キズアト

笹原うずら

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親友

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 中学一年生のころ、僕、平谷和也は、友人である東根海斗とともに、薄暗い住宅街を歩いていた。その日は、夏、むしむしとした熱気が常に、体を覆い、耳を裂くような蝉の声が、周りのコンクリートに反響して、二重三重にも響き渡るような時期だ。

 僕と、部活が休みだった海斗は、互いに少ない小遣いで買ったアイスをかじりながら、のんびりと各々の家に向かって歩いていた。勉強のこと、クラスメイトのこと、担任の先生のこと。どんな中学生でもするような何でもない会話。いつも通り、そんな話をしながら、歩みを進めていると、ふと、海斗が僕に尋ねた。

「なあ和也。お前ってなんで一人称に『僕』を使うようになったんだ? 小学生低学年あたりの頃は普通に『俺』だったじゃないか」

 そういえばそうだった。僕は小学校低学年のころ、一人称には基本的に『俺』を用いていたのだ。まだ人の評価を全く気にしていなかったときの自分。自分の主張が正しいと信じて、他の人の考えなど見向きもせずにただ自分の意見にまっすぐだったときの『俺』。

 昔を思い出すと、なんだか恥ずかしくなり僕は彼に言った。

「やめてよ、昔のことだろ。恥ずかしい。中学生にもなると、一人称にも考えなきゃいけないんだよ。『俺』なんて使ってたら、周りに調子乗ってるって思われるかもしれないだろ?『僕』に変えたって大して困らないんだから、それなら誰にも悪く思われない一人称使ったほうがいいだろ?」
「別に、誰にどう思われようが自分の一人称使えばいいじゃないか。なんで他の人のために自分を変えていかなきゃいけないんだよ」
「社会に出たら、きっと変えていかなきゃならないんだよ。自分自身に固執したって争いが増えるだけでいいことなんてないんだから。人に任せて人に譲って、のらりくらりと生きていけばいいんだ」

 交差点に差し掛かる手前、右側に走る真っ赤な車に注目を向けながらも、僕はそう答えた。青だった信号が赤に変わる。海斗と僕は、横断歩道の手前で立ち止まる。二人でただ信号機を見つめていると、海斗がボソッとつぶやいた。

「大人になったんだな、和也は。良くも悪くも」

 良くも悪くも? 僕はその言葉が引っ掛かって、海斗に尋ねる。

「何それ? どういうこと?」

 信号が青に変わる。海斗は僕の質問には答えようとはせずに、僕の方を向いてこう言った。

「きっとさ。和也は、優しすぎるんだろうな。だから本当は気にしなくてもいいようなことでも気にするんだよ。なあ和也。でも、俺には、変に気は遣わないって約束しろよ。思ったことは遠慮なく言っていいし、嫌なことがあれば相談しろよ。俺はお前の親友なんだから」


 バスの揺れで目を覚まし、バスの行き先を見て慌ててボタンを押した。『次止まります』簡素なアナウンスの声を聴きながら、僕は先ほど見た夢の内容をぼんやりと想起する。

 昔の、中学時代の自分の夢だった。この体に傷が刻まれるようになる前のこと。そうだった。小学校高学年当たりから次第に人と自分との関わり方について考えを深め、自分の価値観が定まり始めた時、海斗は、そんな優しい言葉をかけてくれていたんだ。

 どうして僕は、このことを忘れていたんだろう。覚えていれば、記憶に残っていれば、こんな傷に今、これほどまでに振り回される必要なんてなかったのだ。『ひとでなし』? 『うらぎりもの』? あの優しい海斗がそんなこと思うはずがないなんて、すぐわかったことなのに。

 僕は静かに膝の上でこぶしを握り締める。星見さんへの気持ちを隠していたとか、そんなことじゃない。僕は、もっと最悪の形で親友を裏切ったんだ。そんな考えが頭をよぎった。人の評価が体に刻まれるというありもしない現実に踊らされて、僕は、本当に向き合うべき対象を間違えていた。どうして、もっと、早く、気付くことができなかったのだろうか。

 病院の手前でバスが停車する。素早くICカードで支払いを済ませて、バスを出る。病院の入り口に向かって駆けだす。頭の中は、早く海斗と話さなければならないという思いでいっぱいだった。

受付で、彼が入院している病室を訪ねて、そこへ向かう。エレベーターを待つのも億劫だったので、速足で階段を駆け上る。一階、また一階と昇っていくごとに、彼と向き合うことへの不安が重くのしかかってくる。それでも、そういった感情を振り払って、少しずつやけくそに、階段を登るスピードを速めていく。

