天使様の愛し子

東雲

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プティ・フレールの愛し子

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そよ風が頬を撫でる真昼の空の下、キラキラと零れ落ちる木漏れ日を見上げ、目を細めた。
落ちた光が風にそよぐ真白い草に反射し、オーロラのような輝きが足元でゆらゆらと波打つ。
上から下から降り注ぐ光の粒は、まるで宝石箱の中にいるような美しさで、ほぅ…と感嘆の溜め息が零れた。

「あゔぁ~」
「キラキラしてるね」
「あ、あ!」
「あ…ちょっと待ってね」

…が、そんな幻想的な美しさも、赤子達の前では魅力も半減してしまうらしい。

「あ~」
「あーん」

「早く、早く」と言うように、小さな口を大きく開ける姿にクスリとしつつ、手元の小瓶から赤ん坊用のミルクの花を取り出すと、可愛らしい小さな舌の上にコロリと転がした。



イヴァニエ、ルカーシュカ、エルダに、奥の宮への訪問や、他の天使との交流について自身の望みを伝えてから早五日。
今日は、自分の希望と彼らの要望をバルドル神に報告する為、朝から三人とも出掛けていた。

その予定を告げられたのは、朝の身支度を整え、毎朝の食事であるミルクを飲んでいる時のことだった。
突然の予定に目を瞬きつつも、当然、自分も一緒に行くのだろうと思って了承の返事をすれば、なぜかそれについては首を横に振られてしまった。
「これは俺達の我が儘だから」と、やんわりと断られ、「いってきます」と告げる彼らを見送ってから一刻。
留守番を任された赤ん坊達と共に、庭先で日向ぼっこをしながら、皆の帰りを待っていた。

「ん~ば」
「ふふ、楽しいね」
「えぶ」

柔らかな芝生の上に寝転がり、コロコロと体を揺らして楽しげに笑う赤子に、自然と笑みが零れる。
三人を見送った後、どことなくガランとした部屋の中にいるのが寂しくて、赤子達を誘い、こそりと庭に出た。
エルダが用意してくれたミルクの花や、腕いっぱいのクッション、赤子用の小さなラグを持ち出すと、白い花木の根本にそれらを並べた。
エルダがいつもそうしてくれているように、綺麗に整えることはできなかったが、真似てみるだけで楽しくて、赤子達と一緒になって、あちこちにクッションを置いた。
そうして出来た小さな遊び場で、一緒にミルクの花を食べたり、ブランコを揺らしたり、赤ん坊達が遊ぶ様子を眺めながら、まったりと流れる時間を過ごしていた。

「あ~」
「気持ちいいねぇ」

時折り吹く風が、服の裾を優しく撫でていく。
開けたままの窓辺では、薄絹のカーテンが波打つように揺れ、風と遊んでいた。
どこか懐かしいその姿に、ほんの少しだけ哀愁が顔を出すも、元気な赤子達の笑い声に、物悲しさは瞬く間に姿を消した。

「うーぁ?」
「…エルダ達は、バルドル様の所へ行ってるよ」
「にゃ?」

首を傾げる赤子の頬を撫でつつ、庭先から見える部屋の扉にチラリと視線を送った。

(…お話し、どうなったかな)

実のところ、あれから彼らが何を話し合い、それをバルドル神にどう伝えるのか、何も知らないのだ。自分の『ご飯』を作っているという大天使についても、それ以上のことはまだ教えてもらっていない。
ルカーシュカ曰く「バルドル様とお話しして、了承をもらえたらちゃんと話すよ」とのことだったが、どんな話しをするのか、無事に了承がもらえるのか、気になって仕方なかった。

(お願い、聞いてもらえるといいな…)

これまでもバルドル神には多くの我が儘を言ってしまったが、今回はそれの比ではないだろう。
困った子だと思われていそうで心苦しいが、それでも、皆に安心して送り出してもらう為に、もう少しだけ、我が儘を許してほしいと願ってしまう。
もしも万が一、彼らの要望が却下されてしまったら、その時は、自分からもバルドル神に願ってみようか───そんなことを考えながら、庭先の一点を見つめていると、くんっと服の端を引っ張られた。

