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3話 焙煎したてのコーヒーは……

焙煎したてのコーヒーは…… 1

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 パチパチと響いていた音が、ふいに止んだ。

「――今です。火から上げてください」

 イヴの声を合図に炎から離れ、ザララッと網の上へ一気にぶちまけられたのは、焦茶色に煎り上がったコーヒー豆である。
 イヴはすかさず風を送ってそれを冷ました。

「イヴ、次はどうする?」
「こちらの、粒の大きい豆を。今度は中深煎り――二爆ぜでお願いします」

 イヴの言葉に頷いて、受け取ったコーヒーの生豆を手網に放り込むのはウィリアムだ。
 公休日であるこの日、二人は王城の庭の片隅にある広場で、コーヒー豆の焙煎を行っていた。
 革の手袋を着けたウィリアムが焚き火の上で手網を振る中、イヴは焙煎が済んだ豆から焦げたものを取り除く。焦げた豆が混ざるとコーヒーにピリッとした苦味が出てしまうため、この一手間を惜しんではならない。
 休日なので、イヴはエプロンドレスもヘッドドレスもつけず、年相応に愛らしいワンピース姿だ。ウィリアムも、今日はジャケットもクラバットも取り払い、ズボンとシャツという簡素な格好をしていた。
 そんな二人が、店のかまどでも王宮の厨房を借りるのでもなく、わざわざ庭で火を焚いているのは、コーヒー豆の焙煎というのがとにかく散らかる作業だからだ。
 煎り始めると豆の薄皮が剥がれて網の隙間からどんどん飛び出してくるし、焙煎が進めば煙だって激しくなる。

「ウィリアム様、せっかくのお休みですのに、毎回付き合わせてしまって申し訳ありません」
「いや、好きでやっていることだから気にするな」

 こうして、休日でも当たり前のように一緒に過ごしているイヴとウィリアムを見ると、クローディアなんかはよく、爆発しろ、などと言う。
 そのクローディアだが、昨日は三時間ほどイヴを眺めていて仕事が終わらなかったため、本日は休日出勤している。
 ともあれ、実際に爆ぜるのはイヴとウィリアムではなくコーヒー豆だ。
 生の状態で産地から送られてくる豆を、『カフェ・フォルコ』では月に三度ほどこうしてまとめて焙煎していた。

「そもそも、私に焙煎の手順を仕込んでいったのはオリバーだしな。まあ、イヴにこの作業をさせたくないというあいつの気持ちもわからなくもない」

 ザラザラと手網の中で豆を転がしつつ、ウィリアムが肩を竦める。
 何しろ焙煎という作業は、火に近くて熱い上、豆を満遍なく煎るのにずっと手網を振っていなければいけないため、とにかく疲れるのだ。
 可愛い妹にそんな苦労をさせたくないオリバーは、立っているものは王子でも遠慮せず使うらしい。
 やがて、新しく焙煎を始めた豆からもパチパチと音がしだした。

「確か、煎りが浅いと酸味が、逆に深いと苦味が強まるのだったか?」
「はい。しかも、一度焙煎してしまうと香りも味もやり直しがきかないため、どの時点で火から上げるのかが最も重要になります」

 加熱をやめる瞬間を見極める目安となるのが、豆の爆ぜる音だ。
 コーヒー豆の焙煎とは、そもそも化学反応である。
 焙煎の際、豆の内部で水蒸気と二酸化炭素が発生し、それによって膨らんだ豆がバチバチと音を立ててはじけるのだ。

「一爆ぜと呼ばれるこの現象が始まった時点では浅煎り、終わった時点だと中煎り、さらに加熱を続けますと今度はチリチリと音を立てますが、これが終わった時点で止めれば中深煎りになります」

 コーヒー豆の声に、イヴはじっと耳を傾ける。
 最適の焙煎時間は豆の品種によっても異なり、フォルコ家のコーヒー狂達は代々研究に研究を重ねてきた。
 その成果が、イヴの記憶の引き出しに全て詰まっているのだ。

「――ウィリアム様、今です。上げてください」
「よし」

 二爆ぜの終了と同時に網の上に広げられた豆を、イヴはまた慌てて扇いで冷ます。
 豆自体に熱が残っていると、火から上げてもさらに焙煎が進んでしまうためだ。
 イヴとウィリアムは広場に置かれた大きな切り株をベンチ代わりにくっ付いて座り、かれこれもう一時間ほどコーヒー豆を煎っていた。
 時刻はそろそろ十五時――午後のお茶の時間に差し掛かる頃だろう。
 よくよく冷ました豆をビンに詰めたイヴは、ウィリアムの顔を覗き込んだ。

「ウィリアム様、休憩にしましょう。せっかくですから、煎りたてをお飲みになりますか?」
「そうだな。もらおうか」

 焙煎用の手網を一旦火から遠ざけ、代わりに焚き火の上に組んだ台の上にポットをかける。
 湯を沸かしている間に、イヴは小型のミルに今まさに焙煎したばかりの中深煎りの豆を入れた。
 ウィリアムは革の手袋を外しながら、それにしても、と口を開く。

