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9章・それぞれの戦い。皆の戦い。
黒雲
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ルカオット国王軍出陣!
その達しが下知されて半日後、マルダーク兵達は森を越えた先にある平原へ陣を張っていた。
森を挟んで幾日も膠着状態となっていたのにも関わらず、ルカオット達が出陣してから半日で楽々と森を越えたのである。
実際、中衛のザインには何が行われたのかよく分からなかった。
部隊を四手に分け、ザインもその四手の一つとして森を進んだ。
そして、ただ後方から聞こえる陣太鼓を基に、進んだり戻ったりを繰り返し、気付けば森を抜けていた。
森の前には敵の陣地があり、彼らはザイン達を森から出すまいと躍起になっていた。
しかし、ここでもザイン達は森へ引っ込んだり、森から攻め寄せたり、陣太鼓に従う。
すると、いつの間にか敵は後退して、ザイン達は森の向こう側を陣取れたのだ。
これは、今までマルダーク軍が得意としていた、現場の兵や騎士に裁量が与えられて現場で自由自在に動く戦法とは真逆の戦法だった。
四手に分かれた各隊は、森の中に居たので互いの動きを全く認識していなかったのだが、しかし、陣太鼓によって、知らず知らずの内に敵軍を翻弄していたのである。
右翼が退くと同時に左翼が前へ。
左翼が迂回すると同時に右翼が直進。
こうすることで、森という連携が難しい戦場にも関わらず、最大限の戦力を発揮出来た。
しかし、戦場に居たザイン達には何が何だか分からなかったので、これもラキーニさんの計略だろうか? まるで魔術のようだ。と思うのである。
ザインは感心した。
しかし、一息はつけない。
なぜならば、敵は後退したものの、まだ撤退したわけでは無かったからだ。
つまり、敵は放棄した陣のさらに後方へ新しい陣を作り、マルダーク軍と相対したのだ。
太陽照らす昼。
マルダーク軍とオルブテナ軍が本格的に睨み合う。
オルブテナは快進撃に次ぐ快進撃であり、ここで押し返されて勢いを殺したくない。
森を挟んだ泥仕合が無くなって、彼らにとってはむしろ好機。
何としてもマルダーク軍をこの平原で壊滅させ、一息にハーズルージュまで奪ってやる!
一方のマルダークも負けてられない。
反乱のせいで国力が衰退している今、黒い森の防衛ラインを越えてハーズルージュを取られては、オルブテナ軍を退けるのも難しい。
オルブテナの援軍が来る前に、この攻撃部隊を蹴散らせねばならない!
互いに激しく睨み合う。
ザインは深呼吸をして、戦いに対する気合いを入れた。
彼は中衛であった事が幸いし、敵と直接戦闘していない。
つまり、まだ人を殺していないのだ。
彼が入れた気合いは、まさに人を殺すんだという気合いである。
本当は殺し合いなんてしたくないが、やるしか無いならやってやる。
手綱を握る手は震えているし、もしかしたら既に漏らしているかも知れないが、それでも逃げる訳にはいかなかった。
家族や、リシーや……この国に暮らす全ての人々の為に。
いつ攻撃の号令が来るだろうかと、ザインは緊張する。
いや、味方も敵も、全員が緊張していた。
しかし、結論を述べれば、戦いは起こらなかった。
敵軍がなぜか撤退を開始したのである。
これに兵達はざわざわと訝しむので、ザインは「騒ぐな! 落ち着け!」と自身の指揮する兵達を落ち着かせた。
――しかし、なぜ敵は撤退を? またラキーニさんの計略か?――
彼ならば、きっと神懸かった内部工作でも出来るかも知れないなんてザインは思う。
しかし、この時、後方のルカオットとラキーニも困惑していた。
「罠……でしょうか。分かりません」
「ラキーニにも分からないか」
全く何故なのか分からない。
「強いて言えば、あの黒雲でしょうか?」
オルブテナ王国の方に真っ黒な雲が掛かっているのが見える。
大きい大きい黒雲だ。
「もしもあれが雨雲ならば、きっと大雨でしょう」
本国が大雨にあって、戦争どころでは無くなったか?
