あなたに幸福な夢を

在ル在リ

文字の大きさ
1 / 2

前編

しおりを挟む
 ミスティアは夫のノードレッドと、町外れの小さな家でひっそり暮らしていた。
 毎日三食きちんと食べることができ、特別なことは何もないが穏やかな日々。
 ノードレッドはいつもきちんと同じ時間に帰宅して、ミスティアを安心させる良い夫だ。

「ただいま戻りました。ミスティア様、ご不便はありませんでしたか?」

 ノードレッドが丁寧に帰宅を告げた。
 伸びてきた黒髪を切ってやる技量もないミスティアは、ようやく覚えた拙い三編みを毎朝夫のために甲斐甲斐しく結っている。
 その三編みが解けることなくノードレッドの肩に下がっているのを確認してほっとした。

「お帰りなさいノードレッド。何も変わりないわ。これから夕食の支度をするわね」
「では、私も一緒に」

 ミスティアは料理が下手だ。それどころか家事一つまともにできなかった。
 そんな彼女に料理や洗濯のコツを教えたのはノードレッドだった。

 温室で育ったようなお嬢様のミスティアは幼い頃から仲の良かった使用人の息子、ノードレッドと恋仲になったが両親に認めてもらえず、駆け落ちするように家を出て、名もなき小さな町で二人は結婚した。

 ミスティアが世間知らずでどれほど無知であろうと、ノードレッドは彼女を叱ることはない。
 不自由のない生活を彼女に提供し、穏やかな日々を約束した。彼女が求めるものは全て与えたいと、先回りして用意した。
 ミスティアが成長しないのはノードレッドが招いたことでもある。

「あなたが過保護だから私は料理が上手くならないのかもしれないわ」
「そんなことはありませんよ」

 焼いた肉を切って取り分け、ミスティアの前に皿を置いたノードレッドはふっと柔らかく笑う。
 その笑みには、ノードレッドがこれからも変わらずミスティアに世話を焼くのだという意思が感じられた。

 この食卓には、ミスティアが食べたいと言えばその料理が魔法のように出てくる。
 よく食べていたシェフの味、香り、彩り、全てが再現された数々の料理。
 ノードレッドはミスティアの求めるものを何でも用意できる、完璧な夫だった。

 少しだけドレスが恋しくなった時は、町中で浮かない程度の上品なワンピースを用意してくれて、よく実家で食べていたケーキが食べたいと言えば、同じ味のケーキが出てくる。
 寂しいと言えばノードレッドはどこへも行かず、ずっとミスティアのそばにいた。

 ミスティアにとって完璧な夫でも、不満がないわけではない。
 近所に住む夫婦は互いに名前を呼び合い、対等な関係である。『様』をつけて名を呼ぶ夫婦はいない。
 それに比べてミスティアたちは、夫婦というより主従関係の方が強く感じられた。

 ノードレッドにそう話せば、幼い頃から『ミスティア様』と呼んでいた習慣を変えるのはまだ難しいと困った顔をした。ミスティアが我がままを言うとよく見せるノードレッドの顔だ。そんな顔も愛しく思えた。
 いつか彼が敬称をつけず名を呼んでくれる日が来るのを待ち遠しく思う。

 自分たちのことを誰も知らない遠くの小さな町に二人で暮らし、人目を気にすることなく口づけをする。
 肌に触れて体温を感じ、同じベッドでともに眠る。贅沢などできなくとも愛する人がそばにいればそれでいい。

 たとえ、初めて食べたライ麦パンの味が分からなくとも、彼と抱き合って眠った感触を覚えていなくとも。
 魔法のように食べたい物が出て好きな服が着られるこの日常に、ミスティアは何の疑問も抱かなかった。


 ノードレッドが仕事へ行き、ミスティアは朝の家事を一通り終えた後、日課の散歩に出た。
 いつもどおりの道順で、いつもどおり出会う町の人にいつもの挨拶をして別れ、小さな町を一通り歩いた。

 昨日と同じ道を歩いていた時、何かにぶつかる。
 辺りを見ても何もないが、手を伸ばせばそこに見えない壁があった。
 触れている感触はないのに、見えない壁があって進めない。昨日はこの先へ行けたのに。

 不思議に思ったミスティアは、ノードレッドが魔法でこの向こうへ行けないようにしたのかもしれないと思った。
 彼は危ない所へ行かないよう、いつもミスティアに繰り返し言うのだ。
 心配しすぎだと思うけれど愛されていると感じられ、ミスティアは彼の言いつけをきちんと守っていた。

 夕方にノードレッドが帰宅し、早速見えない壁があったことを話してみると、やはり彼の仕業だった。
 あの道の先で事故があったらしく、ミスティアが近づけないようにしたというのだ。
 相変わらず先回りして危険から遠ざけようとする彼に、過保護過ぎるとミスティアは笑ってしまった。

