天使様の愛し子

東雲

文字の大きさ
上 下
134 / 140
プティ・フレールの愛し子

112

しおりを挟む
「アニー、着いたぞ」
「……ん…」

耳元で囁く声に、ふっと意識が浮上する。重い瞼をうっすらと開き、しぱしぱと瞬きを繰り返せば、微笑むルカーシュカの顔が間近に見えた。

「…ルカの…お部屋の、お庭…?」
「そうだよ」

辺りを見回せば、そこは見慣れた彼の離宮の庭だった。
いつの間に眠ってしまったのか、見上げた空はうっすらと暗く、淡い藍色に染まっていた。
どれくらいの時間、飛んでいたのだろう…空を見上げたまま、暫くぼぅっとするも、徐々に覚醒し始めた意識に、ハッとしてルカーシュカに視線を戻した。

「ね、寝ちゃって、ごめんね」
「いいよ。たくさん泣いて、疲れただろ?」
「……ん」

大泣きしたせいか、頭も体もまだ重い。コクリと素直に頷けば、ルカーシュカが自身の体を抱き上げたまま歩き出した。
「自分で歩く」と言う元気もなく、サクリ、サクリと草を踏み締める足元に耳をすませると、再び目を閉じた。
ルカーシュカの歩調に合わせて揺れる体は心地良く、揺り籠のような温もりに身を委ねる。…と、ふとこちらに向かって駆けてくる足音が聞こえ、閉じていた瞼を開くと、音のする方へと視線を向けた。

「アドニス様ッ!!」
「……エルダ…」

視線の先、安堵と心配を綯い交ぜにしたような表情で駆けてくるエルダが見え、途端にじわりと瞳が潤んだ。

「エルダ…ッ」

転んでしまうのでは、と心配になるほど必死な足取りで走るエルダに、無性に恋しさが込み上げる。堪らず身を乗り出せば、ルカーシュカがそっと地面に降ろしてくれた。
そのまま優しく背を押され、よたよたと歩きながらエルダに向かって両腕を広げれば、駆けてきた勢いのまま、細い体が腕の中に飛び込んできた。

「アドニス様…!!」
「ん…っ」
「おっと」

勢いに押され、よろけた体を、ルカーシュカがそっと支えてくれた。
背中に添えられた手の安心感もそのままに、エルダの体をぎゅうっと抱き締めると、ふわふわと揺れる髪の毛に頬を寄せた。

「心配させちゃって、ごめんね、エルダ…」
「いいえ…! …おかえりを、お待ちしておりました、アドニス様」

エルダのホッとしたような声音に、体の強張りがゆるりと解けていく。
従者として側にいる時は、手を繋ぐ以上の触れ合いがほとんどないエルダだが、今は彼から抱きついてくれた。
それが嬉しくて、同時にそれだけ心配させてしまったことが申し訳なくて、愛しさと謝罪の念を込めて、胸元に寄せた頭部に口づけた。

「…ただいま、エルダ」
「アニー、俺には『ただいま』のキスはないのか?」
「ん…ルカも、ただいま」
「うん、おかえり」

隣に立ったルカーシュカの頬にも口づければ、彼が満足気に瞳を細めた。
柔らかくなった二人の雰囲気に、ホッと気が緩むも、同時にここにはいないもう一人の愛しい人を思い出し、胸がキュウッと締め付けられた。
いつもなら隣にいるはずの人がいない───思い出すのは、返事のない背中と、苦しげに歪んだ表情ばかりで、不安と寂しさ、罪悪感から、自然と視線が下がった。

「アニー、とりあえず中に入ろうか」
「…うん」
「どうぞ、アドニス様」

左手をルカーシュカに、右手をエルダに握られ、ゆっくりと歩き出す。浮遊感が抜けないせいか、それとも精神的なものか、ふわふわとした地面の感覚に足取りは重くなった。
手を引かれ、のたのたと歩き始めて数歩、ふとあることに気づき、左右を見た。

「そういえば、どうしてルカのお部屋に来たの…?」
「うん? まぁ、気分転換みたいなものかな。アニーの部屋の方が落ち着くなら、そっちに移動するぞ」
「…うぅん。ルカのお部屋がいい」
「そうか。それは良かった」

自分の部屋が嫌という訳でも、落ち着かないという訳でもない。
ただ少しだけ、なんとなく今は自室に戻るのが躊躇われて、ルカーシュカの部屋に来れたことにホッとしていた。

(…もしかして…)

