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1巻
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しおりを挟む第一話 いらっしゃいませ神官様
「――ニケよ、我らが守護神。罪深きこの身を、どうかお許しください」
静寂が支配する礼拝堂の中。正面扉の上の窓から西日が差し込み、人気のない堂内を神秘的に照らし出す。青を基調とするステンドグラスを通った光は、祭壇の後ろに佇む乙女の石像の、そのたおやかな指先に止まる小鳥を青く染め上げていた。
それを眺める者は誰もいない。ただ光のあまり届かぬ一角に、わずかに人の気配があった。
ひっそりとした小部屋の中、跪き背を丸め、顔の前で両手を組んでいるのは、いかにも紳士然とした若い男だ。ふんわりとしたクラバットを留めるダイヤモンドが、ステンドグラス越しの明かりを受けてきらりと光る。
金色の睫毛を伏せた彼の絞り出すような声が、静寂の中に響いた。
「私は……婚約者がありながら、別の女性に恋をしてしまいました」
細い格子を嵌め込んだ上、カーテンで仕切られた小窓――その向こうで男の言葉を聞いていたのは、年若い少女である。彼女は二つに分けて緩く編んだ栗色の髪を愛らしいかんばせの横に垂らし、白い襟が付いた濃紺のワンピースを身に着けていた。
少女は男の言葉に何かを返すことはなかったが、青い両目を零れんばかりに見開いて――
(ここ、恋愛相談室じゃないんですけど!?)
心の中で抗議した。
礼拝堂の隅に作られたこの小部屋は懺悔室と呼ばれ、犯した罪を神に告白して許しを請うために存在している。
ここウェステリア王国は、姿無き守護神ニケを信仰する敬虔な単一民族国家だった。
国内には多くの神殿が建てられており、人々の告解は各地を管理する神官がニケに代わって受け止める。
しかしながら、今まさに男の懺悔に耳を傾けている少女は、実のところ神官ではない。かといって、少女が男を謀ろうとしているわけでもない。男の方もカーテンの向こうにいるのが彼女であると承知の上で語り掛けていた。
「――エマ」
エマ、というのが少女の名だ。
今から十八年前、この神殿で女の赤子が産み落とされた。
母親は出産後間もなく亡くなり、父親は誰だか分からない。母親には身寄りがなかったため、神殿の責任者である神官が親代わりとなって育てた。その赤子がエマだ。
「エマ、君が好きだ――愛しているんだ」
「……ひえっ!?」
唐突な告白に、エマは堪らず悲鳴を上げる。驚いた拍子に右足の小指を椅子の足にぶつけてしまった。あまりの痛みに身悶えていると、相手の男はやにわに立ち上がり、互いの顔を隠していたカーテンを乱暴に開いた。
そして、格子窓の向こうにあるエマの涙目を、告白に感涙しているとでも勘違いしたのか、喜々として語り出す。
「そもそも、婚約者は兄が勝手に決めたんだよ。私は、まだ結婚など望んでいなかった。せめて心の準備をするだけの猶予が欲しくて、この町に来て――君と出会ってしまった」
エマを見つめる緑色の瞳は熱を帯びている。彼がぐっと身を乗り出すのに合わせて金色の髪がその肩をさらりと滑った。優しげな面差しの、実に美しい男だ。襟元で光るダイヤモンドのように、全体的にキラキラとしている。
ただ、その形良い唇から吐き出される言葉はひたすら独善的だった。
「口惜しいが、もはや兄が決めた結婚を破棄することはできない。私はどう足掻いても、あの婚約者を妻に迎えねばならないだろう」
「……」
「けれど、エマ――私は君を諦めたくない」
「……」
男が熱の籠った声で語るも、エマはずっと口を閉ざしたままだった。
ぶつけた小指が痛過ぎて、それどころじゃなかったのだ。
そもそも、懺悔室において神官の対応というのは、ほぼ定型化されている。
神官は人々の告解に対して肯定も否定も、ましてや反論することもなく、聞き役に徹するのだ。
もちろん、告白された罪の重さにかかわらず、決してそれを外部に漏らさぬよう守秘義務も課せられている。
相手が胸の内の澱みを吐き出すだけ吐き出して満足したら、神官は最後に「ニケの許しを得られるよう、ともに祈りましょう」という台詞で締めるのが一般的であった。
(だから、私は個人的な言葉を返せないって、この人も分かっているはずなのに……)