「些細なことでも危険なことに近づけたくはありません。あなたは私の輝く星だから」
「私が星なの?」
「どんな暗闇でも、正しい道を示してくれる唯一の星なのです」

 彼でも迷うことがあるんだろうかとミスティアは不思議に思った。いつも完璧な人なのに。
 首を傾げるミスティアをノードレッドは愛おしそうに見つめる。彼のその目がミスティアは大好きだった。
 ノードレッドに口づければ彼も同じように応え、抱き締めてくれる。けれど、その感触にはいつも実感がなかった。
 疲れているのかノードレッドの顔色が悪かったため、ミスティアは彼に早く休むよう促した。


 ミスティアの散歩の範囲は徐々に狭まっていた。
 日に日に見えない壁が増え、町の奥まで行くことができない。毎日会っていた近所の人とも会えなくなった。
 そしてノードレッドの体調も悪化していった。

「医師に見てもらいましょう? 私が呼んでくるから」
「ミスティア様、大丈夫です。そんな大げさにしないでください」

 何度医師に見てもらおうと言っても、彼は頑なに大丈夫だと言って拒む。

「ノードレッド、愛しているの……」

 ミスティアが泣きだすと、ノードレッドは蜂蜜色の髪を優しくなでてキスをする。

「私も愛しています。どうか泣かないで……」


 しかし数日後。
 ノードレッドは倒れて動けなくなってしまった。

「ノードレッド! 医師を呼ぶからあの見えない壁を消して……!」

 血の気が失せたノードレッドはそれに答える気はないようで、憂える目でミスティアを見つめる。
 ミスティアは震える手でノードレッドの手を握った。

「お願いよ! すぐに戻ってくるから!」
「も……うしわけ、ござ……ませ……」

 ミスティアの胸が騒ぐ。
 彼の悲痛な声は、いつも聞く声よりも生々しい声だった。
 力ない手が、ミスティアの手を握り返す。

「……最期まで、幸せな夢を……見せてさしあげたかった……」
「ノードレッド」
「私の力が、もう……これ以上持たない、ようです……」
「ノー……ドレッド……?」

 ミスティアの心臓が強く打った。
 鼓動が早くなり、ミスティアの呼吸が浅くなっていく。

 二人の住む小さな家は、思い描いていた理想の家だった。
 自分たちのことを誰も知らない遠くの小さな町は、理想の町だった。
 毎日三食きちんと食べることができ、特別なことは何もないが穏やかな日々。
 愛しい人がそばにいて、政治に利用されることもない、ミスティアの望んでいた日常。

 これらは全て、昔ノードレッドに話したミスティアの夢だった。

 二人の家はいつの間にか、ミスティアがこれまで慣れ親しんだ宮殿の広間に変わっていた。
 荒れた広間には倒れている近衛兵や侍女たち。
 ノードレッドは傷だらけで、片方の目は開いていない。破壊された鎧の隙間からおびただしい血が流れている。

「申しわけ……ございませ……殿、下」

 ノードレッドは、ミスティアの夫ではない。
 王女のミスティアをずっとそばで守ってきた護衛騎士だった。

 魔法を扱う我が国を危険視していた大国に侵略され、王族や臣下、城の者はみな殺されていった。
 ミスティアもその一人。
 斬られた胸から大量の血が流れ、浅い呼吸を繰り返していた。


 初めて護衛騎士に抜擢されたノードレッドに一目で恋したのは、幼い少女の頃だった。
 兄の護衛騎士よりも若く、ノードレッドは凄腕の実力者だと聞いていた。「役目を終えるその時まで、護衛騎士としてお仕えいたします」そう忠誠を誓った彼が、ミスティアには物語の英雄のように気高く尊く感じた。

『わたし、ノードレッドがだいすきなの』
『大変光栄でございます』

 初めは素直に気持ちを伝えていたが、彼は子供の好意としか受け取ってくれなかった。
 成長するにつれ、気持ちを伝えれば彼は困った顔をするようになる。

『あなたも私も、どこか小さな町で生まれた何者でもない、ただの人だったら良かったのに』

 そんなふうに言うミスティアに、忠誠以外の心は持ち得ないとノードレッドははっきり告げた。
 彼を想う気持ちが変わることはなかったが、護衛騎士を代えられてしまうことを恐れて、恋情を言葉にするのは止めた。

 未熟な王女に忠義を尽くし、間違えれば優しく忠言する。
 甘やかしてはくれないが、彼の温かい眼差しに見守られながら、ミスティアは彼と過ごす時間を大切にした。

 十六になって婚約の話が出た時、再びノードレッドに想いを告げたことがある。
 彼は微笑みながら『王女殿下の幸福を願っております』と、決して気持ちに応えることはなかった。
 どんなに想っても叶うことはない。悲しみで染まった心に潰されないようミスティアは笑顔を貼り付け、毅然たる態度でこれまでと同様に接してほしいと彼に願った。
 ノードレッドは護衛騎士として忠誠を誓ったあの日から、ずっと離れることなくそばにいてくれた。
 これまで同様に主従として、彼との距離が縮まることもなかった。


