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1巻
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高層ビルがひしめくオフィス街の一角に、『喫茶あずさ』はある。
こぢんまりとした店の中には、挽きたての珈琲の芳しい香りがいつも満ちている。
朝の定番メニューは、珈琲に厚切りの半トースト、そしてゆで卵が一個ついた四百円のモーニング。
里谷綾子は、それを食べてから出勤するのが日課となっている。
この春、綾子は地元の大学を卒業し、実家から電車で二時間の街で就職した。
祖父母に両親、兄二人、姉一人と住んでいた古い平屋から一転、現在は築五年のワンルームマンションで生活している。二十二歳にして初めての一人暮らしだ。
それにともない、食事を一人で取ることが格段に増えた。
会社の先輩と夕食をともにすることはあっても、朝食は必然的に一人だ。
残念ながら、一緒に朝を迎えるような恋人もいない。
一人の食事は味気なくて、綾子はすぐに朝食を取らずに出勤するようになった。
ところが、一人暮らしを始めて一月ほど経ったある日の朝。寝ぼけ眼のまま会社までの道のりを歩いていた綾子は、あたりに漂う芳しい珈琲の香りに、ふと足を止めた。
それまで覗いたことのなかった細い路地に目を向けると、小さな店がある。そして店先をほうきで掃いている人がいた。店の扉は大きく開かれていて、珈琲の香りはそこから漏れているようだ。
綾子は特別珈琲が好きなわけではないが、この時は何故か無性に飲みたくなった。
腕時計を見ると、始業時間まであと三十分はある。
ここから会社まで五分とかからないので、珈琲を一杯飲むくらい平気だろう。
けれどその店は、気軽に入れるカフェとは違い、いかにも〝純喫茶〟といわんばかりの佇まい。常連さんが多そうな雰囲気で、一見さんが入るには少し勇気がいる。
綾子が逡巡していると、彼女に背を向けて店先を掃いていた人物が、かがめていた腰を伸ばして振り返った。
(わーお……)
綾子は思わず、心の中で声を上げた。
朝日を反射して輝く見事なスキンヘッドに、真っ黒なサングラス。加えて、口をぐるりと囲む黒々とした髭。
どうにも堅気に見えないその姿に、綾子の自衛本能が慌てて「回れ右!」と指示を出す。
しかし、綾子が踵を返すよりもわずかに早く、その男は髭を生やした口元に笑みを浮かべて言った。
「おはよっ、お嬢さん! 珈琲飲んでく?」
つるつるぴかぴかスキンヘッドの強面男は、『喫茶あずさ』の店主だった。
店名の〝あずさ〟は彼の名前らしい。話してみれば、実に気さくな人物だった。
店内には二人掛けのテーブル席が四つと、一番奥にソファ席が一つ、そしてカウンター席が七つ。
カウンター席の中央に案内された綾子がメニューを見ると、こだわりの珈琲以外は、サンドウィッチやパンケーキなどの軽食だけ。
ランチはやっていないが、朝はモーニングサービスを提供している。
綾子がモーニングを頼むと、マイルドなモカブレンドに半トースト、ゆで卵が出てきた。
半トーストのバターの量も、ゆで卵の黄身が半熟なところも、綾子の好みにぴったりだ。
綾子は、この店のマスターと朝ご飯をすっかり気に入ってしまった。
そうして、毎朝『喫茶あずさ』で三十分ほど過ごすようになると、店内にいる客の顔ぶれは、大体いつも同じであることに気がついた。
と言っても、常連客はスーツを着込んだ年嵩の男性ばかりなので、綾子が彼らと交流することはない。
お決まりの朝ご飯に舌鼓を打ちながら、マスターと他愛ない話に花を咲かせるだけ。
ただし、綾子には気になる客が一人いた。
その人は、毎朝決まって奥のソファ席を陣取り、新聞を読んでいる。
