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くる ひなた

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番外編

ハッピーハロウィン

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 十月も今日で終わり。
 猪野商事の若き専務、猪野いのしのぶも忙しい一日を終えた。
 彼はビルの地下駐車場に止めていた愛車に飛び乗ると、二、三分ほどしか離れていないコインパーキングへとそれを移動させた。
 何故そんな一見無駄にも思えるようなことをしたのかというと、そこから道路を挟んで斜め向かいにある小さな喫茶店に大事な用があったからだ。
 『喫茶あずさ』の看板を掲げるその店の、純喫茶の雰囲気に相応しい木製の扉を開くと、カランカランとお馴染みの音がした。
 そして――


「――しのぶちゃん! とりっく・おあ・とりーとっ!」


 芳しい珈琲の香り漂う店内に、突然響いたのはたっぷりのミルクと砂糖を含んだような甘い声。
 見開いた忍の両目に飛び込んできたのは、あどけなさを残す恋人のとびきりの笑顔だった。

「あ、綾子――!?」

 里谷さとや綾子あやこは、忍の祖父猪野耕平が社長を務める小さな会社『株式会社 Mon favori』の新入社員。
 そうとは知らないまま、この『喫茶あずさ』で二人は出会い、それぞれ初めての愛情を育んでいるところだ。
 今夜は一緒に食事をする約束をしていたのだが、お昼の時点で自分の方が遅くなりそうだと思った忍は、綾子に珈琲でも飲みながら待っていてほしいとメールを送っていた。
 綾子は彼の指示通り『喫茶あずさ』で時間を潰しており、仕事を片付けた忍がようやく彼女を迎えにやってきたというわけだ。
 ところが、珈琲を飲んでいたはずの綾子の頬が異様に赤い。
 にこにこしているのはとても可愛らしいが、それにしても表情が緩み過ぎだ。
 しかも、普段は手を繋ぐのさえ恥じらう初心な彼女が、大胆にも両腕を広げて忍に抱き着いてきた。
 もちろん、それ自体は大歓迎。
 忍は危うげもなく綾子の身体を抱きとめると、肩口に頬を擦り寄せて懐く彼女のこめかみにキスを落としながら、問うような視線をカウンターの向こうの人物へと投げ掛けた。

あずさ、説明しろ」
「ああ~、いや~、えーと……」

 髭で囲った口をもごもごとさせて歯切れが悪いのは、この店のマスター猪野梓だ。
 彼は忍の双子の兄でもある。全然、まったく、似ていないが。
 梓はご自慢のスキンヘッドをぽりぽりとかきながら、「あの、その……ごめん、シノブちゃん」と続けた。

「知らなかったんだよぅ。アヤちゃんが、これほどまでに酒に弱いなんて……」
「酒を飲ませたのか!?」

 梓が今宵、綾子に作って差し出したのは、アイリッシュコーヒー。
 グラスに『喫茶あずさ』の看板メニューであるホットコーヒーを注ぎ、角砂糖を入れ、さらにアイリッシュウィスキーを注いでステアしてから上に生クリームを乗せたアイルランド風の珈琲だ。
 その製造過程は目を輝かせて眺めていた綾子だが、出来上がったものを梓が勧めると少しばかり躊躇した。
 何故なら、綾子も自分が極端に酒に弱いと知っていたし、自分のいないところでは決して飲んではいけないと、いつも忍に言い含められていたからだ。
 しかし、せっかく梓が作ってくれたのに、まったく手を付けないのは申し訳ない。
 そう思ったらしい律儀な綾子は、とりあえず上のフロートをスプーンで掬って口に運んだ。
 ただし、生クリームにもすでにいくらかウィスキー入りコーヒーが染み込んでいたわけで……

「ひ、一口だけだよ? それで、アヤちゃんったらとたんにご機嫌さんになっちゃってね。“しのぶちゃん迎えにいく~”って言って店出て行こうとしちゃうから、もうお兄ちゃんってば焦ったのなんのって!」
「勝手に酒なんか飲ませるからだ」
「だから、ゴメンってばー」

 顔の前で両手を合わせて平謝りする双子の兄を睨みつけつつ、忍はあごをくすぐる恋人の柔らな髪に口付けると、ふとそこにいつもは無いものを見つけて目を丸くした。

「……ん?」

 綾子の頭についていたのは、ふわふわの黒い猫耳がついたカチューシャだ。
 なんと、あまりに違和感がなさすぎて、今の今まで気づかなかった。
 二十歳を過ぎた社会人が着けてはどん引きされるようなアイテムだが、恋人の贔屓目抜きにしても綾子には似合ってしまう。
 とにかく、可愛い。
 忍の顔が明らかに緩んだことに気づくと、さきほどまでの申し訳なさそうな態度はどこへやら、一転してニヤニヤと面白がるような笑みを浮かべた梓が口を挟んだ。