分かっていて求めているのならば尚更たちが悪い。男はなおも続けた。
「もうすぐ、私はこの町での任期が終わる。王都に戻る際、君にも付いてきてもらいたいんだ。正妻にできないのは心苦しいが……決して苦労はさせないと約束する。私が愛しているのは、ニケに誓って君だけだ」
神に罪を告白する場において、不貞の愛を誓う男の冒涜に、エマはただただ戦いた。
心臓に毛が生えている人というのは、きっと彼みたいな輩を指すのだろう。
男は再びその場に跪くと、両手を顔の前で組んで祈るように呟いた。
「――ニケよ、我らが守護神よ。罪深きこの身を、どうかお許しください」
ここで、告解に立ち合ったエマが返すべき言葉は、件の定型文――『ニケの許しを得られるよう、ともに祈りましょう』一択だ。
けれども、これを口にしてしまえば、エマ自身も不貞を肯定しているようではあるまいか。冗談ではない。
個人的には、身勝手な言葉を連ねる男の心臓に生えた毛を毟ってやりたいほど業腹だったし、一昨日おいでと言えるものなら言ってやりたい。
だけど、神官代理としてはどう返すのが正しいのか分からず、言葉がすぐに出てこない。
「ええっと……あの、ですね……」
格子の向こうの気配がだんだんと焦れていく。意外に短気な相手に、エマはひどく狼狽えた。
ガタリッと大きな音を立てて格子窓が揺れる。
びくんと肩を跳ねさせたエマが何事かと顔を上げれば、男が両手を格子窓に押し付けていた。
「ねぇ、エマ。ともに祈ってはくれないのかい?」
「わ、私は……」
「私が君を愛することは、そんなに許されないことなのだろうか」
「……」
礼拝堂に差し込んでいた西日はいつの間にか真っ赤になって、青いステンドグラスをも染めていた。格子越しにこちらを覗き込む男の顔は真っ黒な影になり、その輪郭を光らせる入日の赤がどこか禍々しい。
(ひええっ……!!)
えも言われぬ気味の悪さを覚えたエマは、心の中で盛大に悲鳴を上げて後退る。男はとたんに、悲痛な声で叫んだ。
「私は、自由にならない我が身を嘆くことしかできないんだ! それを哀れと思うなら、一言……たった一言でいい! 君の口から、許すと言ってもらいたい! そうすれば、私はニケにも許されたような気持ちになれるだろうからっ……!!」
めちゃくちゃな言い分だ、とエマは思った。けれども同時に、男を哀れにも感じる。彼が自由気ままに生きられる立場ではないのは確かだったからだ。
自分の一言で本当に男の気持ちが晴れるならば、それこそ神官代理としてここにいるエマは「許す」と告げるべきなのではなかろうか。そんな風に思い至ってしまったエマは、男に望まれた言葉を紡ごうとする。
「許しま……」
しかし、その時だった。
エマの言葉を遮るかのように、彼女の背後にある扉が突然開き――
「――許しません」
舌鋒鋭くそう告げたのは、聞き覚えのない男性の声だった。
驚いたエマが声の主を振り返るより早く、背後から伸びてきた手がバンッと大きな音を立てて格子窓に叩き付けられる。
「ひえっ……!?」
「うわっ!?」
エマだけではなく、格子窓の向こうの男も驚いて声を上げた。エマの頭の上で、闖入者が口を開く。
「神の御許でいたいけな乙女に不道徳な関係を迫るなど、唾棄すべき振る舞いです。――恥を知りなさい」
語調は凪いでいるものの、言葉は格子窓の向こうの男を厳しく断罪するものだった。
自分が責められているわけでもないのに、エマは身を縮こまらせる。
「まずはその独善的な考えを悔い改めなさい。ニケに許しを請うのは、それからですよ」
畳み掛けられる正論、何より突然現れた第三者の存在に、格子窓の向こうから明らかな狼狽が伝わってくる。直後、男はひどく慌てた様子で懺悔室を飛び出していった。
バタバタと走り去る足音を、エマはぽかんとして聞く。頭上からは、やはり聞き慣れない声がため息とともに降ってきた。
「やれやれ、尻尾を巻いて逃げ出しましたね」
「……」
誰とも知れぬ相手と二人っきり。エマは勇気を振り絞り、今度こそ身体ごと背後を振り返る。できることなら、自分も格子窓の向こうにいた男と同様に、この場から逃げ出してしまいたかった。
ところが、そんなエマの思惑を見透かしたかのように、さらに手が伸びてきて格子窓に叩き付けられた。
――バンッ!!
