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1巻

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 しかし、アルバート本人はエマの不躾ぶしつけな質問を軽快に笑い飛ばした。

「あははは。いえいえ、そんなヘマはいたしませんよ。アザレヤへの赴任は自分で希望したんです」
「それこそ、どうしてです? もっとさかえた町の大きな神殿を希望なさらなかったんですか?」

 左遷させんでないとすると、アルバートくらいのエリートならば、どこへ赴任先の希望を出しても叶うだろう。そう言外げんがいに含ませたエマに、彼はにこりと笑って答えた。

「ここに、あなたが――エマがいたからです」
「……そういう冗談は結構です」

 田舎いなか娘のエマをからかっているのか、それとも答えをはぐらかそうとしているのか。とにかく、茶化すようなことを言うアルバートに、エマはムッとする。

「ふふ、怒らないでくださいよ。冗談のつもりはありませんし、私は決して嘘を申しません。……あっでも、エマは怒った顔も可愛いですね。もっとよく見せてください」
「……いやです」
「ああ、膨れっ面も可愛い。いいですねぇ、そのまま上目遣いで 〝アルのばかっ〟ってののしってみてください」
「絶対にいやですっ!」

 出会ったばかりだというのに、アルバートはエマにずっとこんな調子だ。友好的と言えば聞こえはいいが、はっきり言って馴れ馴れし過ぎる。
 ただ、そのおかげで、〝王都から来た年上のエリート神官〟に対するエマの緊張は随分とほぐれたのだが。

「エマ? エマさん? ……おや、本格的に機嫌を損ねてしまいましたか?」
「……」
「よしましょうよ、夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますよ?」
「夫婦喧嘩じゃないです! そもそも夫婦じゃないですしっ!」

 そんな二人の間に流れるどこか気安い雰囲気に、ダリアは渋い顔をする。

「さっきからエマの夫だのなんだのと、いったいなんの冗談を言っているの? クインスさん、エマをからかわないでちょうだいな」
「これは心外な。からかってなどおりませんよ。全身全霊、神に――ニケに誓って、私は本心しか申しません」
「会ったばかりの娘を口説くどいた口で捧げる誓いなんて、どこまで信用できるのかしら」
「ははは、ニケにはこの真摯しんしな想い、伝わっていると思うんですがねぇ」

 ダリアの言葉はなかなか辛辣しんらつだが、アルバートはひるむどころか気を悪くした様子もない。彼はテーブルの上で頬杖をつくと、二人のやり取りに口を挟むべきかおろおろしていたエマの顔を覗き込み、にっこりと笑みを浮かべて言った。

「それに、エマと私の仲が良いに越したことはないでしょう? ――なんと言いましても、我々はこれから二人っきり、一つ屋根の下で暮らすんですからね」

 本日付けで着任した、エリート神官アルバート・クインス。
 彼は、このアザレヤ神殿の新たな責任者として派遣されてきた。
 エマの育ての親であるダリアは、アルバートに業務を引き継ぎ次第、神官職を辞し、神殿を去ることになっている。
 エマを、ここに残したまま――



   第二話 前途多難なんです神官様


 エマが自分の出生について知っていることはあまりにも少ない。
 母オリーヴは流行はやりやまいで相次いで両親を亡くした後、アザレヤの神官ダリアの厚意により神殿に引き取られたのだとか。いずれダリアの後を継ぐべく神官をこころざした彼女は、十五歳の時、王都プルメリアにある神学校に進み……その三年後、卒業を目前にしてエマを身籠みごもっていることが判明し、帰郷した。十八歳になってすぐ――まさに、今のエマと同じ年のことだ。
 オリーヴは未婚のまま、しかも出産して間もなく亡くなってしまったため、エマの父親が誰なのかは分からない。ダリアが言うには、エマの顔立ちは母そっくりらしいが、彼女が金髪で緑色の瞳であったのに対し、エマの髪は栗色で瞳は青色である。このことから、髪と瞳の色合いは父親譲りなのだろうと推測できた。
 ともかく、今のエマがあるのはダリアが神殿に住まわせて育ててくれたおかげだ。母娘共々世話を掛けてしまった彼女に、エマは頭が上がらない。
 血は繋がっていなくても、エマにとってはこの世で唯一家族と呼べる大切な人――それがダリアだった。
 しかしながら、ダリアには実の息子が一人いて、彼はオリーヴに続きその娘のエマまで面倒を見ようとする母親に、強く反対していたらしい。
 ――そんな、ニケにも見放されたような子供、放っておけばいいだろう!!
 幼い頃に聞いたダリアの息子の怒鳴り声が、今もまだエマの耳の奥にこびり付いている。
 時折当時の様子が夢に出てきて、うなされることもあった。


 ダンダンダン!!

