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第二章 針の筵の婚約者編

契約書にサインを!

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 屋敷に戻って早々、私は父に呼び出された。チャールズ様との婚約で、有り得ないくらい浮かれ切っていた父だったが、書斎で待っていたのはいつもの不機嫌そうな顔だった。

「我が伯爵家からの監視係にクララを指名したそうだな」

 どうやらそれが気に食わなかったらしい。ウォルト公爵家には監視と言う名目で王家を始め、様々な家から使用人が送られる。反逆の意志がないかを見張るのはもちろん、公爵家を取り込む目的もあるようだが、少なくともゾーン伯爵家が誰を送り込もうと、利用できるような力はないと思われる。

「はい。チャールズ様に、屋敷で一番頼りになる使用人は誰かと聞かれましたので」
「あの、お前が子飼いにしている娼婦上がりがか? ふん、我が家の有能な者たちを差し置いて、見る目のない奴だ」

 そうは言うけど、私にとってまともに仕事しているのが、クララ一人だったのよね。他はみんな、サラに対しては甲斐甲斐しいけども。

「忌々しいが、それはひとまず置いておく……今から公爵邸に移るのなら、カトリーヌの遺産相続を放棄してもらうぞ。お前には一生遊んで暮らしていけるだけの財産が転がり込むんだからな」

 ティアラ伯母様(とお母様)の予想通り、父は遺産を狙ってきた。普通であれば公爵家に輿入れとなれば裕福な暮らしが約束されるけれども、ウォルト公爵家に限って言えば「一生」とは言えない。夫が亡くなれば、子供と共に市井に下るのだから。

 父が引き出しを開ける前に、私は預かっていた契約書を机の上に置く。

「その件について、既に書いてきましたので。お父様からもサインと拇印が頂ければ、すぐにでもお譲り致しますわ」

 契約書に書かれている内容は、細かい点以外に大した違いはない。父に譲るのがカトリーヌ=ゾーンの遺産のすべてか、母娘財産ゲラーデを除く既に預けてある分か。私が譲り受けたのなんて微々たるものだし、母の遺産は莫大なのだから父にとっても悪い話ではないはずだが。
 契約書を読んで眉間に皺を寄せた父は、それをビリビリと破り捨てた。

「ゲラーデだと? ダメだ、一つ残らずこの家に置いていくんだ。サラが公爵様との婚約を取り替えられないなら、姉の持ち物で我慢すると言っている」

 サラ……妹もそうだが父はどこまで私の物を毟り取れば気が済むのか。それに、ルーカスに対してもそう言ったのなら、アディン家をとことんバカにしている。気は進まないけれど、チャールズ様のお名前を出させてもらおう。

「ゲラーデについては、公爵家に報告済みです。実家に奪い取られたなんて事になれば、嫁ぎ先の心証を悪くしますよ」
「口答えするな! お前が自分の意思で妹に譲ったのなら問題ないはずだ。つべこべ言わずにこっちの契約書にサインするんだ!」

 バンッと新しい契約書を机に叩き付けて威圧する父。話にならないと仕方なく受け取って読んだところ、異変に気付く。

(これは……)

 動かない私を不審に思った父が、契約書を引っ手繰って……青褪めた。

 それは、私が用意して父が破り捨てたはずの――
 私のサイン入りの契約書だったのだ。

「こ、こんな…まさか!」

 父は再び破り捨てると、引き出しからまっさらな羊皮紙を取り出そうとし……

「ひいっ!!」

 その表情は恐怖に彩られた。
 父は羊皮紙の束を引っ掴んで暖炉に焼べたが、その途端燃えカスの一枚一枚が契約書となり、父に襲いかかる。

「ぎゃあああああっ」

 書斎中の書類が、本が、寸分違わず同じ内容になって降り注いできた。

(これは、魔法! この契約書自体お母様が遺したゲラーデなのだわ)

 夢見る心地で不可思議な現象に魅入られる私の足元に、父がみっともなく這いずってくる。

「たっ助けてくれ! これは…カトリーヌの亡霊だ!」
「お父様、どれでも良いので契約書にサインを!」

 私の声に父は震える手でサインをし、契約書に拇印を押した。するとバラバラに散らばっていた書類は元あった場所に戻り、すっかり何事もなかったようになってしまった。
 これで、ゲラーデは私の所有物だ。今まで奪われ続けてきた私が、思わぬ力を手に入れてしまったものだ、と契約書を見ながら感慨に耽っていると。

「もう、いいだろう……出て行ってくれ! カトリーヌの物など、見たくもない。サラにも近付けるんじゃない、いいな!」
「はい…お世話になりました」

 震えて縮こまる父に複雑な眼差しを向け、私は礼をして退室した。



「お姉様! お姉様聞いて。みんな酷いのよ。私がをフォローしようと公爵邸に行ったのに叱るんだもの。チャールズ様が本当に愛しているのは私なのにね。だけどたとえ間違いでも、赤ちゃんが出来てしまったのは仕方ないから、私がお世話してあげる。他ならぬお姉様のためですもの。だから監視係は私を推薦してくれるわよね?」

 荷物を纏めようと部屋に戻る最中、サラが擦り寄ってきた。この娘は本当に、どうしてこうも根拠もなく前向きなのかしら……相手を間違えてるって所だけは賛同できるけども。

「サラ、まだ十四で経験のない貴女に公爵家の使用人は無理よ。それに貴女にはルーカスと言う婚約者がいるのをもう忘れたの?」
「そうなの、よく考えたらルーカスってそんな大した事なかったのよね。お姉様だって彼が私に夢中になっても何とも思わなかったでしょ? 私が本当にずっと好きだったのはチャールズ様だったのよ。あの方のためだったら私、使用人になってもいいわ。お母様だって私くらいの時にはこの家で使用人してたんだし、きっと平気よ」

 平気なわけない。恐らくサラの脳内では、アンヌ様のように見初められて愛人になるビジョンが出来上がっているのだろうが。あのウォルト公爵邸で今のような我儘が通ると思っているなら大間違いだ。何より、もうこの妹とはいい加減縁を切りたい。

「そんな甘い考えが本当に許されると…」
「まあ、お姉様ペンダントなんてしてるの? もしかしてチャールズ様にもらったとか? ねえこれちょうだい…」

 いつも通り私の話を聞かず、服の中に隠していた鍵のチェーンを目敏く見つけたサラは、無理矢理私の首から奪い取ろうとする。
 と、次の瞬間凄まじい嫌悪の表情で鍵を放り投げた。

「キャーッ! 何これ、血がついてる! やだっ汚い! こんな気持ち悪い鍵、いらない!」

 サラがバタバタと逃げ去った後、空中を舞っていた鍵は私の手にスポンと収まった。どうやらサラのお気に召さない物だったようで、ホッと息を吐く。

 それにしても、これは何の鍵なのかしら。伯母様からはどこの、とは聞かなかったが、私の事を助けてくれると言っていた。確かに契約書もそうだが、理不尽に奪われるような事は今の所ない。
 良いお守りを形見に貰ったと、軽くなった足取りで今度こそ自分の部屋へ向かう。



「アイシャさま……」

 ところが、私はまたもお邪魔虫に足を止められた。
 お父様に言い付けられて普段は呼び捨てだけれど、たまに二人きりになると、今でも私を「様」付けで呼ぶ、その女性――

「アンヌ様…?」

 父の後妻、元侍女のアンヌ様が自室のドアの前に立っていた。

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