だとしたら、嬉しい誤算であるが……。
「では、三日間様子を見よう」
「それがよろしいかと。陛下」
マルダーク軍は黒い森を越えた平原で三日、陣を張ったが、敵の気配は無い。
なので、陣に最低限の警戒兵だけを残し、敵方が本当に撤退したかを確認に斥候を出して、ひとまずはハーズルージュへ戻る事とした。
この報せにザインはホッとした。
戦いが無いなら、それに越したことは無いと思うのだ。
彼は出陣してから初めて笑顔を仲間に見せて、このまま敵とぶつかったらどうしようかと思ったよ。なんて話すのである。
中には手柄を立てられなくて残念と悔しがる騎士が居たので、ザインは彼らを慰めたりしながらハーズルージュへ戻っていった。
戦いから解放されたザインの声音は優しく、表情は柔らかで、心持ちは晴れやかである。
しかし、この時ザインは知らない。
この敵の撤退こそ、『ザインの』戦いを報せる予兆だったのだと。
それは三日後の事だ。
ハーズルージュへ援軍にやって来た王都の軍隊は、毎日、数百程度の人数が王都へ戻っていた。
援軍が一気に戻らないのは、もしも敵に策があって、ハーズルージュへ奇襲して来た時に対応するためである。
そして、その日、ザインの部隊が王都へ戻る予定だった。
早朝どころか未明の時間。
ザインは天幕の中で毛布にくるまりながら寝ていた。
天幕のすぐ近くを、馬蹄が激しく走って行く音でザインは目を覚ます。
天幕の裾をめくって外を見れば、薄らと空が群青に染まっていたので、まだまだ目覚めるには早い時間だと分かり、二度寝しようかと思う。
しかし、今日、ようやく王都へ帰るのだと思うと、ワクワクしてきて中々寝付けない。
まったく。帰途につけば、その道のりは来た時と同じ苦難の道だというのに、戦争に向かうのか家へ帰るのかで、同じ道でもこうまで心持ちも変わるのか。ザインも現金なものだ。
ああ、それにしても、何事も無く王都へ帰れるんだな。良かった良かった。
自然と頬がにやけてくる。
何度何度も寝返りを打つが、どうにも彼は寝付けない。
どうしても寝付けないので、散歩をしようかとザインは起き上がって天幕を出た。
まだまだ薄暗い。
無数の天幕が並ぶ陣地は、ほのかに明るい群青の空に照らされて濃紺に染まっていた。
今は晩夏。
夏とはいえ、未明の時間は少し肌寒く、ザインの吐く息が微かに白くなっている。
ジャクジャクと土を踏み締めて歩いていると、見回りの兵が訝しげに眺めてきた。
不審な人物だと思っているのだが、すぐにザインが騎士の一人だと気付き、視線を逸らしていた。
ザインは深呼吸する。
朝露が蒸発した、特徴的な草の匂いがした。
湿度は十分。
土は乾ききっておらず、しかし、水溜まりはしっかりとはけている。
陣地の外にある稲はよく伸びていた。
「きっと豊作だぞ」
空は雲が少なく、豪雨も無さそうだ。
風は涼しく爽やかだ。
ザインはこういう時間が大好きだ。
自分達人間も雄大な自然の一部で、決してちっぽけな存在じゃ無いと実感させてくれる。
「しかし、妙だな」
オルブテナ側から黒雲が大分近付いてきているのが見えた。
かなり大きな黒雲で、雨も激しそうなのに、風は落ち着いているし、空気も湿っていなかった。
まさか、あれは雨雲じゃ無いのか?
だとしたら果たして何なのだろうかと、ザインは不思議に思う。
その時、城門がゴゴゴと不気味な音を立てて開いた。
先ほど馬を走らせていた人がハーズルージュへ入っていったようだ。
そう言えば、随分と急いで馬を走らせていた様だった事をザインは思い出した。
何かあったのだろうか?
