダの声が響くも、聞こえていないかのように遠くなる背中。追いかける為、即座に壁を破壊しようとして───一瞬の躊躇いが生まれた。

先ほど、アドニスのことを怖がらせてしまったばかりだ。
大きな声と音に怯え、可哀想なほど震えていたアドニス。壁を破壊するのは簡単だが、それなりの衝撃と音が発生するだろう。また、怖がらせてしまうかもしれない…そんな一瞬の迷いに、行動が遅れた。
そうこうしている間に、イヴァニエは自身の離宮へと繋がる転移扉を開き、その先へと足を進めた。

「待て!!」
「アドニス様!!」

瞬間、目の前の壁が砕け、行く手を阻む障害物が消えた。

「っ…、ルカ! エルダ…!」

焦りを含んだアドニスの声に、反射的に腕を伸ばすも、手が届くはずもなく、近づくことを拒むかのように、目の前で扉が閉じられた。




「ぁんの、くそが….!!」

閉じられた転移扉の前、鯨のレリーフにアドニスの聖気が籠った鉱石を当てるも、まったく反応が無いことに悪態が漏れた。

(あの野郎、扉を壊しやがった…!)

転移機能を施した扉でも、壊れた扉を繋ぐことはできない。反応が無いということは、の扉が壊されたということだ。

アドニスの為に設置した転移扉。アドニス本人にしか開くことができないと伝えていた扉だが、実際のところはちょっと違う。
正確に言えば、『アドニスの聖気に反応して開閉する転移扉』だ。
本人が触れずとも、アドニスの聖気が込められた物を対象のレリーフに当てれば反応し、扉を開くことが可能だ。
あえてアドニスにそのことを説明しなかったのは、本人だけが使える扉と思っていた方が安心だろうと思ったからだ。
それでも万が一、何かあった時の事態に備え、アドニスの聖気が込められた鉱石を、イヴァニエと一つずつ有していた。

カロンがフレールの庭に侵入した折、プティの口に入らぬまま、敷物の上に零れ落ちていたフォルセの実。それらを拾い集め、鉱石の中に丸ごと流し込んだ。
アドニスの聖気で実らせたフォルセの果実は、それ自体がアドニスの聖気の塊になる。その実を取り込んだ鉱石もまた同様に、アドニスの聖気に染まり、『鍵』として使用することが可能になったのだが…

「こんなことの為に使うな…!」
「ルカーシュカ様! 早くアドニス様の元へ参りませんと!」

怒りと呆れから、漏れた低い声が足元に落ちる。
扉を殴りつけたい気持ちをグッと堪え、呼吸を整えると、背後から急かすエルダに向き直った。

「…ここから行くのは無理だ。扉が壊されてる」
「そんな…っ」

まるでこの世の終わりのような顔をするエルダ。その体が、部屋の扉に向かって駆け出そうと動き、即座に止めた。

「エルダ! 待て!」
「なぜ止めるんです!!」

普段は物静かなエルダだが、アドニスのことになると途端に激情型になる。
睨むように振り返った翠色を真っ直ぐ見つめると、努めて平静に、言葉を返した。

「イヴァニエの所へは俺だけで行く」
「私も行きます!」
「やめておけ。冷静さに欠けている者がいても、余計に事を荒立てるだけだ」
「ですが、アドニス様が…っ!」
「エルダ」
「ッ…」

窘めるように名を呼べば、エルダが声を詰まらせた。
自分とて、お世辞にも平静とは言い難い。だが少なくとも、イヴァニエの離宮に乗り込んでいって、アドニスを助けようと手当たり次第破壊しかねない目の前の男よりは冷静なはずだ。

「アニーに危害を加えるほど、アイツも馬鹿じゃない。あれはあれで面倒な性格だが、アニーの話に動揺したのは俺も一緒だ。…お前だってそうだろ?」
「それは……そうですが…」

瞳を揺らし、そっと視線を下げたエルダの心情が、手に取るように分かった。
他の大天使達と交流を持ちたい───そう語ったアドニスに、情けなくなるほど動揺した。
アドニスの意識が外に向くのは良いことだ。世界が広がること、新しいものに触れ、新しいことを知り、新しい出会いを体験する…それが望ましいことであると分かっているのに、心のどこかでそれを嫌がる自分がいた。

(……アニーが好きなのは、俺達だけだ)