「――っ、ひえっ……何事っ!?」

 激しく扉を叩く音で、エマは目を覚ました。
 壁に掛かった時計を見れば、時刻はまだ朝の五時を回ったばかり。窓の外はしらんできているものの、叩扉こうひするにはいささか非常識な時間帯だ。
 ダンダンダンダン!!
 にもかかわらず、扉を叩く音は一向にやみそうにない。
 これはただ事ではないと思ったエマは慌ててベッドから下りると、寝衣の上にガウンを羽織はおって部屋を飛び出した。
 礼拝堂の裏に建てられた神官用住居は、一階にリビングと水回り、二階に部屋が二つ、さらに広めの屋根裏部屋という作りになっている。二階の一室がダリアの部屋で、もう一室は客室だ。エマはというと、物心ついた頃からずっと屋根裏部屋を私室としている。屋根裏部屋から備え付けの梯子はしごで二階へと下り、続いて階段を使って一階まで駆け下りれば、すぐ目の前が玄関だ。
 玄関の木の扉は相変わらず強い力で叩かれていて、びた蝶番ちょうつがいがギシギシとあやうい音を立てていた。

「はい! はい! 今すぐ開けますので! そんなに叩かないでくださいっ!!」

 思わず叫んだエマの声が届いたのか、扉を叩く音がぴたりとやんだ。
 エマはほっと安堵の息を吐きつつ、昨夜自分がしっかりと掛けた玄関扉の鍵を外す。
 朝早くに叩き起こされて正直腹立たしいが、なんとか笑顔を取りつくろって扉を開けた。

「おはようございます。お待たせしてすみま……」

 その瞬間、エマは扉を開いたことを後悔した。
 いや、結局のところどうあっても扉は開かなければならなかったので、後悔したって無駄なことなのだが。とにかく扉の向こうに立っていたのは、エマにとってなんの心構えもなく対応できる相手ではなかった。

「――どけ」

 エマの顔を目にしたとたん盛大に顔をゆがめたのは、身なりの良い中年の男だった。男は扉の前に立っていたエマを押し退けて中に入ると、そのまま階段をのぼろうとする。
 ここでやっと我に返ったエマが、彼の背中に向かって叫んだ。

「バ、バルトさん、こんな朝早くにどうして!? いったい何を……」

 エマがバルトと呼んだこの中年の男こそ、天涯孤独てんがいこどくとなったエマが神殿で引き取られることに強く反対した、ダリアの息子である。バルトは成人すると同時にアザレヤの隣の大きな町で働き始め、今では事業に成功してあちらに立派な屋敷を建てたらしい。忙しい毎日を送りつつも、月に何度もダリアの顔を見に来る母親思いな男だが、エマにとっては苦手なばかりの相手だった。
 バルトはエマの声を無視し、カツカツと靴音を響かせて階段をのぼっていってしまう。
 開けっ放しになった玄関扉の向こうには、彼が乗ってきたのであろう馬車が停まっていた。
 御者ぎょしゃが扉を開いたまま待っているのを見るに、バルトに長居をするつもりはないのだろう。そう考えて、エマは少しだけほっとする。けれども、二階から響いてきた足音が二つであることに気付くと、とたんに顔をくもらせた。

「……ダリアさん?」

 バルトになかば抱えられるようにして階段を下りてきたのは、ダリアだった。
 息子の訪問はダリアにとっても寝耳に水だったのか、慌てて身なりを整えた様子がうかがえる。
 バルトの腕にげられた大きな鞄を見て、彼女がすでに荷造りを終えていたと悟ったエマは、頭の中が真っ白になった。