いつも顔の前で新聞を大きく広げているので、綾子からはその人の顔がまったく見えない。
分かることと言えば、他の常連客同様、スーツ姿の男性だということくらい。
その人は、いつだって綾子より先に店に来ている。その上、彼女より早く店を出たこともない。
『喫茶あずさ』でゆっくりと朝の時間を過ごすのが彼の日課らしい。マスターは綾子が席を立つ頃、必ず彼に珈琲のおかわりを出していた。
ところが、そんな日々が一ヶ月ほど続いたある朝のこと。
「マスター、ごちそうさまでした。行ってきます」
「行ってらっしゃい、アヤちゃん。今日も頑張ってね!」
綾子はマスターに百円玉を四枚渡し、店を出ようと扉を開けた。
すると、新聞を折り目通りに畳み直し、例のソファの男も立ち上がった。
彼は珈琲の代金とともに新聞をカウンターの上に置き、綾子に続いて店を出ようとする。
店先に出た綾子は、とっさに扉を片手で押さえ、彼を待った。すると、男は柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
「……いえ」
綾子は驚いた。彼は、想像していたよりも随分と若い男だったのだ。
自分よりは年上だろうが、他の常連客に比べると格段に若い。
男は綾子が押さえていた扉に手をかけると、丁寧にそれを閉じた。
扉の上部に取り付けられた鐘がカランカランと鳴る。
同じタイミングで店を出たと言っても、二人は知り合いではない。
それぞれのペースで歩くと、コンパスの違いのせいで必然的に男の方が先を行くことになった。
じろじろ観察するのは失礼かと思いつつ、綾子は彼の後ろ姿を眺めながら歩いた。
ダークスーツをかっこよく着こなし、革の靴はピカピカに磨かれている。
落ち着いた色合いに染められた髪は、かっちりというよりはお洒落な感じに整えられていて、上品で洗練された印象を与えた。
背筋をまっすぐ伸ばして颯爽と歩く姿は、いかにも仕事ができるビジネスマンという雰囲気。高層ビルが建ち並ぶオフィス街に、よく似合っていた。
一方の綾子はというと、比較的カジュアルな服装をしている。
内勤事務である彼女は、スーツで出勤する必要がないのだ。
この日の格好は、先日会社帰りに先輩と挑んだバーゲンでゲットした、パステルカラーのワンピースにオフホワイトのカーディガン。エナメルの光沢が気に入って購入したパンプスはヒールが高めで、実は少し苦手。学生時代はかかとの高い靴をほとんど履かなかったので、どうにもまだ慣れない。
歩きづらいヒールのせいで、前を行く男との距離は余計に開きそうなものだが、彼は随分のんびりと歩いているらしく、その背中はまだ綾子のすぐ前にあった。
綾子が再び驚いたのは、彼が入っていったビルを見た時だった。
何故ならそこは、綾子が勤める会社がテナントとして入っているオフィスビルだったからだ。
(全然知らなかった……同じビルに勤めてたなんて……)
綾子が目を丸くしている内に、男は玄関ホールを進んでいく。
綾子もそれに続こうとして、はたと足を止めた。
このままビルに入れば、彼と一緒のエレベーターに乗ることになるかもしれない。
綾子の勤めるオフィスは、この十六階建てビルの三階にある。一、二階はオフィスフロアではないので、彼もエレベーターを使うだろう。
何となく同じエレベーターに乗るのがはばかられて、綾子はそのままビル一階にあるコンビニへ足を向けた。
雑誌コーナーに立ち寄り、目に付いた女性誌をぱらぱらと捲る。
何気なく巻末の星占いページを見ると、綾子の星座の欄にはこう書かれていた。
『恋愛運――思いがけない相手からのアタックあり』
(思いがけない相手って、誰だろう……)
綾子は首を傾げつつ、女性誌を棚に戻す。それからお茶のペットボトルを一本購入すると、ようやくエレベーターへと向かった。
