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フレンチでリッチな夜でした

その40

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 大通りを行き交う車の駆動音をひぐらしの声が重ね塗った。
 日は西へと大きく傾き、林立するビルのガラスが黄金色の光を反射させている。日暮れ時に差し掛かったとて気温そのものがそこまで低下した訳では無かったが、直上からの日差しが路面に照り返らなくなった分、辺りの空気が涼しさを増したのは事実であった。
 夕時の空を細かな雲が流れ去って行く。
 駅ビルの一階に店を構えるオープンカフェの一角で、美香は食い入るように相手を見つめた。
「で? で、どうなったの、それから?」
 興味津々の眼差しを送る美香の向かいで、アレグラは椅子の背もたれにいささかだらしなく寄り掛かり、にやけた表情を浮かべた。
「や、もう、そっからが大変よぉ~。身内の説得に始まって仕事探しに家探しと齷齪あくせくしっ放しでさぁ~」
 テーブルを挟んで、赤毛の女は相対する少女へと自身の過去を語って聞かせた。
 店の端に置かれたテラス席に腰を据えた二人の周りを、帰宅途中と思しき人々が通り過ぎて行く。日暮れを目前にした大通りの片隅にて、雑踏の放つ喧騒の隙間に女二人の声は殊更ことさらに目立つ事も無く吸い込まれて行った。
 テーブルに置いた抹茶ラテをすすった後、アレグラは大袈裟に苦笑して見せた。
「特にうちのなんか、あたしが旦那と一緒にプロテスタントに入るっつった時ゃ、そりゃもう滅っ茶難しい顔してたからねぇ」
「へぇ……」
「うん、今でも良~く憶えてるよ~。あ~んな痛しかゆしそのものな顔した所は前の二百年で二回と見た事無かったから」
 真向かいで目を丸くした美香へ、アレグラは懐かしそうに、あるいはくすぐったそうに述べたのだった。
「ま、それでもしまいにゃ向こうが折れてくれたんだけどね~。『俺はお前らを信用すると言う形で責任を取った。なら、お前らもそれに相応しい義務を果たせ』とか何とかぶつくさ抜かして」
 卓上に置いたピーチフレーバーのアイスティーを一口すすり、美香はそんな相手を、上目遣いにうかがうようにじっと見つける。
「んじゃ、旦那さんとはずっと一緒に?」
「そうそう。だからあたし、牧師の奥さんを彼是かれこれ五十年近くやってたんだよねぇ~。田舎の教会で日々真面目にお勤めよぉ。他にも日曜学校の先生をやったり、医師や薬剤師としても働いたり、今からじゃちょっと考えらんない生活してた。よく身が持ったと思うわ、我ながら。子供も七人産みながらでさぁ~」
「七人!?」
 最後の一節を耳にするなり、美香は唐突にむせ返りそうになった。
 聞き手が目を白黒させる一方、当の発言者は事も無げに言葉を続ける。
「うん。最初の一人目の時はおっかなびっくりだったんだけど、割と何とかなりそうだったから、後は弾みでポンポンポンと」
「ひええ~……!」
 驚き半分憧れ半分の眼差しを以って、少女は向かいに座る人生の先輩を改めて捉えたのであった。
 その大いなる先達はテーブルに軽く頬杖を付いて、意地の悪い笑みを急に浮かべて見せる。
「でもね~、旦那の首根っ子だけはしっかり押さえといたよ。子供達から『パパとママはどうして結婚したの?』な~んて訊かれる度に、あの人も途端にしどろもどろになっちゃってたから。そりゃ流石に言えないでしょ~。馴れめが街中まちなかでの決闘だったとか、ハートに物理的にアタックしようとしたとか~」
「はは……」
 その場の受け答えに窮した美香は苦笑を返したが、そこでふと湧いた疑問を率直に口にする。
「……アレねえのお子さん達、て言うか子孫の人達?、って今どうしてんの?」
 問われたかつての母親は、西の空をちらと見上げた。
「ん~、あっちゃこっちゃで色々やってるみたいよ~。この国にも何人かいるし。曾孫の代まではそれとなく見守ってたんだけど、そっから先となると流石に数が多くなってねえ~、全員は把握し切れてないわあ~。や、勿論もちろん喜ぶべき事ではあるんだけども」
 答えた後、アレグラはふと鼻息をついた。
 空を仰ぐ彼女の頭上に小さな浮浪雲が浮かんでいた。
 ひぐらしの声が薄く黄金色に輝く空に吸い込まれた。
「……あれから革命だの戦争だのと色々難儀な事が続いたけども、どうにかこうにか乗り切れたからねぇ。どんな時でも皆で元気に暮らせたのが、今にして思えば何よりだったかなぁ……」
 沈み行く夕日と何処か似通った所のある、しんみりとした述懐であった。
 そんな相手の横顔を美香は静かに見つめた。
 だが程無くしてアレグラは顔を戻し、向かいの席に座る後輩へと暖かな眼差しを向けた。
「やァ、だからあれよ、あれな訳。あたしが言いたいのは、世の中、思い切ってやってみりゃ案外何とかなる事が結構多いんだって話な訳よ。案ずるより産むが易しって奴? うん、まあ要するにそういう事」
「ああ……」
 飲み物を両手に持ったまま、美香は小さくうなずいた。
 数瞬の空白を経て、小さな独白が少女の唇より漏れ出す。
「……うん。そうかもね……」
 むしろ自身に言い聞かせるように、彼女はうつむき加減で首肯しゅこうしばし繰り返すのだった。
 そんな少女の様子を、遠き日の己の影姿を宿した小さな後継者を、赤毛の女は暖かに見守ったのであった。
「ま、これも何かの励みになればって事で」
 アレグラは話を結んで、にっこりと微笑んだ。
 夕暮れ時、駅前の繁華街には喧騒が増して行く。
 車のクラクションの残響を追うようにして、ひぐらしの甲高い声が街並みの奥にまでまた染み透った。

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