「ダリアさん、待って……まさか、もう行ってしまうの……?」

 ダリアがアザレヤの神官を辞し、この神殿を出ていくのは決定事項であった。
 彼女の持病の腰痛が悪化したためだ。
 手術をすればある程度の治癒ちゆが見込めると判明したものの、先進医療が普及していないアザレヤには手術を請け負ってくれる病院もなければ、医師もいない。
 しばらくは、痛み止めの薬を服用して誤魔化し誤魔化し生活していたのだが、このままでは早々に歩けなくなってしまうだろうという診断が下ったのが三ヶ月前のこと。
 当然、バルトは自分の住む町にダリアを連れていって手術を受けさせると主張し、エマも賛成した。そのまま神官も引退させると言われた時は、さすがにすぐには頷けなかったが、しかしダリアの年齢を考えるとそろそろ潮時しおどきなのも確かだった。
 大神殿に申請していた後任の派遣依頼は早急に受理され、決定の知らせが届いたのが半月前。
 そうしてついに昨日、新たな神官としてアルバートを迎えた。
 しばらくは業務の引き継ぎが必要だろうから、ダリアとの別れまではまだ時間がある――そう思っていたのは、どうやらエマだけだったらしい。
 茫然ぼうぜんと立ちすくむエマを見て、ダリアを抱きかかえたバルトがふんと鼻を鳴らした。

「ああ、やっとだ。やっと、母さんはお前から解放される。まったく……神官の慈善事業とはいえ、どこの馬の骨とも知れない子供の面倒など押し付けられて、迷惑極まりなかったな」
「バルト! やめなさい!!」

 エマが傷付いた表情になると、バルトは至極満足そうな笑みを浮かべた。
 ダリアはそんな息子を鋭くたしなめるも、彼女だってエマを置いてここを去ろうとしていることに変わりはない。それに気まずさを覚えているのか、ダリアはエマと目を合わせずに口を開いた。

「……ごめんなさい、エマ。手術の日が予定より早まったそうなの。私物の整理は済んでいるから、あなたは屋根裏部屋を出て私の使っていた部屋に移るといいわ。リビングや台所の小物なんかは全部残していくので、好きにしてちょうだい」
「ダリアさん……本当に? 本当にこのまま行ってしまうの? もう、戻ってこないつもりなの?」

 エマの声は無様ぶざまに震え、視界には透明の膜が張る。
 とたんに狂おしい表情をしたダリアがエマに手を差し伸べようとしたが、それより先に伸びてきた手がエマの腕を掴む。バルトだ。
 バルトは母を支えているのとは反対の手でエマを引き寄せた。

「そんなに母さんと離れたくないと言うなら、一緒に連れていってくださいと懇願こんがんしてみせろよ。神殿の小間使いも屋敷の下働きも変わらんだろう」
「おやめ、バルト……もうエマがお前と関わることはないわ! エマはこれから自由に生きるのよ!」

 真っ青になったダリアが、バルトの手からエマを逃がそうとしたが、腰痛の悪化した彼女は支えがないと立っていられない。ままならない身体で必死にもがく母を他所よそに、バルトは口をつぐんだエマへ威丈高いたけだかに言い放った。

「ニケに仕えるか、俺に仕えるかの違いだろう。ニケは給金を出さないが、俺はしかるべき代価を払ってやるさ。お前が俺を、ちゃんとご主人様としてあがめるならな」

 守護神ニケに代わってバルトをあがめるなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことを受け入れるつもりはない。ただ、彼の言う通りにすればダリアと離ればなれにならなくて済むのでは、と血迷ってしまいそうになったのも事実である。
 そんなエマの迷いを見抜いたらしいバルトはほくそ笑み、ろくに抵抗もしない彼女の腕を引っ張って、外へ連れ出そうとする。
 ところがその時、エマの背後から白いシャツに包まれた腕が伸びてきた。

「誰が、エマのご主人様ですって? ――烏滸おこがましいにもほどがある」
「え? ――いっ、いたたたたたっ!!」

 聞き覚えのある男の声に、バルトの悲鳴が重なる。エマの背後から伸びてきた手が、彼女の腕を掴んでいたバルトの手をひねり上げたのだ。
 突然解放されてよろめいたエマの身体は、背後から腰に回った腕に抱き留められた。
 エマが慌ててあおぎ見た先にいたのは、声から想像した通りの人物――昨日アザレヤにやってきたばかりの新任神官アルバート。エマと目が合ったとたん、彼のはしばみ色の目は柔らかく細められた。

「おはようございます、エマ」
「……お、はよう、ございます……」
「本当は、あなたに起こしてもらって、一番に挨拶あいさつを交わしたかったんですがね」
「えっと……?」

 アルバートは苦笑して、ちらりと視線を右にやる。
 ここでようやく、エマは彼の右肩に青い小鳥が止まっていることに気が付いた。言わずもがな、みずからをウェステリア王国の守護神ニケであると称する、不思議な小鳥だ。