綾子の勤める会社は、欧州雑貨の輸入販売を行っている。販売先は、モデルルームや飲食店などのインテリアコーディネートを請け負う企業がメインである。
社長は優しげな老紳士。大企業の重役を引退して、今の会社を立ち上げたとの噂だ。
そんな社長の右腕とも言えるのが、綾子の母親ほどの年齢の女性営業部長。
彼女の下には、男性二人と女性一人の個性豊かな営業社員達が続く。
そして、綾子がオフィスで一緒に過ごす時間が一番長い、経理事務の女性が一人。
『株式会社 Mon favori』は、総勢七人の小さな会社だ。ちなみにMonfavoriは、フランス語で「私のお気に入り」を意味する。
国内での仕入れの交渉はもっぱら社長と部長が行い、現地での買い付けは部長に一任されている。その中からクライアントのニーズに合った商品を選定して提案するのが、営業の仕事だ。
綾子の主な仕事は、電話の応対や雑務、営業に頼まれた資料の作成である。
朝礼が終わると営業達は外回りに出掛け、社長もふらりと姿を消すことが多い。よって、日中はだいたい経理の小池と二人きりで過ごす。
電話番をしなければいけないので、昼食も、いつも社内で一緒に食べている。
「もうすぐお昼ね。私はきりがいい所まで仕事しちゃうから、アヤちゃん、先に何か買っておいで」
「あ、はーい。ありがとうございます」
小池の言葉に甘えて、綾子は財布を片手にオフィスを出た。
ずっと実家暮らしで料理なんてしたことのなかった彼女に、弁当を作ってくるという発想はない。そのため、昼食は外で調達してくるのだ。
ビルのエレベーターは全部で六機あるが、正午ともなると昼休みの人々でいっぱいになる。
しかし、この日は小池が早めに送り出してくれたので、三階のエレベーターの前には誰もいなかった。
下の階行きのボタンを押し、しばらくして開いた扉の中に身を滑り込ませる。
そしてすぐに、綾子は「あ」と小さく声を上げた。
エレベーターの奥に見覚えのある人物――今朝、勤め先が同じビルだと判明したあのビジネスマンがいたからだ。
向こうも一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて会釈してきた。
綾子も慌てて、ぺこりと小さく頭を下げる。
エレベーターには他にも人が乗っていたので、そのまま言葉を交わすこともなかった。
ところがエレベーターを降りてビルを出たとたん、いつの間にか隣に並んでいた彼に声を掛けられた。
「こんにちは」
「あ、こ、こんにちは」
立ち止まって戸惑った顔をした綾子に、彼は「急に声を掛けてごめんね」と苦笑する。
道の端に寄った二人の横を、同じビルから出てきた人々が通り過ぎていく。
「毎朝、あずさで会うよね」
「あ、そうですね……」
「同じビルに勤めていたなんて知らなかったな。今から昼飯?」
「えっと……はい」
男の口調は柔らかく穏やかだったが、綾子は緊張しながら返事をした。
毎朝同じ喫茶店に通っているとはいえ、綾子が彼の顔をまともに見たのは今朝が初めて。ましてやこうして話をするのも、これが初めてなのだ。
他の常連客と比べて若いと思った彼は、今年三十になったばかりの綾子の下の兄と同じ年頃に見える。
すっと通った鼻筋と薄い唇に、切れ長の目。
垢抜けた印象を与える端整な容貌は、田舎者の綾子をいくらか身構えさせた。
男は綾子の緊張に気づいているようだったが、言葉を続ける。
「よかったら、一緒にどう?」
「え?」
「昼飯。美味い店、知ってるんだけど」
まさか、いきなりランチに誘われるとは思ってもいなかった綾子は、ただただ驚いた。
「あ、えっと……」
そこで、小池を待たせていることを思い出し、綾子は慌てて口を開く。
「あの、ありがとうございます。でも、同僚がオフィスで待っているので、今日は外でゆっくり食べてはいられないんです」