「ひええっ」
真っ黒い袖に包まれた二本の腕が、エマを間に閉じ込める。
後方は格子窓の嵌った壁、前方には腕の持ち主の身体。
完全に逃げ場を失ってしまったエマは、恐る恐る闖入者の顔を見上げる。
「……おや」
目が合ったとたん、そう呟いて眉を上げたのは、見知らぬ人物であった。
薄暗い場所であるためはっきりとしないが、暗色の髪に淡い色合いの瞳をした青年だ。
年の頃は、先ほどまで格子窓の向こうにいた男より少し上だろうか。何にしろ、エマよりずっと大人の男性だった。
「おや、おやおや」
「あ、あの、あの……」
ずずいっと迫ってきた相手にエマは狼狽える。
彼は端整な顔立ちをしていて、年頃の娘であるエマはほんのりと頬を赤らめた。
そして、ここでようやく相手の服装に目を留め、あっと小さく声を上げる。
「――もしかして、新しく赴任されてきた神官様、ですか?」
彼は、ウェステリア王国の神官の正装である真っ黒い詰襟の祭服を纏っていた。
本日ここ、ウェステリア王国の北端――国境沿いにある町アザレヤの神殿には、遠く離れた王都プルメリアより、新任の神官がやってくることになっていたのだ。
エマの問いに、祭服の青年は温和な笑みを浮かべて頷いた。それにしても距離が近い。
エマはいまだに彼の両腕に囲われたままだ。
「ご明察の通り、本日付けでこちらに着任いたしました、アルバート・クインスと申します」
「はじめまして、神官様。エマと申します」
あまりの距離の近さに居心地の悪さを覚えながらも挨拶を返せば、何故か目の前の端整な顔が曇った。
「いやですねぇ、神官様だなんて。随分と他人行儀ではありませんか。私とあなたの仲ですのに」
「えっと、あの……神官様と私の仲って、どういうことですか?」
「どうかアルバートとお呼びください。あなたの夫に気兼ねはいりませんよ」
「……ん?」
アルバートは言葉遣いが丁寧で物腰柔らかな青年だった。
けれど、その台詞に理解し難い単語を見つけてしまったエマは、大きく首を傾げる。
「お、おっと? 夫、ですか……?」
「はい、そうです。夫ですよ」
「……誰が、誰の、です?」
「私が、あなたの――エマの、です」
長身を屈め、耳元に囁くみたいに吹き込まれた低い声。
アルバートが初めて紡いだエマの名は、睦言めいた色を帯びていた。
とたんに背筋がぞくぞくし、驚いて彼から距離を取ろうと後退ったエマだったが、すぐに背中が格子窓に当たって止まる。
「は、はじめまして、ですよね!?」
「ええ、はじめましてですね。私のエマ」
追いつめられ、必死で頭の中を整理しようとするエマを見下ろすアルバートは、心底楽しそうだ。答える声は、まるで本当にエマを想っているかのように、とてつもなく甘い。
「ええっと、ええっと……も、もしかして〝前世で夫婦だった〟とか、そういう話ですか!?」
「ふふふ……いえいえ、残念ながら前世の記憶はございませんので。私が申しておりますのは、今世の話ですよ」
「ら、来世の話とかでもなく……?」
「ははは、来世ですか。それはまだ、考えておりませんでしたが……」
愉快そうに答えたアルバートに倣い、エマは「ご冗談を」と笑い飛ばそうとした。
けれど、額が触れ合いそうなほど顔を近づけてきた彼がうっとりと紡いだ台詞に阻まれる。
「いいですね。来世も、来来世も――なんでしたら、未来永劫番いましょうか?」
どうしよう……なんかやばい人、来ちゃった……
想定外の状況に、エマは気が遠くなるのを耐えるので精一杯だった。
********
「……はああ」
西の山際に太陽が沈み切る。それを待って礼拝堂の正面扉を施錠したエマは、裏手にある神官用住居の台所でようやく一息ついていた。
