雑事

霜山 蛍

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思慕の花園

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「――思ひつつぬればや人の見えつらん 夢と知りせばさめざらましを」

  私は紅色の薔薇があしらわれた、ローズティーを啜っていた。静寂な花園――一面を取り囲むのは、色とりどりのベゴニアの花、花。鮮やかな世界で、私だけが一際輪郭を顕にする。それは、私の着物――黒を基調とした、シクラメンの小紋柄――のせいだろうか、或いは孤独感故だろうか。
 空では幾千の星が、今が暗闇であることを私に語りかける。
 私は一度ガラスのカップをセットのソーサーに静かに置くと、芳醇な紅茶に、銀のスプーンで砂糖をひとさじ塗した。白銀の結晶が、二つの透明なガラスが星々の光を受け取り、取り入れた。そうして紅の雫に落とされた白銀の結晶は、さながら思いを溶け込ませるように、ゆっくりと光を手放しやがて沈みゆく。私はそんな白銀たちをどこか悲しげに見つめながら、静かに銀のスプーンで水面を揺らす。然れどその行為は白銀を湖面に浮き上げることはあっても、やがて姿を眩ませる。いつだってそうだ。頬杖を付きながら、私は嘆息した。
 紅茶をもう一度、口元に運んだ。芳醇な紅が、数多の星々を受け入れる。まるで白銀のように、くるらくゆらと波紋に光が揺れる。
 私の浮かない表情が、月の代わりに紅に写りこんだ。
「ここなりきや」
 ふと、私の耳のうちに背後から、聞き馴染みのある声が聞こえた。彼の声色は、私に安堵を与えた。聞き心地のいいその一言は、さながらアコースティックベースのようであり、私は心底その一言に酔いしれた。
 頷くことも、振り返ることもできなかった私に、しかし彼は私の眼前には訪れる気配もない。私たちは、互いに顔を合わせてはいなかった。私は音を嫌って、カップをソーサーに置いた。
「めでたきかたなりかし」
「嘘をなのたまひそ。我ばかりが景色より浮きにたり」
 私は心なしか、頬に紅茶の紅が写りこんでいるような心地がした。風が、静かにベゴニアの花々を揺らした。紅茶の芳醇な香りが溶け合う。
「よからぬか、おかげに夢々見失ふことはあらぬ」
 心地のいい低音域の弦楽器は、私の鼓動に律動を付ける。だけれども、私は知っている。沈み込む白銀は、決して湖面に出ることはないのだと。それでも私はどこかこの花園に、身を委ねたいと心から感じていたのである。愚かだろうか。否、これを愚弄されるならば、私には最早生きる寄る辺もない事だろう。ならば愚かなどと思うことこそがこの花園には相応しくない。それならばきっと、この花園こそが現実だと、疑う事こそが愚かなのだと、芳醇と律動に身を委ねるべきなのである。
「いかでここに、見えたまはれけりや」
「思へばなり。させらば心地良き篝火草の薫りに呼ばれけり」
 私の頬に、熱がこもるのがわかった。顔を見られてもいないのに、私は一人頭を垂れた。紅に私が映る。私の後ろに、月もまた僅かに写りこんだ。湖底に仄かに残った白銀が、その姿を少しばかり顕にしていた。
「待ちたてまつれり。いかでか心教へたまへ」
「そは日の明くる頃よからむ」
「そやいつなる?我いま御心に触れ合はまほしきなり」
「にせらばいかで顔をこなたに向けたまへ。美々し顔を目にせまほしきなり」
 私は自らの顔を紅を鏡面にして、見つめ直した。私の律動をは足早でいた。それは私の熱故か、或いは彼の紡ぎ出す律動故か。私にはその判別もつかない。否、もとより判別の基準もないのかもしれない。
 私は花園の芳醇を大きく吸い込み、シクラメンの香りを深く吐き出した。冷めた紅が波紋を描く。そうしてようやく意を決すると小さく点頭し、カブリオールレッグの白い椅子をそのままに、体だけを彼に向けるべく袖を揺らした。衣擦れが芳醇に溶け込んだ。
 ――だというのに、私が望んだ未来は、訪れなかった。
 私が彼に顔を見せても、そこに望んだ彼は居なかった。この時初めて、気づいたのである。気づいてしまったのである。この場には、元より誰ひとりとして他人などいはしなかったのだと。何一つとして、この場には存在してすらいないのだと。
 私が神以てそれを理解した時、世界から鍍が薄れていった。
「――思ひつつぬればや人の見えつらん 夢と知りせばさめざらましを」
 紅の雫に、清澄な雫がこぼれ落ちた。湖面に描かれた波紋は、奥に見えていた白銀の一切を消し去ってしまった。後には落ち葉だけが、虚構を舞い散るのみである。
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