「ん…、なぁに?」
「ぷあ、う?」
「…色々、お話ししてくるんだって。バルドル様のお庭に行くのに…」

と、そこまで言いかけて、はたとあることを思い出した。

(そういえば、みんなにまだ、バルドル様の所へ行けるようになったこと、言ってないや)

一度伝えようとして、そのままだったことを思い出し、思わず「あ」と声が漏れた。
言おうか言うまいか…一瞬迷いつつ、すぐに「大丈夫かな?」という方向に思考が傾く。
ルカーシュカ達は、今正にその件でバルドル神の元を訪ねている訳だが、色々ありつつも賛成はしてもらえたはずだ。
恐らく、もう伝えても大丈夫…と頷きながら、周囲で遊ぶ赤子達に声を掛けた。

「みんな、ちょっとだけ、お話ししてもいい?」
「あーぃ」
「だぃ」

「なぁに?」という顔で集まってくる赤ん坊達に少しでも近づくように、地面に座ったまま身を屈めると、こちらを見つめる愛らしい顔をぐるりと見回し、口を開いた。

「みんなは、バルドル様のお庭…えっと…奥の宮って、知ってる?」
「あ!」
「う!」

手を上げたり、大きく頷いたり、それぞれの表現で「知ってるー」と答える姿を微笑ましく思いながら、言葉を続けた。

「今度から、私も奥の宮に行けるようになったんだよ」
「う?」
「バルドル様が、遊びにおいでって、言って下さったの。だから、えっと、みんなと一緒に、バルドル様のお庭に、遊びに行けるんだよ」

と言っても、遊びに行けるのはもう少し先になりそうだが…と、迷いから言葉を区切った、その時だ。

「ぶあー!」
「うゃー!」
「わっ…」

突如、「きゃあー!」とはしゃぐ声が上がり、ビクリと肩が跳ねた。
突然上がった大きな声に目を瞬くも、満面の笑みを浮かべ、パチパチと手を叩いたり、跳ねるように体を揺らす赤子達は、皆一様に喜びを露わにしていた。
その姿に、驚きから飛び跳ねていた心臓がじんわりと熱を帯び、ゆっくりと凪いでいくのが分かった。

「……一緒に遊びに行けるの、嬉しい?」
「う!」
「んふぅ」
「…ありがとう。私も、嬉しい」

ほにゃほにゃと笑いながら、『嬉しい』と全身で表現する小さな天使達に、瞳の奥が熱くなる。
赤子達と遊べる場所が増えるのは勿論嬉しい。だがそれ以上に、自分が思っていたよりもずっとずっと、共に過ごせる場所が増えたことを喜んでくれることが嬉しくて、込み上げた感情に喉が詰まった。

「えぅ?」
「……うぅん、大丈夫だよ。…遊びに行くの、楽しみだね」
「ん!」

こっくんと大きく頷く姿に、へにゃりと頬が崩れた。
いつも、どんな時も、変わることなく側にいてくれる小さな天使達。自分に向けられた純粋な愛情は、いつだって温かくて、愛しくて、泣きたくて堪らない気持ちにさせるのだ。
今にも溢れてしまいそうな情を噛み締めるように、肺いっぱいに空気を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。

「…すぐには行けないけど、遊びに行く時は、みんなで一緒に行こうね」
「だ!」
「あぃ!」
「ふふ、約束ね」

よほど楽しみなのか、きゃいきゃいとはしゃぐ赤子達の笑い声が、小さな庭に木霊する。…と、膝の上にぐりぐりと額を押し付けていた子が、パッと顔を上げ、おもむろに庭を囲う手摺りの向こう側を指差した。

「あぅあ?」
「……え?」


───お外には行かないの?