ため息とともに大きく上下した彼女の肩には、空の色を映したような青い小鳥が止まっている。
丸っとした体形と円らな瞳が愛らしい小鳥は、エマの緩く編んだ栗色の髪に戯れついていたが、ふと彼女の耳元に嘴を近づけると、さえずる――ではなく、しゃべった。
『男運がないねぇ、エマは』
愛らしい見た目に反し、円熟した女性を思わせる艶っぽい声だ。
インコの仲間には、舌が肉厚で柔らかく自由に動かせることや、発声器官が発達しているために、人間の言葉を流暢に話す個体も少なくない。野生においては群れで生活する彼らは、同じような鳴き声を発することでコミュニケーションを取る。そのため、親や仲間の鳴き声を真似する習性があった。つまり、言葉の意味を理解しているわけではなく、あくまで人間が発した音を真似しているだけなのだ。
ところが、この小鳥はまるでエマのため息の原因がわかっているかのように言葉を発した。しかしエマは驚いた様子もなく、肩に乗った小鳥をじとりと睨んで言い返す。
「……ほっといてよね」
『せっかく求愛してきたと思ったのに、言うに事欠いて妾になれだなんてねぇ』
「め、妾とかっ……そんな風には言われてないからっ!」
『だがあの男、お前を正妻にはできないとはっきり宣っただろう? まったく、百年の恋も一時に冷めるわなぁ』
エマと小鳥の間では、明らかに会話が成立している。というのもこの小鳥、自身こそがウェステリア王国の守護神ニケそのものであると自称している特別な鳥なのだ。
人間の言葉を理解して操ることができるのも、ただの小鳥ではないからこそなのだとか。とはいえ、現在のところ、意思の疎通が可能な相手はエマだけらしいのだ。
そもそも守護神ニケには明確な偶像が存在しない。誰も、ニケがどんな姿をしているのかは知らないのだ。だからエマも、生まれた時から側にいるこの小鳥が、真実ニケであるのかどうかを見極める術を持たない。
ニケと会話ができることを、物心ついた時からエマは周囲の誰にも――育ての親である神官にも話していなかった。その理由は、最初にニケ自身から他言しないように言い含められたからである。そして、その判断は正しかったのだとエマは年を重ねるごとに痛感していた。
もしもエマが、この小鳥が守護神ニケそのものである、自分とだけ会話ができる、なんて打ち明けたところで、きっと周囲の人々は信じてくれなかっただろう。妄想が過ぎると笑われるか、嘘つきだと詰られるか。最悪の場合、偉大な神をちっぽけな小鳥に例えるとは、と糾弾されたかもしれない。
そういうわけで、他人の目や耳に充分注意を払いつつ、エマと自称守護神ニケの関係は現在まで続いていた。
『それにしても、あの男は随分楽天的だねぇ。エマを妾にして囲う甲斐性があったとして、兄と婚約者にそれをどう納得させるつもりだったんだろう?』
「……知らない。何にしろ、私がレナルド殿下に付いていくことはないわ」
レナルド、というのが夕闇迫る懺悔室にて告解を敢行した男の名だった。
それを知っていながら、エマがあの時決して彼の名を口にしなかったのは、懺悔室の匿名性を守ろうとしたためだ。神官代理として相応の責任を持って、エマはあの場にいたのである。
ちなみにその時ニケはというと、祭壇の後ろに佇む石像――〝鳥籠の乙女〟の指先に止まって一部始終を傍聴していたらしい。
〝鳥籠の乙女〟とは、端的に言うと守護神ニケに仕える侍女だ。
王都プルメリアにある大神殿。その敷地内に立つ塔の天辺には、ニケが住むと言われる部屋がある。その外観が鳥籠に似ていることから、部屋の管理を任された女性をそう呼んだのが始まりらしい。
守護神ニケがどんな姿をしているのか分からないため、ウェステリア王国の人々は代わりに〝鳥籠の乙女〟を祀るようになったのだと、古い文献に記されている。