ルカーシュカは、自分の今の心情を見越して、こちらに連れてきてくれたのだろうか?
問うに問えない疑問を混ぜてルカーシュカを見つめれば、彼がふっと笑うように瞳を細めた。

ああ、本当に本当に、優しい人。
ルカも、エルダも───イヴも、皆優しい。

無言の中に込められた愛情に愛しさが込み上げるも、今は純粋に喜ぶことすら憚られる憂いに、胸は苦しくなるばかりだった。




「アニー、先に休むか? それとも、お話しするか?」
「え…?」

部屋に入り、真っ先に問われた言葉に、パチリと目を瞬く。
いつもなら、まず「休もう」と言われるのに、選択肢を与えられたことが新鮮で、思わずルカーシュカを見つめた。

「えっと……お話し、したい…」
「じゃあ、そっちに座ろうか」

繋いだままの手を引かれ、ソファーまで連れていかれる。そうして促されるまま腰を下ろせば、隣にルカーシュカが腰掛けた。

「エルダも、座って…?」
「いえ、私は…」
「エルダ、お前も座れ」
「…畏まりました」
「あ、ま、まって。エルダ…大っきくなれる…?」

身を屈めたエルダに慌ててお願いすれば、彼が驚いたような表情のまま固まった。
少年の姿のままでも、話はできる。ただ叶うならば、今は使、話を聞いてほしかった。
懇願するようにエルダを見つめれば、一拍の沈黙の後、翼が大きく広がり、エルダの体を包み込んだ。

「…こちらで、よろしいですか?」
「うん…ありがとう」

ふわりと広げられた翼の中から、青年の姿になったエルダが現れる。
この姿のエルダと対面するのは久しぶりで、見慣れないせいか少しばかりドキドキするも、淡い緊張に蓋をすると、左右に腰掛けた二人の手を取り、きゅっと握り締めた。

話したいことは、もう決まっているのだ。
深い深呼吸で気持ちを整えると、最初の一言を待ってくれているのだろう二人を順に見つめた。

「…二人とも、心配してくれて、ありがとう。自分は、大丈夫だから…心配しないでね」
「ああ、大事がなくて良かった」
「ええ、安心致しました」
「二人は、大丈夫…?」
「俺達はなんともないよ」
「どうかご心配なく」
「…イヴのこと、怒らないでね…?」
「……分かった」
「……はい」

若干の不満を含んだような返事に困惑するも、イヴァニエの行動の元を辿れば、原因は自分にある。自分のせいで、彼らに仲違いしてほしくなかった。

「あ、あの…喧嘩、しないで…」
「大丈夫だよ、アニー。喧嘩なんてしないから、安心しな」
「…うん」
「アドニス様、他にもお話ししたいことがあったのではございませんか?」
「……ん」

やんわりと話題を変えてくれたエルダに頷き返すと、もう一度深く息を吸い込み、重くなった胸の痞えごと吐き出した。
ドキドキと鳴る心臓はずっと怯えていて、それに呼応するように呼吸も浅くなる。
久方ぶりに味わう感覚に、吐く息は震えていたが、声まで震えてしまわないように、グッと気合いを入れると、意を決して口を開いた。

「…あのね、二人に、聞きたいことがあるの」
「うん」
「なんでしょう」
「……二人は、私が、他の大天使様達とお話しするの、嫌だなって…思う?」

───ああ、言ってしまった。
ドクドクと脈打つ心臓が、責め立てるように騒ぐも、それでも、どうしても聞いておかなければいけなかった。

イヴァニエと二人きりで交わした会話。その時の言葉が、ずっと頭から離れなかった。
彼は、他の大天使と交流することも、バルドル神の宮に行くことも嫌がっていた。
あの瞬間は、どうしてそこまで嫌がるのかが分からなくて、戸惑いと混乱から、ただ反発してしまった。だが冷静になった今、戸惑いは消え、胸には重くのし掛かるような罪悪感だけが残った。

「嫌だ」と真っ向から告げられたイヴァニエの本心。
あの感情が、彼だけのものなのか、それともルカーシュカやエルダも同じ気持ちなのか、それが知りたかった。

(イヴは、嫌なことは嫌って言ってくれるけど…二人は、あんまり言わないから…)

特にルカーシュカは、いつだって自分のことを優先してくれる。
柔らかな言葉と笑みで、本心を隠してしまうルカーシュカ。
分かっている。それが彼の深い情と思い遣りであり、甘やかされているのだと、分かっているのだ。
そうさせているのは自分で、でも無理をさせていると思うのはきっと違くて…だからこそ、今までずっと、その優しさに素直に甘えてきた。
でも今は、が知りたかった。