瞬間的に伝わったその問いに、ドキリとする。
なぜ今、その質問をされたのか…赤子の真意も分からぬまま、唐突な問い掛けに動揺しながらも、赤ん坊が指差した先にチラリと視線を送った。

(…外、に…)

その先に行ってはいけないというしがらみは、もう無い。
どこへ行くのも自由で、部屋に閉じこもっていなければいけない理由も、罰も、もう無い。
それなのに、怖くないと分かっているのに、怖気付いて、ただ外に出ないだけ───たったそれだけの理由で、安全地帯から出ようとしないことを改めて自覚してしまい、後ろめたさから視線が彷徨った。

「えっと…」

正直に答えていいものか…それ以外の理由もないのに、言葉を探すように膝の上に置いた手をもじもじと遊ばせていると、その指先に小さな手の平が重なった。

「だ」
「あーゃ」
「あ…」

ふにふにとした柔い手が、自身の指を掴む。
そのまま薄い羽根を羽ばたかせ、小さな体を浮かせると、赤子がクンッと手を引いた。

「あ、ま、まって…」

お外に行こう───そう言って誘うように手を引く赤子に焦るも、ふと蘇ったいつかの記憶と指先の温もりが重なり、ハッと息を呑んだ。

(……そうだ。いつか、お外に行こうって…約束したんだ…)

色褪せぬ、苦しくも愛しい、懐かしい記憶。
部屋の外に出ることを禁じられ、空っぽな部屋の中で、ただ息をしているだけだったあの頃。
孤独だけを詰め込んだ日々の中で、突如現れた奇跡のような子達と、自分は約束をしたのだ。


『いつか、外に出て、みんなと遊べたらいいね』


本当は、『いつか』なんて未来、ほんの少しも見えなかった。
明日の約束を交わすことすら、怖かった。
叶わぬ夢を描くように、祈るように、ただ『そうあったらいいな』と願うだけだったあの頃───その『いつか』の上に、自分は今いるのだと気づき、心臓が震えるように脈打った。

「あ~」
「っ……」

手を引っ張る力は、さして強くない。それでも、あまりにも気づくのが遅すぎた感動に、動揺から動きの鈍った頭と体は、弱い力に抗うことも忘れ、蹌踉めきながら立ち上がる。
そうして手を引かれるまま、よたよたと歩き出せば、記憶の奥底に大事にしまっていた思い出が蘇り、堪らず背後を振り返った。

(……あの頃と、全然、ちがう…)

冷たく硬い石造りのバルコニーは、柔らかな草が生い茂る、暖かな庭に生まれ変わった。
月明かりの下、赤子達と過ごすささやかな密会は、太陽の下で、いつだって自由に遊べる日常になった。
知らない誰かに怯え、物陰に隠れるように、バルコニーの隅で蹲っている必要もない。
陽の光の下に出ることを恐れ、星明かりだけを眺めながら、息を殺すように夜を過ごすこともない。

「…っ」

悲しい、苦しい、寂しいと、蹲って泣いていた過去の亡霊すら、優しく包み込むような『今』が、視界いっぱいに広がっている───ずっと前から知っていたはずなのに、何度も何度も腹の底から込み上げる幸福感で胸が苦しくて、唇をぐっと噛み締めると、零れそうになる幸せをそっと瞼の内側に閉じ込めた。

「えう?」
「うゃ?」
「……うぅん、少し…」

続く言葉が見つからず、口を噤む。
懐かしいと思い出に浸るには苦しく、忘れてしまいたいと願うには手放し難い記憶をなんと呼ぼう。
形容し難い感情で胸がいっぱいになりながら、視線を赤子達に戻せば、それを待っていたかのように、再び手を引かれた。
手を引く温もりも、楽しそうに笑う赤子も、戸惑いながら一歩一歩進む足取りも、全部あの頃と同じなのに、ドキドキと鼓動する心臓の音だけは違っていた。

そうこうしている内に、他の子達も「お外に行くの?」「お外で遊ぶの?」と周りを飛び始め、気づけば庭と外との境界線である手摺りの前に立っていた。
そのまま視線を外に向ければ、見慣れたはずの、それでいて、どこまでも見知らぬ景色が広がっていた。

(……初めて、お外に出たのは…夜だったっけ…)

初めて踏み締めた大地の感触は、今もまだ鮮明に覚えている。その直後に抱いた恐怖と、動揺も。
それでも、あの頃と違って怯えずにいられるのは、もう外に出て咎められることも、敵意や悪意を向けられることもないと知っているからだろう。

