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くる ひなた

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1巻

1-3

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 車内の時計を見れば、時刻は午後十時前。
 綾子はふと、合コンはもうお開きになって咲和子は帰っただろうか、置いてきぼりにしてしまった龍田はどうしただろうか、などと考えた。
 ぼんやり俯いていると、猪野の手があごに伸びてきて、顔を上げさせられる。
 綾子は仕方なく、今日の昼休みに、彼が女性と連れ立って出掛けていくのを目撃したと打ち明けた。
 窓辺から見下ろした、親しげな二人の様子を思い返す。
 すると、再び胸がずきりと痛み、綾子は思わず胸元を手で押さえた。
 一方、それを聞いた猪野は合点がてんがいったようにうなずき、相好そうごうを崩した。

「――綾子」
「……え?」
「祖父もマスターも、君のことアヤちゃんって呼ぶだろう。皆と同じは嫌だから、俺はこう呼ぶと決めた」
「え?」
「俺のことも姓で呼ぶのは無しね。あのビル、他にも猪野がいっぱいいるから」
「えっと……」
「忍って呼んで。中性的な名前で、実はちょっとコンプレックスだったんだけど、綾子には呼んでほしい」
「あの……」
「ねえ、綾子」

 ――他の女と歩いているのを見て、嫉妬しっとした?
 耳元で低くささやかれ、綾子は唇をぐっとみ締めた。

「……嫉妬かどうかは、分からないけれど。……でも、いやだなって、思いました」
「うん」
「それに、その人は猪野さんの隣がすごく似合ってて、うらやましいなあっていうのも、少し……」
「猪野じゃなくて、忍だってば」

 綾子が声を震わせると、運転席から身を乗り出してきた猪野が、そっと彼女の頬に口付けた。さすがにもう酔いがめていた綾子は、びくりとすくみ上がる。

「あのね、彼女は二つ下の妹」
「……いもうと?」
「ああ。普段はアパレル部門のバイヤーとして海外を飛び回ってる。久しぶりに本社に寄ったんで、昼飯ひるめしに連れていったんだ」
「そ、そうだったんですか……」
「一番一緒にランチに行きたかった子には、すでにフラれていたからね?」

 猪野はそう言うと、目をぱちくりさせている綾子に顔を近付け、今度は唇にキスをした。

「仕事以外で女性を飯に誘うことなんかないし、君を誘ったのだって気まぐれなんかじゃないよ」
「どうして……私?」
「ずっと、気になってたんだ……綾子のこと」

 立て続けのキスに、綾子の頬はれたリンゴのように真っ赤だ。
 猪野はそれをいとおしげに見つめながら、彼女に声を掛けた理由を話し始めた。
 綾子が『喫茶あずさ』に通うようになるずっと前から、猪野はそこの常連客だった。
 気安いマスターのれる美味うま珈琲コーヒーを飲みながら、朝刊を隅々すみずみまで読むのが日課。
 そんな彼は、ある朝やってきた新しい客に興味を持った。
 まだ少女っぽさが残る、いかにも新入社員ですといった様子の女性。彼女はいきなりカウンター席に案内されて戸惑った様子だったが、あっという間に強面こわもてのマスターに懐き、毎朝顔を見せるようになった。
 流行はやりのカフェとは違う『喫茶あずさ』の常連客は、ほとんどが中高年のビジネスマン。
 マスターが〝アヤちゃん〟と呼ぶ彼女の存在は、随分ずいぶんと浮いて見える。
 そしていつの頃からか、猪野は彼女の瞳が自分に向けられていることに気づいた。
 時々、ちらちらと感じる視線。しかし彼は、それを不快に感じていたわけではなかった。
 いつも顔の前で新聞を広げているので、目が合うこともない。ただ、自分の何が彼女の興味を引いているのだろうと、猪野も彼女のことが気になり始めた。
 綾子への想いがふくらみ、彼女が店を出るのに合わせて席を立ったのが、先週の金曜日の朝だった。