「私が、他の大天使様とお話ししたり…お外に行ったりするの……やだなって、思う?」

ルカーシュカやエルダ、イヴァニエが、いつだって自分の話しを聞いて、気持ちを知ってくれるように、自分も彼らの気持ちを知りたかった。

「お願い。二人の、正直な気持ちを教えて? …ルカと、エルダも、私がみんなとお話しするの…やだなって、思った…?」

悲観した響きにならないように、責めているように聞こえないように、声が震えてしまわないように…努めて平坦な声で問い掛ける。
そうして口を閉じれば、喉の奥が張り付くような緊張の中、静寂の音だけが返ってきた。

(……ああ、やっぱり…)

黙って彼らの返答を待ちながら、柔く唇を喰む。
『すぐに返事がない』という“答え”が、既に出ていることに気づけないほど、鈍感にはなれなかった。


「……正直に言うなら、あまり嬉しくはない」


長い沈黙の後、静かな部屋の中に、ルカーシュカの小さな呟きが響いた。
瞬間、ズクリと胸の臓器が竦み、詰まる息に、目頭が熱くなった。

「……エルダは?」
「私、は…」
「お願い。正直に、言って?」
「……寂しく、思います」

目を合わせないまま、遠慮がちに呟いたエルダの言に、繋いだ指先を握る手に力が籠った。
ルカーシュカも、エルダも、決して『嫌』とは言わなかった。
それでも、「嬉しくない」「寂しい」という言葉で濁した感情は、きっとイヴァニエと一緒で、こんな時でも言葉を選んでくれる彼らに、ただただ苦しくなった。

(……どうして…)

どうして、皆も自分の成長を喜んでくれるだろうと、あれほど前向きに思えたのだろう。
込み上げた感情は、どうしようもない罪悪感と羞恥にまみれていて、結んだ唇の隙間から、飲み込めなかった感情が言葉になって溢れ出た。


「……他の、天使様達と、お話ししなくていい…」


小さく漏れた声は、微かに震えていて、同時にポタリと落ちた雫に眉根を寄せた。
泣かないように、我慢したかったのに…すぐに泣いてしまう情けなさにも悔しさが募った。

「…お話し、しない……お外にも、行かない…」

拗ねている訳じゃない。それなのに、発する声は不貞腐れているようで、それも嫌で嫌で堪らなかった。

「みんなと、お部屋にいる…っ」
「アニー、それはダメだ」
「っ…!」

すかさず返ってきたルカーシュカの声に、キュッと唇を噛み締めると、ブンブンと首を振った。

「……やだ」
「アニー」
「やだ…っ」
「アドニスさ…」
「やだ!」

首を振るたびに、目尻からぱたぱたと涙の雫が飛ぶも、それに気づける余裕もなくなっていた。

「みんなが…っ、ヤなことも、嬉しくないことも、寂しいことも…、したくない…!」

一度吐き出した言葉は止まらず、感情がどんどん溢れ出す。

「他の、天使様と、会えなくていい…」

───本当は、ちょっとだけでも近しくなれたらいいなと、淡い夢を見ていた。

「バルドル様の、お庭にも行かない…っ」

───本当は、また遊びに行きたい。「遊びにおいで」と言ってくれた優しさに応えたい。


「ずっと…、みんなと一緒に、お部屋にいる…!」


それでも、愛しい彼らと赤ん坊達が、自分にとっては誰よりもなによりも大切で、彼らの為なら、どこにも行けなくていいと、本気でそう思った。

「どこにも、行かなくてもい───」
「アニー!!」
「っ…!」

刹那、叫ぶように名を呼ばれ、ヒュッと息を呑む。
怒気を含んだ声に体が硬直するも、固まった体を強い力で抱き寄せられ、ひくりと喉が鳴った。

「……ごめん。大きな声を出した」

後悔の滲む声に、胸が軋んだ。
ルカーシュカとて、声を荒げたかった訳ではないはずだ。そうさせてしまった自分に、新たな涙がポタリと零れた。

「ちが…っ、ごめ…ごめん、なさい…、ごめんなさい…っ」
「アドニス様、どうかそのように泣かないで下さいませ…!」

ルカーシュカに抱き寄せられた体を、エルダが背後から抱き締めてくれる。
前後から包み込むような二人の体温は温かく、肉体が溶けてしまいそうなほどの安堵が、触れた肌から全身に広がった。