「あにゃ」
「だ!」
「あ…ま、まって…今、お外には、出られないよ?」
「なんな?」

手摺りを乗り越えんばかりの勢いで手を引く子達を止めれば、「どうして?」と揃って首を傾げられてしまった。

「エルダ達も、いないし…えっと…帰ってきて、みんな、いなくなってたら、イヴもルカも、びっくりしちゃうでしょ…?」
「だう、だ!」
「あぅやー」
「あ、えっと…」

「遠くにいかないよ!」と言う子を援護するように、「ボクたちがここで待っててあげる」と、庭で遊んでいると言う子に分かれ、いよいよ返答に困る。

(どうしよう…)

「三人が戻ってきてから遊びに行こう」と言うのはきっと簡単だ。でも、「ん!」と懸命に庭の外を指差す子達にそれを言ったら落ち込んでしまいそうで、どうしても言葉にするのは憚られた。

(そんなに、お外に行きたかったのかな…?)

もしや、ずっと外に行きたいと言えず、我慢させていたのでは…そう思うと、尚のこと「後でね」とは言えず、視線が部屋の扉と手摺りの向こう側を行ったり来たりしてしまう。
ここでタイミング良く三人が帰ってきてくれたなら良かったのだが…生憎と、閉じられた扉が開く気配はなかった。

「…ぷ」
「あ…」

困惑が伝わったのか、薄い眉をへにょりと下げて悄気る赤ん坊に、キュウッと胸が締め付けられた。

(だめ…!)

そんな顔をしないで───咄嗟に浮かんだ願いはなによりも切実で、あれこれと考えるよりも早く、唇は動いていた。


「お、お外、行こっか…!」


直後、一瞬だけ「言ってしまった…!」という感情が押し寄せるも、悄気ていた顔をパァッと輝かせ、コクコクと嬉しそうに頷く赤子達を前に、後ろ向きな感情はあっという間に霧散する。

「あ、でも、えっと、下に、降りるだけだよ? 遠くには、行かないよ…?」
「ん!」
「…それでも、いいの?」
「ん!」

(…いいんだ)

こっくんと力強く頷く赤子に、首を捻る。
外に出ることだけが目的なのか、不思議に思いながらも、そろりと手摺りの下を見下ろし、次いで空を見上げた。
空を自由に飛ぶ天使達彼らに対してこんな心配をしても、意味はないのだけれど…と、そこまで考え、ふるりとかぶりを振った。

(…違う。もう、大天使様も、怖くないんだから…)

外に出ても、もう誰も怒らない。嫌な顔もしない。もしかしたら、多少は驚かれるかもしれないけれど、きっとそれだけだ。

(……大丈夫)

そう自分自身に言い聞かせ、グッと気合いを入れると、指先を握る赤子達を見つめた。

「…お願い、してもいい?」
「う!」
「みんなは、エルダ達が戻ってきたら、下にいるよって、教えてあげてね?」
「あぃ!」

元気な返事が双方から返ってきた直後、ふわりと体が浮き、地面から足が離れた。
久方ぶりに感じる浮遊感は、イヴァニエやルカーシュカ、エルダとは違う、赤子特有の不安定さだが、今は風に漂うような飛び方さえ懐かしくて、自然と頬が綻んだ。
そうしてふわふわと浮いた体は、手摺りを越え、ゆっくりと地面に向かって降りていく。

(…この感じも、久しぶりだ)

あの頃は、少し怖いと思っていた体が落ちていくような感覚も、今は擽ったく感じるだけだ。
そうこうしている内に、ぐんぐんと地面が近づき、やがて柔らかな草が、足の裏をカサリ…と撫でた。

「わ…と…」

大地の上に自分の体重を乗せれば、ふわふわと揺れるような浮遊感の名残りから足元がふらつく。それを支えるように、手を繋いだままの赤ん坊達が、指先をぎゅっと握ってくれた。

「ありがとう。もう大丈夫だよ」
「んぁ」
「あ~!」
「…そうだね。久しぶりの、お外だね」

ドキドキと鳴る胸を押さえつつ、気持ちを落ち着けるように深呼吸をすると、ゆっくりと息を吐き出した。
ぎこちなく立つ頼りない二本の足に力を入れ、そっと一歩を踏み出せば、命の湖に向かって歩いたあの日の記憶が蘇った。

(…そういえば、外を歩いたのは、あの日が最後だったっけ)