「リビングで夜通し帳簿を拝見していたら、いつの間にかうとうとしていたようです。お恥ずかしい話ですが、私は少々朝が苦手でして……この子が眉間をつついて起こしてくれたおかげで、やっとこの騒ぎに気付けました」

 その言葉通り、結構な勢いでつつかれたのか、アルバートの眉間が痛々しいくらい赤くなっている。彼の右肩に止まったニケは、白い羽毛におおわれた胸を誇らしげに張っていた。
 昨夜は夕食と湯浴みが済んだ後、エマはアルバートを二階の客室に案内した。けれども、仕事の引き継ぎについて話をしたいと言うので、ダリアがまだ残っていたリビングに彼を戻し、エマは邪魔にならないようにと早々に屋根裏部屋へ引き上げたのだ。
 その後ダリアが杖をついて自室に戻ってからも、アルバートはリビングに留まっていたらしい。
 ニケは、玄関でのエマの様子を見かねて彼を叩き起こしに行ってくれたのだろう。

『エマ、大丈夫か?』

 アルバートからエマの肩に移ってきたニケの優しい声を聞いたとたん、ほっとしたエマの瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。それを目にしたアルバートは、掴んでいたバルトの腕をさらにひねり上げる。

「朝ぼらけに見る乙女の涙はまるで朝露あさつゆのように美しいですが、やはり一日の始まりに見るならば笑顔が望ましい」
「いたたっ!! くそっ、放せ……!!」
「ねえ、あなただってそう思うでしょう? こんな朝早くにエマを泣かせるなんて、あんまりな行いだと自覚していらっしゃいます?」
「……っ、分かった! 分かったから放せっ!!」

 情けなく悲鳴を上げるバルトの手を、アルバートは意外にもあっさりと解放した。それから、エマを抱きかかえたまま一歩下がり、はしばみ色の目を細めて問う。

「……行かれるのですね?」

 彼がひたと見据えているのは、バルトではなくその腕に支えられたダリアだった。
 ダリアは青い顔をして彼の視線を受け止め、こくりと頷いた。

「一人ではろくに動けない私がこれ以上ここにいても足手まといでしょう。後のことはクインスさんにお任せします。業務の引き継ぎに関しては、昨夜お渡しした帳簿と日誌で事足りるかと」
「承知しました」

 アルバートとのやり取りを聞き、エマは本当にこれでダリアとはお別れなのだと感じ取った。
 ダリアが身寄りのないエマを引き取り、知識を与え、料理を教えたのは、もしかしたらバルトが言う通り神官の慈善事業の一環だったのかもしれない。たとえそうであっても、ダリアがエマをここまで育ててくれた事実に変わりはなく、エマにとって彼女はまごうことなく恩人であり、唯一の家族だ。
 涙がどんどん溢れてきて、エマはとっさにアルバートの胸元に顔をうずめる。
 降り注ぐしずくで青い羽根がれるのもいとわず、前へともぐり込んできたニケがエマに頬擦ほおずりした。

『エマ、エマ。泣かなくていい。悲しまなくていい。ニケはずっとエマの側にいるからな』
「……っ、うんっ……」

 ついには嗚咽おえつらすエマの後頭部を、アルバートの大きなてのひらがそっと包み込んだ。乱れていた栗色の髪をゆっくりとかす指先は、いつくしみに溢れている。

「エマ……」

 ダリアの声もれていた。
 本当なら、育ててくれてありがとう、とエマから十八年間の感謝の気持ちを伝えるつもりだった。最後には絶対に笑顔でさよならをしようと決めていたのだ。
 それなのに、いよいよお別れだと分かっても、ダリアを見送る勇気がエマにはなかった。
 そんな意気地いくじのない彼女に追い打ちを掛ける者がいた。アルバートにひねられた手を押さえて怒りに震えていたバルトである。
 彼は、介助に来た御者ぎょしゃにダリアを預けると、ふところの中を手で漁りながら叫んだ。

「エマ、お前はもうこの神官をたぶらかしたのか! さすがはあの女の娘だな! せっかく神学校へ行かせてもらったのに、どこの馬の骨とも分からぬ男の子供を身籠みごもっておめおめと戻ってきた、あの阿婆擦あばずれのなっ!!」

 バルトを叱責するダリアの悲鳴じみた声に混じって、バサリと紙の束がぶつかったような音が響いた。
 何かがかすめた気配を感じて足もとを見下ろせば、床には紙幣しへいが散らばっている。
 エマの背中に向かって投げ付けられた紙幣しへいの束を、アルバートの腕が叩き落としたのだ。
 思う通りにならない現実に、バルトはますます癇癖かんぺきあらわにした。