アドニスと結ばれたあの日、アドニスから告げられた言葉を信じていない訳じゃない。
愛し、愛されている自信だってある。それでも不安になってしまうのは、アドニスがとても愛らしく、魅力的だからだ。
自分達が恋仲であることは既に周知の事実だ。その中でアドニスに手を出してくる者はいないだろうが、絶対にないとは言い切れない。
なにより、他の者達はアドニスに対する罪悪感から、殊更優しく接し、甘やかそうとするだろう。
他者からの親切に敏感なアドニスは、それらすべてを好意的に受け止め、もらった情を返すように、彼らにも好意を返すはずだ。

(…ああ、嫌だ)

狭量と言われようが構わない。例えそこに恋愛感情が無かったとしても、アドニスが他の者に懐くのを苦々しく思ってしまう。
だがそれでも、アドニスの自由を奪いたい訳ではないし、あの子の世界を狭めたい訳でも、自分達の側から離れぬ様、小さな世界に閉じ込めておきたい訳でもなかった。

広い世界を知ってほしい。けれど、ずっと離れず、自分の側にいてほしい───矛盾しているが、それが嘘偽りのない本心だった。

「いつかこうなることは分かっていたはずだ。…オリヴィアとの接触がでかかったな」
「……はい」

穏やかで物腰も柔らかなオリヴィアに対し、アドニスは最初から警戒心が薄かった。
オリヴィアとそれなりの時間を共に過ごしたことで、自分達以外の者と過ごす時間がどういうものかを体験し、学んだのだろう。
その上で、バルドル神の話を聞き、警戒心と恐怖心が消え、代わりに他者に対する興味が芽生えた…

(バルドル様は、こうなることが分かっていて、俺達とアニーを離したんだろうか…)

アドニスに「一人で奥の宮まで来るように」と誘った時点で、何かあるのだろうとは思っていたが、一体どこまでが神の思い描いた筋書きか…考え込んでしまいそうになる思考を無理やり振り払うと、深呼吸で気持ちを整え、エルダを見据えた。

「イヴァニエの離宮には俺だけで行く。さっきの壁の感じからしても、アイツもアニーを力ずくで閉じ込めようとはしてないはずだ」
「……分かりました」

不承不承ながらも頷くエルダ。一応、元主であるイヴァニエのことを信じてはいるのだろう。

(さっきの壁も、勝手に割れたしな)

何もせずとも、扉が閉まる直前に砕けた結界の壁。あれは自然に割れたのではなく、イヴァニエが意図的に砕いたのだ。
恐らくは、一瞬の足止めがしたかっただけ。その上で扉を壊したのは、アドニスと二人きりになる時間が、どうしても欲しかったのだろう。
自分やエルダが後を追うのが分かっていて、それでも「嫌だ」と叫んだ気持ちを抑えられなかったのだろう。

(…馬鹿が)

これでアドニスを泣かせていたら、ぶん殴ってやるつもりだが、まったく気持ちが分からないでもないのが複雑なところだ。

「アニーは俺の離宮に連れていく。エルダは先に行って待ってろ」
「こちらには、お戻りにならないのですか?」
「この場で怖がらせてしまったからな。アニーも動揺してるだろうし、少し時間を空けよう。お前も、今日はうちで休め」
「…ありがとうございます。ルカーシュカ様、アドニス様を、よろしくお願い致します」
「ああ、任せろ」

胸に手を当て、頭を下げるエルダを残し、アドニスの部屋を出る。
逸る気持ちを抑え、足早に回廊を進めば、心配と怒りが綯い交ぜになった感情が胸の内で膨らんでいった。

その存在が証明されて以降、カロンの一件以外、暖かな部屋と庭で、穏やかな日々を過ごしてきたアドニス。
思い浮かべる姿は愛らしく、叶うならば、甘いミルクのような優しい愛情だけでその身を満たしてやりたいと願わずにはいられないほど愛しい子。

(アニーが傷つくようなことはしてくれるなよ)