方向としては、オルブテナ側から来たようだが、まさかオルブテナ軍が侵攻を再開したのでは無いだろうか?
ザインは不安に思う。
しかし、その不安は杞憂だったと知るのは、城門近くに差し掛かった時。
澄んだ空気は城門に立っている兵のヒソヒソ話をよく響かせた。
なので、ザインは天幕の陰で、偶然にも彼らの会話を聞いたのである。
「オルブテナから来ているそうだ」
「結構速いペースで近付いてきているそうだぞ」
ザインはその会話に、やはり敵が引き返して来たのか……と思った。
「しかし、まさかバッタとはな」
「急いで撤退しないとまずいぞ」
……蝗害(こうがい)!
ザインはハッとした。
オルブテナ王国に立ち込めていた暗雲。
あれはバッタの群れだったのだ!
バッタの群れが飛んでくるとしたらまずい。
蝗害は稲という稲を、植物という植物を食い散らかし、凶作と飢饉をもたらす暴食の使者だ。
しかも、普通のバッタなら食べないような植物まで飛蝗、つまり群れをなして飛行するバッタは食い散らかす。
緑を消し、死の大地に変えてしまうのである。
しかし、それをザインが知ったところで何が出来るだろう。
彼はこの大地が……豊かな作物が恐ろしい飛蝗(ローカスト)に食べられる前に逃げ出すしか出来ない。
だから、ザインは天幕へ戻って毛布にくるまった。
蝗害は天災。
こればかりはどうしようもないのだ。
陣地は静かだ。
よくよく……本当によくよく耳を澄ませば、微かにブブブと虫の羽音が聞こえてきたのが分かった。
近付いてきた。
それからしばらく後、朝焼け時に、国王ルカオットがハーズルージュの城門から現れて、全軍への撤退を指示する。
「ラッパを鳴らせ! 全兵を叩き起こすのだ!」
ラキーニの指示にただちにラッパの音が陣に響いた。
いつもより早い起床ラッパに、兵や騎士達は驚いて跳ね起きる。
なんだなんだ? と、大変な騒ぎだ。
そんなザワザワとする陣中を、各将が駆けながら「全軍撤退! 撤退だ!」と叫ぶ。
飛蝗の群れが来るのだから当然であろう。
ザインも無知な同僚達と共に天幕を出た。
皆、寝ぼけ眼を擦って、「なんでそんな急いで撤退するんだ?」と不思議がっている。
ザインも、このまま無知な仲間達と共に素知らぬ顔で撤退するのだ。
彼にとれる手段なんてそれくらいしか残っていないのだから。
……普通ならばそう考える。
しかし、ザインは、城門の前に立っている国王を見ると、思いがけず、彼の元へと駆けだした。
ザインのこの行動は、はたから見れば混乱に乗じて国王を狙う行動に見えた事だろう。
なので、ルカオットの近くにまで迫った瞬間、近衛騎士によって組み伏せられてしまった。
しかし、ルカオットへ声が届く距離に接近できれば、ザインには充分だ。
「国王! 撤退はお待ち下さい!」
組み伏せられた拍子に眼鏡がずれたが、構わずにぼやける視界でルカオットを見上げる。
組み伏せていた近衛騎士が「事情も知らずに馬鹿な事を言うな!」と言うが、ザインは「飛蝗が来ているのは知っています!」と言った。
飛蝗が来ているのに、撤退は待って欲しいと言う彼の姿を、ルカオットは訝しんで見る。
そんな彼へラキーニが、宰相の息子だから解放しても良いのでは無いかと進言したので、ルカオットは近衛騎士へ拘束を解くように指示した。
「それで、なぜ撤退してはならない……と?」
眼鏡を掛け直しているザインへ聞くと、ザインは「このままでは秋の収穫物が全て喰われてしまいます」と答える。
「知っている。だから、撤退するのだ」
「しかし、すぐに冬です! 雪が降るのに、蝗害の無い場所から食糧を送るのでは間に合いません!」