「ねえ、綾子。俺の何に興味を持った? どうして、あんなに俺を見てたの……?」
「そ、それは……」
「おかげで俺も、綾子が気になって気になって仕方がなかったんだよ。ねえ、どうして?」
「あ、あの、その……実は……」

 耳元でささやく猪野に、綾子はしどろもどろになりながらも話し始めた。
 薄暗い奥のソファ席で新聞を読みふけっていることが、どうにも気になっていたのだと。

「――え? 新聞を読んでいるのが、気になっていただけ……?」
「ええっと、うちは祖母がそういうのにうるさくて。暗い所で本を読むなーとか、食べながら読むなーとか……」
「つまり……君は俺の行儀ぎょうぎの悪さをずっと気にかけてたってこと……?」
「いえ、行儀が悪いというか……ええっと、目が悪くならないかなって……」
「それは……ご心配ありがとう……」

 猪野は呆然としながら身体をのろのろと起こし、大きく息を吐き出した。
 そして運転席に座り直すとハンドルに突っ伏し、さらに深いため息をつく。綾子の視線の理由は、彼にとって想定外だったようだ。

「猪野さん」
「……」

 名前を呼んでみるが、猪野はうんともすんとも言わない。
 困った綾子は、少し逡巡しゅんじゅんした後、頬を染めつつ口を開いた。

「し、しのぶ――」
「――綾子」

 現金なことに、名前で呼ばれたとたん、猪野はハンドルからぱっと顔を上げた。
 しかし、その後の綾子の言葉を聞いて顔を引きつらせる。

「忍ちゃん」
「……」

 年上の男性を呼び捨てにするなんて、綾子にはできなかった。それなら「さん」を付けて呼べばよさそうなものだが、その時ぱっと綾子の頭に浮かんだのが、『喫茶あずさ』のマスターが猪野を呼ぶ姿であった。
 猪野はその呼び方が不満なようで、口をへの字にして眉を寄せている。その表情は不貞腐ふてくされた子供みたいで可愛らしい。綾子は「ふふ」と小さく笑って続けた。

「あのね、ランチに誘ってもらえて嬉しかったんです。おしゃべりも、とても楽しかった」

 すると、不機嫌だった猪野の顔がほころぶ。

「そうか」

 十歳も年上の大人の男性だが、意外と感情を隠さないのだな、と綾子は思った。

「〝また〟っていうのは社交辞令だと思っていたんですが、本当はまたご一緒できるといいなって、楽しみにしてたんです」
「社交辞令なんかじゃないよ! その気がないのに、あんなにしつこく誘うものか!」

 再び身を乗り出した猪野は、綾子の肩に優しく手を添える。
 そのぬくもりに少しだけ頬を赤らめた綾子は、すぐ近くにある彼の顔を見つめて、そっと尋ねた。

「また……ランチに連れていってくださいますか?」
「もちろん」

 その翌朝より、猪野、改め忍は、『喫茶あずさ』の薄暗いソファ席ではなく、明るいカウンター席で新聞を広げるようになった。彼の隣にはもちろん、綾子の姿があった。



   3


 忍に送ってもらった日の翌朝。綾子は彼と『喫茶あずさ』で隣り合って座り、楽しい朝のひとときを過ごした。
 綾子が始業時間の十五分前に出勤すると、温和な笑みを浮かべた社長が手招きをした。

「私の……名刺、ですか?」
「そうだよ、遅くなってごめんね。この間、忍に言われて、はっとしたよ」

 綾子は今まで名刺を持っていなかったが、内勤ということもあり、その必要性も感じていなかった。
 しかし今後は必要になることもあるだろうと、忍が社長に進言してくれたらしい。
 生まれて初めての自分の名刺に、綾子は顔を輝かせた。