「…ごめん。悲しくなること言わせて、ごめんな」
「やだ…っ、謝らないで…!」

正直な気持ちを聞かせてほしいと、自分が願ったのだ。
それなのに、彼に謝らせてしまったことが悔しくて、苦しくて、これ以上泣くまいと、ギュッと両目を瞑った。

「ごめ、なさい…っ、自分が…」
「そこまで。それ以上、謝るのはなしだ」
「……クゥ」

優しい声音は、だが有無を言わさぬ強さで、閉じた唇の奥で小さく喉が鳴った。
漏れそうになる言葉を飲み、ルカーシュカの肩に凭れ掛かると、腰を抱き寄せるエルダの手に両手を重ね、無言のまま抱き合い続けた。
重なった肌から伝わる温もりと、体の前後から伝わるトクン、トクンという鼓動の音。まるで子守り歌のようなその音に、徐々に気持ちは凪いでいった。


「……アニー、俺達の気持ちも聞いてくれて、ありがとう」

どれくらいそうしていただろう。
静寂のカーテンをそっと開けるような穏やかな声が、耳元で囁いた。

「イヴァニエと一緒で、俺もエルダも、アニーが他の者達と交流を持つことに対して、あまり前向きではないかもしれない。でもそれは、アニーの行動そのものを嫌だと思ってる訳じゃないんだ。…言い方が悪かったな」
「…?」
「アニーの意識が、外の世界に向くことはとても嬉しいよ。ただ、アニーに向けられる感情や視線が、少し嫌というか、気になるというか……説明が難しいな」

苦笑気味な声に、そっと体を離せば、困ったように微笑むルカーシュカの顔が間近に映った。その表情に翳りはなく、胸が少しだけ軽くなる。

「……イヴも、同じようなこと、言ってた…」
「そうか」
「…どうして、ヤなの?」
「嫉妬しちゃうから」
「……嫉妬?」

サラリと答えるルカーシュカに、首を傾げる。
『嫉妬』と言われても、名前しか知らない感情はいまいちピンとこなくて、どう反応したらいいのか分からない。

「…嫉妬…しちゃうから…ヤなの…?」
「そうだな」
「…誰に?」
「アニーがこれから出会う全員に」
「……エルダも、おんなじ?」
「…はい」

背中に抱きついたままのエルダに問い掛ければ、鼻先を肩口に擦り寄せるように、エルダがコクリと頷いた。

「…自分が、みんなとお話ししなければ、いい…?」
「いいや、ダメだ」
「どうして…?」
「アニーの行動を嫌だと思ってる訳じゃないって言っただろう?」
「でも…お話ししたら、ルカ達が…ヤってなる…」
「そう思うのは、俺達の一方的な感情だ。その感情を押しつけて、アニーの行動を制限させることは、正しいことでも、良いことでもないんだよ」
「………」
「アニーには、ちょっと難しい話だったかもしれないな」

眉を下げて笑う彼の表情からは、呆れも嫌悪も感じない。それでも気持ちは晴れなくて、瞳を伏せた。

(だって…じゃあ、どうしたらいいんだろう…)

理解するには難解な感情を、どうやって受け止めればいいのか、自分はどうしたらいいのか…それが分からなくて、思考が停止しかける。
漠然と「どうしよう」と思うだけで、考えらしい考えなど一つも浮かばず、泣きたくなるような焦燥感ばかりが膨れていった。

「アニー?」
「…ぅん」
「ああ、また泣きそうな顔をして」
「だって…っ」

ぐぅ…と唸るように声を絞り出せば、ルカーシュカの手がそっと頬を撫でた。

「…例えばだが、アニーはプティが好きだろう?」
「? …うん」
「じゃあ、好きだから、ずっと一緒にいたいからって、プティを部屋に閉じ込めたりするか?」
「し、しないよ」
「どうして?」
「どうして…て…」
「アニーが、寂しいから側にいてってお願いしたら、プティは部屋から出ずに、ずっと側にいてくれるぞ?」
「で、でも…っ、しない…!」
「どうして?」
「だって…そんなの、だって……や、やだ、から…」
「そうだな。俺達も、そんなことしたくないって思うよ」
「……あ」

ルカーシュカの諭す言葉に、自身の発した言葉がどういうものであったかを知る。

「アニー、俺達のことも心配して、想ってくれてありがとう。その気持ちはすごく嬉しいよ。でも、俺達の一方的な感情と我が儘で、アニーを狭い世界に閉じ込めて、それで自分達が安心するなんて、おかしいだろう?」

じっくりと言い聞かせるような声が、じわじわと体に染み込んでいく。
ルカーシュカの言っていることは分かる。それでもまだ、納得するには蟠りがあって、素直に頷くことができなかった。

