雑事

霜山 蛍

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無音の旋律

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 頬杖を着いた女性は、私に問いた。然れどその問は言葉に在らず、紙面に達筆で 綴つづられていた。
 ――素敵な曲ね。
 私がそれを読み取るのは造作もない事であったが、今日のそれは殊更ことさらだった。いつにも増して字が美麗であった。私はそれを賞賛しようと言語化する代わりに、旋律に乗せて返した。内容は極めて短く、「そちらこそ」と。
 すると彼女はまた紙面を手繰たぐり寄せ、言葉を綴った。 
 ――練習したもの、綺麗に書けるように。
 私はそれを一べつすると、彼女に今度は微笑みを持って返答した。
 私は今、ヴァイオリンを弾いている。音はない。そういう事決めだ。否、元よりそんな物は存在しないのである。それこそが世界の摂理であり、理であり、意思なのである。
 然れど楽器と呼ばれる類のものは相違である。音はなくとも旋律はある、空気に響かずとも心中に響く、そういうものである。私の紡ぎ出す旋律は彼女にのみ伝わり、また彼女のみが知覚できる暗号であり、言語でもあると言える。そこにあるのは会話であり、正しく言語であるのだ。
 彼女は三脚が支える円形のコルク椅子に腰掛け、濃い黒檀こくたんの4フィート程のテーブルに肘を掛け、微笑みを私に向けながら瞼の裏に私を思い描いていた。テーブルの上にはメモ書き用である縦横4インチの紙面が置かれており、傍に筆記具が横倒よこだおして置かれている。
 音というものがそも無いはずの存在であるにも関わず、それを違和感と感じるのにいきおい疑問を持つことが如何いかに不自然かを、この世界の人間は理解している。人はその不自然さを違和感と綴り、文字にした。だがそんな世界の細大さいだいに私たちが興味を持つはずもなく、ならば文字で持って、旋律で持って、身振りで持っていつも通りに会話を交わす。
 私の紡ぎ出す旋律は、私と彼女にしか聞こえない。旋律だけが音であり、またそれは私の許す限りの範囲にのみ留まる。それが楽器であり、それが旋律なのである。
 弾いてる曲は私と彼女だけの知る寄る辺の曲。幾星霜いくせいそうを経ようとそれは変動すること無く、等しくその存在意義を確立させる。その意義が疑心にさいなまれたならば、それはこの関係が破綻したか、どちらかが変動なき常世となったということであろう。ならば私の望みは、ただ一つの寄る辺に従う旋律を、私という存在が消失されるその時まで紡ぎ続けることに同義となる。
 私は永劫えいごうの旋律を祈り言葉を乗せた。   
 ――ただ一言、「愛してる」と。
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