「社長、ありがとうございます!」
「うんうん、こんなに喜んでもらえるなら、もっと早く作ってあげたらよかったねぇ」

 社長は真新しい名刺の束とともに、お洒落しゃれな名刺入れをプレゼントしてくれた。
 綾子はそれらを両手で握り締め、自分は社会人になったのだと改めて実感する。財布に入れたままの忍や龍田の名刺も、後でこのケースにしまっておこう、などと考えた。
 ところが、満面の笑みで自分の名刺を眺めていた綾子は、ふとあることに気づいた。

「……あれ?」

 彼女は表情を一変させ、戸惑った様子で社長に尋ねた。

「あのう……社長? これって……」


 その日の昼休み。
 綾子は忍と一緒に近くの寿司屋で昼食を取り、『喫茶あずさ』で食後の珈琲コーヒーを楽しんでいた。
一息つくと、綾子はさっそく自分の名刺を忍に進呈しんていした。
 彼は「ふむ」とうなずいてそれを眺め、面白そうな表情を浮かべる。

「綾子、いつからじいさんの秘書になったの?」
「知らないうちに、名刺の上ではそうなっていました……」

 名刺には、『株式会社 Mon favori 社長秘書 里谷綾子』と記されている。

「……これはいい虫除むしよけになりそうだ」
「え?」

 できる女を連想させる〝社長秘書〟という肩書きは、名刺を受け取った相手をいくらか身構えさせるだろう。忍としては、祖父がたわむれに綾子に与えたその肩書きがありがたかった。
 まだあどけなさを残す新社会人の綾子は、忍の目から見ると危なっかしいのだ。
 綾子が合コンで酔っぱらい、初めて会った男に危うくお持ち帰りされそうになったのは、昨夜のこと。
 そんな彼女を保護してマンションまで送り届けた忍は、「お礼にお茶でも」と部屋に誘われた。
 女性が一人暮らしをしている部屋に、男を招き入れるとはどういうことなのか。
 綾子は何も分かっていないのだと知り、忍は危機感をつのらせた。

「気軽に男を家に上げてはいけない。男の車に簡単に乗るのも、だめだよ」

 忍は自分のことを棚に上げて、綾子を叱った。そして彼女がオートロックの扉をくぐるのを見届け、ようやく帰途についたのだった。
 一方、忍と同じように綾子の名刺を受け取った人物も、口を開いた。

「アヤちゃんが秘書かぁ……。秘書ってさあ、ちょっと背徳的な感じがしない? 秘めたる書だよ。雑誌の袋とじ部分っぽいよね」

 頬を染めて妄想をめぐらせるのは、おなじみ『喫茶あずさ』のマスターである。
 黒髭くろひげに囲まれた口から飛び出したセクハラ発言に、綾子が目を丸くする。
 忍はため息をつき、にやにやするマスターをにらんで言った。

「綾子、ハゲの言うことは気にしなくていいよ」
「ちょいと、シノブちゃん! なんだい、その敬意の欠片かけらもない言い草は! この光沢を保つために、僕が毎朝、手入れにどれほど時間をかけていると思ってんの!」

 マスターはぶーぶーと抗議するが、忍はスキンヘッドについて話し合うつもりなどない。
 彼は隣に座った綾子の椅子の背に手をかけ、くるりと回して自分の方を向かせる。

「それで、昨日の男は何か言ってきた?」
「え?」
「龍田って男」
「あ、えっと……」

 綾子の名刺を胸ポケットにしまいつつ、忍はずっと気になっていたことを聞いた。
 昨夜、車内で綾子が眠りこけた後、忍はMon favoriの社長である祖父に連絡を入れていた。
 祖父はその後、綾子の不在にようやく気づき慌てふためいていた彼女の同僚に連絡し、綾子が無事であることを知らせた。

「今のところは、何も。私が帰ったことは先輩が伝えてくださったようなんですが、やはり謝罪のお電話を差し上げた方がいいでしょうか?」

 龍田の勤める森野インテリアは、Mon favoriの大口の顧客。
 そんな大手取引先の営業部長である龍田に失礼なことをしてしまったのではないかと、綾子は気にんでいた。