「ああ、そっか……」
「せっかく誘っていただいたのに、すみません」
「あ、いやいや。こっちこそ、いきなりごめんね」
綾子がぴょこんと頭を下げると、男は「また次の機会に」と微笑んで、胸ポケットから名刺を取り出した。綾子はそれを両手であたふたと受け取り、自分がまだ名刺を支給されていないことを告げる。
彼は「気にしないで」と言い、勤め先を尋ねてきた。
「三階の、モン・ファヴォリに勤めています」
「――君の名前も聞いていい?」
「里谷といいます」
「里谷、アヤさん?」
「え?」
「ああ、ごめん。あずさのマスターが、いつも〝アヤちゃん〟って呼んでたような気がしたから」
「あ、はい。綾子といいます」
「里谷綾子さんだね、ありがとう。僕は猪野忍。引き止めて、ごめんね」
男はそう言うと、「じゃあまた」と微笑んで去っていく。
いつの間にか、ビルから出てくる人が増えていた。
彼の姿が人波に呑まれていくのを見送ると、綾子は手にした名刺に視線を落とす。
「猪野……」
名刺には、『猪野商事株式会社 代表取締役専務 猪野忍』と書かれていた。
会社の住所は、綾子の勤め先も入っているビル――猪野ビルの最上階。
猪野商事は、このビルのオーナーでもある有名企業なのだ。
あの若さで、そんな大会社の専務とは。
彼――猪野忍が、ビルオーナーの親族だということは綾子にも分かった。しかし――
「何で……私?」
綾子は猪野忍の名刺を見つめたまま、大きく首を傾げた。
彼はいったい何故、自分のような垢抜けない小娘をランチに誘ったのだろう。その上、「また次の機会に」と言っていた。
(ううん、次なんて、きっとないよね。あんまり意識しないでおこう……)
綾子はそう思いながら、名刺を財布の中にしまった。
***
綾子が猪野忍なる人物からランチに誘われたのは、金曜日のこと。
Mon
favoriは土日が休日なので、その二日間、彼と顔を合わせる機会はなかった。それに、綾子は法事のため実家に帰っていた。
そして月曜日――週始めとなるこの日、綾子は朝寝坊をしてしまった。
土日に上げ膳据え膳でちやほやされたため、少しばかりだらけていたのだ。
会社の最寄り駅に到着したのは、始業時間の十五分前。
ほのかに漂う珈琲の香りに後ろ髪を引かれつつ、綾子は『喫茶あずさ』のある路地を通り過ぎた。
その日の昼休み。
「アヤちゃん、今日は外でゆっくり食べておいで。私はお弁当持ってきてるから」
「あ、はい。ありがとうございます」
小学生と中学生の息子がいる小池は、子供の行事ついでに、たまにお弁当を作ってくる。
そういう日は電話番を一人で引き受けて、綾子をランチに送り出してくれるのだ。
時刻は、エレベーターが昼食に出掛ける人々で溢れる少し前の十一時半。
小池に見送られてオフィスを出た綾子の頬は、わずかに緩んでいた。
何故なら彼女は今、懐がとても暖かいのだ。
帰省中、家族全員が、小遣いをくれたおかげである。
曲がりなりにも社会人となった二十二歳。そんな自分にお小遣いもないだろうとは思ったが、祖父母や両親、年の離れた兄や姉は、一人都会に出て働き始めた末っ子が心配でならないらしい。
帰り際には地元の駅まで見送りに来て、いつでも帰ってこいと言ってくれた優しい家族。彼らの顔を思い出しつつ、綾子はどこで何を食べようかな、とわくわくしていた。
エレベーターを降り、鼻歌でも歌い出したい気分で玄関ホールを通り抜ける。
と、そんな上機嫌な彼女を呼び止める声があった。
「里谷さん」
「あ……」
猪野忍――先日、名刺をもらって名前を知ったばかりのビジネスマンだ。
そういえば、今朝は『喫茶あずさ』に寄れなかったので、彼とも会わなかった。
綾子は、近付いてきた長身の彼を見つめる。彼は綾子の前に立って、口を開いた。