「仕方あるまい……。むしろ、蝗害の被害地区にこの兵達が雪に留まってしまう方がまずいだろう」
ルカオットの言う通りだ。
飛蝗に食糧という食糧を根こそぎ食べ尽くされ、その地方にこれだけの兵が留まればどうなる事か……。
下手をすれば、この兵達がそのまま食糧を求めて奪う盗賊になりかねなかった。
それに、飛蝗に追いつかれてしまうと、行軍に必要な食べ物も喰われてしまう。
何としても避けねばならない事態だ。
「ですが……ですが、この町の人達はどうなるのですか! 人々が生きる為に作った糧が全て食べられてしまうのです!」
「蝗害に襲われるのは国王である私の不徳であろう。しかし、どうしようもあるまい」
ルカオットに出来るのは、早く全兵を撤退させて被害地に負担を掛けさせない事。
そして、蝗害に遭わなかった各地の都市集落から被害地へ食糧を運ぶだけだ。
「分かったらザインも撤退準備をするのだ」
ルカオットに言われ、ザインは歯噛みした。
そして、すいませんと謝る。
「私は、ここに残らせて貰います」
ザインは撤退しない。
ここで飛蝗と戦う。
人々が生きる為に作った作物を、飛蝗の群れに食べられるなんて、ザインには無視出来なかったのだ。
そんなザインへルカオットはただ一言「そうか」とだけ言うのであった。
その達しが下知されて半日後、マルダーク兵達は森を越えた先にある平原へ陣を張っていた。
森を挟んで幾日も膠着状態となっていたのにも関わらず、ルカオット達が出陣してから半日で楽々と森を越えたのである。
実際、中衛のザインには何が行われたのかよく分からなかった。
部隊を四手に分け、ザインもその四手の一つとして森を進んだ。
そして、ただ後方から聞こえる陣太鼓を基に、進んだり戻ったりを繰り返し、気付けば森を抜けていた。
森の前には敵の陣地があり、彼らはザイン達を森から出すまいと躍起になっていた。
しかし、ここでもザイン達は森へ引っ込んだり、森から攻め寄せたり、陣太鼓に従う。
すると、いつの間にか敵は後退して、ザイン達は森の向こう側を陣取れたのだ。
これは、今までマルダーク軍が得意としていた、現場の兵や騎士に裁量が与えられて現場で自由自在に動く戦法とは真逆の戦法だった。
四手に分かれた各隊は、森の中に居たので互いの動きを全く認識していなかったのだが、しかし、陣太鼓によって、知らず知らずの内に敵軍を翻弄していたのである。
右翼が退くと同時に左翼が前へ。
左翼が迂回すると同時に右翼が直進。
こうすることで、森という連携が難しい戦場にも関わらず、最大限の戦力を発揮出来た。
しかし、戦場に居たザイン達には何が何だか分からなかったので、これもラキーニさんの計略だろうか? まるで魔術のようだ。と思うのである。
ザインは感心した。
しかし、一息はつけない。
なぜならば、敵は後退したものの、まだ撤退したわけでは無かったからだ。
つまり、敵は放棄した陣のさらに後方へ新しい陣を作り、マルダーク軍と相対したのだ。
太陽照らす昼。
マルダーク軍とオルブテナ軍が本格的に睨み合う。
オルブテナは快進撃に次ぐ快進撃であり、ここで押し返されて勢いを殺したくない。
森を挟んだ泥仕合が無くなって、彼らにとってはむしろ好機。
何としてもマルダーク軍をこの平原で壊滅させ、一息にハーズルージュまで奪ってやる!
一方のマルダークも負けてられない。
反乱のせいで国力が衰退している今、黒い森の防衛ラインを越えてハーズルージュを取られては、オルブテナ軍を退けるのも難しい。
オルブテナの援軍が来る前に、この攻撃部隊を蹴散らせねばならない!