「でも……みんなが、ヤな気持ちになるのも、やだ…」
「嫌じゃないよ。ただちょっと、複雑な気持ちになるだけだ。でもそれだって、ずっとって訳じゃない。今はアニーの側に俺達しかいないから、より強く他の者達を意識してしまうんだ。でも、アニーの世界が広がって、それが当たり前になれば、俺達だって少しずつ慣れていくし、気持ちに余裕だってできる。アニーと一緒に、俺達も少しずつ、新しい環境に馴染んでいくんだよ」

黒水晶の瞳に見つめられ、返す言葉に詰まった。
このまま彼の言葉を信じていいのだろうか、甘えることにならないだろうか、自分の行動が、言葉が、また彼らを傷つけないだろうか───ぐるぐると巡る思考は、ただ巡るだけで、答えを出してはくれない。

「…っ」

何も答えられないまま、逃げるように、ルカーシュカの瞳から視線を逸らした時だった。それまで黙っていたエルダの体が背から離れ、「あ」と思う間もなく、彼が足元に膝をついた。
そのまま右手を優しく握られ、こちらを見上げるエルダと視線が絡んだ。

(……あ)

床に片膝をつき、手を握るエルダ。
その光景も、手を包む温もりも、すべてが懐かしくて、トクリと胸が鳴った。

「アドニス様。アドニス様も、いつもお寂しい気持ちを、我慢されていますよね?」

耳に慣れない低い声が、優しく鼓膜を揺らす。

「ルカーシュカ様やイヴァニエ様がお部屋に来れない日があっても、アドニス様は、会いたいと我が儘を仰らないでしょう?」
「……うん」
「それは、なぜですか?」
「…だって、二人とも…お役目があるし…」
「お役目がなければ、寂しいから会いに来て、と言いますか?」
「……言わない」
「それは、どうしてですか?」
「…お役目が、なくても…やることが、あると思うし……困らせちゃうかも、しれないし…」
「そのお気持ちこそ、アドニス様がご自身の感情ではなく、お二人のことを優先されているということになりませんか?」

力強い声と共に指先を握り締められ、言葉にし難い感情が込み上げた。

「イヴァニエ様とルカーシュカ様も同じです。アドニス様が、お二人に会えなくてお寂しいと思うお気持ちと同じように、会えない時間が増えることをお寂しく思っておられるのですよ。ですが寂しいからと、ご自身を慰める為に、アドニス様の自由を奪うのは違うと分かっていらっしゃいます。アドニス様が、お寂しさを我慢してでもお二人のことを尊重されたように、お二人もご自身の感情より、アドニス様のことを尊重したいと思っていらっしゃるのです。…勿論、私も」

握られた指先に、あやすような口づけが落ちる。
柔らかな唇の感触は温かくて、泣きそうになるほど優しかった。

「アニー」
「……ん」
「俺達が寂しいと思うのも、嫉妬してしまうのも、嘘じゃないよ。でもその為に、アニーがなんでもかんでも我慢するのは違うんだ」

左手をルカーシュカの手が取り、その指先にそっと唇が触れた。

「イヴァニエも、それは分かってる。ただちょっと、急なことで気持ちが追いつかなかっただけだ。…アニー、アニーは本当は、どうしたい? 正直な気持ちを教えてくれ」

自分が彼らに告げた言葉と同じ音が、どこまでも優しい響きを伴ってそのまま自分に返ってくる。
鮮やかな翠と、煌めく黒に見つめられ、その真摯な眼差しに、我慢できなくなった本音が、ポツリと零れた。


「………他の、天使様と…お話し、してみたい…」


言葉と共に溢れた涙が、瞳の縁からポタポタと落ちる。

「バルドル様の…お庭にも、行きたい…」
「うん」
「でも…っ、みんなと、お部屋にいるのも、好きで……っ」
「ええ、存じております」
「ルカも、エルダも、イヴも…っ、一緒にいたい…!」
「ああ、俺達もだよ」