刺激に弱く、柔く繊細なアドニスの精神を揺さぶり、泣かせていることがないようにと、祈るような気持ちでイヴァニエの離宮へと急いだ。










◇◇◇◇◇◇

「アニー!!」

誰かが駆けてくる足音が聞こえた直後、バン!と叩きつけるような音と共に扉が開き、薄暗い部屋の中に光が差し込んだ。

「……ルカ…」

響いた声と、瞳に映った姿に、全身から力が抜ける。
いつの間にか開いていた天蓋の幕。その中で、ようやく上体を起こし、座り込んだ状態でルカーシュカを見つめると、未だにこちらに背を向けたままのイヴァニエに視線を移した。

「イ…イヴ…?」
「………」

名を呼ぶも、返事はない。
カラカラに喉が渇くような、掠れて声が出ないような緊張の中、大きな足音と共にルカーシュカが近づいてくる気配がした。

「アニー! ……無事か?」
「ぅ…う、ん…」
「良かった。…さぁ、おいで」

星空のような瞳を曇らせ、心配そうにこちらを見つめるルカーシュカに頷き返せば、焦りを含んでいた表情がホッと緩んだ。その視線が、ほんの一瞬だけイヴァニエに向くも、瞬きの後には、もう自分しか見ていなかった。
心配して駆けつけてくれたのだろうことが嬉しくて、でも「おいで」と差し出された手を取るのは躊躇われて、どうしていいのか分からない感情と思考の狭間で、はくはくと息を喰んだ。

「あ…あの……」
「……アニー、一旦落ち着いて、ゆっくり話そう?」
「…ぅ…」
「ほら、おいで」

差し出されたルカーシュカの右手。
その手を取っていいはずなのに、どうしてもイヴァニエのことを放っておけなくて、手を伸ばせないまま縮こまった。

「アニー?」
「だ…だって……イヴが…」
「───ルカーシュカ」
「ッ…!」

刹那、イヴァニエが抑揚のない声でルカーシュカの名を呼んだ。
たったそれだけ。たったそれだけのことなのに、体がビクリと跳ね、怖くも寒くもないはずなのに、肌が震えた。

「……はぁ。ごめんな、アニー」
「えっ、あ…っ」

浅い溜め息を吐き、ベッドに乗り上げたルカーシュカに抱き上げられ、強制的にベッドから降ろされる。
そのまま元来た道を辿るように、扉に向かって歩き出したルカーシュカに、慌ててしがみついた。

「ル、ルカ…! まって…っ、イヴが…!」
「うん。イヴァニエとのお話しも、また後でしような」
「な、なんで…」

歩く速度を緩めず、出口に向かって歩き続けるルカーシュカ。それと比例するように、イヴァニエとの距離は開いていく。
バッと後ろを振り返るも、イヴァニエはこちらに背を向けたままで、その背中がどんどん遠くなっていくことに恐怖を覚えた。

「ゃ…やだ…っ、やだぁ…!」

───このまま離れるのは嫌だ。

湧き上がる恐怖に耐えきれず、手足をバタつかせるも、体を抱き締めるルカーシュカの力は強く、びくともしない。

「ルカ…ッ、やだ…! イヴも…!」
「イヴァニエとのお話しは、また後でな」
「なんで……、なんでぇ…っ」

「嫌」という気持ちを込めてルカーシュカを見つめるも、彼は困り顔で微笑むだけで、返答はない。
そうこうしている内に、寝室と隣室とを繋ぐ境界線を超え、目の前でゆっくりと扉が閉められていく。

「っ…!」

イヴァニエの名を呼びたい。
でも、返事がなかったら、なんの反応もしてもらえなかったら───そう思うと、怖くてどうしようもなくて、声を発する勇気ごと断ち切られるように、目の前の扉が閉められた。



カチャン…と小さな音を立てて閉じられた扉。それはまるで、イヴァニエとの間にできた隔たりを目の前に突きつけられたようで、胸の臓器がドクドクとうるさく騒ぎ始めた。

(どう、しよう…)

イヴァニエを傷つけてしまった。

自分の身を案じ、危ないから、とたくさん心配してくれた彼の情を、突き放してしまった。
「嫌です」と言って、弱々しく吐き出された本心に応えることもできず、バルドル神を想うあまり、彼の言葉を否定してしまった。
それが、どれだけ彼を傷つけることになるかも考えないで───…

「ふっ…、っ…」


───怖い。


形容し難い感情が渦巻き、ドッドッと早鐘のように鳴り出した鼓動に息が乱れる。
その間もルカーシュカの足は止まらず、大きな水槽のある部屋を通り、扉を抜け、いつしか周囲は部屋の外…廊下の風景に変わっていた。