互いに激しく睨み合う。
ザインは深呼吸をして、戦いに対する気合いを入れた。
彼は中衛であった事が幸いし、敵と直接戦闘していない。
つまり、まだ人を殺していないのだ。
彼が入れた気合いは、まさに人を殺すんだという気合いである。
本当は殺し合いなんてしたくないが、やるしか無いならやってやる。
手綱を握る手は震えているし、もしかしたら既に漏らしているかも知れないが、それでも逃げる訳にはいかなかった。
家族や、リシーや……この国に暮らす全ての人々の為に。
いつ攻撃の号令が来るだろうかと、ザインは緊張する。
いや、味方も敵も、全員が緊張していた。
しかし、結論を述べれば、戦いは起こらなかった。
敵軍がなぜか撤退を開始したのである。
これに兵達はざわざわと訝しむので、ザインは「騒ぐな! 落ち着け!」と自身の指揮する兵達を落ち着かせた。
――しかし、なぜ敵は撤退を? またラキーニさんの計略か?――
彼ならば、きっと神懸かった内部工作でも出来るかも知れないなんてザインは思う。
しかし、この時、後方のルカオットとラキーニも困惑していた。
「罠……でしょうか。分かりません」
「ラキーニにも分からないか」
全く何故なのか分からない。
「強いて言えば、あの黒雲でしょうか?」
オルブテナ王国の方に真っ黒な雲が掛かっているのが見える。
大きい大きい黒雲だ。
「もしもあれが雨雲ならば、きっと大雨でしょう」
本国が大雨にあって、戦争どころでは無くなったか?
だとしたら、嬉しい誤算であるが……。
「では、三日間様子を見よう」
「それがよろしいかと。陛下」
マルダーク軍は黒い森を越えた平原で三日、陣を張ったが、敵の気配は無い。
なので、陣に最低限の警戒兵だけを残し、敵方が本当に撤退したかを確認に斥候を出して、ひとまずはハーズルージュへ戻る事とした。
この報せにザインはホッとした。
戦いが無いなら、それに越したことは無いと思うのだ。
彼は出陣してから初めて笑顔を仲間に見せて、このまま敵とぶつかったらどうしようかと思ったよ。なんて話すのである。
中には手柄を立てられなくて残念と悔しがる騎士が居たので、ザインは彼らを慰めたりしながらハーズルージュへ戻っていった。
戦いから解放されたザインの声音は優しく、表情は柔らかで、心持ちは晴れやかである。
しかし、この時ザインは知らない。
この敵の撤退こそ、『ザインの』戦いを報せる予兆だったのだと。
それは三日後の事だ。
ハーズルージュへ援軍にやって来た王都の軍隊は、毎日、数百程度の人数が王都へ戻っていた。
援軍が一気に戻らないのは、もしも敵に策があって、ハーズルージュへ奇襲して来た時に対応するためである。
そして、その日、ザインの部隊が王都へ戻る予定だった。
早朝どころか未明の時間。
ザインは天幕の中で毛布にくるまりながら寝ていた。
天幕のすぐ近くを、馬蹄が激しく走って行く音でザインは目を覚ます。
天幕の裾をめくって外を見れば、薄らと空が群青に染まっていたので、まだまだ目覚めるには早い時間だと分かり、二度寝しようかと思う。
しかし、今日、ようやく王都へ帰るのだと思うと、ワクワクしてきて中々寝付けない。
まったく。帰途につけば、その道のりは来た時と同じ苦難の道だというのに、戦争に向かうのか家へ帰るのかで、同じ道でもこうまで心持ちも変わるのか。ザインも現金なものだ。
ああ、それにしても、何事も無く王都へ帰れるんだな。良かった良かった。
自然と頬がにやけてくる。
何度何度も寝返りを打つが、どうにも彼は寝付けない。
どうしても寝付けないので、散歩をしようかとザインは起き上がって天幕を出た。
まだまだ薄暗い。
無数の天幕が並ぶ陣地は、ほのかに明るい群青の空に照らされて濃紺に染まっていた。
今は晩夏。
夏とはいえ、未明の時間は少し肌寒く、ザインの吐く息が微かに白くなっている。
ジャクジャクと土を踏み締めて歩いていると、見回りの兵が訝しげに眺めてきた。
不審な人物だと思っているのだが、すぐにザインが騎士の一人だと気付き、視線を逸らしていた。
ザインは深呼吸する。
朝露が蒸発した、特徴的な草の匂いがした。
湿度は十分。
土は乾ききっておらず、しかし、水溜まりはしっかりとはけている。
陣地の外にある稲はよく伸びていた。
「きっと豊作だぞ」
空は雲が少なく、豪雨も無さそうだ。
風は涼しく爽やかだ。
ザインはこういう時間が大好きだ。
自分達人間も雄大な自然の一部で、決してちっぽけな存在じゃ無いと実感させてくれる。
「しかし、妙だな」
オルブテナ側から黒雲が大分近付いてきているのが見えた。
かなり大きな黒雲で、雨も激しそうなのに、風は落ち着いているし、空気も湿っていなかった。
まさか、あれは雨雲じゃ無いのか?
