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10 グノシスの襲来
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涙ぐみながら眠ったせいか、翌日のフラエの目は糸のようになっていた。できるだけ顔面を修復しようと、蒸らして温めた布で応急処置を試みる。なんとか尋常でなくむくんだ状態から、非常にむくんだ状態になったのでよしとした。
休日明けの気だるい朝支度を終えて、長い髪を雑にくくる。出勤用の鞄を持ち、自室から出て、鍵をかけた。あくびをしながら底のすり減った革靴でぺたぺたと歩き、寮から出る。雪の月が終われば蕾の月。早春が来れば、フラエの二十五歳の誕生日だ。二十五にもなれば、祝われなくたって別に構わない。十一歳から十九歳までは、心から楽しみにしていた、蕾の月の終わりにある特別な日。
「あー、やだやだ」
低く呟き、道端の小石を蹴り上げながら歩く。昨日まで晴れていた空は重苦しく曇り、じめじめしている自分が気持ち悪い。ムカムカして暴力的な気分だが、大人の自分は誰かに殴りかかることは決してない。現在進行形で腹を立てている相手がたまたま通りかからない限り、絶対にそれはしない。フフ……とほの暗い笑みを浮かべながら歩くフラエは、どこから見ても荒んだ雰囲気を放っていた。
「フラエ」
どこかから名前を呼ばれる。懐かしさを覚えてふと声の方を見ると、輝かしい笑顔を浮かべて手を振るグノシスが向こうに立っていた。どうしようかな、とフラエは怒りを通り越して途方に暮れてしまった。
幻覚の可能性も考えたが、それは駆け寄ってきてフラエの手を強く握る。火属性持ちらしい高い体温が、じっとり掌全体を覆った。本物らしい、と思わず拳を握りしめれば、何かを警戒したグノシスが、フラエの両手を自らの両手でまとめて包む。
「そんな顔をするな」
甘く囁く声が余計に腹立たしかった。沸点を通り越して感情が蒸発したフラエは、ストンと無表情になる。
「あなたがいなければそんな顔もしないんです」
「怒った顔も、すごくかわいい」
背筋に冷たいものが走る。ウワ……と思わず口から漏れた声に、服を着た傲岸不遜がちょっと傷ついた顔をした。やんわり彼の大きな手を剥がして、側に控えているはずの侍従たちを探す。物陰に見えたその姿に、少しだけほっとした。どうやら無断で抜け出してきたわけではないらしい。
「散歩に来たんだ」
グノシスが住む王宮は、ここから四半刻(一日を十二刻とし、一刻を四で割った時間の長さ)ほど歩いた場所にある。彼の普段の運動量からすれば考えられないことはないが、普段この辺りでグノシスを目撃したことはない。フラエからの疑惑の視線に耐え切れなかったのか、グノシスは「フラエに会いにきた……」と情けない声で言った。
「会って話がしたかった……」
甘ったれた発言に、思わず鼻で笑ってしまう。彼はめげずに「ずっと、お前が好きなんだ」と言い募った。フラエは白い目でグノシスを見上げ、ふん……と鼻を鳴らした。今更すぎる言葉に、返すものなんてない。
「殿下」
「あの頃のように、グノシスと呼んでくれ」
「出勤の途中ですが、殿下のご用命とあらばお相手いたします」
冷たい態度にも、彼が腹を立てる様子はない。ただ寂しそうに、フラエに微笑みかけた。
「いい。……フラエは今、研究者だからな。仕事の邪魔はしない」
そう言って、あっさり手を離す。ひどく驚いてグノシスを見上げれば、彼は「お前がずっとしたかったことだから」と、健気なことを口にする。
「ずっと、言えてなかった。……研究所への就職おめでとう、フラエ」
目の前の存在は、本当にあのグノシスなのだろうか。口を抑えて侍従に目配せすると、彼らはハンカチで目元を抑えていた。怖くなって後退りすると、グノシスは「俺は、変わる」とフラエを見据えて声を張った。
「だから、俺を見ていてくれ。五年前とは違うんだ」
その言葉をフラエは思わず、また鼻で笑ってしまった。一体そんな言葉を吐いた人間のうち何人が、本当に変わることができたのだろう。それに今更彼が変わったところで、グノシスにあげたかったフラエの大切なものは、もうないのだ。
「酢になった酒は、酢のままなんですよ」