あれから、どれほどの月日が流れたのだろう。
長いようで短いような記憶を辿りながら、柔らかな大地を踏み締めるように歩めば、赤子達が楽しそうに周囲を飛び回り始めた。

「んふぅ~」
「…楽しいね」
「あーや!」

ふわふわと飛ぶ子達の声に混じり、頭上からも愛らしい声が降ってくる。
見上げれば、手摺りから身を乗りだしながら、ブンブンと手を振る子達が見え、思わず笑みが零れた。
手を振り返せば、きゃあきゃあとはしゃぐ声が返ってくる。それだけで、緊張で強張っていた体から力が抜け、ふっと気持ちが緩んだ。

「…今日は、ここまでにしようね」
「う!」

降り立った場所から、ほんの数十歩だけ歩いた所で足を止めた。緊張が解けたとはいえ、遠くへ行く勇気はまだない。
それでも、すぐに戻るのは勿体なくて、なんとなくその場に座り込めば、周りを飛んでいた子達が目を輝かせながら地面に寝転がり始めた。

「にゃーにゃ」
「ふふ、楽しい…ね…」

コロコロと寝そべる赤子に瞳を細めた瞬間、ある思い出がふっと脳裏に浮かび上がった。

怯えながら、こっそりと抜け出した夜の世界。
そこで今と同じように、大地に寝転ぶ赤子達と共に空を見上げたあの夜。
広い広い天鵞絨ビロードの夜空には、満天の星が煌めき、生まれて初めて見たその美しさに、感動で胸がいっぱいになった、色鮮やかな記憶。
そんな過去と今が重なり、記憶に誘われるように暖かな大地を見つめると、ゆっくりとその上に寝転んだ。

(……ああ、どうしよう…)


───泣きそうだ。


目の前に広がる澄んだ青空も、背中から伝わる大地の温もりも、あの夜のそれとはまったく違う。
それなのに、何故だか無性に懐かしくて、どうしようもないほど胸が膨らんで、泣きたくて堪らない気持ちになった。

「……はぁ…」

涙の雫が零れるのを我慢するように、大きく息を吸い込むと、胸が詰まるような感情を震える息と共に吐き出した。

あの頃を振り返ると、悲しくなることもたくさん思い出してしまう。
それでも、忘れたくないと願うのは、その裏側にあった喜びや幸せまで一緒に手放してしまうようで、怖かったからかもしれない。

(……忘れない)

誰に誓うでもなく、透き通る青空を見上げ、こいねがう。

(……忘れないよ)

ずっとずっと、忘れない───過去を慈しむように、思い出を愛するように、空の青さに眩む瞼を、そっと閉じた。



「うにっ」
「あぶ」

感傷に浸る間もなく、赤子達に体を揺さぶられ、ハッと意識が現実に戻ってくる。
腹部や腕に小さな額をぐりぐりと押しつけ、ふにゃふにゃと笑う様子はあの頃と一緒で、なんとも愛らしい。
その楽しそうな表情が妙に満足気なことに気づき、ふとある考えが浮かんだ。

(…もしかして、あの夜と同じことがしたかったのかな?)

自分と赤子達だけで過ごした、幸せな夜の思い出。
『いつか』の約束を覚えてくれていたように、初めて外に出たあの夜のことも、赤子達はきっとずっと覚えていてくれたのだろう。
あれほど強く「外に行こう」と誘ったのも、もしかしたら、この時間の為だったのかもしれない───…

「…楽しいね」
「だぃ!」
「ふふ」

本当のことは、赤ん坊達にしか分からない。
ただ今は、楽しそうに笑う愛しい子達と過ごす時間が懐かしくて、大地に寝転がっているだけで嬉しくて、部屋の外に出ている緊張も忘れて、共に笑い合った。





「「アニー!!」」
「アドニス様!!」
「ふあっ!?」

突如響いた自身の名を呼ぶ大きな声に、ビクンッと体が跳ねた。一瞬、何が起こったのか分からず、真っ白になった頭のまま、ぱちぱちと目を瞬く。

(…あ……お外に、出てたんだ…)

見慣れない風景が広がっていることに頭が追いつかず、混乱するも、すぐに状況を思い出し、一気に目が覚めた。
どうやら、ぽかぽかとした陽気に当てられ、いつの間にか微睡んでいたらしい。
見上げた視界の中、焦った様子で庭の手摺りを乗り越える三人の姿が見え、慌てて上体を起こした。

「……あれ?」

と、そこでようやく自分を取り囲むように眠る赤ん坊達の存在に気づき、目を見開いた。

(…増えてる?)