「そのカチューシャね、何でも、十年目の結婚記念日に夫婦で舞浜リゾートデートした先輩が、お土産に買ってきてくれたんだって。ナイスチョイスだよね。アヤちゃんにすんごく似合う~」
「確かに……」

 忍がそれに大きく頷くと、腕の中の猫耳娘がにこりと笑みを浮かべて彼を見上げた。

 ……かわいい。

 最高にだらしない顔をしていると自覚しつつ、忍も彼女に微笑み返す。
 すると、さらに笑みを深めた綾子はカウンターの上から何かを引っ掴んで、密着している忍の目の前に差し出した。

「はい、しのぶちゃんも、どーぞっ!」
「え」

 見ると、それは綾子の頭に乗っているものとお揃いのカチューシャだった。
 ただし、こちらは白い毛並みだ。耳の中の毛なんか、ふわふわのピンク色だ。
 綾子がううんと背伸びして、それを自分の頭に乗せようとしてきたものだから、忍は慌てて彼女の両手を掴んだ。

「綾子、さすがにそれは勘弁して。三十越えた男にこれは酷だよ」
「きっとかわいい!」
「いや、そんなわけないから」
「かわいいのに……」

 とたんにうるんと潤んだ瞳で見上げられ、うっと怯んだ忍は一瞬血迷って彼女のいうことを聞きそうになった。
 が、すぐさま正気に戻っていかんいかんと頭を振る。
 そして、面白そうに自分達を眺めていた兄のスキンヘッドをロックオンすると、有無を言わさずその上にカチューシャを装着させた。
 白い猫耳付き強面髭面という異様な茶店マスターのでき上がりである。
 本人は「いやん」などとほざきながら、満更でもなさそうだ。
 ただし、スキンヘッドの上では引っ掛かりが足りず、油断するとカチューシャが滑ってきてしまうのが難点。

「ますたー、かわいいですっ!」
「ありがとう、アヤちゃん。じゃあ、今夜は閉店までこのままでいようかな。ハロウィンサービスということで」
「何が、サービスだ」

 忍は楽しそうな兄を半眼で眺めてため息をつきつつ、そうか今日はハロウィンだったのか、とようやく気づいた。
 そういえば、彼が店に入った時にかかった綾子の第一声は、「トリック・オア・トリート」だった。
 
「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ、だっけ?」

 忍はくすりと笑うと、目の前の頭の上にピンと立った黒い猫耳を撫でた。
 それがよく似合う彼の恋人は、今宵は何とも可愛らしい黒猫だ。
 黒猫と言えば、西洋では魔女の使いではないか。
 さすがにカチューシャだけでは仮装とまでは言い難いが、それでも充分に忍の目を楽しませてくれる愛らしさだった。
 そもそも、これまで女性と真摯に付き合ってこなかった彼には、ハロウィンだからと恋人と戯れた思い出はない。
 イベント事で予定を入れたことといえば、クリスマスくらいのものだった。
 それも、当時の相手にしつこく請われて渋々。
 翌年のクリスマスには、もうその女性は忍の隣にはなかった。
 イベントの度に浮かれる世の中を、彼はこれまでひどく冷めた目で眺めていた。
 それなのに、綾子との出会いは忍の灰色だった世界に彩りを添え、それまでつまらないと思っていたことへ興味を抱かせるようになった。

「あいにく、お菓子の持ち合わせはないのでね。代わりに綾子にイタズラされようかな?」
「……わお。しのぶちゃんが言うと、なんかいやらしい。とてつもなくいやらしい」
「うるさい、梓」

 赤い顔の綾子は忍の腕の中できょとんとしている。
 彼女の酔いはまだ醒める気配はない。
 忍は彼女の髪に隠されている本物の耳の方に唇を寄せると、そっと甘く囁いた。

「どんなイタズラをしてくれるのかな?」
「えっと、ええっと……」
「いいよ、車に乗ってゆっくり考えな」

 忍はそう言うと、カウンターの前の椅子に置かれていた綾子の荷物を持って、足元の覚束無い彼女を抱くようにして店を出ようとした。
 その背に、「ちょっと、ちょっと~」と慌てたような梓の声がかかった。

「念のために忠告しておきますけど、今日は水曜日だからね~! 明日はお休みじゃないから! ド平日だから! 通常勤務だからねっ! イタズラもほどほどにしなさいね~」
「イタズラされるのは、俺の方なんだが?」
「そんなもん、一瞬で立場逆転するって分かりきってるじゃない!」

 ――違いない。

 梓の言葉にそう心の中で返しつつ、忍は口元に浮かんだ笑みを彼に見せないよう振り返らなかった。

 カランカランとベルが鳴る。

 すっかり暗くなった路地へと足を踏み出した忍と綾子の背に、苦笑の滲んだ声が小さくかかった。




「ハッピーハロウィン」
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