捨て台詞を吐き捨てて、彼の返事を待たずに踵を返した。振り返らず、早足に歩き出す。だからグノシスがどんな顔をしていたか、フラエは知らないままだった。グノシスは目が節穴なので、フラエが泣き腫らした目をしていることに、最後まで気づかなかった。
休日明けの気だるい朝支度を終えて、長い髪を雑にくくる。出勤用の鞄を持ち、自室から出て、鍵をかけた。あくびをしながら底のすり減った革靴でぺたぺたと歩き、寮から出る。雪の月が終われば蕾の月。早春が来れば、フラエの二十五歳の誕生日だ。二十五にもなれば、祝われなくたって別に構わない。十一歳から十九歳までは、心から楽しみにしていた、蕾の月の終わりにある特別な日。
「あー、やだやだ」
低く呟き、道端の小石を蹴り上げながら歩く。昨日まで晴れていた空は重苦しく曇り、じめじめしている自分が気持ち悪い。ムカムカして暴力的な気分だが、大人の自分は誰かに殴りかかることは決してない。現在進行形で腹を立てている相手がたまたま通りかからない限り、絶対にそれはしない。フフ……とほの暗い笑みを浮かべながら歩くフラエは、どこから見ても荒んだ雰囲気を放っていた。
「フラエ」
どこかから名前を呼ばれる。懐かしさを覚えてふと声の方を見ると、輝かしい笑顔を浮かべて手を振るグノシスが向こうに立っていた。どうしようかな、とフラエは怒りを通り越して途方に暮れてしまった。
幻覚の可能性も考えたが、それは駆け寄ってきてフラエの手を強く握る。火属性持ちらしい高い体温が、じっとり掌全体を覆った。本物らしい、と思わず拳を握りしめれば、何かを警戒したグノシスが、フラエの両手を自らの両手でまとめて包む。
「そんな顔をするな」
甘く囁く声が余計に腹立たしかった。沸点を通り越して感情が蒸発したフラエは、ストンと無表情になる。
「あなたがいなければそんな顔もしないんです」
「怒った顔も、すごくかわいい」
背筋に冷たいものが走る。ウワ……と思わず口から漏れた声に、服を着た傲岸不遜がちょっと傷ついた顔をした。やんわり彼の大きな手を剥がして、側に控えているはずの侍従たちを探す。物陰に見えたその姿に、少しだけほっとした。どうやら無断で抜け出してきたわけではないらしい。
「散歩に来たんだ」
グノシスが住む王宮は、ここから四半刻(一日を十二刻とし、一刻を四で割った時間の長さ)ほど歩いた場所にある。彼の普段の運動量からすれば考えられないことはないが、普段この辺りでグノシスを目撃したことはない。フラエからの疑惑の視線に耐え切れなかったのか、グノシスは「フラエに会いにきた……」と情けない声で言った。
「会って話がしたかった……」
甘ったれた発言に、思わず鼻で笑ってしまう。彼はめげずに「ずっと、お前が好きなんだ」と言い募った。フラエは白い目でグノシスを見上げ、ふん……と鼻を鳴らした。今更すぎる言葉に、返すものなんてない。
「殿下」
「あの頃のように、グノシスと呼んでくれ」
「出勤の途中ですが、殿下のご用命とあらばお相手いたします」
冷たい態度にも、彼が腹を立てる様子はない。ただ寂しそうに、フラエに微笑みかけた。
「いい。……フラエは今、研究者だからな。仕事の邪魔はしない」
そう言って、あっさり手を離す。ひどく驚いてグノシスを見上げれば、彼は「お前がずっとしたかったことだから」と、健気なことを口にする。
「ずっと、言えてなかった。……研究所への就職おめでとう、フラエ」
目の前の存在は、本当にあのグノシスなのだろうか。口を抑えて侍従に目配せすると、彼らはハンカチで目元を抑えていた。怖くなって後退りすると、グノシスは「俺は、変わる」とフラエを見据えて声を張った。
「だから、俺を見ていてくれ。五年前とは違うんだ」
その言葉をフラエは思わず、また鼻で笑ってしまった。一体そんな言葉を吐いた人間のうち何人が、本当に変わることができたのだろう。それに今更彼が変わったところで、グノシスにあげたかったフラエの大切なものは、もうないのだ。
「酢になった酒は、酢のままなんですよ」
捨て台詞を吐き捨てて、彼の返事を待たずに踵を返した。振り返らず、早足に歩き出す。だからグノシスがどんな顔をしていたか、フラエは知らないままだった。グノシスは目が節穴なので、フラエが泣き腫らした目をしていることに、最後まで気づかなかった。
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