「手切れ金だ、くれてやる! 二度と俺や母さんに関わるんじゃないぞ! ――この、母親殺しの疫病神やくびょうがみがっ!!」

 母親殺し――エマがこれまで幾度もバルトにぶつけられ、心を切り裂かれ続けてきた言葉だ。
 エマの母は出産のせいで命を落としたのだ、母を殺したのはエマなのだ、と。
 鋭い刃のような言葉が、今度こそエマに致命傷を負わせるかと思われた――その寸前。

「ははは、よく吠える負け犬ですね」

 エマの心臓に迫る凶刃の切っ先を、アルバートはいともたやすく笑い飛ばした。

「これからのことは心配無用です。エマは、私が大切にしますのでね。天地がひっくり返ったって、彼女の今後の人生にあなたを関わらせてやるつもりはありませんよ」

 この時になってようやく、御者ぎょしゃとダリアが激昂げっこうするバルトを玄関の外へと引っ張り出した。アルバートがすかさず扉を閉める。
 バタン! と大きな音を立てて、家の中と外の世界が遮断しゃだんされる。
 エマにとってそれは、ダリアとともに過ごす日常の終焉しゅうえんを意味していた。なんと呆気なく、そしてむなしい別れだろう。

「さようなら……」

 涙は、もう出なかった。十八年分の感謝を伝えられなかった後悔よりも、激しい虚無感に襲われる。
 けれども――彼女は一人ではなかった。

「やれやれ、せっかくエマと迎える初めての朝ですのに、随分騒がしくなってしまいましたね」

 いろいろと突っ込みたくなる言い回しではあるものの、崩れ落ちそうになる身体をしっかりと抱き留めてくれているアルバートの腕が、今はただただ頼もしい。
 昨日会ったばかりなのにだとか、いきなり夫宣言するやばそうな相手だとか、そういう問題はさておき、とにかくアルバートが側にいてくれて本当に良かった、とエマはこの時、心から思えた。
 扉の向こうではまだバルトのわめき声がしていたが、しばらくすると短い馬のいななきとカラカラという音が聞こえ出す。車輪の回る音は徐々に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。

「少し、話をしましょうか」

 そううながされ、エマはアルバートとともにリビングへ移動する。
 ニケは、定位置とも言えるエマの肩に止まって、事の成り行きを見守るようだ。
 夜通し見ていたとのアルバートの言葉通り、リビングのテーブルの上にはアザレヤの神殿の帳簿と、ダリアが毎日欠かさず付けていた日誌が山と積まれている。
 神殿の仕事はなんでも手伝ってきたエマだったが、帳簿と日誌だけは絶対に触らせてもらえなかった。
 ダリアがそれらを全てアルバートに預けたということは、神殿の管理権が完全に彼へ移行したことを表している。きっぱりと神殿から身を引こうとする、ダリアの意志を知らしめているようだった。
 バルトが金を投げ付けて〝手切れ金〟と称したのも率爾そつじなことではなく、そんなダリアの思いを正しくんでのことだったのかもしれない。彼女が二度とこのアザレヤの神殿に戻るつもりはないのだと、エマは否が応でも理解するほかなかった。
 床に散らばっていた紙幣しへいは全てアルバートが拾ってくれたが、エマは到底受け取る気になれない。すると、アルバートは〝前任神官及びその家族から寄付〟として帳簿に金額を書き込んだ。

「お金に罪はないですからね。いただけるものはいただいておきましょう」

 神殿の運営は、大神殿から支給される資金と、その土地の自治体や住民からの寄付によってまかなわれている。後者はその神殿への信仰心を測る指標となり、大神殿からの評価に大きく影響した。
 大神殿は各神殿への寄付金の額に比例して支給する運営資金を決めているため、寄付金が多ければ多いほど支給金も増える。寄付金が多い神殿は、人々に必要とされている度合いが大きいから、という理屈らしい。
 テーブルいっぱいに広げていた過去の帳簿やら日誌やらをアルバートが端にまとめている間に、エマはリビングの隣にある台所で湯を沸かしてお茶をれた。気持ちは晴れないまでも、湯の中で茶葉がほころかぐわしい香りに、少しだけ心が安らぐ。
 泣いて赤らんだ目元もちょっとはましになっていればいいな、と思いながらカップを持ってリビングへの扉をくぐる。とたん、エマはぴきりと固まった。