ふっと笑うような声と共に、ルカーシュカに抱き締められ、膝の上にエルダの頭が乗った。
上半身を包み込む温もりと、心地良い膝の重みに、涙がどんどん溢れ出す。

「大丈夫だよ。これからアニーの過ごす時間が少しずつ変わっても、周りが変化しても、俺達はずっと、変わらずアニーの側にいるよ」
「ぅん…!」

背中に回されたルカーシュカの手が、ポンポンと優しく背を叩いた。

「話してくれて、ありがとうな、アニー」
「っ…、…あぁぁ…っ」

ああ、本当に、どうしてそんなに───惜しみなく与えられる愛情は、ずっとずっと優しくて、喉の奥で抑えきれなかった嗚咽が、泣き声になって溢れ出した。

「ふあぁぁっ…」
「アドニス様…!」
「ああ、また泣かせちゃったな」

慌てるエルダと、困り顔のルカーシュカに、背を撫でられ、濡れる頬を拭われ、それでも泣き止むことができなかった。
嬉しくて、愛しくて、でもほんの少しだけ苦しくて───自分の感情の在り処さえ分からないまま、涙が途切れるまで、ただ声を上げて泣き続けた。



その日の夜は、ルカーシュカの離宮にエルダと共に泊まった。
いつもはルカーシュカと二人で眠る寝具の上、エルダもいる新鮮さに、こそりと胸が弾む。
赤ん坊の姿になったエルダを真ん中に、三人で並んで寝転ぶと、小さな手で胸にしがみつくエルダの頭をそっと抱き寄せた。
ホッとするようなふわふわのシーツの中、柔らかな体からじんわりと伝わる温もりに、早くも瞼が重くなる。

「…ルカ」
「うん?」
「…明日になったら…イヴに会える…?」
「うん、会えるよ」
「…お話し、してくれるかな…」
「ああ、勿論」
「……本当…?」
「ふっ、本当だよ。ほら、もう目を閉じて」
「…ん」

拭いきれない不安に背が丸まるも、ルカーシュカの明るい声が、もやもやとした不安をあっという間に払ってしまう。
頬を撫でるルカーシュカの手に、自ら頬を擦り寄せると、こちらを見つめて微笑む彼に、へにゃりと笑い返した。

「おやすみ、ルカ」
「おやすみ、アニー」
「おやすみ、エルダ」
「あぅ」

いつもと違う、特別な一日の終わり。
目を瞑れば様々な感情が浮いては沈み、たくさん泣いた時間が、まるで夢の中の出来事のようにぼんやりと、だが鮮明に、沈んでいく意識の中で揺らめいた。

(…みんなが、心配しなくていいように、何かできたらいいな…)

彼らの為に、自分に何ができるだろうか───そんなことを考えている内に、思考は途切れ、体は深い眠りに落ちていった。




翌日、いつもより遅めの時間に起床すると、ルカーシュカの部屋で朝のミルクを飲み、三人で自室へと向かった。
少しだけ緊張しながら開いた転移扉の向こう側は、見慣れた自分の部屋で、変わらぬ光景が広がっていることに妙にホッとした。
そのまま扉を抜け、部屋に一歩踏み込んだ時、ふと昨日のある出来事を思い出し、ルカーシュカを見遣った。

「…そういえば、どうしてイヴは、この扉を開けられたの…?」

部屋の転移扉は、自分しか開けられないはずだ。それなのに、昨日のイヴァニエは、なぜか扉を開けることができていた。
素朴な疑問に首を傾げれば、ルカーシュカが気まずげに視線を逸らした。

「あ~……それについては、また後でな。イヴァニエが来てから話そうか」
「……うん」

当然のことのようにルカーシュカは言ってくれたが、果たしてイヴァニエは来てくれるのか…自信のなさから、返事をする声は小さくなった。
用事がない限り、ほぼ毎朝、部屋を訪れていたイヴァニエ。エルダが何も言わないところを見るに、何か予定があって来れないということはなさそうだが…

(…会いたくないって、思われてたら、どうしよう…)

昨日の今日という不安から、知らず背が丸まった。

「アニー、大丈夫だから。座って待ってよう」
「うん…」

ルカーシュカに手を引かれ、毎朝三人で並んで座るソファーに腰を下ろす。
落ち着かない気持ちから、チラチラと部屋の入り口に視線を送るも、それで何かが変わる訳でもなく、観念して膝の上に置いた手に視線を留めると、静かにイヴァニエの来訪を待った。

(もしも……)

もしも、イヴァニエが来なくても、その時は、自分から彼に会いに行こう───胸の内で静かに決意すると、不安ごと押し出すように息を吐いた。
何から話せばいいのか、何を話したらいいのか、何も決まっていないけれど、それでもイヴァニエに会いたかった。

(…会えたら、最初に、ちゃんと謝って…)