「挽いた豆はできるだけ早く飲むのが鉄則なのに、焙煎した豆は二、三日寝かせる方がいいんだったか? 新鮮なものほどうまいというわけじゃないんだな」
「はい、焙煎したての豆にはガスが溜まっておりますので、粉にしてドリップする際、それがお湯の浸透を妨げるんだそうです」

 とはいえ、煎りたての豆には豆の味わいがある。
 ウィリアムがミルを代わってくれたため、イヴは側に置いていたバスケットからカップを二つと、自分用のミルクと砂糖を取り出す。
 すると、ゴリゴリと音を立ててミルを回していたウィリアムが、小さく一つため息を吐いてから、背後の茂みを振り返った。

「――おい、いつまでそうしているつもりだ。いい加減に出てこい」
「えっ……」

 とたん、ガサガサと茂みを掻き分ける音がして、ひょっこりと見知った顔が飛び出してくる。
 褐色の毛に覆われ、人間のそれと同じくらいの大きさをしたネズミの顔だ。
 ウィリアムのように気配に敏感ではないイヴは目を丸くする。
 茂みに誰かが潜んでいるだなんて、今の今まで知りもしなかったのだ。

「全然気づきませんでした……いつからいらっしゃったんですか?」
「私達がここに腰を下ろしたその瞬間から、だな。――ラテ、出てくるのか立ち去るのか、いつまで経ってもはっきりしないのはさすがに鬱陶しいぞ」

 ウィリアムの苦言に、ラテと呼ばれたネズミはつぶらな黒い瞳をぱちくりさせてから口を開く。
 出てきたのは、ひどく甲高い声だった。

「申し訳ございません、王子殿下。お二人の邪魔をするのがどうにも忍びなく」
「なら、とっとと立ち去ればよかろうが」
「いえ、殿下がいよいよチューくらいするのではないかと期待し……」
「――黙れ」

 ラテの話をウィリアムが鋭く遮る。
 イヴは、バスケットからもう一つカップを取り出しながら首を傾げた。

「ラテさん? どうして、お話の途中に鳴き声を交ぜたんですか?」
「いえ、ですから、殿下がイヴ様にチューを……」
「――いいから黙れ」

 ネズミがチューと鳴くのは万国共通である。
 ラテはネズミ族の獣人で、王城の庭師をしていた。
 ネコ族の獣人であるマンチカン伯爵と同様に、五百年余りを生きるたいへん希少な存在だが、大らかな彼とはちがってひどくおどおどしていて落ち着かない。
 今も、顔だけ茂みから出した状態で、辺りをきょろきょろ見回しながら声を潜めてイヴに問うた。
 
「ところで、マンチカン伯爵閣下は、近くにはいらっしゃいませんでしょうね?」
「いらっしゃいませんよ。本日は、王都の外れの湖でボート釣りをなさるとおっしゃっていましたから」
「それはようございました……あの、わたくしめも、お邪魔させていただいてよろしいですか?」
「もちろんです。こちらへどうぞ」

 ラテがマンチカン伯爵に怯えるのも無理はない。
 猫が鼠を獲るように、かつてネコ族はネズミ族にとって最も恐ろしい捕食者だったのだ。
 しかし、天敵と鉢合わせする危険がないと知ってほっとしたらしいラテは、おずおずと茂みから出てきた。
 二本足で歩き、身長はイヴの胸くらい。白いシャツと深緑のズボン、黒いブーツを履いている。
 彼は、ウィリアムの前までやってくると、改めてペコペコと頭を下げた。

「殿下、どうも。どうもでございます」
「そんなにビクビクせずとも、今のアンドルフ王国に君を捕って食おうとする者はいないぞ?」

 城が建った当初からこの庭で働いているというラテだが、イヴが彼と初めて言葉を交わしてから、実はまだ一年も経っていない。
 そもそも彼は、王宮への立ち入りを禁止されているというのだ。
 さらにはフォルコ家と因縁があるらしく、その当主たるイヴの父や兄が城にいる間は、彼らに見つからないよう息を潜めて過ごしていたらしい。
 
「まあ、フォルコ家との因縁なんてのは、十中八九コーヒー絡みだろうがな。ラテ、何があったんだ?」
「はあ、それがですね、殿下。話せば長くなるのですが」

 と言って話し始めたラテの話は、宣言通り長かった。
 まわりくどくて冗長で、眠気を誘って仕方がなかったし、焚き火にかけていたポットのお湯なんてすっかり沸騰してしまったが、要約すると……

「コーヒーを飲もうとフォルコの研究室に忍び込んで、盛大にやらかした、と?」
「はい、まあ……そんなところでございます」

 いやはやと照れたように笑うラテに、イヴとウィリアムは顔を見合わせるのだった。


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