 目的の階に着く。海斗のいる病室を探し、そして見つける。ピークに達する不安。飛び出すかのように激しく鼓動する心臓。再びキリキリと痛みを体中に発生させる傷。僕は、勇気を振り絞ってそれらすべてを一蹴し、ドアを開けた。

 初めて入ったが、日当たりのいい病室なのだろう。窓からは日差しが差し込み、その光は、一人の青年を照らしていた。机に置かれた色鮮やかな果物たち。エアコンに揺られてはかなげに揺れる花々。その青年は、いま目を向けているテレビを消し、こちらを振り向いた。

 彼はきまずそうに笑って、僕に言った。

「よお、久しぶり」

 そしてその時、僕の体中をむしばむ痛みが、さっと和らいだ。そして、自分の胸から感情が徐々にこみあげはじめ、二つの目から涙があふれそうになる。そんなこみあげてくる涙を生じた感情の正体ははっきりとは分からなかった。彼が無事目を覚ましたという安堵感もあったし、自分なんかにこれほど優しい笑顔を投げかけてくれる彼を、今まで誤解していたことの罪悪感もあった。

 僕は、湧き上がる涙をどうにかこらえ、海斗に対して言った。

「ごめん。遅くなった」
「うん、待ったよ。でも、来てくれてうれしい」

 海斗はそう言って、僕に椅子を差し出した。もうすでに体をある程度自由に動かせるぐらいには回復しているようだった。僕は、彼の差し出した椅子にゆっくりと腰かけた。

「なんで、今まで見舞いに来てくれなかったんだよ?」

 彼は、僕にそのように尋ねた。決して強い言い方などではない。優しくて穏やかな声色だった。僕は答える。

「ごめん。正直どんな顔して会えばいいのか、わからなかった」
「どうして? ただ、好きな人が同じだっただけじゃないか」

 ――違う。決してそれだけじゃない。僕は、海斗のことを利用していたんだ。

 心の中で必死にそう訴えかけるも、結局言葉にすることはできず、ただただ押し黙る。そんな僕を横目に見ながら、海斗は言った。

「どうせあれだろ? また気にしなくてもいいようなことをずっと頭の中で繰り返したんだろ?」

 僕は海斗の言葉に静かに頷いた。海斗は、あきれたようにため息をつく。そして彼は、僕に向かって唐突にこのような告白をした。

「なあ、和也。俺、星見さんに告ったよ」
「え?」

 あまりにも予想外な行動に、僕は、思わず素っ頓狂な声を上げる。彼はそんな僕の反応を見て、まるでいたずらでもした子どものような笑顔を浮かべる。

「驚いたろ。俺も、あれほどヘタレだった自分がまさかこのような奇行に走るとは思わなかったよ。でも事故にあってから目が覚めた時気づいたんだ、ああ、人間生きてたら何が起こるかわからないんだから、せめて悔いの残らないような生き方を選択しなきゃダメなんだなって。だから、星見さんお前が来ない間に何回も見舞いに来てくれたから、その時に告った」
「え、待って? 結果は? どうなったの?」

 先ほどまでの気まずさの残った空気を忘れ、僕は、身を乗り出して海斗に尋ねる。彼が
告白を成就させたか否か。この答えを聞くのには、かすかに恐れを感じたが、そんな恐怖心よりも、答えに対する好奇心の方が勝っていた。

「ふられた」

 彼は、ぼーっと窓を眺めながら言った。

「そっか」

 なんて言葉を返していいかわからずに、僕はそれだけを口にする。結果を聞き、心の中でかすかに安堵のため息を漏らしている自分。今海斗とともにいるこの空間でも、自分の中にそのような醜さが存在しているのがたまらなく嫌だった。

 海斗は言葉を続ける。

「ショックで何言われたかちゃんと覚えてないけど、結構ちゃんとふられたよ。まあだから、あきらめるしかないんだろうな。ちゃんと好きだったからこの気持ちは引きずると思うけど、頑張って次の恋に切り替えるよ。和也に相談する前に告白したことは悪かったって思ってるよ。でもお前、見舞いに来ないんだもん。だから、これでおあいこな。お前は星見さんが好きなことを俺に黙ってたし、俺もお前に告白することを黙ってた。だからこの件については、もうおしまい。これからの関係に引っ張る必要も全くなし。わかった?」

 彼は、まくしたてるような口調を用いて、僕にそのように言葉を投げかけた。そして、僕は、その時に、ようやく彼の告白が衝動的なものではなかったということを理解した。

 彼は、きっと、友情と恋、どちらを取るか悩み、そして友情を選ぼうとしたのだ。ただその時にどうしても星見さんへの思いを簡単に捨てきることができなかった。だから彼は、自分の思いを叶う確率の低い告白に踏み切ることによってけじめをつけた。恋愛における彼のネガティブな思考を考慮すれば、まさか彼が、告白が成功すると思っているはずがない。つまり、彼は、僕のために星見さんに振られたのだ。