現在石像は、王国内にある全神殿の礼拝堂に設置されているという。
そんなウェステリア王国に、前国王の第三子として生を享けたのが、レナルド・ウェステリアだった。
彼が、国境沿いの町であるこのアザレヤの駐屯地に国軍中将として赴任してきたのは、今から五ヶ月ほど前のことだ。半年間の任務を終えれば、国軍第二位に当たる大将に昇進することが決まっていた。そして……
「殿下は、王都に戻ると同時に結婚式を挙げる予定になっている。そんなの、最初から知っていたもの」
『――でも、エマはあの男が好きだったんだろう?』
からかうようだったニケの声色が一転、優しいものに変わる。
柔らかな羽毛に包まれた小鳥の頭に頬を擦り寄せながら、エマは小さく息を吐いた。
「……好きってほどじゃないよ。少し憧れていただけ。子供の頃に見た絵本の中の王子様みたいだったから……」
エマがレナルドと初めて会ったのは、彼が赴任の挨拶のため神殿を訪れた時だった。
その後もレナルドは国軍の高官として、駐屯するこのアザレヤの地の神殿に敬意を表し、頻繁に足を運んでは〝鳥籠の乙女〟に祈りを捧げていた。その際、神殿の小間使いに過ぎないエマに対しても、彼はどこまでも優しく紳士的に接してくれたのだ。
淡い金色の髪とエメラルドのような緑の瞳、すらりとした長身に軍服を纏った生粋の王子様。思春期まっただ中のエマが仄かな恋心を抱いたのも、不思議なことではないだろう。
だから彼に懺悔室で、「私が愛しているのは、ニケに誓って君だけだ」と言われた時、まったく嬉しくなかったと言えば嘘になる。
ただ、彼には兄――現国王リカルド・ウェステリアが決めた婚約者がいた。そして、レナルドにその決定を覆す、あるいは代替案を提示するほどの権力はない。それが分かっている状況で彼からの告白に有頂天になれるほど、エマは暢気な性格をしていなかった。
「私は、殿下に気持ちを伝えるつもりは最初からなかった。殿下に想ってもらうなんて、そんな烏滸がましいこと望んでなかったのに……」
エマは確かにレナルドに対して恋慕の情を抱いていたが、それは彼の恋人になりたいとか、ましてや婚約者から奪い取りたいと願うような激しい愛情ではなかった。
彼がアザレヤでの任期を終えて王都に戻る時、自分の恋心に幕を下ろすと決めていたのだ。だから、今日の懺悔室での出来事はエマにとって予期せぬ展開であったし、レナルドの願いは到底受け入れられるものではなかった。
『では、第三者に介入させたのは正解だったねぇ』
「新しい神官様のこと? ニケが連れてきたの?」
『あの者が、ちょうどいい時に礼拝堂に現れたんだ。ここの責任者はどこかと尋ねるものだから、白熱していた懺悔室に誘導したのさ』
「あの人、ニケに聞いたんだ……しゃべれるインコだとでも思ったのかな?」
結果的に、荒ぶったレナルドからエマを救うことになった新任の神官アルバート・クインス。
インテリっぽい雰囲気の彼が、小鳥姿のニケに話し掛けている絵面はちょっと想像がつかない。
あの後エマは、閉じ込められていたアルバートの腕の間からなんとか抜け出して、彼を礼拝堂裏の神官用住居へと案内したのだった。
ふと窓の外を見ればすっかり闇に包まれ、時刻はちょうど夕食時。エマは気を取り直して食事の準備を始めた。
初対面で夫宣言をしたアルバートに対して思うところはあれど、王都から遠路遥々アザレヤまでやってきた彼のために、ささやかな歓迎の席を用意することにしていたのだ。
前菜は、エマが台所の窓辺に小さなプランターを並べて育てているベビーリーフのサラダと、ラディッシュのヨーグルト漬けだ。
