シャボン玉の君に触れる日まで

氷高 ノア

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髪飾り

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 眩しい光が顔に降り掛かって目が覚めた。
 朝がきた。その事に安堵した。また俺は目覚めることができたのだと、自殺未遂から一変してそう思った。
 生きたいわけじゃない。でも、気がついたら死んでいた、なんてことが怖い。俺は結局、弱い人間だった。
 昨日彼女と別れてから、どうしようもなくなった俺は、そのまま玄関から入った。看護師さんたちは最初、優しく事情を聞いてくれたが『散歩に行ってた。湖に近づいたら転んで濡れた』と話すと、鬼の形相で怒られた。俺の担当女医が来てなんとか止めてもらい、その後シャワーを浴びて眠った。
「あら、起きてたの」
 ガラガラとスライド式の扉を開けて入ってきたのは母親。毎朝仕事に行く前に着替えを持ってくる。
「昨日、夜中に散歩に行ったんですって? 一体何の為に入院してるかわかってるの? お願いだから、二度とそんなことしないでね」
 母の真剣な瞳は、苦しさを表に出さないよう、潤いを留めていた。
 俺は何も答えることができなかった。ただ布団を被り直し、目を閉じる。
「……ゆっくり寝て、元気になってね」
 叶うはずのない望みをポツリと口にした母は、荷物を整理して病室から出て行った。
 寝るだけで治るものならずっと寝てるさ。寝たら死ぬかもしれないから、安心して寝られないんだよ。
 今日も生きるために食事をする。今日も生きるために大人しく過ごす。今日も生きるために診察を受ける。変わらぬ結果に落胆し、またベッドに入る。
 そうしてグルグルと時計がまわった。
 夕方、再び扉が開いた。先生かと思ったが違う。
 白いブラウスに紺のネクタイとスカート。後ろで高く結ばれた髪には、紫色の飾りがついていた。
「こんにちは。えっと……片倉聖夜かたくらせいやくんだよね?」
 声を聞いてわかった。昨夜の女だ。その人はゆっくりと近づいて来て、隣の椅子に座る。
「……なんで俺の名前知ってんの」
「この部屋の入口に書いてあったから」
「ああ。よく病棟に入れてもらえたな、名前も知らなかったのに」
  女は少し考えるようにして、扉の方を横目で見る。
「んー。みんな大抵知ってる人だから。えっとね、藤咲ユカ先生っていう女性の先生知ってる?」
「まあ。俺の担当医だし」
「その人、親戚なんだ。だから昨日、ユカちゃんに事情を説明して、玄関付近に向かってもらったの。聖夜くんが、看護師さんたちに怒られてるんじゃないかと思って」
 道理で藤咲先生には事情を聞かれなかったわけだ。看護師たちを宥めて、ただ早くシャワーを浴びてきなさいと言われただけ。
 ぼうっとしていて、なぜ理由を聞かれないのかなんて考えていなかった。
「そうか。まあ……ありがと。で、お前は誰?」
 一方的に知られるだけ知られて、俺は目の前の女のことを何も知らない。昨日俺の自殺行為を止めたやつのことを。
「あ、私は藤咲エリっていうの。エリでいいよ。二駅向こうの学校に通ってる高校二年生!聖夜くんは?」
 聖夜くんは、と聞かれても俺の名前をもう既に知ってるじゃないか。
「俺は死にかけの中三」
 そう言うとエリの眉間に少し皺が入った。
 だがすぐに口角を上げ、大きな瞳が細く垂れる。
「中学三年生かぁ。じゃあ受験生だ! もう十二月だし、どこの高校受けるか決まってないの?」
 俺はエリから目線を逸らし、無意識に布団の端を握った。未来なんてないやつに、どうしてそんなことを聞けるのだろう。
「決まってると思うか? 死にかけって言ってんだろ」
「でも、実際いつ死ぬかなんてわからないよね」
 急に低い声になった。その目差しは真面目で、どこか悲しい。
「楽しみにするのが怖いんでしょ。描いた夢が消えると思うから考えたくないんでしょ」
 何かに頭を殴られたような気がした。図星だったのだろう。目を逸らしていた、自分の中の臆病さを指摘され、俺は喉の奥がカッと熱くなるのを感じた。
「……そうだよ。でもそれの何が悪いって言うんだよ! 死にかけたこともないくせに!」
 俺はずっと放置されていたコートをエリに投げつけた。生乾きの臭いが鼻腔をくすぐる。
「そんなこと言いに来たのなら帰れよ!」
 エリは驚いていたと思う。瞳を潤わせ、コートを手に持ち立ち上がった。だが、扉に手をかけたところで小さな声が返ってくる。
「私ね、家族がいないんだ」
 だから何、と聞き返すこともできた。でもそうしなかったのは、小さく震えているのがわかったから。
「お母さんもお父さんも……寿命で死んじゃった。だから今はユカちゃんと二人で暮らしてる。もう私の目の前で、誰も死んで欲しくない」
 だからエリは、遺伝的に長く生きられないと言ったのだろうか。それが運命だと、受け入れたのだろうか。
 エリはまた、ぽつぽつと話し出した。