「その必要はないよ。昨夜は、仕事絡みの飲み会じゃなかったんだろう?」
「はい……」
「そもそも、新入社員の女の子を酔わせて持ち帰ろうとするなんて、恥を知れと言ってやりたい」

 ムッとした表情でそう言い放った忍に、マスターは呆れながら突っ込んだ。

「シノブちゃんだって、アヤちゃんを自分の車に乗っけて連れ去ったくせにー」
「俺は、ちゃんと家に送り届けた」

 とはいえ、忍もかなり強引に綾子の唇を奪ったわけで、龍田に大きな顔はできないだろう。
 何も知らないはずなのに、マスターはサングラスを光らせて、カフェオレをすする綾子に話しかけた。

「アヤちゃん、シノブちゃんに何かされなかった?」
「何か……?」

 彼女を問いつめようとするマスターに、忍は「おい、やめろ」とすごむ。
 しかしマスターはひるむことなく、カウンターから身を乗り出して続けた。

「おじさんはいつだって女の子の味方だよ。昨夜車の中で、一体どれほど破廉恥はれんちなことをされたのか、ちょっと話してごらん」
「はれんち……?」

 綾子は首をかしげてぱちぱちと目をまたたかせ、何かを考えるような素振そぶりをした。
 そして、おもむろに片手を唇に持っていく。
 その仕草にぴんと来たらしいマスターは、綾子に顔を近付けてそっと耳打ちした。

「例えば――キスとか?」
「キス……」
「おい、あずさ! いい加減にしろっ!」

 たまらず忍が声を荒らげると、黒髭くろひげに囲まれた口がにいっとを描く。
 一方、男二人の顔を見比べていた綾子は、いささか呆然とした様子でつぶやいた。

「キスって……あれ、本当だったんですか?」
「え」
「……夢だと思ってました」
「……」

 忍は頭を抱えたくなった。
 彼は昨夜、確かに綾子にキスをしたのだ。
 酔っぱらっていた時の一回を彼女がおぼえていないとしても、酔いがめてまともに話ができるようになってからだって、頬と唇に一回ずつ口付けた。
 今朝この『喫茶あずさ』で顔を合わせた時も、一緒にランチをしている時も、綾子が忍を特別意識している様子はなかったので、少しおかしいとは感じていたのだ。
 それがまさか、彼女が昨夜のキスを夢の中の出来事として片付けていたなんて。
 忍は愕然がくぜんとした。
 十歳も年下の相手を好きになったのは初めてで、何もかも勝手が違い、戸惑うことばかりだ。
 引きつりそうになる顔を何とか苦笑の形にとどめると、忍は極力穏やかな声で言った。

「間違いなく本当のことだよ。夢だなんて思ってもらっちゃ、困る」
「そうですか……夢じゃなかったんですね……」

 次の瞬間、綾子の顔がみるみる赤くなった。昨夜の忍とのキスを思い出したのだろう。
 これこそ、忍が期待していた反応だ。
 彼は綾子の真っ赤な顔を見つめて、ああ、可愛い……と心の中でもだえた。
 カウンターの中からそんな二人を眺めていたマスターは、エスプレッソを一口飲んで、ぼそりとつぶやいた。

「シノブちゃん、手ぇ早っ……」


   ***


『喫茶あずさ』を出ても、綾子の頬はまだ赤かった。
 その隣を歩く忍は、上機嫌だ。
 二人は当たり前のように連れ立って猪野ビルに戻り、エレベーターの中で別れた。
 綾子がエレベーターを降りると、化粧室から歯磨きセットを片手に小池が出てきた。
 一緒にオフィスへ戻ると、電話が鳴り始めた。綾子は慌てて受話器を取る。