「今朝、あずさに来なかったから、具合でも悪くて会社を休んでいるのかと思ったよ」
「あの……ちょっと寝坊しちゃって……」
綾子が恥ずかしそうに打ち明けると、彼は「元気そうでよかった」と、ほっとした様子で微笑んだ。
「今から、お昼?」
「はい」
「今日は、誘ってもいいかな?」
「えっと……」
本当にまた誘われると思っていなかった綾子は、少し戸惑った。何故、彼は自分をランチに誘うのか。彼の意図が分からず眉を下げた綾子だったが、ふとあることに気がついた。
就職してまだ二ヶ月ほど。オフィス内で昼食を取ることが多い綾子は、職場周辺の店に詳しくない。せっかく懐が暖かいのだから、奮発しておいしいものを食べたいと思っても、どの店がいいのか分からないのだ。
しかし、明らかに年上で、大会社の重役を務める猪野は、この界隈で長く働いているのではなかろうか。だったら素敵な店を知っていそうだと考えた綾子は、彼の誘いを受けてみることにした。
「あの、よろしくお願いします」
「よかった」
嬉しそうな笑みを浮かべた猪野を見て、綾子は少しだけ肩の力を抜いた。
綾子が連れていかれたのは、猪野ビルから歩いて五分ほどの場所にある店だった。オフィス街には不釣り合いな、古民家風の一軒家である。表に看板が出ていないので、一見しただけではそこが店とは分からないが、猪野の話によるとイタリアンの老舗らしい。
二人が通されたのは窓際の席で、木枠の窓からは小さな中庭が見える。
人気店のようで、前菜が運ばれてくる頃には店内が満席になっていた。
前菜は生ハムとルッコラのバルサミコ風味のサラダ。それをつつきながら、猪野が口を開いた。
「里谷さんは、この春の新入社員かな。どうして今の会社を選んだの?」
「私が選んだというか……私なんかを採用してくださったのが、今の会社だったんです」
「うん? それはまた、えらく謙遜するね」
「だって……」
綾子は里谷一族の中で、年が一番若い。家族や親戚達に可愛がられて育ち、そのせいか田舎の生活に不満を感じたことはなかった。とはいえ、都会に対する憧れも抱いており、それは年々膨らんでいった。
大学四年生の時には、周りが用意してくれたコネをことごとく断り、県を跨いでの就職活動に精を出した。しかしながら、あちこちで就職難が叫ばれている昨今、特別なスキルも資格もない田舎の小娘に対し、都会は厳しかった。
ありとあらゆる企業に履歴書を送りまくったものの、ほとんどが書類審査で落とされ、面接までこぎ着けたのはわずか三社。その内の一社であるMon favoriで雇ってもらえたのは、本当に幸いなことだった。
ただし、入社後に聞かされた採用理由は、綾子にとってあまり誇らしいものではなかった。
「――え? 扱いやすそうだったから……?」
「そうなんです……田舎っ子で、従順そうだと思ったんですって……」
「……なるほど」
拗ねたように口を尖らせた綾子を見て、猪野は優しく目を細めた。
その後すぐに運ばれてきたアマトリチャーナのトマトの香りに、綾子はぱあっと顔を輝かせる。
そんな彼女の様子に、猪野は小さく声を立てて笑うと、続けて言った。
「でも、素直な子っていうのは将来伸びる。社長は、君に期待してるんじゃないかな?」
「そうでしょうか」
「いくら優れたスキルがあっても、ひねくれた人とは仕事がしにくいものだよ。頑なで固定観念に縛られている奴も、上司としては扱いにくいしね」
実際、今の会社の居心地はどう? と聞かれ、綾子は顔を綻ばせた。
一族の中で末っ子として育った綾子は、会社でも一番年下の新米社員。
まだまだ一人前とは言い難いが、彼女を見守る周囲の眼差しは温かい。
特に社長は、孫ほどの年齢の綾子をいつも気にかけてくれている。大事なお嬢さんを預かるのだからと言って、入社日にはわざわざ田舎の両親に挨拶の電話まで掛けてくれた。