眠ってしまう前、庭で一緒に遊んでいたのは六人の赤ん坊達だ。
その内の三人が共に部屋の外に出て、もう三人は庭に残っていてもらったはずなのだが、なぜか元いた六人の倍以上の赤子達がみっちりと周りに寄り添い、気持ち良さそうに眠っていた。
一体いつの間に増えたのか…赤ん坊に周りを固められ、身動きが取れないままオロオロしている間に、イヴァニエ、ルカーシュカ、エルダが地面に着地し、小走りで駆けてきた。

「アニー! ……無事ですか?」
「う、うん…」

側に来たイヴァニエが、眠る赤子達を見回し、声量を落とす。
そのまま差し伸べられた手を取り、ゆっくりと立ち上がると、赤ん坊達を起こさぬ様、輪の中から慎重に抜け出した。
幸い、誰も目を覚ますことはなく、ホッと息を吐けば、それと同時に伸びてきた腕に左右からキツく抱き締められ、その力強さに心臓がキュッと縮こまった。

「ッ…」
「ああ、良かった…! 倒れてるのかと思いましたよ」
「そっちも驚いたが、部屋に戻ったら誰もいないんだからな。…流石に焦ったぞ」
「ご、ごめんなさい…」

安堵を滲ませた溜め息に、思わず声が震えた。
勝手に外に出てしまった後ろめたさと、心配させてしまった申し訳なさから、二人の腕の中で縮こまっていると、目の前に立ったエルダに片手を取られ、包み込むようにそっと握った。

「本当に、何事なくて良うございました」
「…エルダも、心配させて、ごめんね」

心底ホッとしたという顔で微笑まれ、申し訳なさに拍車が掛かる。
部屋から出る前、庭に残ってくれた子達にはエルダ達への伝言を頼んだが、本当はすぐに戻るつもりだったのだ。
皆が帰ってくる前に戻れば大丈夫───そんな安易な考えで外に出てしまい、あまつさえうたた寝をしてしまった結果、彼らに余計な心配をさせてしまった。

「…みんな、いないのに、黙ってお部屋から出て、ごめんね…」
「…そうだな。心配になるから、これからは一声掛けてからお出掛けしような」

微笑むルカーシュカの表情は優しげだが、その声は硬く、一体どれだけ心配させてしまったのだろうと猛省する。

「心配させて、ごめんなさい…」
「アニー、そんな泣きそうなお顔をしないで下さい。私も、ルカーシュカもエルダも、少し驚いてしまっただけですから、大丈夫ですよ。…それより、お外に出て大丈夫ですか? 怖くありませんか?」
「えっと…みんなと、一緒だったから…」

そう言いながら、すやすやと気持ち良さそうに寝る赤子達に視線を送れば、イヴァニエが苦笑気味に笑った。

「…これだけ厳重に守られていれば、安心ですね」
「ん?」
「いえ。…プティと一緒でも心配ですから、次からは気をつけましょうね」
「はい」
「うん、良い子」

目尻にイヴァニエの唇が触れ、それと同時に体を締め付けていた腕の力が弱まる。
柔らかで温かな唇の感触は優しくて、力んでいた体からゆるりと力が抜けた。

「ひとまず、部屋に戻ろうか。バルドル様とお話しした件の報告もしたいし……プティ達にはこのまま外で遊んでてもらおうな」
「ん…!」

それから、眠る赤ん坊達を皆で手分けして起こすと、起こしてしまったことを詫びつつ、少しの間、外で遊んでてもらいたいとお願いした。
いつも話し合いをしている間は部屋に入れないことを知っている赤子達は、「いいよ~」と言うように頷くと、「またあとでね」と手を振りながら方々へと飛んでいった。
眠たげな目を擦りながらも、楽しげに、嬉しげに、ぽやぽやと飛んでいく小さな天使達を見送り、瞳を細める。
『またあとで』が当たり前になった幸せを噛み締めながら手を振り返すと、三人と共に、白い大地から飛び立った。