「アニー、このまま俺の離宮に行くから……アニー?」
「はっ…、はっ…」

ちゃんと、イヴァニエの気持ちを受け止めるべきだったのに。
ちゃんと、彼の話しを聞いて、答えるべきだったのに。
心配してくれたことにお礼を言って、傷つけてしまったことを謝らなければいけなかったのに───拒絶するような背中が恐ろしくて、その背に手を伸ばすこともできなかった。

「ッ……!」

自分の言葉と態度が、相手を傷つけてしまったという罪の意識と恐怖。
それでもどうすればよかったのか、未だに答えを見つけられない頭はぐちゃぐちゃで、感情がどんどん膨れ上がっていく。
最後に見せたイヴァニエの泣きそうな表情と、伏せられた瞳。
寂しさと悲しさ、悔しさを混ぜ合わせたような表情を思い出した瞬間、我慢していた感情がぷつりと弾け、大きな波になって押し寄せた。

「ふっ…、ぅあぁあぁぁ…っ」
「アニー!?」

ぼたぼたと零れる涙と、溢れた啼泣。
驚いたようなルカーシュカの声が耳に届くも、今は自分の感情を制御することができなかった。

「ああぁぁ…っ! ひっ…、あぁあぁぁぁっ!」

このままイヴァニエの元を離れたらダメだ。
傷つけてしまった彼を、独り残していったらダメだ。
そう思うのに、臆病な自分は謝ることさえ怖がり、近づくことに怯えた。

「あぁぁぁっ! ケホッ…、っああぁぁ…!」
「アニー…! アニー、良い子だから、そんなに泣かないでくれ。……ほら、どうしたんだ? そんなに泣いて」
「ひっ……はぁっ、はぁ…っ」

屋外に面した広く開放的な廊下。その端に寄り、支柱が並ぶ段差にルカーシュカが腰を下ろした。
そのまま膝の上に乗せられ、彼を見下ろす形で見つめれば、優しい顔があやすように微笑んでくれた。

「っ…、ゃだ……!」
「うん。何がヤなんだ?」
「イ…、イヴ……イヴに…っ、やなこと、言っちゃた…っ」
「うん」
「し、しんぱい、して、くれたのに…っ」
「うん」
「イヴが…っ、やだって…、言っだのに、っ……、悲し、気持ちに、させちゃった…!」
「うん」
「イヴだけ…、お部屋に残してきちゃった…っ」
「…うん」

言いながら、後から後から涙が溢れた。その雫をルカーシュカが指先で拭い、彼の手を濡らしていく。

「他には? 何がヤだった?」
「っ…、…イヴが…おへんじ、ひてくれない…」
「うん」
「イッ…、イヴって…呼んで、のに、っ…こっち、向いてくれなかっ…!」
「…うん」
「イヴに……っ、きやわれちゃったかもしれない…!」
「それは天変地異が起こってもあり得ないから安心しな」

情けない声と共に嗚咽が漏れ、悲しみと一緒に再び泣き声が溢れる。
わぁわぁと泣く体をルカーシュカに抱き締められ、背中をポンポンと優しく叩かれた。

「アニーがイヴァニエのことを心配してるのはよく分かった。やだって思う気持ちも分かるし、アニーが怖くなった気持ちも分かるよ。でも、イヴァニエも気持ちを整理する時間が必要だ。考える時間が欲しくて、あえて一人になったんだよ。…今は、イヴァニエもアニーみたいに気持ちがいっぱいいっぱいで、返事をする余裕がなかっただけだ。だから、そっとしておいてやろう?」
「……い、いつまで…?」
「とりあえず明日までかな」
「っ…、あ…あやま、なきゃ…」
「うん。それも明日な」
「……イヴの…、お部屋で、待つ…」
「それはやめとこうか」
「…んぅ…」

苦笑気味のルカーシュカの声に、そっと体を離せば、彼が服の袖で濡れた頬を拭ってくれた。

「アニー。俺もエルダも、アニーが急に連れていかれて、すごく心配したんだぞ? エルダも、アニーの帰りを待ってる。一旦帰って、安心させてあげような」
「…エルダ…」

その言葉に、はたと現状を思い出す。
イヴァニエのことで頭がいっぱいで、自分の身を案じてくれたルカーシュカとエルダの優しさが、頭から零れ落ちていた。
慌てた様子で駆けつけてくれたルカーシュカ。一体どれだけ心配させ、不安にさせたのか…それなのに、お礼の言葉もまだ言っていなかった自分の薄情さに気づき、また視界が滲んだ。