だとしたら果たして何なのだろうかと、ザインは不思議に思う。
その時、城門がゴゴゴと不気味な音を立てて開いた。
先ほど馬を走らせていた人がハーズルージュへ入っていったようだ。
そう言えば、随分と急いで馬を走らせていた様だった事をザインは思い出した。
何かあったのだろうか?
方向としては、オルブテナ側から来たようだが、まさかオルブテナ軍が侵攻を再開したのでは無いだろうか?
ザインは不安に思う。
しかし、その不安は杞憂だったと知るのは、城門近くに差し掛かった時。
澄んだ空気は城門に立っている兵のヒソヒソ話をよく響かせた。
なので、ザインは天幕の陰で、偶然にも彼らの会話を聞いたのである。
「オルブテナから来ているそうだ」
「結構速いペースで近付いてきているそうだぞ」
ザインはその会話に、やはり敵が引き返して来たのか……と思った。
「しかし、まさかバッタとはな」
「急いで撤退しないとまずいぞ」
……蝗害(こうがい)!
ザインはハッとした。
オルブテナ王国に立ち込めていた暗雲。
あれはバッタの群れだったのだ!
バッタの群れが飛んでくるとしたらまずい。
蝗害は稲という稲を、植物という植物を食い散らかし、凶作と飢饉をもたらす暴食の使者だ。
しかも、普通のバッタなら食べないような植物まで飛蝗、つまり群れをなして飛行するバッタは食い散らかす。
緑を消し、死の大地に変えてしまうのである。
しかし、それをザインが知ったところで何が出来るだろう。
彼はこの大地が……豊かな作物が恐ろしい飛蝗(ローカスト)に食べられる前に逃げ出すしか出来ない。
だから、ザインは天幕へ戻って毛布にくるまった。
蝗害は天災。
こればかりはどうしようもないのだ。
陣地は静かだ。
よくよく……本当によくよく耳を澄ませば、微かにブブブと虫の羽音が聞こえてきたのが分かった。
近付いてきた。
それからしばらく後、朝焼け時に、国王ルカオットがハーズルージュの城門から現れて、全軍への撤退を指示する。
「ラッパを鳴らせ! 全兵を叩き起こすのだ!」
ラキーニの指示にただちにラッパの音が陣に響いた。
いつもより早い起床ラッパに、兵や騎士達は驚いて跳ね起きる。
なんだなんだ? と、大変な騒ぎだ。
そんなザワザワとする陣中を、各将が駆けながら「全軍撤退! 撤退だ!」と叫ぶ。
飛蝗の群れが来るのだから当然であろう。
ザインも無知な同僚達と共に天幕を出た。
皆、寝ぼけ眼を擦って、「なんでそんな急いで撤退するんだ?」と不思議がっている。
ザインも、このまま無知な仲間達と共に素知らぬ顔で撤退するのだ。
彼にとれる手段なんてそれくらいしか残っていないのだから。
……普通ならばそう考える。
しかし、ザインは、城門の前に立っている国王を見ると、思いがけず、彼の元へと駆けだした。
ザインのこの行動は、はたから見れば混乱に乗じて国王を狙う行動に見えた事だろう。
なので、ルカオットの近くにまで迫った瞬間、近衛騎士によって組み伏せられてしまった。
しかし、ルカオットへ声が届く距離に接近できれば、ザインには充分だ。
「国王! 撤退はお待ち下さい!」
組み伏せられた拍子に眼鏡がずれたが、構わずにぼやける視界でルカオットを見上げる。