 そんなノードレッドの体に触れたこともなければ、口づけたこともない。
 ずっと恋い焦がれていたミスティアに幸せな夢を、とは――なんと残酷なのだろう。

 ミスティアが事切れるまで幸せな夢を見られるようかけられた魔法は、命の灯火とともに消え失せた。
 冷たいタイルに横たわるノードレッドに手を伸ばす。

「ノード……レッド……っ」

 もう力の入らない体で歯を食いしばり、血の床を少しずつ這ってノードレッドに寄り添った。
 手を伸ばして彼の頬をなでる。
 もう動かない、光のない目。

「あああ……っ、ノードレッド……!」

 彼の耳にこの声はもう届かない。
 まだ温もりのある、愛しい手。
 この手が零れ落ちる涙を拭ってくれることはない。

 夢の中で抱き合って愛を語ったノードレッドはミスティアの思い描いた理想の姿。本当の彼が愛など語るわけがない。
 彼は最期まで、高潔な護衛騎士だった。

 その刹那、左の手のひらに小さな星が宿る。
 王家の血を継ぐ者に現れる後継の証。
 父も、母も、兄も……ミスティア以外の王族は全員亡くなったことを意味した。
 既に落城し、ここにはもう誰もいない。
 後継の星が自身に宿っても、もう何の意味もなかった。

 ミスティアは力なき手でノードレッドを抱く。
 最期に愛しい者をその目に焼き付け、薄れていく意識の中で切に願う。

 どうか――。


 護衛騎士にぴったり寄り添い、そのまま永遠の眠りについた王女のその姿は、愛し合う恋人同士のようであった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

大好きなあなたが「嫌い」と言うから「私もです」と微笑みました。

桗梛葉 (たなは)
恋愛
私はずっと、貴方のことが好きなのです。 でも貴方は私を嫌っています。 だから、私は命を懸けて今日も嘘を吐くのです。 貴方が心置きなく私を嫌っていられるように。 貴方を「嫌い」なのだと告げるのです。

好きでした、さようなら

豆狸
恋愛
「……すまない」 初夜の床で、彼は言いました。 「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」 悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。 なろう様でも公開中です。

王太子殿下との思い出は、泡雪のように消えていく

木風
恋愛
王太子殿下の生誕を祝う夜会。 侯爵令嬢にとって、それは一生に一度の夢。 震える手で差し出された御手を取り、ほんの数分だけ踊った奇跡。 二度目に誘われたとき、心は淡い期待に揺れる。 けれど、その瞳は一度も自分を映さなかった。 殿下の視線の先にいるのは誰よりも美しい、公爵令嬢。 「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」 優しくも残酷なその言葉に、胸の奥で夢が泡雪のように消えていくのを感じた。 ※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」「エブリスタ」にて同時掲載しております。 表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。 ※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。 ©︎泡雪 / 木風 雪乃

【完結】探さないでください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
私は、貴方と共にした一夜を後悔した事はない。 貴方は私に尊いこの子を与えてくれた。 あの一夜を境に、私の環境は正反対に変わってしまった。 冷たく厳しい人々の中から、温かく優しい人々の中へ私は飛び込んだ。 複雑で高級な物に囲まれる暮らしから、質素で簡素な物に囲まれる暮らしへ移ろいだ。 無関心で疎遠な沢山の親族を捨てて、誰よりも私を必要としてくれる尊いこの子だけを選んだ。 風の噂で貴方が私を探しているという話を聞く。 だけど、誰も私が貴方が探している人物とは思わないはず。 今、私は幸せを感じている。 貴方が側にいなくても、私はこの子と生きていける。 だから、、、 もう、、、 私を、、、 探さないでください。

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

【完結】悪役令嬢は何故か婚約破棄されない

miniko
恋愛
平凡な女子高生が乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった。 断罪されて平民に落ちても困らない様に、しっかり手に職つけたり、自立の準備を進める。 家族の為を思うと、出来れば円満に婚約解消をしたいと考え、王子に度々提案するが、王子の反応は思っていたのと違って・・・。 いつの間にやら、王子と悪役令嬢の仲は深まっているみたい。 「僕の心は君だけの物だ」 あれ? どうしてこうなった!? ※物語が本格的に動き出すのは、乙女ゲーム開始後です。 ※ご都合主義の展開があるかもです。 ※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしておりません。本編未読の方はご注意下さい。

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?

おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました! 皆様ありがとうございます。 「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」 眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。 「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」 ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。 ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視 上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

処理中です...