「お電話ありがとうございます。モン・ファヴォリの里谷です」

 彼女が名乗った瞬間、電話の向こうで息を呑むような気配がした。
 綾子は相手の沈黙に戸惑い、「あの……」と声を掛ける。
「ああ、失礼」と慌ててびたのは、低くて穏やかな男の声だった。
 聞き覚えのある声に綾子が首をかしげると、その人物が名乗った。

「お世話になっております。森野インテリアの龍田です」
「あ」
「――綾子ちゃん?」

 それは昨夜の合コンで出会った彼――森野インテリア営業部長、龍田雅彦まさひこからの電話だった。
『株式会社 森野インテリア』の主な業務は、マンションのモデルルームや飲食店、物販ショップにおけるインテリアコーディネイトやコンサルティングである。
 龍田の電話は、彼が担当するモデルルームの案件が予定より早く動き始めたため、使用する雑貨について、早々に打ち合わせをしたいというものだった。
 しかし森野インテリアを担当している咲和子は、今日は二つ隣の県まで営業に出掛けていて、直帰の予定。
 龍田にそれを伝えると、彼は困ったように言った。

「こちらの都合で急がせてしまって申し訳ないが、カタログか何かあったら、それだけでも先にいただけないだろうか?」
「あ、それでしたら、すぐにご用意できます」

 最新のサンプル商品まで掲載したカタログが、オフィスには常備されている。
 ただ、咲和子と連絡が取れるまで龍田を待たせるのは気が引ける。
 他の二人の営業もそれぞれ得意先を回っているので、わざわざ呼び戻すのは忍びない。
 社長は朝礼の後ふらりと出て行ったきりだし、経理の小池も忙しそうだ。
 今一番身軽に動けるのは、どうやら綾子らしい。
 ずっと内勤ばかりで、他の会社を訪問したことのない彼女にはなかなか勇気がいることだったが、少しでも会社の役に立ちたくて自分を奮い立たせる。
 綾子は少しだけ龍田に待ってもらって小池に事情を説明し、自分が動いてもいいか相談した。小池の許可をもらうと、すぐに電話に戻る。

「あの、私でよろしければ、今からカタログをお届けに上がります」
「うん? 綾子ちゃんが、一人で?」
「はい、あの……龍田さんのご都合さえよろしければ」
「ああ、もちろん。ありがとう、助かるよ」

 綾子は会ったついでに昨夜のことを謝ろうと決意し、彼の会社の住所を確認して電話を切った。
 それから急いでカタログを用意する。
 小池は我が子を初めてのお使いに送り出す母親のように心配していたが、綾子は大丈夫だと笑ってオフィスを出た。
 目的地までは歩いて十分ほど。猪野ビルの前の大通りをまっすぐ行くだけなので、迷うこともない。
 森野インテリアのビルは一階がショールームを兼ねていて、ガラス張りになっていた。
 綾子がロビーに入ると、すぐに声が掛かる。

「綾子ちゃん、いらっしゃい」
「あ、こ、こんにちは」

 ちょうどエレベーターから降りた龍田が、柔らかな笑みを浮かべて近付いてきた。
 背筋をピンと伸ばして挨拶あいさつした綾子を、彼はショールームの裏にある会議室に案内する。
 綾子が勧められた席に座ると、すぐに女性社員がやってきて、ほうじ茶を出してくれた。
 綾子は、彼女に深々と頭を下げて礼を言う。
 女性社員が退室して二人きりになると、龍田が向かいの席に腰を下ろした。
 それを確認して、綾子は口を開く。

「あの、龍田さん……昨日はすみませんでした」
「ああ、いや。僕の方こそ、年甲斐としがいもなく性急過ぎたと反省していたところだよ。綾子ちゃんが無事家に帰れたんならよかった」
「ありがとうございます。あんなに酔ったのは初めてだったので、いろいろ失礼なことを……」
「いや、とても可愛かったよ。ただ、あまり酒には強くないようだから、今後は気をつけた方がいいかもしれないね」
「す、すみませんでした……」