「――さあ、おいで。エマ」

 椅子に座ったアルバートが、両手を広げて待っていたからだ。
 自分の太腿をペシペシ叩いて、「ほら、ここ。ここにいらっしゃい」なんて熱心に誘われても、「それじゃあ失礼して……」と答えられるほど、エマは彼に心を許していない。
 さっきの騒動の最中には大人しく抱き締められていたではないかと言われそうだが、あの時はエマだっていっぱいいっぱいだったのだ。今はいくらか冷静になれたからこそ、アルバートの対人距離の近さに戸惑う。
 エマはひとまずテーブルにカップを置き、彼の隣にあった椅子に腰を下ろした。

「何故です、エマ。私の膝より、そんな椅子の方がいいとでも言うのですか?」
「……す、座り慣れているので」

 子供のように唇を尖らせるアルバートに、エマは無難な言葉を返す。
 なおも不服そうに両手を差し伸べてくるものだから、代わりにお茶の入ったカップを押し付ける。
 押し問答をして中身がこぼれることを懸念けねんしたのか、アルバートはしぶしぶそれを受け取った。

『変な男だな。随分人擦ひとずれしているというか、馴れ馴れしいというか……』

 肩に止まったニケが、こっそり耳打ちしてくる。
 ニケは下ろしたままのエマの髪に埋もれるようにして、このままアルバートを観察するつもりらしい。エマ以外の人間に興味を持つことが少ないニケには珍しいことだった。
 エマを膝に乗せるのを諦めたのか、アルバートは長い脚を組んでから、カップに口を付けた。
 何気ない所作さえも格別優雅に見えるのは、王都から来たエリート神官という先入観によるものだろうか。散々涙をこぼして渇いていた身体をうるおすように、エマもちびりとお茶を口に含んだ。

「先ほどの男の暴言は、どれ一つ気に留める必要はありませんよ。あれは、嫉妬しっと心を持て余した男の、ただの八つ当たりですので」
嫉妬しっと心? 八つ当たり……ですか?」
「ええ、つまるところ彼は、あなたを通してあなたのお父様に悋気りんきをぶつけていたんです。一時でも、あなたのお母様の心を手に入れたであろう男にね」
「は? え? 悋気りんき? 父にって……!?」

 自分が長年バルトに辛酸しんさんめさせられていた原因が、誰なのかさえも分からない父親だったなんて、エマにとっては寝耳に水もいいところだ。
 バルトはエマの母オリーヴと同い年で、彼女が王都に移るまでの十五年をこのアザレヤの神殿でともに過ごした。そんな中で、バルトはオリーヴに恋をしたのだという。だから、彼女が神官を目指して王都に渡ったことも、突然戻ってきたと思ったら子供を身籠みごもっていたことも、そして出産してすぐに亡くなってしまったことも、ひどくショックだったのだろうとアルバートは告げた。
 とたんにエマは眉をひそめ、首を横に振る。

「バルトさんが母を好いていたなんて、そんなの信じられません。母のことを阿婆擦あばずれだの恩知らずだの、今まで散々おとしめてきたのに……」
「可愛さ余って憎さ百倍って言いますでしょう? お母様が亡くなっている以上、その感情を本人にぶつけることもできず持て余している内に、彼自身収拾がつかなくなっているのではないでしょうか」

 アルバートの口から淡々と語られる話は、エマには想像もつかなかったことばかりだった。
 昨日アザレヤにやってきたばかりの彼が、何故それらの事情を知っているのだろう。
 そんな疑問が顔に出てしまっていたのか、アルバートはテーブルの端に寄せた日誌を指差して言った。

「ダリア女史の日誌には、その日アザレヤの町で起こった出来事、懸案、礼拝堂を訪れた人物の名前、懺悔室ざんげしつを使用した人数と告解の内容など、毎日欠かさず事細かに記されていました」

 ダリアの名を聞くと、どうしても気持ちが沈む。エマはお茶を飲むことで、吐き出しそうになったため息を呑み込んだ。
 アルバートが続ける。

「ダリア女史は実に敬虔けいけんな方なんですね。日誌の中で、彼女自身も頻繁に懺悔ざんげをなさっています。花壇の花を一本うっかり枯らしてしまったとか、洗い物の際に手を滑らせて食器を一つ割ってしまったとかいう些細ささいなことから、ご子息の扱いに悩んでいることまで」


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