「ひとまず、最低限の希望については許可して頂けたよ」

部屋に戻り、ルカーシュカとイヴァニエと並んでソファーに座ると、ルカーシュカが口を開いた。
曰く、バルドル神に願ったのは二つ。
一つ目は、自分が奥の宮に出入りしてる間、助けを求めるような事態が起こった場合に限り、奥の宮へと立ち入ることができるよう、事前に許可を頂くこと。
二つ目は、オリヴィアの能力を使い、自分が奥の宮で行動してる間の風景と声を、待機しているエルダに届けること。
そのどちらも、バルドル神から許しがもらえたようで、ホッと胸を撫で下ろした。
ただ、赤ん坊達が遊び場として自由に出入りする場所で、果たして助けを求めるようなことが起こるのか…小さな疑問は残ったが、きっと必要なことなのだろう、と口を噤んだ。

(もしも閉じ込められちゃったら、大変だもの)

うんうん、と納得しながら、それよりも気になった点についてエルダに尋ねた。

「あの、オリヴィアの能力で、エルダに風景…? を伝えるっていうのは、どういうこと…?」
「アドニス様が奥の宮に向かわれている間、私はバルドル様の私室にてお待ちしております。そちらに、アドニス様がご覧になられている風景と声を届けてもらうよう、お願いしたのです」
「…届けられるの?」

どういう状況か分からず首を傾げれば、エルダが何かに気づいたように「あ」と声を漏らした。

「そういえば、アドニス様はオリヴィアの能力について、まだご存知ではなかったですね」
「オリヴィアの能力?」
「オリヴィアも特異体質で、彼固有の能力を持っているんです。アドニス様も何度かご覧になられたことがございますが…実際に目にされた時に、改めてご説明しますね」
「…オリヴィアも、赤ちゃんになれるの?」
「いえ、彼の能力はもっと特殊なものですよ」
「はぇ…」

エルダの能力もだいぶ特殊だと思うが…と思考を逸らしていると、それを引き戻すように、指先にルカーシュカの指が絡んだ。

「バルドル様に願ったのはそれだけだ。あと、これは俺達からのお願いなんだが、腕輪と同じように加護を付与した耳飾りを贈るから、できればそれも毎日身につけてほしい」
「ん、分かった」
「それと、オリヴィアと一緒に行くことを考えても、予め奥の宮に行く日を決めておいた方がいいと思うんだ。この日に行く、と決めておけば、オリヴィアも予定を調整しやすいだろうし、俺達も都合をつけやすいからな」
「うん」
「…色々言ってごめんな。俺達で勝手に決めたことだから、アニーが嫌だと思ったことは、遠慮なく嫌だって言ってくれ」
「ヤなことないよ。みんなが、安心できることなら、全部してほしい」

表情を曇らせるルカーシュカに、ふるふると首を振る。
三人の心配や不安に対して、自分にできることは少ない。ならばせめて、彼らの『こうしたら安心できる』という願いは、できる限り叶えたいのだ。

「他には、大丈夫? もっと、自分にできること、ある?」

三人の顔をそれぞれ見回し「なんでも言って!」と少しだけ胸を張ってみせる。
いつも与えてもらうばかりで、自分から彼らに返せたものなどほとんど無いのだ。自分にできることがあるならば、なんでもしたい───そんな期待を込めて三人を見回せば、イヴァニエ、ルカーシュカ、エルダが、チラリと互いに目配せをしたのが分かった。

「…? 何か、あった?」

含みのある視線を追うように、左右に首を振る───と、次の瞬間、イヴァニエとルカーシュカがおもむろに席を立ち、足元に膝をついた。

「…へ?」

二人の突然の行動に、反応が遅れた。ポカンとしている間に、膝に置いていた両手を、ルカーシュカとイヴァニエの手がそれぞれ包み込む。
何が始まるのか分からず、オロオロしながら視線を彷徨わせれば、傍らに立つエルダと目が合った。