 目尻にうっすらと涙がたまる。そんな僕の様子に気づいて、海斗が声をかける。

「どうしたんだよ? なんか嫌なところあったか」

 彼は不思議そうな顔をして僕を眺める。僕は、こぶしを握って決意を固める。しっかり謝らなければいけない。彼の優しさを否定してしまったことに。それをしなければ、僕にはきっと彼の隣にいる資格はない。

 僕は胸につかえていた思いを一つ一つ確かに言葉に変える。

「違う。違うんだよ海斗。僕は友人失格なんだ。海斗は、ほんとはこんなにも優しい人なのに、僕は、海斗が僕のことをきっと許してくれないんだろうとばかり思っていた。勝手に海斗の器の大きさを決めつけて、勝手に距離を取っていたんだ。本当にごめん」

 海斗は、僕のことを静かに見つめて、言った。

「和也。なんか書かれてあるのか? その腕に。袖捲ってみろよ」

 彼の要求に応えることは、少しためらわれた。僕の腕に刻まれた苛烈な言葉の数々。それを彼に見せるということは、僕が海斗が、このような気持ちを抱くような人間だと思っていたということを、さらけ出すことに直結するからだ。僕は、彼の言葉に対し、しばらくじっと黙ってうつむいていた。しかし、海斗がそんな僕の様子を見て『はやく』とせかしてくるので僕はしぶしぶ長袖を肘までまくった。

 海斗は、僕の腕を持ち、それをじっと眺めた。そしてぼそりとつぶやいた。

「こんなことお前に思うはずがないのに」

 彼は、ひとしきり腕の傷を眺めた後、顔を挙げて、僕の方を向いた。すると、その次の瞬間、僕の右の頬に強い衝撃が走った。鈍い痛みがじわじわと広がる。僕は驚き、呆然と海斗の方を見つめた。どうやら僕は彼に平手打ちを食らったらしい。

 海斗は静かに僕を諭すように、言葉を紡ぐ。

「なあ、和也。なんで俺が今お前のことを殴ったか、和也はわかるのかよ?」

 僕は、首を横に振った。自分の責任で彼が怒った。それは理解できたのだが、彼にこのような行為を実行させたような強い思いが何なのかは想像がつかなかった。普段暴力など決して振るわない人なのに。

 彼は言った。

「分からないだろうな。きっとその傷にも、俺が思っている事なんてこれっぽっちも刻まれていないんだろ? 俺はな。ずっとお前のことを心配していたんだよ。いつも人のことばかり気にして自分のことを二の次、三の次にするお前がずっと心配だったんだ。だから星見さんのことも最初に聞いたときは、驚いたけど、お前が何も言わずに俺に譲らないでいてくれて本当にうれしかったんだ。それなのに、こんな根拠もない言葉を信じやがって、お前は俺の本当の気持ちに向き合おうとしてなかったんだな」
「そう言ってくれてたんだね。ごめん」

 僕は、目を伏せながら、そう口にした。何も彼に言い返すことはなかった。すると海斗は、そんな僕の頭にポンと手を置き、こう言った。

「でもな、和也。人と人のすれ違いなんてよくあるじゃないか。俺だってお前の本当の気持ちに気づかずに、俺の恋の手伝いをさせていたんだ。おあいこだろ。俺がお前に覚えた怒りは今のビンタで全部だよ。お前が俺に今まで本当の気持ちを隠してたこと、俺の器の大きさを決めつけていたこと、その今までの怒りは全部今のにこめた。お前の体に生じた傷の痛みなんて全く関係ない。そんな傷に刻まれた言葉のような気持ちなんて一切抱いていない。今俺がお前に怒りをぶつけて、お前がそれを全部受け取った。それが全てだろ。だからもう和也も気にしないでくれよ。全部切り替えて元通りにしようぜ。俺たち親友じゃないか」

 その時僕は、あの時救急車で、消失していたものが何だったのかについてようやく気付くことができた。それはやはり僕にとって大切なものであり、かけがえのないものであった。そしてなによりそれは、例えどれほど残酷な真実に直面しようとも、たやすく崩れるものではなかったということを知った。

「うん。ごめん。ありがとう。これからもよろしく」

 目に涙を浮かべ、声をしゃくりあげながら、僕は彼に対してそう声を発する。そして、この日この瞬間、僕は二週間の年月を持って、再び『親友』を取り戻したのだった。
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