黒っぽい見た目の自家製パンは、ライ麦を使用している。ウェステリア王国の北端にあるアザレヤは小麦の育ちにくい寒冷な地域で、比較的寒さに強いライ麦が多く栽培されているのである。
主菜は、塩漬けにした豚のすね肉を、様々な香味野菜や香辛料とともに数時間煮込んで作った郷土料理。酢漬けのキャベツや粒マスタードを添えて食べる。
エマの肩から調理台へと移動し、サラダからあぶれたチコリーの若葉を啄むニケを他所に、エマが料理を盛りつけた皿をせっせと運ぶのは、台所と続きになっているリビングだ。時折町の重鎮が集まることもあり、十人は一緒に食事を楽しめるくらい大きなテーブルが置かれている。
そのテーブルを挟んで、エマが懺悔室から引っ張ってきた新任の神官アルバートと、彼と同じく黒い祭服を纏った高齢の女性が向かい合っていた。
この老婦人こそが、身寄りのないエマを育ててくれたアザレヤの正式な神官であり、この神殿の責任者。エマにとっては、これまでの十八年間を一つ屋根の下で過ごした、唯一の家族だった。
ウェステリア王国では、飲食に関する戒律はほとんどない。神官であっても肉や酒、煙草などの嗜好品を口にして問題なかった。
「――ああ、美味しかった。ご馳走様です。エマはとても料理が上手なんですね」
エマが出した料理は、アルバートに非常に好評だった。
多めに用意していた豚のすね肉もあっと言う間に彼の腹に収まって、その食べっぷりといったら見ていて気持ちがよかったくらいだ。かといって食べ方が粗雑なわけではなく、カトラリーの使い方もマナーを損なわず、上品だった。
デザートとして出したレモンのタルトもペロリと平らげて、アルバートは至極満足そうだ。
「あなたの夫となる男は幸せ者ですね――おっと、すみません惚気ました。その幸せ者は私です」
「……」
紅茶をカップに注いでいたエマは、アルバートの言葉が聞こえなかった振りをする。
一方、彼の向かいに座っている老婦人――アザレヤの神殿を長年管理してきた女性神官ダリアは、コホンと一つ咳払いをしてから、左手の書類を老眼鏡越しに眺めた。あまり顔色は優れず、神経質そうな雰囲気がする。
「……神学校を首席で卒業し、その後、四年間大神殿の考古学研究室に主査として勤務。何を研究していらっしゃったの?」
「主に、ウェステリア王国や周辺国家の成り立ちと、守護神ニケに関する古い逸話についてです」
ダリアが手にしているのは、王都にある大神殿から送られてきたアルバートの履歴書だ。普通は新任者決定の知らせに同封されるべき書類だが、ちょっとした手違いで着任当日、しかもアルバート本人が持参する結果となった。おかげで、名前と性別しか分からない相手を迎えねばならなかったエマとダリアは、今日まで随分落ち着かない日々を過ごしたものだ。
「研究室の後は、監督官に就任……実に華々しい経歴をお持ちですこと」
アルバートの履歴書に一通り目を通したダリアは、老眼鏡を外すと、じっと探るような視線を彼に向ける。監督官とは、大神殿の中でも上位の管理職だ。各地にある神殿を指導し統制する立場であり、まだ二十六歳になったばかりという彼が就くにはいささか早過ぎる感が否めない。
それだけアルバートが優秀だとするならば、何故今回、アザレヤという辺境の地の神殿に赴任することになったのか。生まれ育った町を貶めるようで申し訳ないが、エマから見てもアザレヤは時代に取り残されつつある寂れた町だ。
「もしかして、左遷されたんですか?」
「これっ、エマ」
紅茶のカップを差し出しながらさらりと聞いたエマを、ダリアが窘める。
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