 龍田にまで忠告されてしまい、綾子は恥ずかしくてうつむきそうになる。
 しかし、ここが取引先であることを思い出して席を立ち、龍田の方へ移動する。そして立ち上がった龍田に、真新しい名刺を差し出した。

「改めまして、里谷綾子です。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく――おや、綾子ちゃんは社長秘書だったの?」
「あの、それは社長のほんの遊び心でして……。実際は電話の応対と雑用が主な仕事です」

 龍田はなるほど、と笑ってうなずくと椅子に座り直し、綾子の名刺をテーブルの上にそっと置いた。
 席に戻った綾子は、がりなりにも自分はMon favoriの社員であると自覚して背筋を伸ばす。
 持ってきたカタログを差し出すと、龍田は真剣な顔になった。綾子も少し緊張する。
 細いフレームの眼鏡をかけた龍田は、理知的で硬派な印象だ。
 りの深い端整たんせいな顔立ちは、どこか日本人離れしているようにも見える。
 そんな風に龍田を分析しながら、綾子はどのタイミングで帰ればいいのだろうかと考えていた。すると、ようやくカタログに目を通し終わった彼が、顔を上げて微笑ほほえんだ。

「うん、いいね。この後の会議に持っていきたいので、このままカタログを借りてしまってもかまわないだろうか?」
「はい、大丈夫です」
「ありがとう、助かるよ」
「商品のご提案と詳しい説明などにつきましては、後日、営業担当が改めてうかがいますので」

 龍田の反応が上々で、綾子はひとまずほっとした。
 後のことは、担当である咲和子に任せればいいだろう。
 ところが、カタログを閉じてテーブルに置いた龍田は、綾子を席から立たせてはくれなかった。

「僕としては、綾子ちゃんの意見も聞きたいんだがね」

 龍田はそう言ってテーブルにひじをつき、組んだ両手にあごを乗せて、じっと綾子を見つめる。
 綾子は、困ったように眉を下げた。

「すみません。私一人では、まだ充分なご提案を差し上げられないかと……」
「おや、残念。君がいるから、モン・ファヴォリの商品を使おうと思ったのに」
「え……」
「君がそんなつれないことを言うのなら、他の会社の商品を検討しようかな」
「……」

 龍田の言葉を聞き、綾子の頭の中は真っ白になった。
 ――自分が不甲斐ふがいないせいで、森野インテリアという大きな客を逃してしまう。
 社会に出たばかりで経験も浅い彼女にとって、それはとてつもない恐怖だった。

(どうしよう、どうしようっ……)

 何か言わなければと思うのに、何を言えば相手を繋ぎ止められるのかが分からない。
 のどがからからに渇き、視界がじわりとにじむ。
 泣いてはいけない。
 社会人として、仕事の現場で泣くのだけは絶対にだめだ。
 心の中で自分にそう言い聞かせ、綾子は涙をこらえるために、強く唇をみ締めた。
 そんな彼女の表情に慌てたのは、龍田の方だった。

「ごめんごめん、冗談だよ。そんな泣きそうな顔をしないで」
「龍田さん……」
「笑えない冗談だったね。今回は本当に御社と取り引きするつもりだから、心配しないで。モン・ファヴォリの扱う商品はセンスがいいと、業界でも有名なんだよ?」

 龍田の言葉を聞いてほっとしたとたん、綾子の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
 綾子が慌てて手の甲でぬぐおうとすると、素早く布が押し当てられる。
 綺麗に折りたたまれたそれは、龍田のハンカチだった。

「気になる女の子に意地悪するなんて……僕も大概たいがい、ガキだな」
「え……?」

 龍田はテーブルの向こうから長い腕を伸ばし、綾子の頬を優しく拭ってくれる。そして、そのまま綾子にハンカチを握らせると、彼女をじっと見つめながら尋ねた。

「綾子ちゃん、恋人は?」
「え? えっと……」
「こういうこと聞くと、セクハラだって怒られるかな。好きな人はいる?」
「好きな……?」


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