「自分がお役に立てているかどうかは分かりませんが、楽しく勤めさせていただいてます。今の会社に採用していただいて、本当に感謝してます」
「そうか、それはよかった」
綾子がにこりと微笑むと、猪野も柔らかく笑った。
まだ知り合って間もない相手とのランチ。
初めこそ緊張していた綾子だったが、猪野の巧みな話術と穏やかな雰囲気のおかげで、ドルチェと珈琲がテーブルに並ぶ頃には、すっかりリラックスしていた。
本日のドルチェはベイクドチーズケーキ。
上にかかったベリーソースの赤と、添えられたミントリーフの緑が美しい。
絶妙な甘さにほっぺが落ちそうだと感激した綾子に、猪野は自分の分のケーキも食べさせた。
珈琲は、イタリアンの店だけあって少し濃いめ。ケーキと一緒に食べてちょうどよい苦味だったが、綾子はふと思ったことを口にした。
「珈琲に詳しくないので、何を飲んでも大体おいしいとは思うんですが……『喫茶あずさ』の珈琲は、特別おいしいように思います」
「そうだね。あそこのマスター、客に合わせてそれぞれ味を変えてるって知ってた?」
「えっ、そうなんですか?」
「あの人、人間観察が趣味だからね。いつの間にか珈琲の好みも分析されてるんだよ」
「えー、すごい! 全然知りませんでした!」
猪野と『喫茶あずさ』の付き合いは長く、彼は七年前の開店当時から足を運んでいるそうだ。
そこで綾子は、七年前にはもう仕事をしていたという猪野の年齢が気になった。
「あの、おいくつなんですか?」
「ん? 僕? 三十二だよ」
「あ、上の兄と、同じです」
「そうか……お兄さん、ね」
猪野はそう言って、何故か少しだけ困ったように眉を下げた。
その後の会計は、猪野が綾子の分も払ってくれた。
知り合ったばかりで奢ってもらうのは申し訳ない。
綾子はいつになく懐が暖かい事情も訴えたが、彼は「せっかくのお小遣いは大事にとっておきなさい」と笑って、お金を受け取らなかった。
そうして気がつけば、昼休み終了まであと十分となっていた。
急いで猪野ビルまで戻ってエレベーターに乗り込み、綾子は改めて猪野に礼を言う。
「今日はごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
「それはよかった。僕の方も、付き合ってもらえて嬉しかったよ」
猪野は微笑み、綾子が三階で降りる時に「またね」と告げた。
その言葉を聞いたとたん、綾子は胸がどきりと高鳴ったような気がして、少し戸惑った。
会社に戻ると、小池は食後の紅茶を飲んでいた。綾子に気づいた彼女は、「あら、ほっぺを真っ赤にして、どうしちゃったの?」と微笑んだ。
2
翌朝。綾子は少し早めに家を出て、いつもより一本早い電車に乗った。
そして、前日は寄れなかった『喫茶あずさ』の扉を開ける。
奥のソファ席に猪野の姿があるのを確認すると、綾子はマスターに声を掛けた。
「おはようございます。あの……」
「おっはよー、アヤちゃん! 昨日は寝坊したんだって? 何だったらおじさん、毎朝モーニングコールしよっか?」
髭に囲まれた口をにんまりさせたマスターに、綾子は「結構ですー」と笑って返す。
そしていつもの席に腰を下ろし、バッグから財布を取り出して言った。
「あのね、マスター。猪野さんのお会計、今日は私に払わせてください」
「うん? 猪野さんって……ああ、シノブちゃんのことかな?」
「し、しのぶちゃん……?」
マスターと綾子のそんなやりとりが聞こえたのか、猪野は新聞から顔を上げてカウンター席を見た。ソファ席に目を向けた綾子は彼と目が合い、ぺこりと頭を下げる。
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