そう心に浮かべた時だった。
リィン…という涼やかな音が部屋の中に響き渡り、ビクリと体が跳ねた。

「来たな」

いつもと変わらぬルカーシュカの声音。その落ち着いた声が、今は逆に落ち着かなかった。
響いた鈴の音は、ルカーシュカとイヴァニエの来訪を告げる音だ。
今、ルカーシュカは自分の隣にいる…となれば、扉の向こう側にいるのは、一人しかいない。

「っ…!」

ドクン、ドクンと、怖がるように、喜ぶように、心臓が脈打つ。
会いたい。でも、会うのが少しだけ怖い。
矛盾した感情が鬩ぎ合う中、いつの間にか握り締めていた拳を解くと、顔を上げ、扉を見つめた。

(……俯いちゃダメだ)

そう自分に言い聞かせると、唇を引き結び、気合いを入れた───のだが…


「来ないな」
「来ないですね」

鈴の音が鳴って数十秒。扉が開く気配はなく、未だにイヴァニエの姿は見えない。
動揺と困惑から、オロオロしながら入り口を見つめるも、沈黙の扉は閉じられたままで、物音一つしなかった。

「う…う…?」
「アイツ…ここまで来て躊躇うなよ」

(……あ)

呆れ気味に呟かれたルカーシュカの一言に、「もしや」という考えが浮かぶ。

───もしや、イヴァニエは中に入ることができず、部屋の前で立ち止まっているのだろうか?

「…っ」

その姿を想像した瞬間、ざわりと胸が騒ぐような焦燥感に駆られ、気づけば勢いよくソファーから立ち上がっていた。

「アニー?」
「アドニス様?」
「じ、自分が、行く…!」
「えっ、あ、アドニス様!」

こちらを見つめるルカーシュカとエルダの視線を纏ったまま、扉に向かって駆け出す。

扉の前で立ち止まったまま、動けないイヴァニエ───その姿が、昨日、彼に拒まれることを恐れ、手を伸ばすことすらできなかった自分の姿と重なり、居ても立ってもいられなくなった。

自分の勝手な想像かもしれない。
本当は、全然そんなことないのかもしれない。
でももしも、彼が昨日の自分のように、何かを恐れ、動けないままでいるのなら、自分から手を伸ばしたい───そう思ったのだ。

「はぁ…っ、はぁ……ふぅ…」

一直線に向かった扉の前、昂る臓器と慣れない小走りで乱れた呼吸を整えると、一度だけ深く息を吸い込み、ドアノブに手を掛けた。

そのまま大きく扉を開けば、すぐ目の前に、こちらに背を向けて佇むイヴァニエがいた。

「っ…」

何故、向こうを向いているのか…一瞬、嫌な考えが過り、心臓が竦むも、泣いているような背中が痛々しくて、唇は反射的に愛しい人の名を呼んでいた。


「ッ…、イヴ…!!」


「!?」

刹那、弾かれたようにイヴァニエが振り返り、長い髪の毛が流れるような曲線を描いた。
そうして大きく見開かれた水色の瞳が、真っ直ぐ自分を見つめた。

(あ……)