「ルカ…、ありがとう…っ、来てくれて、ありがとう…!」
「どういたしまして」
「ごめんね…!」
「なんでアニーが謝るんだ?」

泣きながら、しがみつくようにルカーシュカを抱き締める。胸の高さにある頭を包み込むように、ぎゅうぎゅうと抱き締めれば、腕に抱いた温もりに不安や緊張が溶けるように解けていった。
そうして涙が止まった頃、ルカーシュカの手がトントンと再び背を叩いた。

「アニー、そろそろ移動しよう」
「…ん…」

離れていく温もりを名残惜しく思いながら、ゆるゆると腕の力を抜き、こちらを見上げるルカーシュカと見つめ合う。
穏やかなその顔にホッと息を吐いたその時、ふと視線を下げたルカーシュカの眉間に皺が寄った。

「これは…」
「え……あ…」

つられるように視線を下げた先、自身の手首に残った痣にドキリとする。イヴァニエに掴まれていた部分が、手の形そのままにくっきりと赤く染まっていた。

「い、痛くないから、大丈夫だよ…!」

本音を言えば、ちょっとだけ痛い。
だがここでルカーシュカを心配させるのも、イヴァニエが怒られるのも嫌で、ふるふると首を横に振った。

「……そうか。でも、このまま帰ったらエルダが心配するから、治しておこうな」
「…うん」

ルカーシュカが手首に手を翳すと、光の粒子がキラキラと降り注ぎ、じんわりと温かな光が肌に染み込むように消えていく。それと同時に手首の痕も消え、鈍い痛みも引いていった。

「ありがとう…」
「他はどこも痛くないか?」
「ん…、大丈夫」
「よし。それじゃあ、そろそろ行こう。…此処はちょっと落ち着かないからな」
「落ち着かない…?」

「はて?」と首を傾げつつ、横にずれたルカーシュカの視線を追い───固まった。
視線を動かしたその先、そこにいたのは、数人の天使達だった。
以前のエルダと同じ装い、背格好から、イヴァニエに仕えている子達だろう。そんな子達が数人集まって、ポカンとした表情でこちらを見つめていた。
反射的に反対側を見れば、そちらにも数人の天使達がいて、躊躇いがちな視線を自分に向けていた。

「…まぁ、あれだけ大声で泣けばな」
「~~~っ!!」

ポツリと呟かれたルカーシュカの声に、カァッと顔が熱くなる。
冷静になって思い返せば、イヴァニエの離宮、それも皆が通る廊下のど真ん中で泣いていれば、皆「何事だ」と思って足を止めるに決まっているではないか。

「うぁ…っ」

一体いつから見られていたのか。
今まで味わったことがない強烈な羞恥に耳まで熱くなる中、視線と恥ずかしさから逃げるようにルカーシュカに抱きつき、赤く染まる頬を隠した。

「うぅ…!」
「ほら、これを被って、それで腕はこっち……よし、立つぞ?」
「う、うん」

ルカーシュカが自身のローブを脱ぎ、それを頭から被せてくれる。随分と懐かしいそれに包まりながら、彼の腕の中に収まると、ルカーシュカがゆっくりと腰を上げた。

「悪いが、ここから帰らせてもらうぞ」
「は、はい」

きゅっと目を瞑った外の世界で、ルカーシュカが周囲に集まった誰かに声を掛ける。
それに対する返事が返ってくるのと重なるように、バサリと翼がくうを掻く音が聞こえ、肉体がふわりと宙に浮いた。
そろりと目を開ければ、眼下に大きな建造物が見え、徐々に遠ざかっていくそれに、イヴァニエの姿が重なった。

(……イヴ…)

ほんの少し前まで、自ら踏み出せた一歩を誇らしく思っていた───あの瞬間の心地良い緊張感が嘘のように、沈んだままの胸がズシリと重みを増した。


ルカーシュカの腕の中、羽ばたきと共に流れていく風景。いつもなら、心踊るはずの鮮やかな景色に、今はどうしても、目を向けることができなかった。










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