「聖夜くんは、お母さんやお父さんが自殺したらどうするの? 悲しくないの? 本当はわかってるんじゃないの? 私は……嫌だ」
 二人の間に静寂な空気が流れる。
 どう答えることが正解なのだろう。もう自殺しないって言えばいいのだろうか? でもそれはきっと、その場凌ぎの偽りになってしまう。
 するとエリは振り返り、紫色の飾りがついた髪ゴムを外してみせた。色素の薄いくせ毛が、ふわりと広がる。
「これ、ちりめん紐で作った藤の花。藤の花言葉には、決して離れないって意味があるの。お母さんが亡くなる数日前に、渡してくれたんだ」
 ほどいた髪をまたまとめ、縛った。豆粒くらいの花たちが、小さく揺れる。
 エリは息を吸い、再び口角を上げて俺を優しく見つめた。
「聖夜くんは、生きてるの。もうすぐ死ぬとしても、今は生きてるの。未来に希望を持つことで、気が前を向いて長生きできるんだって。怖いって普通は思うよね。私も、死は怖い。でも、私は誰かに生かされてるから。その人のために私は生きるの。死ぬ最期の瞬間まで未来を夢見るの」
 力強かった。意見を突き通そうとしているのではなく、ただ純粋に自分の信念を語るエリは、窓から差し込む夕日に照らされ、輝いて見えた。
「俺も……夢見てたんだよ」
 エリは格好良かった。話せば俺も、あんな風になれるかもしれないと思った。俺の中に閉じ込めた未来を。
「サッカーやってたんだ。中学の部活。弱小チームだったけど、先輩が引退してからキャプテンになって。引退試合までに、強くなってみんなで優勝しようって言ってた」
 他校の奴らに弱い学校だと馬鹿にされ、それでも友達と後輩と一緒に努力して、練習メニューも工夫して、戦ってきた。
 当たり前のようにみんなで笑いあっていた日々が脳裏に浮かぶ。
「でも、一回も勝てずに引退試合を迎えたんだ。どうしても勝ちたかった。みんな頑張ってたけど相手チームにボールを取られて、キーパーも焦って前に出過ぎてた。だからキーパー通り越してシュートされて……。入らないように俺が飛び出して、ヘディングでボールを弾き返した」
 やったと思ったのに。みんなの笑顔と、愕然とした表情が視界に入った。
「馬鹿だよな。勢い余ってゴールポストに頭ぶつけて、打ちどころ悪くてそのまま気絶。結局負けて、俺はいつ死ぬかわからない状態って」
 自分が、吐き捨てるように言ったということはよくわかった。だって実際そうなんだ。楽しくて、たくさん練習したサッカーに、俺は殺される。
「それでも、大好きなんだよね」
 エリの目いっぱいに溜まった涙が、瞬きとともにこぼれ落ちた。
「よく頑張ったね。ずっと努力してきたんだよね。結果に出なくても、その力はきっと聖夜くんの中に残ってる。聖夜くんの心は、どんな試合よりも優勝だよ」
 エリには、不思議な力があるのかもしれない。
 何かを守るためにできた心の壁が、ガラガラと崩れ落ちる気がした。エリも、周りのベッドも、部屋に差し込む夕日も、全部がボヤけて、頬に何かが伝い、手に落ちる。
 ガラスのような涙だった。
「……大好きだった。誰よりもサッカーが好きだ。こんな状態になっても、嫌いになんてなれない。……もう一度、サッカーがしたい」
 何度も涙を振り払った。それでも涙は、止まることを知らなくて。エリがポケットからハンカチを取り出して差し伸べた。
「今度の土曜日、学校説明会があるの。そのあと、校舎見学で色々回れるから、部活とか見てみない? うちの学校、結構サッカー強いんだよ」
 差し伸べられた物を、今度はしっかりと受け取った。エリに涙を見られないように目を全てそれで隠す。
「でも俺、もう運動しちゃダメなんだよ。入院も、ほとんど意味がないけど母さんが日中は家に誰もいないからって無理やり頼んで。学校にも行くなって言われてる……」
 真っ暗な視界を溶かすように、エリが片手をそっと握った。温かかった。ハンカチが片目部分だけ、はらりと落ちる。
「見るだけでも無理? 進学のために学校説明会に行きたいって、未来を見据えた子供の姿を見たら、お母さんも許してくれるかもしれない。それでもダメなら……私がサッカー部員連れてこよっか!」
 張り切った姿のエリに、思わず俺は笑ってしまった。
「病院にサッカー部員連れてきてどうすんだよ」
 死ぬとわかってから初めて笑った。なぜかそれは止まらなくて、ずっと腹筋が震えている。
 エリにも移ったようで、二人で一緒に笑った。
「……頼んでみる。体自体は何ともないはずだし。……ありがとう、エリ。あと、さっきはごめん」
「ううん、いいの。私もごめんね。本当に辛いのは聖夜くんなのに……。許可もらったらユカちゃんに伝えてね。私も詳細を調べてユカちゃんに言ってもらうようにするから」
 わかった、と言うとエリは静かに病室から出て行った。
 こんなに笑って、こんなに温かい涙を流したのはいつぶりだろう。
 残されたハンカチは、また会おうという約束のチケットのようだった。
 そして、なぜかエリのいない病室は、ひどく寂しさを感じさせた。
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