───こっちを見てくれた。


なんてことない、些細なことかもしれない。
その些細なことが叶わなかった昨日が、どれだけ苦しかったか。
名を呼んで、振り返ってくれる今が、どれほど嬉しいか。

「~~~ッ、イヴ…!!」

一瞬の内にぶわりと膨れ上がった感情が瞳を濡らすよりも早く、伸ばした両腕と、踏み出した一歩で彼に抱きつくと、目一杯の力を込めてその身を抱き締めた。

「ア───」
「ごめんなさい!!」

肩口に顔を埋め、全身をぴたりと合わせるように抱き締めれば、湧き上がった感情は瞬く間に弾けた。

「ごめんなさい…! イヴが、いっぱい心配してくれたのに…っ、否定すること、ばっかり言って…、ごめんなさい…!」

謝りながら、ぼたぼたと零れ落ちる涙が、彼の服を濡らしていく。
昨日から泣いてばかりだ…と頭の片隅で思うも、溢れるそれを止められなかった。

「嫌なこと、いっぱい、言わせちゃって…っ、ごめんなさい…! いっぱい…、不安にさせて、心配、させて…っ、ごめんなさい…っ」

拙いことしか言えない歯痒さに、一層胸が苦しくなるも、今はただ、思いつく限りの気持ちを伝えようと必死だった。

「いっぱい、心配してくれて、ありがとう…! 大好き…っ、大好きだよ、イヴ…!」

イヴァニエの背に回した手で、彼の服にしがみつくと、より深く密着するように、抱き締める腕に力を込めた。


「ごめんなさぃ…っ、大好きだから…っ、…ッ、嫌いにならないで…!」


どうしようもないほど、我が儘な本音。
愛しいからこそ抱いてしまった恐怖に、いよいよ泣き声が漏れそうになった───その時だった。

「嫌いになる訳がないでしょうっ!!」
「っ!?」

心臓が飛び跳ねんばかりの大声と共に、痛いほど強く抱き締められ、驚きから呼吸と共に涙も止まった。

「え、あっ、わ…っ」

そのまま崩れ落ちるように、イヴァニエがゆっくりと膝をつき、それに引きずられるように、ずるずると床にへたり込む。
突然のことに呆然とするも、体を包み込む腕がカタカタと震えていることに気づき、息を呑んだ。

「良かった…!! アニーに嫌われたらどうしようと、怖くて怖くて、生きた心地がしませんでした…っ!」
「ッ…」

深い深い安堵の色に染まった言葉。
微かに震えている声は、少しだけ泣いていて、その感情につられるように、目頭がじわりと熱を帯びた。

「ごめんなさい! 私の我が儘でアニーを怖がらせて、困らせてごめんなさい…! 悲しい思いをさせて、本当に本当に、ごめんなさい…!」
「んぅ…!」

後悔の念が詰まった逼迫した声は、聞いているだけで胸が苦しくて、ふるふると首を横に振るのが精一杯だった。

「イヴ…、お願い、あやまらないで…っ」
「いいえ、アニー、私は───」
「やだ! もう、あやまんないで…!」
「アニー…」

言葉と体温から、彼の困惑と戸惑いが伝わる。
それでも、これ以上苦しくなるような言葉を聞きたくなくて、言ってほしくなくて、緩んでしまった腕をもう一度イヴァニエの背に回すと、甘えて縋るようにその身を抱き締めた。

「いっぱい、心配してくれて、ありがとう…! 大好き…っ、大好きだよ、イヴ…!」
「……私も、愛しています、アニー」

互いに「ごめんなさい」という言葉を飲み込むと、ただ相手への愛情だけを込めた抱擁を交わした。
長い腕に包まれたまま、深く息を吸い込めば、胸いっぱいにイヴァニエの香りが広がり、全身を満たす安心感に、また涙が溢れた。

「ふ、う…っ」
「アニー?」
「……イヴ…」
「はい」
「うぅ~っ」
「ああ、アニー、そんなに泣かないで」

名を呼べば、返事が返ってくる。
そんなささやかな当たり前が嬉しくて、イヴァニエの表情が柔らかくなったことが嬉しくて、涙を拭ってくれる指先が愛しくて…緊張の糸がふつりと切れたように、瞳からはゆるゆると涙が零れ続けた。

「イヴ…、イヴ…!」
「はい、アニー」

気を抜くと、「ごめんね」と言ってしまいそうで、それを堪えるようにイヴァニエの名を呼ぶ。
返ってくる声は優しくて、それに甘えるように、何度も何度も、彼の名を呼び続けた。




「仲直りは済んだか?」
「ええ。アニーが寛大なおかげで、生き長らえました」
「アドニス様、床に座ったままでは、お体を痛めてしまいます」

暫くして、ルカーシュカとエルダが様子を見に来てくれた。
三人の仲が変わってしまわないか、少しだけ心配だったが、二人のイヴァニエに対する態度は変わらず、一日ぶりに戻ってきた穏やかな空気に、堪らず頬が緩んだ。

まだ全部の事柄が、解決した訳じゃない。
それでも、イヴァニエとルカーシュカ、エルダが側にいるいつもの日常が戻ってきたことが、今はただ嬉しかった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

バース系SS作品集

BL / 完結 24h.ポイント:418pt お気に入り:15

liberation

BL / 完結 24h.ポイント:1,050pt お気に入り:4

スパダリαは、番を囲う

BL / 連載中 24h.ポイント:71pt お気に入り:627

わたしはただの道具だったということですね。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:6,695pt お気に入り:4,209

利用されるだけの人生に、さよならを。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,533pt お気に入り:5,271

魔法の姫と世紀末世界のストレンジャー

SF / 連載中 24h.ポイント:617pt お気に入り:129

嘘つきな唇〜もう貴方のことは必要ありません〜

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:43,233pt お気に入り:5,362

【R18】そんなお願いは叶えられない……はずなのに!

恋愛 / 完結 24h.ポイント:795pt お気に入り:51

犬猿の仲の他国の将軍は敵国王を娶りたい

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:152

いつか殺し合う君と紡ぐ恋物語

BL / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:69

処理中です...