「エル…」
「大丈夫ですよ、アドニス様。お二人から、アドニス様へ、大事なお話しがあるのです」

まるでこうなることが分かっていたかのような穏やかな声に見守られながら、こちらを見上げるブルージルコンと黒水晶の瞳を見つめ返した。

「う、と…」
「アニー」
「は、はいっ」
「そんなに緊張しなくても、大丈夫ですよ」

真剣な声音に、反射的に背筋が伸びるも、ふっと表情を和らげた二人に、すぐに体から緊張が抜けていく。

「アニーも、俺達の心配をしてくれたんだな」
「…うん」
「ありがとう。アニーに想ってもらえて、すごく嬉しいよ。…実は、俺達から…俺達の為に、アニーにお願いしたいことがあるんだ」
「…なぁに?」

“俺達の為”と強調された願いとは、一体なんだろう?
そんな風に願われたのは初めてで、ほんの少しだけ胸の鼓動が速くなる。
緊張感によく似た高揚感を秘めながら、彼らから視線を逸らさぬよう、宝石のような瞳をじっと見つめ返すと、繋いだ指先をきゅっと握り返した。

「これまで、アニーと私達は、恋人として何度も肌を重ねてきましたね」
「…うん」

肌を重ねる───それは性的な交わりを指す言葉だ。
思わぬ発言に内心驚きつつ、コクリと頷けば、イヴァニエが仄かに笑みを深くした。

「アニーと心も体も通わせることができて、私も、ルカーシュカも、本当に嬉しく、幸せに思います。……でもまだ、、交わったことはありませんね?」

何かを確かめるように、静かに呟かれた一言。
刹那、その後に続く言葉を悟った唇から「あ」と小さな声が漏れた。



「アニー、私達からのお願いです。これから迎える多くの出会いの前に、互いに想い合う者としての契りと証を、私達と結んで下さいませんか?」



優しい微笑みと、柔らかな声───それと相反するような激情と熱を孕んだ眼差しに、心臓がドクリと大きく脈打った。










--------------------
お久しぶりです。東雲です。
この度は個人的な事情で更新が遅れに遅れ、本当に本当に申し訳ございませんでした!
先月で3周年を迎えた本作ですが、せっかくの記念日も何もできず、無念極まりなかったのですが、いつもお読み頂いている皆様への感謝の気持ちと喜びだけは当日噛み締めておりました…!
いつも『天使様の愛し子』をお読み頂き、本当にありがとうございます!
なんのお詫びにもなりませんが、過去にツイッターに投稿していたifルートアドニスくんのイラストと、if時空妄想をそっと置いていきたいと思いますoyz






●ベビーアドニスくん●
もしもアドニスくんが母提樹から生まれてたらifルート。
本来なら昼間に母提樹の花から生まれる純天使だが、なぜか真夜中に生まれ、翼が欠如していた為に生まれた直後に落下して怪我を負う。
痛くて真っ暗で誰もいなくて、必死に泣き叫ぶも、夜中だったせいで誰にも気づいてもらえず、独りで一夜を過ごす。
一晩中、喉が裂けるほど泣くも、自己治癒ができず衰弱から瀕死状態に。
偶然通りかかったイヴァニエ、ルカーシュカの両名に発見され、すぐさま癒やされ、緊急事態としてバルドル神の元へと連れていかれる。
…というのが、ifルートアドニスくんの誕生話です。
パッパや天使達に目一杯愛情を注がれて、ちょっとずつ元気になります。
おしゃぶりはGPS的なアレ。バルドル様の広いお部屋のどこにいてもすぐに見つけてもらえるので、寂しん坊のベビニスくんはご満悦です。


●アドニスちゃん●
ベビニスくんから成長したifルートアドニスくん。
ベビニスくんは人間の赤ちゃんとほぼ同じ存在で、アドニスちゃんまで成長してようやく純天使と同等の能力を得る。
お話しはできるけど、難しいことはイマイチ分からない。舌ったらずで単語会話しかできないけど、一生懸命お喋りする子。
ベビニスくんの頃より行動範囲が広がって、バルドル様のお部屋にいないこともしばしば。パッパは少し寂しい。
アドニスちゃんのまま大きくなると5000%パッパに召し上げられてしまうので、アドニスちゃんはこれ以上成長しません。

本編とは別世界のベビニスくんとアドニスちゃん妄想でした。
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