組み伏せていた近衛騎士が「事情も知らずに馬鹿な事を言うな!」と言うが、ザインは「飛蝗が来ているのは知っています!」と言った。
飛蝗が来ているのに、撤退は待って欲しいと言う彼の姿を、ルカオットは訝しんで見る。
そんな彼へラキーニが、宰相の息子だから解放しても良いのでは無いかと進言したので、ルカオットは近衛騎士へ拘束を解くように指示した。
「それで、なぜ撤退してはならない……と?」
眼鏡を掛け直しているザインへ聞くと、ザインは「このままでは秋の収穫物が全て喰われてしまいます」と答える。
「知っている。だから、撤退するのだ」
「しかし、すぐに冬です! 雪が降るのに、蝗害の無い場所から食糧を送るのでは間に合いません!」
「仕方あるまい……。むしろ、蝗害の被害地区にこの兵達が雪に留まってしまう方がまずいだろう」
ルカオットの言う通りだ。
飛蝗に食糧という食糧を根こそぎ食べ尽くされ、その地方にこれだけの兵が留まればどうなる事か……。
下手をすれば、この兵達がそのまま食糧を求めて奪う盗賊になりかねなかった。
それに、飛蝗に追いつかれてしまうと、行軍に必要な食べ物も喰われてしまう。
何としても避けねばならない事態だ。
「ですが……ですが、この町の人達はどうなるのですか! 人々が生きる為に作った糧が全て食べられてしまうのです!」
「蝗害に襲われるのは国王である私の不徳であろう。しかし、どうしようもあるまい」
ルカオットに出来るのは、早く全兵を撤退させて被害地に負担を掛けさせない事。
そして、蝗害に遭わなかった各地の都市集落から被害地へ食糧を運ぶだけだ。
「分かったらザインも撤退準備をするのだ」
ルカオットに言われ、ザインは歯噛みした。
そして、すいませんと謝る。
「私は、ここに残らせて貰います」
ザインは撤退しない。
ここで飛蝗と戦う。
人々が生きる為に作った作物を、飛蝗の群れに食べられるなんて、ザインには無視出来なかったのだ。
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落ち込みはしたが幼馴染みのヴァージルや友人のタマラに励まされ、独立して工房を持つことにしたカモミールだったが、師と共に運営してきたブランドは名義がガストンに引き継がれており、全て一から出直しという状況に。
そんな中、格安で見つけた恐ろしく古い工房を買い取ることができ、カモミールはその工房で新たなスタートを切ることにした。
器具付き・格安・ただし狭くてボロい……そんな訳あり物件だったが、更におまけが付いていた。据えられた錬金釜が1000年の時を経て精霊となり、人の姿を取ってカモミールの前に現れたのだ。
失われた栄光の過去を懐かしみ、賢者の石やホムンクルスの作成に挑ませようとする錬金釜の精霊・テオ。それに対して全く興味が無い日常指向のカモミール。
過保護な幼馴染みも隣に引っ越してきて、予想外に騒がしい日常が彼女を待っていた。
これは、ポーションも作れないし冒険もしない、ささやかな錬金術師の物語である。
彼女は化粧品や石けんを作り、「ささやかな小市民」でいたつもりなのだが、品質の良い化粧品を作る彼女を周囲が放っておく訳はなく――。
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